「愛について質問をしたかったのですが、質問のしかたがわかりませんでした。」
と。
まず余談から。
めったにやらないのですが、時々個人セッションを引き受けます。
基本的に私は「大勢」に対して何かしている方が本業的な体質なので、
個人セッションの受付を大々的にはしていません。
でもそんな私でもご縁があって、一対一でセッションさせてもらう機会を時々持っています。ほんの数人。
主に今までに受けてくださった方でリピートしてくださる方です。
まず相談者さんのお話しを聞いて、
意識内にあるものをリーディングして、
ヒーリングをし(これはヨーガのクリヤやクリスタルボウルを使います)
なので今お会いしてるごく少人数の依頼者の方々は、
それで、
冒頭に書いた言葉は、先日セッションした方からセッション後にいただいたメールの言葉です。
「愛について質問をしたかったのですが、質問のしかたがわかりませんでした。」
うん。わかります。とてもね。
ちょっとまた意識のフィールドのお話なんですが、
これはとても種明かしっぽくなりますが
「質問がある」ということは、
意識のステージには段階があるのですが、人が発想することができる「問いかけ」も、その時その人がいるそのステージにおいての「問い」までしか出てこないんですよ。
その「問い」ができる、ということはそのステージ上ですでに「答え」に遭遇しているからこそ問えるのです。
よりレベルの高い「問い」ができたということは、前よりもステージが上がっているとも言えます。
「知っていないと、問えない」のです。
”そンなアホな、わからんから質問してんじゃん”、
もしその人が真に「問いかけ」ることができるのならば、
答えは質問者の意識の中に必ずあるからこそ、
問いかけられるんです。
わけわかんないこと言ってますか?、私。(笑)
「愛について質問をしたかったのですが、質問のしかたがわかりませんでした。」
これはとってもいい感覚だなあと思います。
基本的に私は「大勢」に対して何かしている方が本業的な体質なので、
個人セッションの受付を大々的にはしていません。
でもそんな私でもご縁があって、一対一でセッションさせてもらう機会を時々持っています。ほんの数人。
主に今までに受けてくださった方でリピートしてくださる方です。
まず相談者さんのお話しを聞いて、
意識内にあるものをリーディングして、
ヒーリングをし(これはヨーガのクリヤやクリスタルボウルを使います)
そして最後に話をまとめ、明日からの日々をどうするかの具体的なことを提案したり調整し、
そしてまた数ヶ月たって相談の必要が出てきたら再度セッションする
という感じです。
再セッションを依頼してくださる方は、前回のセッションで具体的に決めたことを実際に実行してみた方のみかもしれないです。
セッションだけ受けて、そこで出たアドバイスを何もしていない、変わっていない、という人は必然的にリピートのご依頼はしてこないみたいです。
そういう意味では私は「癒し」の提供ではなく、「現実アドバイザー」という感じですね(笑)
まあ、「癒そう」とかあんまり思ってないしね(笑)
そしてまた数ヶ月たって相談の必要が出てきたら再度セッションする
という感じです。
再セッションを依頼してくださる方は、前回のセッションで具体的に決めたことを実際に実行してみた方のみかもしれないです。
セッションだけ受けて、そこで出たアドバイスを何もしていない、変わっていない、という人は必然的にリピートのご依頼はしてこないみたいです。
そういう意味では私は「癒し」の提供ではなく、「現実アドバイザー」という感じですね(笑)
まあ、「癒そう」とかあんまり思ってないしね(笑)
だって現実を変えたいなら、思いと行動を変えるってことだもんね。
なので今お会いしてるごく少人数の依頼者の方々は、
セッションで話し合ったことを実行に移して継続された方、となってます必然的に。
それで、
冒頭に書いた言葉は、先日セッションした方からセッション後にいただいたメールの言葉です。
「愛について質問をしたかったのですが、質問のしかたがわかりませんでした。」
うん。わかります。とてもね。
この「質問のしかたがわからない」という感じ、理解できますし、
それがどんな感じの質感なのかも。
「質問」というものも思考の物理現象の一つなので、自分の意識の中でまだ密度とかフォルムが高まっていないと、”なんか聞いてみたいのだけれども、どう問えばいいのか” がキャッチできないんですよね。
ちょっとまた意識のフィールドのお話なんですが、
これはとても種明かしっぽくなりますが
「質問がある」ということは、
「答えをもう持っている」ということなんです。
「質問」という言葉ですと、「疑問」という意味が混ざると思いますので、質問のことをここでは「問いかけ」ないしは「問い」と言いましょう。
「質問」という言葉ですと、「疑問」という意味が混ざると思いますので、質問のことをここでは「問いかけ」ないしは「問い」と言いましょう。
意識のステージには段階があるのですが、人が発想することができる「問いかけ」も、その時その人がいるそのステージにおいての「問い」までしか出てこないんですよ。
その「問い」ができる、ということはそのステージ上ですでに「答え」に遭遇しているからこそ問えるのです。
よりレベルの高い「問い」ができたということは、前よりもステージが上がっているとも言えます。
もっといいことには、「問える」ということは「知っている」のです。
「知っていないと、問えない」のです。
”そンなアホな、わからんから質問してんじゃん”、
と思うかもしれないですが、違うんですね。
「問える」というのは、その人の意識レベルでは知っているからこそ問えるのです。(何度も同じこと言ってますね(笑)。)
「質問」とその「答え」は必ず同時に存在します。
これは物理の原理。
一般に、決まり文句的に、
これは物理の原理。
一般に、決まり文句的に、
「答えなんてない」
というのはよく聞くせリフですが
それは「多様性がある」とか「可能性がある」という意味です。
多様性や可能性という点で語れば「どれが答えであってもいい」ということが言えます。
しかし今話してるのはそれのことじゃなくて、
もしその人が真に「問いかけ」ることができるのならば、
答えは質問者の意識の中に必ずあるからこそ、
問いかけられるんです。
わけわかんないこと言ってますか?、私。(笑)
なんとなくピンときてる人もいっぱいいるのではないかしら。
だってもう2016年ですもん。こういうこと、どんどん通じなきゃおかしい。
「知らない」と「知っている」にはもともと距離は一切なく、
知っているからこそ「知らない」と思えるんです。
コインの裏と表が同時に存在するようなものです。
「知らない」という事象は「知っている」という事象に支えられない限り存在できないんです。その反対もしかり。
というわけで、ちゃんと「問い」が熟すまで少し待つもの手です。
だって、なんと問えばいいのか、というのはかなり重要ですから。
それによって「知っていること」の内容が変わるんですから!!
くだらない質問をしてしまうと、「そのレベルでの答え」が意識のフィールド内に一瞬で発生するのですから。
そしてそれがあなたの人生の出来事や色合いになるのです。
ね。責任重大でしょ。
あとね、「問いかけ」と「思い」を間違えている場合がけっこう多いので注意です。
例えば、「どうして私はこんなに不運なんですか」とか。
これは「問い」じゃないです。これはただの「思い」です。この場合は「不満」という思いですね。
「なぜあの人はあんなにきれいなんですか」とかも、これも「問い」じゃないです。ただの思いに疑問詞がついただけ。
「問いかけ」とはもっと本質的なことです。
「どうして私はこんなに不運なんですか」と神様に聞いてみても、返答はたぶんないですよ。
あったとしても「あなたがそう思うから」という感じ。
「なぜあの人はあんなにきれいなんですか」もそう。
「あなたがそう思うから」。
人生に対して”適切な問い”をするには、
「思い」を超えて「原理」に心を研ぎ澄ますことですね。
「なぜ私はあの人とうまくいかないのだろう」
という疑問(思い)と、
「人と人の調和とは」
と問うことの間には、言葉以上の距離があります。
そして、
「なぜ私はあの人とうまくいかないのだろう」と考えている間は、
原因を検索することにフォーカスされるので、
あらゆるすべての事柄が原因とみなされる”可能性のカオス”が起こります。あれも原因だしこれも原因だし、と。
通常、人の頭の中はだいたいこうなってしまうものです。
でも「人と人の調和とは」と問いかけた時には、
その答えは既に自分の内面に同時発生的に用意されます。
原因探しをしなくても先へ進めるのです!!
人生の謎を解くポイントは、
「因果関係」を超えた問いができるかどうか、です。
もし、「思い」からくる「疑問(それは往々にして不満がベースになった疑問とも言える)」のままに口に出すと、おそらくまだまだ「問えない」のです。
ということは、答えも発生していない。
「愛について質問をしたかったのですが、質問のしかたがわかりませんでした。」
これはとってもいい感覚だなあと思います。
純粋な美しさを感じます。
意識を感じ取るセンスですね。
まだ機が熟していない問いではあるのだけど、
その「気配」は感じているのがわかります。
でも問いが熟した時、答えはもうそこにあるから、
きっとすぐそこです。
今日のこの内容は、けっこう大事です。
人生を進むうえで。
感謝を込めて
師岡絵美里