EMIRI MOROKA -HEART MATRIX-

師岡絵美里のブログです♪


2019年2月27日水曜日

シリーズ【5種のチッタ】vol.5 ニローダ・聖典に触れることの意義

ニローダ・聖典に触れることの意義


ヨーガではプラーナの質(グナ)の違いで「5つのチッタ(心)」が説明されます。

クシプタチッタ 荒ぶる心
ムーダチッタ 停滞する心
ヴィクシプタチッタ 移ろう心
エーカーグラチッタ 一点集中の心
前回までの説明で、エーカーグラチッタまでいってヨーガができる資質に、というあたりを書きました。それとともに、その前の三つのチッタに揺れ動きながらもヨーガをするには、というあたりも。

今日は最後の「二ローダ」です。これは「止滅」のこころ。

これは特に支配的になるグナ(性質)がなく、心(チッタ)はその出どころである物質原理の元へと吸収される、と説明されます。

この部分だけ聞いても、予備知識なしではなかなか想像もしにくいですよね。

心というワードを「知性」と置き換えてみましょう。

知性は「物事を認識する機能」とします。

この知性は、元々の純粋な状態だと、物事をそのままに見ることができるのですが、生きている過程でこの知性にいろいろな「条件付け」が付着します。

好き嫌いがその筆頭ともいえるでしょうね。
好き嫌いのことをヨーガでは「ラーガ(愛着)・ドゥヴェーシャ(憎悪)」と言い、これについてはヨーガスートラの第二章でも取り上げられ、好悪の感覚が人の心を大きく揺さぶり、その後の条件付けに影響を及ぼし、煩悩を生むことがわかります。

ニローダ(止滅)の状態というのは、こういった諸々の知性に付着する条件付けが浄化され、動かず働かず、知性が意識(純粋な自己)と同様までに清浄となって、「意識そのものだけ」という状態だと説明されます。

心が寸分も動いてないことによって見出される境地ですね。

なーかなか、難しそうですよね(笑)
だって私たちの心って動くから。

この境地を「サマーディ」というのですが、心の動きやその状態を全て放棄することはいきなりはできないので段階を追ってそこに到達することもヨーガスートラには書かれています。

ニローダは、ニローダをしよう!と思ってもいける境地ではないことだ、という説明は多くのヨーガスートラ解説書にも書かれていて、心(チッタ)についての浄化アプローチを修練し、最後もう全ての制御やその努力から離脱できるに至り、起こるのだ、ともあります。

とどのつまりヨーガで求める目標地点がここなんですが、やはり私たちは段階を追ってヨーガしていくことが必須なんだとわかります。

人によってはそれはアーサナ練習かもしれないし、日々の地道な瞑想習慣かもしれないし、また別のことかもしれない。

ひとつ大きな支えとなるのは、私たちがこのニローダなる境地にいきなり行けなくても(人生かかっても難しくても(笑))、このニローダの境地に達した古代の師たちが記し残したものがウパニシャッドやヨーガスートラなので、これらの書物になるべく馴染んで心をそこに寄せることは、自分の知性の清浄化に大いに貢献するものだ、ということです。

すでにその境地達した人の意識の在り方や、そこから発せられた言葉に自分の心を浸していくことで、個人としてチッタ(心・知性)持っている心の垢みたいなものを、洗い流していくのだなあと思います。

確かに、本当に、そう思います。
ずっとヨーガに触れ、ヨーガの書物に触れていると、昔持っていた精神的な癖みたいなものは、だいぶ消えたように思います。
まだまだだけど、まだまだだなあって(自己卑下ではなく)素直に感じることができるし、自分の無知を認めることはとても大事なことだと思います。
アイデンティティに執着したり奢ったりする気持ちがなくなるというのは、心の自由度が高まるという意味で、楽になりますね。


これらの考察は、
「現代人のためのヨーガスートラ」(ガイアブック)
「自己を知るヨーガ」(めるくまーる)
などを参考にしています。
よかったら読んでみてください。

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ヨーガって素晴らしいです本当に。
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2019年2月26日火曜日

変わらないことに巻かれず、創造をしてみること



今日とても久しぶりに、ヨーガの同志である馬路春菜先生にスタジオで入れ違いで会えました。

とにかく久しぶりでハグしてウルウル。
こんなに会いたかったんだなあーと思いました。

仕事上いろいろ関連があるので、連絡メッセージ上ではしょっちゅう交流があるのですが、実際に顔を見ると、もう本当に心が温まります。

古い友人って、いいですね。
存在そのものが自分を支えてくれるなあと。

そんな友人春ちゃんと短い時間で色々話しました。
真剣な話から大笑いまで。


世の中には「変わらない」ものというのが、いい意味でもあまりよくない意味でもあるね、という話。

実際は、全てのものが変化しているのですが、でもなかなか変わらない社会とか組織の仕組みとか、個別の現象の根本性質みたいなものってあるんだね、と。


安定と固定って似てるけど全然違う。

安定は、動きの中でのその時々のバランスが取れる基礎みたいなもので、固定はかたいけどかたいだけに融通がきかない。

バランスを取ることをめんどくさがったり、変化を嫌うと、安定にも似た「固定」の方を選びがちで、そのかわりに自分の許容範囲や応用力、創造性を広げることも怠ってしまうことが多い。

似てるけど間違えないようにしよう、と思う。
安定は大事。でも固定の中で惰性にならないように。

普段から創造性を働かせないと、大きな変化が来た時に、怖れが湧いてしまうから。



昨日、別の友人にもスタジオで偶然会えて、彼女とも久しぶりで、彼女がこの先何をしたいか、みたいな話を聞かせてもらえた。

私たち、日本人は(ってくくりすぎるのはよくないけど、実際)人生で本当に必要な基礎知識を具体的に教えられずに社会に放り出されてしまうね、と話した。

個人の多様性にあまり関係なく誰もが普遍的に押さえておいたほうが良さそうな人生の処方的なものを、具体的に知っておけば、それでわざわざつまずかなくていいし、もっと別の大事なことで有用な経験としてつまずけばいい(笑)、ということもあります。

そういったリアリティを学校ではほとんど習えない、家庭でも話されない、大きくなって経験するだろみたいに大事なところを放任されて、そんで本当にやってみてダメだった時に教わってないのにさも「どうしてわからないの」的に怒られてしまう子供・・・みたいな大人たち。大人の話ですね(笑)

そんなわけで、自分の本分ではない事柄で悩んだり迷ったりして多くの時間を使ってしまう人が多いね、というような話。

回り道も一つの勉強とも言えなくないけど、回らなくていい道もけっこうありwww
どうせなら本分に時間を使いたい。

昨日あった彼女は、その辺りをこどもたちに伝えられる仕事や活動を自分で作っていきたいと言っていて、心から応援したいなと思った。

「全体」が変わらないといけない要素もかなり多いのだけど、そこを待っているだけじゃ変わらないもんね、と。

そして「全体」は、さっきの春ちゃんとの話でも出たように「変わらない」ことが多い(笑)組織とか社会とかね。変わっているように見せかけて根っこが一緒だったりする。


なので、自分の得意なこととか一生懸命になれることで、その「部分」だけでもいいから、パイオニア精神を持ってみるのは、いいことなんじゃないかと思う。
世の中を悲観的に見て嘆くよりもずっといいと思う。



「あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果にはない、アルジュナよ。」


とクリシュナも言っていますね。
(バガヴァッドギーター2-47)



最後まで読んでくださりありがとうございます。
Namaste



<お知らせ>

オンライン・ヨーガ集中講座

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このコースでは、学習と体験的実践のバランスをとることと、日常生活の中で学んでいける量やペースなどを配慮し調整しています。

開催日程【2019年5月期】

2019年5月〜2019年10月末
隔週一回オンラインでの授業があり、週二回の学習フォローメールと、各テーマ毎の実践課題があります。
詳しくはサイトにて

2019年2月5日火曜日

シリーズ【5種のチッタ】vol.4エーカーグラチッタ〜 純粋な知性をもって



ヨーガではプラーナの質(グナ)の違いで「5つのチッタ(心)」が説明されます。vol,12,3では「クシプタチッタ」「ムーダチッタ」「ヴィクシプタチッタ」について説明をしました。今日は4つめです。「エーカーグラチッタ」。

いよいよヨーガができる心に突入。



▪エーカーグラチッタ(一点集中の心)

サットヴァ(純質)が支配的になる心。
ヨーガを通して心がよりサットヴァになり、純粋な知性も獲得。この純粋な知性が物事のありのままを見る。この心は低次のサマーディである「対象のあるサマーディ(サンプラジュニャータサマディー)に適合する。

[Ekagra]
one-pointed 一点
concentrated 濃縮
undisturbed 平静な
intent 意図
closely attentive 細心の注意を払う

エーカーグラチッタは、サットヴァ(純質)な心です。ヨーガで言うところの一点集中は、サットヴァのチッタのことであり、その知性によって対象をそのままに見ること。




<筆者蛇足>

なんでもかんでも「一点集中」できればいい、というものではなく、怒りに一点集中しているのならそれはクシプタチッタであるだろうし、損得とか欲に一点集中していればそれはムーダチッタかもしれない。一点集中にも質があるのだ(笑)。
あたりまえのことだけど、雰囲気と「なんとなく」にのまれやすい日本人は、ニュアンスに流されないように注意しないといけない。
教える側も、何に、どんな心で、そしてそれができる環境を自分が作れているかを反省しながらいつも教えるのがいいし、そういう洞察があることで教える自分が育っていくなと思う。

人は人の個性や傾向を「性格」というけれど、言い換えれば「何チッタ」に集中がおこりやすい傾向があるのか、と言ってもいいのかもしれない。

この「5つのチッタ」(紹介はまだ4つまでですが)でわかることは、人はなんにせよ「集中」してしまう、ということ。ぜんぜん集中できなかった〜と言う時でさえ、移ろいながらもその時々で対象を変えながら「なにか」に集中していたりする。

乱れたり低いエネルギーレベルの心だと「”それ”にとらわれている」という認識が起こらないが、感知とコントロールができないだけで人は自分の「意」を何かに集めてしまう癖がある。

どんな性質の心で、何に集中しているかが肝で、自分の心のグナ(状態)と集中対象の質に認識を持つことが、まず最初の段取りだと感じる。

ヨーガの言う一点集中の心を起こすには知性(認識する心理器官)がサットヴァであることが基本コンディションだということはわかった。心の性質が低い状態のままに「とにかく集中」だけに注いでしまうと、集中に見せかけた「偏り」に陥る。けして集中さえしていれば知性がサットヴァになるとは限らない。

卵が先か鶏が先か、みたいな話だと、サットヴァなブッディ(知性)になっている状態が「先」で、その知性によって真の一点集中が起こるのだと考えると、やはり日常的なヨーガは心の濁りの浄化がともかく大事だと感じる。

そう考えると、ダーラナー(集中)に入る前のヨーガ八支則の項目およびヨーガ・スートラ第1章の心の理論知は、順番的にもえらく理にかなった親切な教え方だと思う。

まず心の浄化。乱れた心、落ちた心、快不快の感覚の奴隷になり、”へんなもん”に集中しないためにも。
こういう識別にはやっぱり「サーンキヤ」の分析的な見方は役立つなあとつくづく思う。

ヨーガ哲学は生身の体験理論。繰り返される内省の上に成り立つ。人生のすべてがヨーガなんだ。


と思った次第です。

ナマステ
EMIRI