EMIRI MOROKA -HEART MATRIX-

師岡絵美里のブログです♪


2020年8月22日土曜日

ジャイナ教っておもしろい 〜視点変更の必要性を考える〜



ジャイナ教っておもしろい
〜視点変更の必要性を考える〜



現在「ヨーガ経典読解コース(ヨーガ・スートラ第一段・心の世界編)というオンラインでのヨーガ哲学コースを実施していて、その中でヨーガ哲学に関連のあるインドの宗教のいろいろを紹介しています。

というのも、ヨーガ哲学の基本理論は単独で出来上がったものではなく、時代の中でいろいろな思想に揉まれて影響を受けつつ変化・成立していった流れがあるからです。

ひとつの経典を学ぼうと思った時、その経典の考え方を支えているものが複合的にあり、下地になっている思想を解剖するように紐解いてみると「なんでこういう事をこの経典で言っているのか」というところが見えてきたりするんですね。

そういった理由から、「ヨーガ経典読解コース(ヨーガ・スートラ第一段・心の世界編)」では、ヨーガスートラを単独で見てみるという作業から、その周辺世界へと一歩踏み出すような感じで、「その当時のインドってどんな思想が渦巻いていたのか」という、いわば全体の地図を見ながら進む方法を取っています。ヨーガ哲学の骨格となる基礎理論を学んだ人には、さらに深い理解や考察する視点の位置をあげるような学び方を提案しているコースです。


その中で、ヨーガの源流となるヴェーダ(後期)と時代を共にする「原始仏教」や「ジャイナ教」という宗教に関しても紹介しています。



ジャイナ教ってのがまたすごく面白いのです。

ジャイナ教と言うと「徹底した不殺生」を遂行する宗教、というくらいでしたら知っている人は多いかと思います。
命あるものを殺さない、虫一匹殺さない、という姿勢です。

肉や魚、殺虫剤をふんだんに使って育てた野菜や果物を食べ、Gちゃん(あれねw)も蚊もハエも嫌う現代人の感覚ではなかなか実践も理解も難しいために、そればかりが強調され印象に残りやすいとは思いますが、ジャイナ教はそれだけでなく、神学的な要素や自然主義的な発想だけではなく、むしろかなり整理された哲学を持っている宗教なんですね。




そのひとつが、不定主義(スヤード・ヴァーダ)というものです。


開祖であるマハーヴィーラは、当時の思想家たちや仏教の開祖であるゴータマ・ブッダと同様に、「言語による真理表現の可能性」を深く模索しました。

そして、真理は多様に言い表せると説き、一方的判断を避けて「相対的に考察」することを教えます


マハーヴィーラは「事物については絶対的・一方的な判断を下してはならない」と主張しました。

言語的に表現した時、真理(真実)はすべて相対的なもので、ものごとは「ある点から見ると」という限定付きでしか表示することができない、と説きます。彼のこうした立場を「不定主義(スヤード・ヴァーダ)」または「相対論(アネーカーンタ・ヴァーダ)」と呼びます。


具体的な表現法としては、「これである」「これではない」という断定的表現をさけ、常に「ある点からすると」という限定を付すべきだとする「スヤード論」を用います。


ジャイナ教は、相対主義を思想的支柱とし、後世にヨーガ哲学の柱のひとつとなる「サーンキヤ学派」の二元論や、ヴェーダーンタ学派の不二一元論、また仏教の無我論などと対抗してインド思想史上重要な位置に置かれます。



ジャイナ教の基本的な思索態度として「事物については絶対的・一方的な判断を下してはならない」と唱えます。


これは現代の私たちにとって深く考えてみる大事なテーマだと思います。


もちろん、過剰なまでの相対思考は、結論や決定を逃す場合もありますが、現代人の知性のあり方としては「決めつけてしまう」ことの狭さに陥ることの方が多いかもしれない、と思います。


それゆえに「これはこうなんだ」と一方的に決めつける前に、この視点ではそう言えるが、はたしてそそれだけだろうか」という物の見方をできない人の方が多いと思います。


これは個人的な意見ですが、何かを考えることにおいて視点変更が可能というのは、知性のスペックが高いということだと思います。

知性に対して「スペック」という言い方はなんとなく無機質な感じがし、やや差別的にも聞こえそうであまり好みではないですが、そんな言葉のフィルターも外して言ってしまうと、心を漠然としたものとは捉えずに、「知性」というものも「機能」のひとつだと考えるインドの心理学的理論で言うと、知性の認識能力がきちんと働くというのは、知性が持っているもともとのスペックなのだと思います。



「この視点ではそう言えるが、はたしてそれだけだろうか」ということを見極めて、偏らないものの見方をしたうえで、
そのうえで今この瞬間に出さないといけない判断や意思決定などができると、心の偏りに支配されずに冷静に物事を進めていけるようにもなるように思います。


人の心とは、生きていろいろな経験をしている限り「偏り」の集大成みたいなものなんですが(笑)、だからこそこのような視点を変えて見てみることや、自分の思い込みというフィルターを一旦横に置いて観てみると、新たな視野が得られると思うのですよね。




こういった宗教的な内容を、(私の場合)講座資料として編集したり、再度調べなおしたりしていると、いつもその時その時の事象になぞらえて考えてしまうのが常です。

現在進行形の「コロナのこと」もそうですね。
それぞれに立場と視点があるのは当たり前として、そのうえで視点を変えて考えるようにしています。


私のもともとの性格の偏りもあるのですが(笑)、みんなが「同じ流れ」に流されて行くというのを見ると、気持ち悪くなってしまうところがあるんです(爆)。コロナの件でよく言う、「新しい生活様式」という言葉も、言葉による洗脳だな・・とかね(笑)。変わってよいものもあるとは思いますが、「本当にそうなのだろうか」という問いかけを持たずに生きていると、何も考えずに従属するばかりの生き方になります。



考えるということは、私たちの心の筋力みたいなもので、使わないと衰えます。いちいち議論的になったり争ったりする必要はないですが、「本当にそうなのだろうか」という問いかけを持ち、視点を変えたりしながら自分なりの考察をして行く必要があると思います。


もちろん、コロナという大キックで、必要な変化だけど起こっていなかったことがようやく起こったり、古いものを打破したおかげ価値観や行動の視界がひらけたこともたくさんあると思います。いい機会だった、と思えるものもたくさんあります。




しかし、個人的には「接触を控え続ける」ということには人間の人間らしさの根本として、限界があるだろ、と思ってしまいます。


なんでもかんでもオンラインでやる、オンラインでやれるからいいじゃん、というのも、ちょっと気持ち悪いです(笑)。
オンラインで「済む」ものも、オンラインの方が効率的なものもたくさんあると思いますし、オンラインで新たに可能になったこともたくさんあると思うのですが、「オンラインで済む」に同調しすぎるのは懸念が大きいです。


コロナ関係なくこの8年ほど、オンラインでヨーガ哲学を提供してきて、インターネットの恩恵で生きてきたという部分が大きい私が言うのもなんなんですが(笑!!)、人と人の間には、実際に会って、その温度感や空気を共有してしか得られないものが必ずあるとも思います。


先日、東京国立近代美術館に行きました。ずっと観たかったピータードイグ展を観に。緊急事態宣言の期間中、ピータードイグ展のオンライン鑑賞の番組が開催され、それを視聴してとても楽しかったのですが、やはり生で観ることの素晴らしさにはとうてい敵わない!!と唸ってしまいました。オンライン鑑賞をしたあとなので、なおさらそう思ったのだとも思います。


人間同士こそまさにそうだと思います。
実際に会うことが必要。
ふれあいは必要。



細かい事で言うと、現在私の所属しているスタジオは感染症拡大防止対策として、レッスン中のアジャスト(体に触って姿勢を直す行為)は控えていて、スタジオの方針であり、それをしていないと自治体の方針に協力をしていることにならないので、企業としても仕方ないのもわかります。私たちも従っているのですが・・・


実際、ヨーガクラスとしてすごーーーく無理を感じます。

アーサナの取り方と姿勢を修正する方法を、なるべくわかるように言葉で声がけしているのですが、言葉で聞いたことをそのまま自分の体に反映できる身体感覚のするどい人ばかりではなく、ヨーガを始めたばかりの人や、長年の姿勢の癖などが強い方には「手取り足取り」の作業も必要です。
間違った姿勢でアーサナを取り続けることは、修正すべき癖をさらに助長していることになり、もどかしさを感じますね。

ま、がんばって言葉で伝えますけどね、しばらくは(笑)。前向きに、これも先生としての成長と受け止め。

お家でヨーガができる機会が増えたのは素晴らしいことですが、できないので」という理由だけで物事が進んだ段階から、本質的なニーズに立ち返る時がそろそろ来てもいいのではないか思っています。それはヨーガクラスに関してだけではなく、いろいろな分野で。

コロナで否応無く、ある意味仕方なくそうなったところからの、次の段階へ。個人的にはそこを見逃さずに考えるようにしています。



そんなこんなで、身近なところで言うとそういう事もありつつ、コロナうんぬんに関しても、それ以外も、哲学や宗教理念が考えの幅を広げてくれたりすることは多々あります。そればっかりだ、と言ってもいいほど。



ジャイナ教の開祖マハーヴィーラは「言語による真理表現の可能性」を深く模索した、と述べました。

言葉は、意味とエネルギーを同時に運びます。
それらの言葉たちの中に「視点の違う真実」の多くが含まれています。
それらをすぐに「正解か不正解か」という発想に繋げたがる世界になっているのが昨今の日本ですが(今に始まったことじゃないけど)、言葉の中にある「意味」、そしてそれがもたらすエネルギーが、自分や世界に対してどういった影響を生んでいくのかをしっかり見つめながら生きたいなと思います。


ナマステ