先日、自分がいつも担当しているLAVAのインストラクターさんたちに向けたヨーガスートラ講習とバガヴァッドギーターの講習に、
QuanYogaの恩師・後藤裕子先生が遊びに来てくださったのです。
楽し嬉しかったな〜〜。
ヨーガスートラは継続して長く教えてますが、インストラクターさんへの講習としてバガヴァッドギーターを取り上げるのは実は久しぶり。
裕子先生と、時期や参加する人たちのそこまでの歩みを図って、そろそろやってみようか、となったのです。
一人で読むのと、自分がグルの師や先輩の元で教わるのと、
自分が他の誰かに紹介や共有をするのは、
どれも素敵な時間ですが、それぞれに大きく違った作用があるように感じます。
自分で教える(と言ったらおこがましすぎですが、紹介する)のは、
自分自身を見つめる作業としても、かなり濃厚です。
教わっている時は、それこそ小鳥のような気持ちで教えを受けていることができるわけですが(笑)、
自分がみんなを少しづつリードしながら、読み進めたり、解釈を紹介したり、自分の見解を話してみたり、ということをしていると、
時々、話している最中に、
圧倒的な沈黙が心のもっと奥の方から迫ってくるのを感知します。
グルの心なんだと思います。
会ったことはなくても、もう生きてない人でも、
ヨーガを為してきたグルたちの、優しさの体現のような心が
私というアイデンティティーを溶かしながら広がってくるんだと思います。
これは、バガヴァッドギーターの時によくあるように感じます。
それでもうね、
「これを言葉になんかする必要ない」という
それでもうね、
「これを言葉になんかする必要ない」という
本当に圧倒的な諦めと安堵が迫ってくるんです。
そこには、まだまだ「話したい」自分とのギャップはあるんですね。
でもそのギャップに
でもそのギャップに
「自分の言葉じゃない言葉」
みたいなものが流れ込んでくるのです。
それはとても幸せな時間で、
「私」ていう自意識をそんなにぎゅうぎゅうに持っていなくても、
ちゃんと「私」を生きることができるんだな〜
と思ったりします。
思想や古典の紹介したり話したりすると、
自分の中の成長とか過去の洞察とは違う変化なども向かい合うことができ、猛烈に濃厚な時間になります。
そういうのが、話し手にも聞き手の中にも深く深く起こっていくのが、ヨーガ思想の面白さ、幸福、だなあと思います。
それはとても幸せな時間で、
「私」ていう自意識をそんなにぎゅうぎゅうに持っていなくても、
ちゃんと「私」を生きることができるんだな〜
と思ったりします。
思想や古典の紹介したり話したりすると、
自分の中の成長とか過去の洞察とは違う変化なども向かい合うことができ、猛烈に濃厚な時間になります。
そういうのが、話し手にも聞き手の中にも深く深く起こっていくのが、ヨーガ思想の面白さ、幸福、だなあと思います。
裕子先生と
おもしろいね〜〜〜
おもしろすぎるよね〜〜〜
とワクワクしていた時間が、もっとも「おもしろかった」かも。笑
なんかもう、本当にギーターって、すごいんだよね〜〜〜。
いつ読んでも、驚くべき真理。