EMIRI MOROKA -HEART MATRIX-

師岡絵美里のブログです♪


2016年4月13日水曜日

Yちゃんとバリの神様/充電してる私。








ある意味、今充電中かもしれないです。






幾つかの今までやっていたことをすでに辞めたり、これから整理することを決めたりしながら、新しいことをやっています。







この前の3月、バリ島でのリトリートの後、参加者のみんなやアシスタントのマサくんも帰国した後、自分だけの時間が3日ほどありました。




その間、リトリート中に娘のシッターをしていてくれたバリ在住のYちゃんと、引き続き一緒に過ごしました。




彼女と過ごした時間が、じわじわと私の中で、

とてもいいものとして発酵してきています。







Yちゃんは言いました。




「今、いい感じでモチベーションがあがってるから、

今回はここで考えるのをやめてみる。」




数ヶ月前にいろいろ大きな変化や出来事があったようで、

Yちゃんもターニングポイントのようなところにいたのかもしれない。







ここで考えるのをやめてみる。




と。




そうだね。










Yちゃんは言いました。




「思考だと思うの。思考さえ変われば、何かスカッと開くって思う。だから、今までの思考で考えるのは今はやめて、考えないでいてみる。」







と。









Yちゃんと、私、私の娘とで




バリの虫や爬虫類(?)の鳴き声のモノマネをしてたくさん笑った。







宝石のような蜘蛛を見つけて、3人で長いこと見つめた。







Yちゃんが、バリ人が伝統的な儀式でトランスするとどんだけすごいか、

バリの男たちが本当に集中して踊るとどんだけすごいか


そして人間がそうなった時、その間、

どんだけ「目に見えないもの」がそこいらじゅうにいるということに気づくかを、


目を大きく開けて、今ここで起こっている事のように話してくれた。







一緒にバリ舞踊を観に行った。




お互いに、何回も観たことのある演目。




でも話していたら行きたくなって、行った。




会場が思ったよりも遠くても、歩こう、せっかくだから頑張ろう、と言って。




そう。 




「頑張る」って、こういう時に使う言葉だよなと、旅で、いつも思う。



小さな輝きと、

いつかの世界で約束した何か輝きのために、

心の潤いのために、

私たちは夜道を劇場まで頑張って歩いた。


そういう時には光が私たちを押し進めるから、

8歳の娘も疲れたりしない。

スニーカー履いてきて良かったね、と嬉しそうに歩く。





ラーマーヤナは何回も見ている。私もYちゃんも。




その馴染みの演目を、




Yちゃんは瞬きもしないで、ほぼ2時間立って見ていた。




完全にひとつになって。









ウブドの山側のローカルなところに住んでいるYちゃん。




ライステラスが一望できる家に住んでいるYちゃん。







朝、窓を開けると、神様がいる、っていう話。




バリの朝、




誰が見ていなくても世界は絶するほど美しくて、




白い霧、その絹のような霧に刺す無数の光、




神様の色、音、時が止まること。




Yちゃんの心はバリの神様といつでも一緒で、




彼女が、彼女の大好きなバリでこれまでに見たものは、




彼女の中では「今」この瞬間に再現可能な有機的なホログラムとして命を持っている。




時間というものが幻想でしかないことを、Yちゃんといながらたくさん感じた。




彼女が全身で話すバリの話を、気づいたらずっと聞いてた。




それは私にとって、




心臓のまわりを絶えず流れている聖水を見つめているような時間だった。




それからずっと私の心臓は蓮の花になり、




インド神話では美しい神や女神たちを




「その瞳は蓮のようで・・」




と形容するその心持ちが、そのまま私の心臓にも降り注いでいる。






Yちゃんちの屋上。







いい時間だったのだ。







思い出すと泣けるくらいに。




その時は泣いたりしなかったし、

むしろただ面白いことを言ってゲラゲラ笑って、

同じ店に何回も行ったりして食べたいものを食べて、

アホなこともたくさん言って、

変な顔で踊ったり、

ひどかった恋愛話とか、

今でもどうしょうもない自分そのままに

ただ笑って、歩いて、食べて、

寝転がって空を見たりしていた。







でもふと、いつでも、どの瞬間でも、神様がいた。







そのことに泣ける。





いつでも起こっていることなのに、


人は、複雑な環境の中にいると



そのことを感じなくなる。




それがどうにも面白く感じないので、




幾つかの自分に付随する案件を整理することになったのかもしれない。




もちろんそれは後付けの解釈でもある。




思考を止めたらそんなこと関係ない話だ。










Yちゃんとの、バリとの、バリの光と神様との時間が




ただ意味もなく良かったもの、なのだ。




顔に見える。しかもバリの伝統芸能のお面に似てる。そっか・・と思った。






というわけで、見た感じ脈絡は通じてないが、





ある意味私は今、充電中なんだろうと思う。







それでも私はいろいろやってるので、




人から見ると発電しながら走ってるかのように見えるだろう(笑)。





でも、人は動きながらでも休んだりできる。


爽快に走ってる馬は、それそのものが休息だろう。


そんな感じだ。










Yちゃんちのベランダから。





人間は、変化可能な生き物。

変わっていくことの中に、いつだって良き面を見つけられる。



読んでくれてありがとう。


師岡絵美里
















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