小雨の日曜日。
いかがお過ごしですか。
一つ私の好きなスートラ(節)を、パタンジャリのヨーガスートラからの抜粋で送ります。
ヨーガスートラ第4章19節
「心は、自ら輝くものではない。それはプルシャによって見られるものだからである。」
na tat-svabhasam drishyatvat ||19||
न तत्स्वाभासं दृश्यत्वात् ॥१९॥
na = not
tat = whose
svā =itself
bhāsam = illuminating; luminous; identifiable; recognizable
svā-bhāsam = self illuminating; inherently recognizable
dr̥śyatvāt = perceptibility; a perceptible object
tat = whose
svā =itself
bhāsam = illuminating; luminous; identifiable; recognizable
svā-bhāsam = self illuminating; inherently recognizable
dr̥śyatvāt = perceptibility; a perceptible object
それ(心)はそれ(心)自体の輝きではなく、
それ自体の認識(プルシャ)の客体だ
Uuuuuum(-_-)
なんのこっちゃ?
はい。
私たちの心というのはそれ自体が「主」ではなく、いつも流動して変化しています。
ここで呼ばれている「プルシャ」とは、真の主体(全き自己、純粋自己)です。
「心」が輝くのは心そのものの作用ではなく、
純粋自己であるプルシャに観られることで、プルシャの純粋を映す。
しかし私たちの心は、日々変化の中で
心に起こる色々な動き(感情や感覚の変化)に引っ張られ、
心の「状態」に夢中になってしまいすね。
それが自我。
「小我」といった方が伝わるのならそれでもいいと思います。
で、
私の言葉で言いますと、
ヨーガとは
この世界の変化する事象(グナの揺らぎ)に参加しながらも
純粋自己であるプルシャの観察(光)を心に反映しつづける作業
と言えるのではないかと思います。
では今日はこのスートラから勝手に「カジュアルなアドバイス」をいただきましょう。
ごくカジュアルにです。
より多くの人に向かって発信してますので、マニアや研究者とかに文句言われてもいい覚悟のカジュアルさでいきますね(笑)
見たり聞いたりしたことに気持ちひっぱられなくっていいっす。
どんな事柄が起きても、どんなもの見ても、どんなもの聞いても、(それはそれでいいから)
君が何を思ったってそれすら君を束縛できないのさ
(だからそれはそれでいいから)
ハートのど真ん中にいればいいよ、
いつだって最高ピカピカ
超訳すぎ!
訳になってるのは「ピカピカ」くらいです(爆)。
しかも音感のみのオノマトペ。
まあいいじゃないですか。どこかの誰かの心が晴れれば。
元気でるヨーガスートラということで。
ははははははは!!
思った日が吉日!
Namaste
師岡絵美里
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