EMIRI MOROKA -HEART MATRIX-

師岡絵美里のブログです♪


2016年6月23日木曜日

ギーター。幸福の中にいる幸福。



先日、自分がいつも担当しているLAVAのインストラクターさんたちに向けたヨーガスートラ講習とバガヴァッドギーターの講習に、

QuanYogaの恩師・後藤裕子先生が遊びに来てくださったのです。

楽し嬉しかったな〜〜。


ヨーガスートラは継続して長く教えてますが、インストラクターさんへの講習としてバガヴァッドギーターを取り上げるのは実は久しぶり。


裕子先生と、時期や参加する人たちのそこまでの歩みを図って、そろそろやってみようか、となったのです。




一人で読むのと、自分がグルの師や先輩の元で教わるのと、
自分が他の誰かに紹介や共有をするのは、
どれも素敵な時間ですが、それぞれに大きく違った作用があるように感じます。


自分で教える(と言ったらおこがましすぎですが、紹介する)のは、
自分自身を見つめる作業としても、かなり濃厚です。


教わっている時は、それこそ小鳥のような気持ちで教えを受けていることができるわけですが(笑)、
自分がみんなを少しづつリードしながら、読み進めたり、解釈を紹介したり、自分の見解を話してみたり、ということをしていると、


時々、話している最中に、


圧倒的な沈黙が心のもっと奥の方から迫ってくるのを感知します。


グルの心なんだと思います。

会ったことはなくても、もう生きてない人でも、

ヨーガを為してきたグルたちの、優しさの体現のような心が

私というアイデンティティーを溶かしながら広がってくるんだと思います。



これは、バガヴァッドギーターの時によくあるように感じます。


それでもうね、
「これを言葉になんかする必要ない」という

本当に圧倒的な諦めと安堵が迫ってくるんです。

そこには、まだまだ「話したい」自分とのギャップはあるんですね。

でもそのギャップに

「自分の言葉じゃない言葉」

みたいなものが流れ込んでくるのです。


それはとても幸せな時間で、
「私」ていう自意識をそんなにぎゅうぎゅうに持っていなくても、
ちゃんと「私」を生きることができるんだな〜
と思ったりします。


思想や古典の紹介したり話したりすると、
自分の中の成長とか過去の洞察とは違う変化なども向かい合うことができ、猛烈に濃厚な時間になります。


そういうのが、話し手にも聞き手の中にも深く深く起こっていくのが、ヨーガ思想の面白さ、幸福、だなあと思います。


裕子先生と

おもしろいね〜〜〜

おもしろすぎるよね〜〜〜

とワクワクしていた時間が、もっとも「おもしろかった」かも。笑

なんかもう、本当にギーターって、すごいんだよね〜〜〜。

いつ読んでも、驚くべき真理。








2016年6月8日水曜日

ダルマについて思うこと。


哲学の講習をしているとその中で、

「自分のダルマを知りたいです」

という風におっしゃる人が多いです。

その気持ちわかります。

ダルマは文脈によって色々な解釈ができるので、一言に言いにくいのですが、法、義務、摂理、場合によっては役割という感じなど、

確かに自分のこの世での役割や、言い方によっては使命みたいなものがわかったらと思う気持ちはわかるのですが

でも「わかろう」としてつかみ取れるものかどうかというと、なかなか意図してそうはできない気がします。


マインドはすぐにドラマを構築する癖があります。

その心の動きは曲者。

自然の摂理に「欲」は通じないから、

マインドで生成したドラマはあんまりうまく機能しない。




自分のダルマは、

 一生懸命に生きてみてること

 結果への期待を放棄すること

これらを同時にやり続けていると見えてくると思います。



でも・・・

そうやっていって”実際に”見えてくることは、


一生懸命に生きてみてることと結果への期待を放棄することそのものが、ダルマなんだなと感じる

(笑)!!!



「方法」だと思っていたこと自体が、存在意義であり目的だった。


だからこそあれこれ考えていた時には、ツールと目的の「誤差」ばかりが気になったんだ、と気づきます。


生き方が中途半端だからすべてが「途中」であり「未然」な感じがしていただけで、

なんであっても本気で生きて本気でやってみれば全てがダルマに叶う。


そう感じます。


だから「やりたいこと」を無理に探したりする必要はないと思うし

使命とかを探すよりも、

今を一生懸命生きて、心を開いていることの方が

ドラマチックな使命感で何かをするより「自然」だと感じる。



梅雨時期に入ったのか、気温も上がってきて

うちのベランダのコンクリートの隙間のわずかな土から

いろんな草がおもむろに生えてきました。

それが何の役に立ってるかわかりません。使命とかもわかりません。

でも、見ていると心が洗われます。

人の存在のそもそもってそういう感じじゃないかしら。

ダルマって、たいそうなことじゃなく

純粋に生きることなんじゃないかと思います。



い〜〜〜こと言った。
自分が好き。


EMIRI





2016年6月6日月曜日

心のおじいちゃん、佐保田先生。


昨日は、

ヨーガ哲学ティーチャーズトレーニング、初の「発展コース」を実施しました。

参加人数は程よい人数で、全員と対話できるいい人数だったこともあり
落ち着いた空気の中で学びを深めることができました。


発展コースは「入門初級コース」とは教材を変えて学習することも目的の一つです。

最初はまず一冊の解説本を大事に読むのがいいと思うのですが

段階が進んできたら別の解釈者の言葉にも踏み込んでみると

新たな角度であったり、または自分の思っていたところとは逆の見方など書いてあったりと、

それはすごく学びになります。

それぞれの歴代の注釈・解説者が「違うところ」に行きたいわけではなく、皆目指すところは同じななのですが

それぞれのグルの「視点」を通じてこの現象世界を見てみることで

自分自身の付着した色眼鏡とも言える心のフィルターを一枚一枚はがしていくことができますね。

昨日のコースでは、佐保田鶴治博士の「解説ヨーガスートラ」を使用しました。


この教材をつかえたこと自体が私にとって本当に光栄なことです。

もちろんいつでも使っても構わないものでしょうけど、でもね、自分の中で機が熟してきて、
佐保田先生の言葉を人に伝えるための私個人の精神力や準備ができたような気がしたのです。


佐保田先生の本は独特な語り口があり、日本語も決して簡単ではなく、
インド思想のみならず世界の宗教、とりわけ仏教の知識が豊富なので、ヨーガサンキヤと仏教との比較もことあるごとに出てきます。
私自身はそれほど詳しくない仏教用語がたくさん。

それでも、私自身のインド思想ヨーガ思想への理解が深まってきたので、佐保田先生の伝えようとしているところの「骨子」を見つめていられるようになったような気がしています。

自分の経験で一つ良かったなあと思うことは私自身は学生時代に日本の古文を専攻していたのと、オタク的に好きだったことで、
佐保田先生の日本語にも馴染みが早かったことです。
そういう一種古めかしい日本語が「大好き」だと感じること(笑)。
これはちょっとフェチっぽい感覚です(爆)。
でもある意味アドヴァンテージかもです。

結局、母語が理解できないと、読めないですからね。

学生時代の勉強は「好きだから」やってただけで、それが今の仕事や探求につながるとは予想してませんでしたが、何がどう功をそうするかわかんないですね。
そういう意味でも、好きなことは何でも学んでみたいなと、
まだまだ欲があります(笑)

あ〜、佐保田先生。ありがとう。日本にヨーガの真髄を伝えてくださったグルの一人。
生きておられたら、どんな風に今のこの世界を語るだろう。
そう思います。

肉体がなくなるのは、人間なのでやはり絶対的な恐怖の対象ではあります。頭ではわかっていても、身体が果てることは人間にとってはいつでも怖れを起こす原因になります。
賢人でさえも持つ、生命欲。

でも、この体を卒業して一つのソウルになった時、
佐保田先生のようなグルの魂にも肉体という制限なく会えるのかと思うと、それはそれでちょっと楽しみでもあるのです。

ずっと先生の本を読んでいると、自分のおじいちゃんのような気がしてくるのです(笑)
すごい親近感なのですが、この親近感こそが私のヨーガへの理解を深めてくれる一つの大事な要素でもあるのです。


鶴治おじいちゃん、いつか彼の地で会いましょう。
その時は、本にサインしてね。


日本の偉大なグル、佐保田先生に、瞑想します。


感謝。