EMIRI MOROKA -HEART MATRIX-

師岡絵美里のブログです♪


2021年3月14日日曜日

noteにお引越しかも(試し中)

こんにちはEMIRIです。

こちらのブログからnoteの方に移行しようかと思い、最近の記事は以下にあります。

よかったらのぞいてみてください。


ナマステ
EMIRI

2021年1月25日月曜日

密教と祭式から考える、人々にはお祭りが必要(かも)の考察




今月は「ハタヨーガの源流〜密教ヨーガの世界〜」という講座を行なったのですが、まあこれがとても面白い世界。



いささかマニアックな内容になっていて、ヨーガ哲学を何年かやってきた人にとって面白く感じるものになっているのですが、こういう話を聞いてくださりそしてともに考えてくださる受講者様がいることを心から嬉しく思います。私のテーマ別の講座はどうにもマニアック傾向ありで、流行ったりブームになったりする気配のものを一切扱っていないので(笑)いつだって少人数で行なっているのですが、そこがまたいいなと感じています。


思うに、哲学などの講義って「ちゃんと伝わる人数」っていうのがあります。どんなに素晴らしい内容をシェアしていても、そこに適正人数以上が集まってしまうとなぜか「ぼーっとしてしまう人」が出てくるのです。みんな興味があって来たとしても、人数が多いというだけでなんか集中できない、という人が出て来ます。これは対面で講義をしていた時によく感じていたことでした。オンライン授業だとまた違う要素もあるかもしれないですが、でも基本同じかなと思います。
私のサンスクリットの先生は、真理を教えるのに大人数はだめ。7人未満くらいがいい。頑張って10人、でも10人は実際には多すぎ。とおっしゃっていたのが、よくわかります。

というわけで、少ない人数で、本当に興味のあるみなさんと古代の理論や歴史を紐解き語らっています。



「ハタヨーガの源流〜密教ヨーガの世界〜」は、時代は紀元後あたりから中世インドまでを追いかけました。インドの初期仏教が大乗仏教に発展し、ヒンドゥー教に影響されまくりながら密教化していき、最後はヒンドゥー教と「やってる事」がなかば同じようなこと(儀式とヨーガ)になり、インドにおいての仏教は歴史的な事情の中で衰退するのだけど、「自己と宇宙の合一」に至る思想的なエッセンスと方法だけが、宗教を超えて「ハタヨーガ」というテクニックとして生き残っていくという、これまた壮大な流れです。


現在の私たちが行なっているハタヨーガの元の姿を「お父さん」とすると(実際の人間の年数感覚ではなく例えとして)、それが15、6世紀ごろ。文献で言うと「ハタヨーガ・プラディーピカー」などで、今回の講座はさらにその上の世代の「おじいちゃん」的な時代、9、10世紀くらいの「密教」にまで遡りました。そして「そのまたおじいちゃん」くらいにあたるのが1〜5世紀くらいの大乗仏教のムーブメントの中で起こった宗教的ニーズと変容した仏教。同時にバラモン教のヒンドゥー教化も平行して互いに影響しあい、当時の人々に「何が」重要だったのかや、紀元前のヴェーダ時代との宇宙観の違いなどを見ていったわけです。


インドにおいて必然性を持って開花した「密教」についての世界観を見てみたのですが、これらを学ぶと現代の私たちにとって非常に考えさせられるものが溢れています。



そのひとつが、「儀式は必要か否か」です。

「型」と言ってもいいかもしれません。

なにかしらの決まった作法やスタイルに則って、その行動様式の中にどっぷり身も心も納めることによって「ある目的」の状態に達する。


密教の世界は目的に達するための様式に溢れています。この世界観での「目的」は、仏や尊格と自分を融合させることでした。そしてそれらの対象はいつしか極限まで抽象化され「宇宙との合一」と同義になっていきます。


開祖である釈迦の教えまで戻ると、仏教はバラモンたちが専売特許的に行使していた「儀式」には否定的でしたが、仏教も時代の中で再び「儀式」を採用せざるおえず、それは「個人悟り型」の修行ではなく民衆救済の方向性を持って僧侶も信者も増やし、方向性を維持することを考えると必要だったのがわかります。


祭式が宗教集団として社会的な役割と位置づけを担うための要素としてニーズが高まったのも理解できるのですが、それだけではなく「儀式」や「様式」というのは「没頭できる」という心理的な効能があることもまた、純粋に必要だったのだろうと思います。


人は「型」や「手順」や「向かうべきはっきりとした対象」がある事で強い集中を起こすことができます。逆にそれがないと心というものは移ろいやすく、神・宇宙との合一と言うほどの究極的な集中など難しい、というのはあるのでしょう。密教は、目的もやり方もはっきりさせたことで「解脱」や「統合」というような境地への具体的な道筋を再構築していったのだなと思います。



ブッダ(釈迦)の教えとその後の大乗仏教以降の仏教ですと、その教理自体に隔たりが生まれ多様化していったので、あまり釈迦時代の仏教と後代の仏教を並べすぎると陳腐な比較論になってしまうのでそれはやりすぎないようにしたいのですが、あえて釈迦を引き合いに出しますと、


釈迦くらい悟っていたら、儀式はいらないでしょう。


しかし、未だ道半ばの修行者、そして大衆ももちろん、そうではありません。何かしらの道案内と手順に従っていくことでだんだんと開眼していくのだと思います。


こういった世界を見ていますと、密教の儀式的なシステムやシンボルを多様に活用して精神をある状態にまで高めていくプロセスは、現代の私たちにも少なからず必要なところがあるように思います。


と言うのも、現代、ことに昨今、精神的な方向性を失いつつある人で溢れているからです。すでに失ってしまった人もたくさんいるでしょう。それはこの世界の現行のシステム(政治や経済体制)自体が、古く利己的な体制のまま頑なに実行力を振るっているからでもあり、その影響が個人にまで降りて来たとき、偽物の自由と正義、騙された幸福観として人々を翻弄し、個人の人生においては「不条理」という現実に生成されていくことがあまりいも多いので。


と、ちょっと理屈っぽく悲観的な書き方をしてしまいましたが、何が言いたいかと言うと
「形式がもたらしてくれる一定の結果」に期待できることってあるよな、というところです。


例えば「お祭り」とか。


コロナの影響でそういった地域文化に根付いた「集まり」ができない昨今。人々の心のパワーがダウンしてしまっている傾向もあるのではないかと思います。


だからと言って「じゃあ、みんなの元気を取り戻すために祭りだ〜〜〜!!」とできないのがつらいところですし、「そんなこと今はめっそうもない!やってたって行かないわよ!」という考えの人もたくさんいるでしょう。


でも・・・

必要か否か、と言われたら、お祭りに始まるような私たちの精神的士気や幸福感を底上げしてしてくれて、なおかつ何らかの「区切り」とか「節目」になるような儀式って、必要なんじゃないかなと常々思っています。


集まったりすること、みんなで一斉に盛り上がってみたりすること。それがリアルでやりにくい状況ではありますが、ひとえに・・・はやくそういった日常をまた取り戻せたらなと思ってしまいます。




かといってじゃあ「東京オリンピックやるべきか」という話になると、これまた複雑ですが。
まとまってなくてすいませんw



ただね、人々の心のパワーを引き上げて、生きる力を呼び覚まし、恐れなくていいことを恐れてしまう心のトリックから抜け出すには・・・「お祭り」って超エナジードリンク的だと思うのです。



真冬にふんどし!そして海へ!!

とか

大木にまたがって山くだる!!!(キケンですがw)

とか

誰だかよく知らない人たちとぐちゃぐちゃに密着しながら大声を出して神輿!!!

とか

輪になって、「終わり〜」と言われるまでぐるぐる踊る!!

とか

やるのはもちろん、その行いを見るだけでも人間の生が鼓舞されて心のパワーが溢れるのもです。



今年はどうなるでしょうね。

いろんな意見があるかと思いますが、個人的には、去年できなかったことによる大衆の心のパワー不足の復活もかけて、お祭りあったらいいなあと思います。

むずかしいかな〜〜〜まだ。


儀式には過剰な興奮や共同幻想を引き起こすなどの危険性を伴う面もありますが、でも実際にはみんながその目的を平和的な思想で共有していれば、とてもよい作用があります。一人では上がれないところにみんなで上がることも可能です。日常的でなく「たまに」そういうものがあることが大事なのだな、と。

重ね重ね、今年の夏くらいには地域のお祭りなどが復活していればいいなと思います。




話を密教に戻します。


「密教」というのは、ことの発端は仏教の大乗仏教のあたりから、ヒンドゥー文化の「儀式」というシステムを再採用した流れから形作られてきました。

そのようにして大衆にも「救済」が開かれた仏教を作りながらも、その祭式の神学的な意味や様式の厳密さが異様に高まって、一般大衆には理解が難しい経典や作法がたくさん生まれたこともまた興味深いところです。そのような「新しい仏教」も後のインドでは衰退してしまいますが、その当時の仏教のあり様が中国そして空海らによって日本に伝わり、インドではもうあまり見ることのできないスタイルの「仏教のある時代のエッセンス」を遺産として保存しているここ「日本」という土地もまた貴重に感じます。


ではまたお目にかかりましょう!

2020年12月23日水曜日

EMIRIの『年またぎヨーガ』2020~2021年・年末年始のオンラインヨーガ企画

〜鍛えて年越し、清めて年始〜

EMIRIの『年またぎヨーガ』


年末年始は体を鍛えて心のパワーも高め、清々しく新たな一年をスタートしましょう。

12月29日から1月3日までの6日間、オンラインにて朝のヨーガ、筋トレエクササイズ、そしてヨーガ哲学のお話を毎日お届けします。

 

 

 ヨガスタジオがお休みになる期間のヨーガ練習を確保したい

 一年の終わりと始まりをヨーガ哲学で心を整えたい

 お正月太りを防いで体をいい状態に保ちたい

 どこにもGo toできないから家での楽しみを増やしたい

 この際だから休みの間にナイスバディになってやる

 

そんな多種多様なご希望に、EMIRIがごっそりお応えします。

 

 

<毎朝のレッスン内容>

・筋トレエクササイズ(20分)

 腹筋、腕と背中、下半身、とバランスよく筋肉を刺激するエクササイズ。6日間通じて毎日同じメニューお届けしますので、継続して出席していただければだんだんと鍛えられて成果が現れてくるのを感じていただけます。

 

・ヨーガ(40分)

 体をほぐして十分に伸ばしていく心地よいヨーガ。先に筋トレをして程よく体温を上げ、成長ホルモンなどを分泌させた状態でヨーガの有酸素運動をすると効率よく脂肪が燃えて、柔らかく強い体を作ることができます。

 

 

・ヨーガ哲学のお話(20分)

 日替わりでヨーガ哲学をお届けします。

 

 

・フリートーク(10分・参加は任意)

 お時間が大丈夫な方は少しお話ししましょう!

 

 

<朝の時間に出席できない場合は・・・>

その日のレッスンのアーカイブ動画を当日内(23:59)までご覧いただけます。朝の時間にオンタイムで参加できなかった場合にお使いください。

(オンタイムで参加できた方も含め参加者全員にお送りします。)

アーカイブ動画の閲覧URLはレッスン終了後、当日12:00までにメールにてお送りいたします。

■期間:2020年12月29日(火)〜1月3日(日)までの6日間

午前8:00〜9:30

*レッスン本編は80分、最後のフリートーク10分は任意でご参加ください。

*途中参加可能ですが、レッスンがスタートしてしまいますと講師も一緒に運動を始めますので、画面の操作上で「入室許可」を出すのに少しお待たせしてしまう場合があることをご了承ください。「よくある質問」コーナーもお読みください。

 

 

■受講方法:オンライン

・ご自宅などのヨーガがしやすい環境と、インターネット通信の安定した環境にてご受講ください。

 

・使用アプリケーション:zoom

お申し込み完了後にメールでお送りするzoomミーティングのURLにアクセスしていただきます。あらかじめ、当日お使いになるPCやスマートフォンにzoomのアプリケーションをインストールしていただきます。詳細はお申し込み者様にお送りします。

 

■参加料金:(6日間分のご料金)

2020年12月25日23:59までにお申し込み:5000円

2020年12月27日〜28日18:00まで:5500円

お支払い方法:クレジット決済(paypal)・銀行振込

 

☆ご家族特典

同居のご家族も一緒に参加したい場合は、お一人分1000円の追加料金をあらかじめお支払いいただければご受講して頂けます。

上記は同居されているご家族で、同じ端末画面でのご参加になります。参加人数が増えてもzoomのURLに接続する端末は一台でお願いいたします。

当日対応は出来兼ねますので必ず事前にお申し出ください。

 

 

■お申し込み期間

2020年12月28日18:00まで

  

■期間限定の特典:

2020年12月25日(金)23:59までにお申し込み頂けますと500円割引の5000円にてご受講可能です。


詳細、お申込みはサイトへ


スマホを捨てたい、という衝動について。

雑記コラム

スマホを捨てたい、という衝動について。

最近、スマホをもう持たないでいたいな、と思う時がよくあります。

実際は日々の生活でも仕事でも不可欠なものとして使っているのでいきなりぽいっと捨てたり解約したりということはできないのですが。まずもって連絡ツールとして使っていますのでね。


でも・・・ガラケーとかに戻りたいなあ、とか思います。
いろいろ機能を搭載したスマホが、そこにいるだけで「うるさい」のです(笑)。


20代初めの頃に、一人暮らしをしていた家のテレビが故障して破棄したのをきっかけに、それ以降私は自宅にテレビを所持していません。テレビがないってこんなに静かで、こんなに心が軽いのだなあと思ったものです。実家に帰省した時に当たり前にテレビがついているのに違和感を感じたのですが、それは自分の暮らしではなく親の暮らしの要素なので、文句や意見は言いませんでしたが、やっぱりテレビっていらないな、と思ったわけです。

うっとおしく感じるならテレビがあってもつけなければいいじゃん、見たい時だけつければいいじゃん、と思うかもしれないですが、いいや、そこにテレビという代物があるだけでいろいろ「発している」ものがうるさいのです。電源をつけていなくても、テレビは存在自体が何かを放送しています(笑)。ですので、それ自体がないことが重要なのです。

テレビってヨーガ理論の言葉で言うとすごく「ラジャス(激質)」な物質で、画面をオンしていなくても「ほーら、いつでも待機してまっせ、すぐに電波と情報垂れ流しまっせ」と「言っている」存在に、感じるのです(笑)。この件は、なにも私が神経質なたちだからというわけではないと思っています。というのもヨーガ先生仲間の多くはテレビなしの人が多くて、そしてテレビ自体の箱(筐体)が放っている周波数、テレビのある実家や友達の家などに行った時の感覚など、似たような感覚を持つことが多いのですよね。わかるわかる、と。人の家だからいいけど、自分の空間にはいらないよね、と。それはテレビがなくなって、ない生活に慣れてみないと感じないことかもしれません。


で。最近、スマホにそれを感じます。

見なければいいのですが、そこにあるだけで「放っているもの」や、その「可能性」がうっとおしいのです(笑)

あはははは!

可能性がうっとおしいって!!スマホなんて「可能性」を売っているようなものだよね(爆)!


 もうあなたは山にお帰り・・・

と、ナウシカに言われそう。



そのたくさんの可能性を便利に実現してくれるツールですし、スマートフォンって「その時その場でやれること」が多いのが最大の特徴であり人々に使われている理由でしょう。

でもそれが、私にとっては気を散らすものです。(みんなもそうかな。)

空いた時間や、ちょっとした退屈の時、気晴らしの時などにスマホを開いてオンライン状態になると、そういった「なんでもない思考空間」「余白」と言ってもいいかな・・その中だけで起こってくるアイデアやインスピレーションが、とたんにどっかに行ってしまうんですね。それは私にとってひどく重要なことで、スマホを開いて雑多に時間を紛らわしている時にインド思想について深く考えたりはできない。


他の人との共通性(スマホ持っている同士だとできること)などにこだわったり執着しますと、どんどん自分の「余白的思考空間」が情報ややりとりで埋まってしまうのです。


うーんやっぱり、

あなたは来たところに帰ったほうがいいよ・・

と千尋に言われそう(笑)。


なのでバランス取って、「要件のみに使っていたい」というところに今のところは落ち着いていますが、要件だけでいいならば、スマホではくガラケーでもぜんぜんいけるな、とも思うのですね。とりあえずは、スマホ内からいろいろアプリを削除したここ何日。必要なものだけに整理。



では今日も、スマホの恩恵に預かる1日を過ごします。


ナマステ

EMIRI







 



「人生はままならない」について


もう今年が終わっちゃいますね!!!
驚きの速さ。



今年は、年明けに中国でのコロナウイルス発生による「コロナの不穏」からはじまり、それがあっという間に「自分たちのこと」になり、コロナ以外も他にもいろいろあったはずなのですが、なんにせよコロナコロナだったように思います。


話が冒頭から逸れる感じになるのですが、私「ホラー」って苦手なんです(笑)。非常に苦手で、怖い話、ホラー映画、お化け屋敷や肝試しなど、可能な限り避けます(笑)。夏の稲川淳二とか遭遇したくないです。

(ミステリーは大丈夫です。ミステリーに「怖がらせる装置」としてのホラーが加わると難しい。心理的な描写として人間の怖いところが語られている分にはおもしろく読める(観れる)のですが、「確実に怖がらせるための装置(ホラー要素)」が苦手なのですwww 伝わってます?)



そんな私なんですが、昔、流行った当時の頃ですが、鈴木光司の「リング」の小説を読んでしまったのです。映画の「貞子」ですよ。
うぐうううううう、もう思い出すだけで辛い(笑)。
映画は観てないですし、今後も観ないでしょう。あんなのビジュアルにされたらたまったもんじゃないです。CMとか短い映像だけでもういいです。

映画独自の恐怖装置もすごいとは思いますが、原作は原作でもう!!!
昼間からチビリそうなくらい怖くて、読み終わってもだいぶトラウマになったのですが、でも鈴木光司さんという作家の物語構成力は半端なく緻密で、練りこんだ読み物が好きな私はその巧みな引き込み術にまんまとハマってしまったんですねー。普段はそんなの手をつけないのに、当時(学生でした)アルバイト先の先輩だっかた上司だったかに、

「これすごいおもしろいよ」

と勧められて・・・。


 怖い話は本当に嫌いなんですが、「リング」とその続編「らせん」に関しては展開がおもしろかったです。なんとか最後まで読みましたがもう二度と読みたくないです(笑)、こわすぎ。


で、「リング」「らせん」以降、鈴木光司さんに一時期ハマり、他の作品も読みました。(だい〜〜〜ぶ前の話ですけどね。)ホラーでない作品もあり、それこそ私好みの「輪廻転生」的な発想が主軸のお話もあったように思います。どれもおもしろかった記憶があります。


昔すぎて、なんというタイトルの本か忘れてしまったのですが、いくつか読んだ作品の中で、物語の最後の最後にあった「主人公の言葉」が深く印象に残っているものがあります。


その言葉は

「人生はままならない。」

でした。

話の内容は、たしか二十代くらいの若い男性の主人公が、個性的で魅力的なのだけど非常に依存体質な女性と親密になり、最初はいいのだけどだんだんと彼女の中に潜在していた執着や嫉妬で起こってくるいろいろな不可思議な事象・・・・、そんな感じのお話。(ざっくりだけど、なんかドロドロした感じなのは伝わるかな!笑!)


これも鈴木光司さんのテイストなので、単なる嫉妬とか男と女のサガ的なメロドラマが焦点ではなく、人間の心の中にある(とくに女性の)根源的かつ本能的にねちっこいところの手の届かないようなすご〜〜〜〜い深いところまでシャベルを差し込んで、わざわざ私たちに見えるかたちにして目の前に置かれるような話、という感想が残っています。
(これも怖いじゃん!w)


お話の細部や、最後の顛末などもはっきり思い出せないくせに、なぜか最後の主人公の、

「人生はままならない。」

という言葉だけ、とにかく強く印象に残っています。

言葉自体の印象というものではなく、そこまでの物語の内容をすべて「まとめた」視点として、その言葉が物語全体の風景になっている、そんな印象なのです。

いわゆるホッとして安心するような終わり方ではなかった気がするし、かといって極端に悲劇的で後味の悪い終わりでもなかったように思うのですが、「いろいろなことがなんとか収まって、一息つけたとき」に、その上でもなお感じるものが、


「人生はままならない。」


そこにに集約されちゃった。

という感じです。




ここまで書くと「なんて本ですか?」と聞かれそうですが、思い出せません(笑)。




そう、それでやっぱり「人生はままならない」わけですよ(爆)!

そこが話したかったのですが、さかのぼりすぎて「リング」からになってしまいました。いつだって前説の長い私。


当時私は、たしかハタチかそこらで、「人生のままならなさ」など本当の意味ではわかっていなかったのですが、それでもその当時なりの、若いからこその心の葛藤はあったし、知性が及ぶ範囲なども狭かったのですがその中でも「生きるってなんだろう」というような問いかけをもってたように思います。(持っていたと信じたい、ガキだったけど。)



やっと話が冒頭の冒頭に戻るのですが、今年はコロナコロナで、コロナウイルスがどうというよりも、どうやって生きていくべきなのだろう、今後」というテーマが、多くの人たちの心にのしかかっているのではないかと思います。「のしかかっている」と言うと重いのですが、実際そうだと思うのですね。


前回、映画「嫌われ松子の一生」という映画の感想や考察で(ブログで読めます)、孤独についていろいろ思うところをつらつらと書かせていただきましたが、「社会」とか「世界」というものに対する拠り所のなさ」というような気配が、個人的な孤独感や孤立感を高めているようにも思います。


もちろん、新しい生き方を前向きに模索するムーブメントも確かに起こっていますし、ライフスタイルを変えるいいきっかけになった、という人もたくさんいると思います。


しかし社会全体で見ると、前向きな発想を持てる人ばかりではなく、本当に心が辛くなってしまっている人も大勢いると思います。
前向きな人であっても、「楽観」しているから前向きという感じではなく、「人生のままならなさ」を抱えたそのうえで、目線をあげようと努力している人が多いのだと思います。


たしかに、人生はままならないのですよね。
なんの保証もない、と言っても言い過ぎではないと思います。


そうなると、物理的な生活手段とか経済に関することだけではなく、心をどうやって明るい方へ、そして健康なほうへと導きながら進んでいくか、というのを、じっくり考える必要がありますね。


今までもそういったテーマについて考えて来た人は多いと思うのですが、コロナショックとでも言いますか、今回の件でもうちょっと土台から考えないと、太刀打ちできないものを見てしまった」感があると思います。


つまり、

「私たちの社会は脆い」

という大前提のうえに生きてるんだ・・・という、一種喪失感にも似たような不安定要素。


これまでもいろいろとブーム的にもあった「ハッピーに生きるコツ」とか、自己啓発的なもの、それらが無駄とは言いませんし、自分が頑張れば成功や幸福を手にできるという発想、ポジティヴシンキングや心の持ちようによって幸福度はあがるという発想も、無効になったわけではないですが(あったほうがいいですが)、でも、自分だけがんばっても立ち行かないものであったり、日々の心持ちで気分を明るい方に向けることで短期的には乗り越えられても、払拭しきれない「全体の雰囲気」や社会構造、時代の波というものがあると思います。


かなり悲観的な言い方になりますが、脆い基盤の上に、窮屈に立っているのが今の私たちのように思います。


このような世界で生きていく上で、心の健康を失わずにいるには・・・




とりあえずですが、無理をしないことかな、と思います。

とりあえずな事しか言えなくてすいません(笑)。

(その先の提案はまた書きます。)



あまり無理をしないほうがいいと思います。


そして苦しい、悲しい、不安、そういった思いがもしあるなら、助けを求めることも重要だと思います。恥ずかしいことじゃないし、そうしたほうがいいと思います。

つらい、不安だよ、ちょっと助けてほしい。
そう言っていいと思います。




いきなり社会を変えることは難しいので、「とりあえず」まず自分を少し楽にしてあげるのがいいと思います。


楽になるうえで、それを阻むのは、これまでの固定観念だと思います。


止まっちゃいけない、休んじゃいけないとか、役割への固執とか、完璧にやらないといけないとか、みんな出来ているのだから私もできないと・・・、とか。

またはそれを他者(主に家族や近しい人かなと思いますが)に対しても適用させようとするのを、いったん辞めてみるという策はありだと思います。



そんなこと言ったらずっと仕事行かないわ・・・w

とか、

子供は学校行かなくなるよね・・・

とか、いろいろ出てくると思うのですが、


自分が思っている以上に、みんなけっこう葛藤し、社会の不安定さを無意識に吸い込んで、明るく振舞っているように見える人や健康に問題のなさそうな人でも、世間の神経質な空気を吸い込んでちょっと弱っている人が多い、ということを認めてみるといいのではないかなと思います。


自分に、そして他人に、優しくなる、ということかなと。

無理しないで、無理させないで。


「みんながみんなに優しくなれば社会はよくなるよね」なんて楽観的に言うつもりはなく、むしろみんなが優しくなったところにつけ込んでくるような悪意があるこの社会の闇は深いのですが(笑えない)、でもまずは自分を少し解放させて、これまでの観念から自由にして、もう一度エネルギーをチャージして歩み出すのがいいのではないかなって。




そんな事を考えて、伝えたいなと思いながら過ごしている日々、私はよく自分自身の祖父や祖母のこと、祖父祖母の世代を思ってしまいます。
戦争体験のある彼らを救ったものはなんだろう、とか、今の社会現象どころじゃない、もっともっと壮絶で地獄とも言える悲惨な世界を体験して生き延びた彼らは、この人生のままならなさをどう生き抜いたのだろうと。

それについてはまた思うところを書こうと思います。



とりあえず、無理せずに!

具体的な「無理」をひとつ手放して。


ナマステ
EMIRI






 

2020年10月18日日曜日

嫌われ松子からの考察ー孤独について考える・その3


「嫌われ松子の一生」を観て



その3 光を頼りに生きよう



私の感想としては・・


映画なのでシリアスなテーマも極端にそしてコミカルに描かれていますが、「孤独」は人の心にとってとても「怖い」ものだと思います。



このままずっと一人でいるより、

どうしょうもない人でも誰かいるほうがいい・・・

 

松子がそう思ったように、孤独をかりそめの幸福で埋めようとします。

それすら埋められないと自暴自棄への道筋ができ、そしてコミュニケーションの不足は人間の感受性を暗く狭いところに閉じ込めていくのだろうと思います。

 

孤独を怖れる心理というのは、原始の時代から人と人が共存して自分の命を守るという本能レベルでの意識が根本だと思うので、ほとんどすべての人が持っているものだと思います。ヨーガ・スートラ第二章にも「アヴィニヴェーシャ」という言葉で「死への恐怖(=生への執着)」として出て来ます。これは賢人ですら持っているものだ、という経文とともに。


孤独感というのは、元気がある時はまだそれを埋めてくれるものを得ようとする「欲望」として作動するのですが、その願いが打ちのめされて元気がなくなるところに行ってしまうと、心の機能自体を閉じていくのだなと思います。自暴自棄になっているうちはまだ元気で、そこから何者とも関わらない、興味を持たないように心を閉じ、そして鬱になったりしていくのだと思います。(そういう意味では松子は最後まで「内海クン」への熱烈な執着があったので、ある意味元気だったのだと思います。)




昨今、「自殺」の多さに、言葉にならない思いを抱くことが多いのですが、自殺というものが「本人の選択」だと言われている側面に、私は少し疑問を感じます。

 

自殺というのは、心の機能が閉じていく段階で起こるある種の「症状」であることの方が多いのではないかと思っています。

「自殺するぞ」

と明確な決心で「選ぶ」というのは、実際には少ないのではないかと。

三島由紀夫や乃木希典のようにはっきりとした意志を持って自決するというのは稀で、彼らの場合は心というものが最後まで自覚的な強さを持ち、意志と意思を持って自決しましたが、しかし心を病んでしまいその行動に赴いてしまった多くの自殺者は、意識的に「選ぶ」というよりも、心が「その段階」に入ってしまって、毎朝普通に出かけて電車に乗ったり、慣れている仕事をこなしたり、毎日行なっている家事をしている時の手順のような、いわば何もあらがっていないオートマティックさで「死ぬ」動作に入ってしまうのではないかと。いつものように階段を登って二階に上がって、なんの遺書もメッセージも残さずに自殺してしまった女優さんのように。(本当のところはどうだったのか知りえませんが・・・)

 

彼女、彼らが、なんで死んでしまったのかはもうわかりようがなく、どんなに推測してもそこに返答は得られません。

書いていると非常に悲しい気持ちになってきますし、面白い映画のレビューのつもりが最後この話になってしまい暗い気持ちにさせてしまっていたら本当に申し訳ないですが。


何が言いたかったかをまとめると、「心に侵食しているもの」に気をつけて、ということです。映画の松子は「ひとりぼっち」がいやでした。(松子は自殺はしていませんが)。自分で何かを選ぶよりも、心を侵食しているものが人生を方向づけてしまうことが多いものです。それを「選択」だと思うのは自我の錯覚で、“私が(あなたが)それを選んだのでしょう?”と言えないところがあります。

 

子供と接していても思うのですが、まだ心が柔らかく、周囲の雰囲気を自分の考えだと思ってしまいやすい子供は、ネット上で得られる社会の雰囲気や流行している考え方、大人たちに与えられた言葉に心を侵食されるのが簡単です。まだ自分の意思を持ちきれていない子供には、やはり真実とともに「明るさ」や「希望」を示して、そっちの雰囲気が大きい状態に舵取りをしてあげないと、ゴミみたいな情報から得るどうしょうもない思考、負の雰囲気、過剰で雑多な他人の思いに飲み込まれてしまいます。大人も、きっとそう変わらないですよね。


いつも思うのですが、正気を保って普通に生きていくということは、本当は大変なことで、その正気を保っていられるのは「幸運」とも言えるくらいな世の中だと思います。


何かあらがえないほどの雰囲気が心に侵食し、そして活動することや、生き永らえることの魅力よりも「その雰囲気」のほうが優勢になってしまうと、思考して選ぶ心の機能も閉じてしまい、「動作」がごく自然に「死」のほうへ赴いてしまう。「死」まで行かなかったとしても心の闇の方に行ってしまいます。自分で選ぶというよりも、そういう流れの方が多いのではないかと思います。


ちょっと話がずれましたね、かなり深刻な問題のほうへ。
戻します。




松子は最後の最後で、「社会的な自分」への小さな光を取り戻します。

わたし、まだいけるかも、と。

そこからの映画の終わり方はさすがに書かないでおきますが(ネット見れば一発ですがw)、生きることというのはつまり、光を頼りにすることなのではないかと思います。

この映画の「松子」は、愛せる人、自分をわかってくれる人を求めて最後まで生きました。そして自死もしていません。とても不器用で不運な人生なのですが、彼女自体はずっと輝いていたように思います。かりそめの愛でも誰かを信じたい、全身で信じる、というのは非常にパワーのいることです。最後の最後でもう一度自分の可能性に心が開いたのも、そのパワフルさゆえなのだと思います。

物語のプロセスにおいては、「あ〜あ〜、まつこ・・・」と思うところが多いのですが、しかし結局鑑賞後に残った感覚は、散々な人生を送った松子の物語にもかかわらず、けっこうスガスガしい風景でしたね。
もちろん別の感想もあると思いますし、ラストに落ち込んでしまったり、いたたまれない気持ちになったりする人も多いと思いますが、個人的には希望的に見届けられるものでした。

それはやっぱり、松子が最後に見た「自分という光」のおかげのような気がします。

以上、「嫌われ松子の一生」を観てのいろいろでした。

映画が好きなので、また映画からの考察を書きたいと思っています。
長文お付き合いありがとうございました。

 

光を頼りに生きよう!


2020年10月17日土曜日

嫌われ松子からの考察ー孤独について考える・その2

「嫌われ松子の一生」を観て

その2 生き物としての孤独

前回の投稿で映画「嫌われ松子の一生」から、だいたいのあらすじと、映画のひとつの観点である「孤独」についての考察を途中まで送りました。



「社会的な孤独」と、「生き物的な孤独」についての続きです。


人間には、社会に属しているというタイプの安心感があるのですが、もっと根源的で本能的な感覚で、「生き物」としての安心感というものがあるのだろう、と。

松子の感じた「ひとりぼっち感」は、生き物的、本能的な孤独が大きかったのではないかと思うのですね。

「生き物」といっても生物全般ではなくで、昆虫などの生き物はまた別の感覚で生きている生物として、主に人間や動物などに共通するところで話しています。


それを満たしてくれるものがなんなのか、というと、もう一言に「肌感」だと思うのです。身体に触れ合っていることで満たされる“生きている”実感”。結局、社会的な安心以上に、こっちの方が「生き物」としての孤独を癒してくれます。社会的孤独は感じていなくても生き物的な孤独を感じている人というのは多いのではないでしょうか。または、社会的な孤独を埋めるために生き物的孤独を満たしてくれる関係に依存してしまうことも多いと思います。松子の場合は人生これからという時に社会的に「まっとうな道」を外れてしまったこともあり、それ以降は生き物的孤独を埋める道に没頭してしまいます。ダブルですね。

 

松子の一生を観て、共感でも否定でもないなにか、言葉にならない「そうだよね・・」という思いがじわじわと湧いてきたのは、松子が終始この「生き物としての孤独」を埋めようとして「誰か」を求めていたという姿だと思いました。行くところまで行って「もう死のう」と思っていたにもかかわらず、声をかけてくれた通りすがりの優しい男性とすぐに関係を持って「これだ」と感じてしまう。松子は「人肌」から得られる生き物としての安心に常に引っ張られていたのだなあ〜と。

 

そして松子の特徴的な姿は、まだよく知り合ってもいない男性に自分のこれまでの身の上話を長々と詳細に話してしまうところ。知ってもらうことで満たされるという条件も松子には非常に重要で、人生の終盤、最終的に社会的孤独を選び、飲んで食って寝てゴミ屋敷に暮らしても、最後の最後まで「(誰かに)私のことを知ってもらう」ということに執着し続けます。最後その矛先が「光GENJI」にまで抽象化されるという(笑!!!)。ここでもまた、共感でも否定でもない「なにか」に胸がいっぱいになりました(笑)。

(しかも光GENJIの「内海光司」に設定したあたり、原作か脚本かわかりませんが、すばらしいセンスを感じます。他のメンバーじゃだめですよ、内海光司が最適な人選です。って、私より年下の方はこの話題わからないですねwww とにかく内海光司にしかない「松子が夢中になる要素」があるように思ってしまった私は、まんまと演出にハマってますねw)

 

松子はラスト、内海クンに自分の生い立ちを詳細にしたためた長い長い長い!ファンレターを書き、投函します。しかし返事は来ません。来ないことにまた憤慨し、発狂します。

 

「リアクション」があることが大事。


松子は、社会的にも、人間らしい人生という意味でも行けるところまで堕ちますが、それでも「誰かと関わりたい」と思っている。観ている側はその心理にもう腹パンチ的な「いたたまれなさ」を味わうのですが、この映画はそのあたりを全てコミカルに描いていて、他の登場人物の視点などで「明るさ」「希望」「なぐさめ」もちゃんと与えてくれているので、そこまで悲痛な気持ちにはさせない映画なのですが、それでも後からじわじわ来ます、

松子・・・・・

と(笑)。



続きはまた明日・・・(まだあるのですw)