EMIRI MOROKA -HEART MATRIX-

師岡絵美里のブログです♪


2020年10月18日日曜日

嫌われ松子からの考察ー孤独について考える・その3


「嫌われ松子の一生」を観て



その3 光を頼りに生きよう



私の感想としては・・


映画なのでシリアスなテーマも極端にそしてコミカルに描かれていますが、「孤独」は人の心にとってとても「怖い」ものだと思います。



このままずっと一人でいるより、

どうしょうもない人でも誰かいるほうがいい・・・

 

松子がそう思ったように、孤独をかりそめの幸福で埋めようとします。

それすら埋められないと自暴自棄への道筋ができ、そしてコミュニケーションの不足は人間の感受性を暗く狭いところに閉じ込めていくのだろうと思います。

 

孤独を怖れる心理というのは、原始の時代から人と人が共存して自分の命を守るという本能レベルでの意識が根本だと思うので、ほとんどすべての人が持っているものだと思います。ヨーガ・スートラ第二章にも「アヴィニヴェーシャ」という言葉で「死への恐怖(=生への執着)」として出て来ます。これは賢人ですら持っているものだ、という経文とともに。


孤独感というのは、元気がある時はまだそれを埋めてくれるものを得ようとする「欲望」として作動するのですが、その願いが打ちのめされて元気がなくなるところに行ってしまうと、心の機能自体を閉じていくのだなと思います。自暴自棄になっているうちはまだ元気で、そこから何者とも関わらない、興味を持たないように心を閉じ、そして鬱になったりしていくのだと思います。(そういう意味では松子は最後まで「内海クン」への熱烈な執着があったので、ある意味元気だったのだと思います。)




昨今、「自殺」の多さに、言葉にならない思いを抱くことが多いのですが、自殺というものが「本人の選択」だと言われている側面に、私は少し疑問を感じます。

 

自殺というのは、心の機能が閉じていく段階で起こるある種の「症状」であることの方が多いのではないかと思っています。

「自殺するぞ」

と明確な決心で「選ぶ」というのは、実際には少ないのではないかと。

三島由紀夫や乃木希典のようにはっきりとした意志を持って自決するというのは稀で、彼らの場合は心というものが最後まで自覚的な強さを持ち、意志と意思を持って自決しましたが、しかし心を病んでしまいその行動に赴いてしまった多くの自殺者は、意識的に「選ぶ」というよりも、心が「その段階」に入ってしまって、毎朝普通に出かけて電車に乗ったり、慣れている仕事をこなしたり、毎日行なっている家事をしている時の手順のような、いわば何もあらがっていないオートマティックさで「死ぬ」動作に入ってしまうのではないかと。いつものように階段を登って二階に上がって、なんの遺書もメッセージも残さずに自殺してしまった女優さんのように。(本当のところはどうだったのか知りえませんが・・・)

 

彼女、彼らが、なんで死んでしまったのかはもうわかりようがなく、どんなに推測してもそこに返答は得られません。

書いていると非常に悲しい気持ちになってきますし、面白い映画のレビューのつもりが最後この話になってしまい暗い気持ちにさせてしまっていたら本当に申し訳ないですが。


何が言いたかったかをまとめると、「心に侵食しているもの」に気をつけて、ということです。映画の松子は「ひとりぼっち」がいやでした。(松子は自殺はしていませんが)。自分で何かを選ぶよりも、心を侵食しているものが人生を方向づけてしまうことが多いものです。それを「選択」だと思うのは自我の錯覚で、“私が(あなたが)それを選んだのでしょう?”と言えないところがあります。

 

子供と接していても思うのですが、まだ心が柔らかく、周囲の雰囲気を自分の考えだと思ってしまいやすい子供は、ネット上で得られる社会の雰囲気や流行している考え方、大人たちに与えられた言葉に心を侵食されるのが簡単です。まだ自分の意思を持ちきれていない子供には、やはり真実とともに「明るさ」や「希望」を示して、そっちの雰囲気が大きい状態に舵取りをしてあげないと、ゴミみたいな情報から得るどうしょうもない思考、負の雰囲気、過剰で雑多な他人の思いに飲み込まれてしまいます。大人も、きっとそう変わらないですよね。


いつも思うのですが、正気を保って普通に生きていくということは、本当は大変なことで、その正気を保っていられるのは「幸運」とも言えるくらいな世の中だと思います。


何かあらがえないほどの雰囲気が心に侵食し、そして活動することや、生き永らえることの魅力よりも「その雰囲気」のほうが優勢になってしまうと、思考して選ぶ心の機能も閉じてしまい、「動作」がごく自然に「死」のほうへ赴いてしまう。「死」まで行かなかったとしても心の闇の方に行ってしまいます。自分で選ぶというよりも、そういう流れの方が多いのではないかと思います。


ちょっと話がずれましたね、かなり深刻な問題のほうへ。
戻します。




松子は最後の最後で、「社会的な自分」への小さな光を取り戻します。

わたし、まだいけるかも、と。

そこからの映画の終わり方はさすがに書かないでおきますが(ネット見れば一発ですがw)、生きることというのはつまり、光を頼りにすることなのではないかと思います。

この映画の「松子」は、愛せる人、自分をわかってくれる人を求めて最後まで生きました。そして自死もしていません。とても不器用で不運な人生なのですが、彼女自体はずっと輝いていたように思います。かりそめの愛でも誰かを信じたい、全身で信じる、というのは非常にパワーのいることです。最後の最後でもう一度自分の可能性に心が開いたのも、そのパワフルさゆえなのだと思います。

物語のプロセスにおいては、「あ〜あ〜、まつこ・・・」と思うところが多いのですが、しかし結局鑑賞後に残った感覚は、散々な人生を送った松子の物語にもかかわらず、けっこうスガスガしい風景でしたね。
もちろん別の感想もあると思いますし、ラストに落ち込んでしまったり、いたたまれない気持ちになったりする人も多いと思いますが、個人的には希望的に見届けられるものでした。

それはやっぱり、松子が最後に見た「自分という光」のおかげのような気がします。

以上、「嫌われ松子の一生」を観てのいろいろでした。

映画が好きなので、また映画からの考察を書きたいと思っています。
長文お付き合いありがとうございました。

 

光を頼りに生きよう!


2020年10月17日土曜日

嫌われ松子からの考察ー孤独について考える・その2

「嫌われ松子の一生」を観て

その2 生き物としての孤独

前回の投稿で映画「嫌われ松子の一生」から、だいたいのあらすじと、映画のひとつの観点である「孤独」についての考察を途中まで送りました。



「社会的な孤独」と、「生き物的な孤独」についての続きです。


人間には、社会に属しているというタイプの安心感があるのですが、もっと根源的で本能的な感覚で、「生き物」としての安心感というものがあるのだろう、と。

松子の感じた「ひとりぼっち感」は、生き物的、本能的な孤独が大きかったのではないかと思うのですね。

「生き物」といっても生物全般ではなくで、昆虫などの生き物はまた別の感覚で生きている生物として、主に人間や動物などに共通するところで話しています。


それを満たしてくれるものがなんなのか、というと、もう一言に「肌感」だと思うのです。身体に触れ合っていることで満たされる“生きている”実感”。結局、社会的な安心以上に、こっちの方が「生き物」としての孤独を癒してくれます。社会的孤独は感じていなくても生き物的な孤独を感じている人というのは多いのではないでしょうか。または、社会的な孤独を埋めるために生き物的孤独を満たしてくれる関係に依存してしまうことも多いと思います。松子の場合は人生これからという時に社会的に「まっとうな道」を外れてしまったこともあり、それ以降は生き物的孤独を埋める道に没頭してしまいます。ダブルですね。

 

松子の一生を観て、共感でも否定でもないなにか、言葉にならない「そうだよね・・」という思いがじわじわと湧いてきたのは、松子が終始この「生き物としての孤独」を埋めようとして「誰か」を求めていたという姿だと思いました。行くところまで行って「もう死のう」と思っていたにもかかわらず、声をかけてくれた通りすがりの優しい男性とすぐに関係を持って「これだ」と感じてしまう。松子は「人肌」から得られる生き物としての安心に常に引っ張られていたのだなあ〜と。

 

そして松子の特徴的な姿は、まだよく知り合ってもいない男性に自分のこれまでの身の上話を長々と詳細に話してしまうところ。知ってもらうことで満たされるという条件も松子には非常に重要で、人生の終盤、最終的に社会的孤独を選び、飲んで食って寝てゴミ屋敷に暮らしても、最後の最後まで「(誰かに)私のことを知ってもらう」ということに執着し続けます。最後その矛先が「光GENJI」にまで抽象化されるという(笑!!!)。ここでもまた、共感でも否定でもない「なにか」に胸がいっぱいになりました(笑)。

(しかも光GENJIの「内海光司」に設定したあたり、原作か脚本かわかりませんが、すばらしいセンスを感じます。他のメンバーじゃだめですよ、内海光司が最適な人選です。って、私より年下の方はこの話題わからないですねwww とにかく内海光司にしかない「松子が夢中になる要素」があるように思ってしまった私は、まんまと演出にハマってますねw)

 

松子はラスト、内海クンに自分の生い立ちを詳細にしたためた長い長い長い!ファンレターを書き、投函します。しかし返事は来ません。来ないことにまた憤慨し、発狂します。

 

「リアクション」があることが大事。


松子は、社会的にも、人間らしい人生という意味でも行けるところまで堕ちますが、それでも「誰かと関わりたい」と思っている。観ている側はその心理にもう腹パンチ的な「いたたまれなさ」を味わうのですが、この映画はそのあたりを全てコミカルに描いていて、他の登場人物の視点などで「明るさ」「希望」「なぐさめ」もちゃんと与えてくれているので、そこまで悲痛な気持ちにはさせない映画なのですが、それでも後からじわじわ来ます、

松子・・・・・

と(笑)。



続きはまた明日・・・(まだあるのですw)



2020年10月16日金曜日

嫌われ松子からの考察ー孤独について考える・その1


vol,1 松子の「孤独」を考える


先日「嫌われ松子の一生」という映画を観ました。2006年上映なのでだいぶ前の映画ですね。当時話題になっていたのですが、その時はあまり興味は持たずに観ていなかったのですが、その後主演の中谷美紀さんがインド紀行の本を出版し、それを読んでこの映画のことが印象に残っています。中谷美紀さんがヨーガを愛好しているというのは出版以前からちらっと知っていたので、インドやヨーガを彼女がどう体験したのか興味があって読んでみました。


本を読んでわかったのですが、その時の渡印の理由のひとつとして、純粋に本場でヨーガをしたいという目的もあったそうのですが、「嫌われ松子」の撮影が過酷すぎて精神的にボロボロになり、逃げるようにインドへ行った・・・的ないきさつが書かれてあったのを覚えています。本を読んだのもかなり前なので細かい内容はあまり覚えていないのですが、インドでの様々な体験記よりも、ちらちらと出てくる「嫌われ松子」の現場がどれほどキツかったか・・という吐露のほうが印象として残っています。おそらくそれについて多くのことは書かれていなかったように思うのですが、“心底きつかった”のだろうということがじわじわ伝わってきて、インド体験のエピソードよりも「どんだけ松子大変だったんだ・・!!」と思った記憶の方が強いのです(笑)。(撮影では監督から激しく怒鳴られ、あまりにつらくて撮影を放棄して現場から帰ってしまったこともあったと・・、後からネットの記事などでも知りました。)


そんなわけで、中谷美紀ちゃんをボロボロにしてインドにまで行かせしめた映画、という印象だけが強く残っていた「嫌われ松子の一生」。



すごい面白かったです!!!(笑)。


大集中して観れました。


こういう時「もっと早く観ておけばよかった」というような感想も言いがちなものなのですが、いやいや、今の私が観て非常に面白かったのだろう、と思います。


かなりネタバレしちゃうけど、感じたこと、思ったことを話しますと・・・まっさらな状態で映画を観たい方は、鑑賞後に読んでください。




話の流れとしては、松子の転落、です。
主人公「松子」はいろんなタイプの「ダメな男」に堕ちていきます。スタートの「笑顔が嘘くさい好青年」に淡い恋心を抱くくらいはまだぜんぜんよくて(でもその時にもう松子の男への見る目なさがちゃんと表現されてんだなと思った)、そのあとは売れない小説家DV男、そのDV男のライバルで松子の体とライバルへの優越感が目当ての妻帯者、松子の金を使い果たすヒモ男、平和すぎる男(笑)、そしてだめ押しに、親分の金を博打に使い逃亡する若い舎弟・・・。

終盤のひとつのハイライトとも言える段階で、親友の女友達に「こんな男といっしょにいちゃだめだ!!」と強く言われても松子は、


アンタになにがわかるのよ的に

『ひとりぼっちよりマシ・・・・』

と、唸るように、吐き出すように言うのですよね。


もうね〜〜〜(笑)、、、松子・・・・
ため息が出ちゃいました。


それは「共感」でも「批判」でもなく、なんとも言えない気持ちにさせられます。


あえてヨーガ的に言いますと、関係性への依存というのは「永遠ではないものを自分だと思ってしまう」という「無知」の部類に入ってしまうのですが、生身の人間の心のサガを思うと、一言に「愚かだ」などと言えないものがあります。

そうだよね、松子・・ひとりぼっちはいやだよね・・・

と同情しそうになるのですが、いやいや、親友の言葉の方が本当だぞ、とも(笑)。




それで、「ひとりぼっち」を考察しました。

 その心許なさ、拠り所のなさ・・・

若い時分はまだ経験も浅いので交際相手への依存的な気持ちもしかたないところがあったとしても、年を経てもなお、それが荒んだものや発展性のないものでも誰かとの関係性に依存してしまう心理。


ひとりよりマシ・・・・


松子の場合は完全に幼少時代からの「愛情ロス」で(そのように描かれていた部分がわりと大きい)、根本的体験は「父に笑ってほしい」「父に注目されたい」・・・そこからの「誰かに愛されたい」という気持ちが潜在的に大きいのですが、それが転じて男性に過剰にエネルギーを注いでしまう人格になったようです。

でもまあそんな「いきさつ」や幼少期の親の愛情不足という話は、多くの人が似たような経験を持っているものでもあります。でもみんなそこまで堕ちたりはしない。


松子が極端に堕落的な人生に堕ちていくのは、「マシ」という言葉に表れているように思いました。極めてダメな男だけどいないよりまし。相手がいれば、愛を注げるから。それによって生きている実感が保てるから。



ひとり、ってなんでしょうね。
松子が怖れた「ひとりぼっち」とは。

ひとりでいても「孤独」じゃない人はいますが、とりあえず今回の物語の中での「ひとりぼっち感」を「孤独」としますと、自分自身が生きている実感や世界から必要とされている実感があると、人間の心という機能は活性化していられるように思います。「ひとり」であったとしても、生活や人生の中で何か「注げるもの」や「役立っていられる場」みたいなものを持っていることで、例えば恋人や配偶者、一緒に暮らす家族がいなかったとしても完全な孤独にはならないように思います。

ただ!それは「社会的な孤独」ということについてで、人間には「生き物的な孤独」があります。生き物としてのひとりぼっち感ですね。



続きはまた、次回・・・・