ラップトップを持ってカフェに行って仕事をすることがあります。
今いるカフェは広くて、駅からちょっと離れてるのでいつも比較的すいてて、小さいお子さんつれて一休みしている母子もちらほら。
斜め前に2歳半か3歳くらいの女の子がいます。
背中が小さくてなんともかわいい。
あんな小さい体の中に、必要な臓器とか機能とか、ハートも全部はいってるんだなと、なんだかすごく感心してしまった。
そして自分の子どもが大きくなったことに、改めて「すげえ!」と思う(笑)
目の前にいる女の子くらいのサイズだったのに、今はもう130cmくらい。
それだけ中身の臓器も大きくなり、安定し、機能性も育ったわけです。
すごいねーーー生き物って。
高齢の老人を観ると「未来」を感じて清々しいです。
これはすっごく不謹慎なことに聴こえるかもしれなし、気を悪くされないでほしいのですが、
ああもうすぐ、その体の制限から旅立つんだな。
その時はすごく気持ちがいいよ。
その体を担当する期限がまっとうされるね。
その時はすごく気持ちがいいよ。
と。
もちろん高齢になってもまだまだ元気で何年も生きる人もたくさん。
「あと何年」とか「死期が近い」とかそういうことを「観てる」んじゃなくて、
高齢の人というのはその人がその肉体で体験してきた様々な軌跡がだんだんと透き通っていき、身体の衰退とは関係ない美しさが中から光ってくるのです。
私の祖母がなくなった時、私はその時その場で見とれなかったのですが、翌日帰省して祖母の亡くなった部屋に入ったら、もう誰もいない部屋が光でいっぱいだった。光りまくってた。
その何年も後だけど、その部屋で私は娘を自宅出産した。
その時も生まれたて赤ちゃんがいる日々は、夜中すべての照明を消しても部屋の中が光ってた。
産んで数日後のある時、授乳以外のタイミングでハッと起きた時があった。
そしたらもう、横にいる赤ちゃんが光りすぎてて、
しかも昼間はまだそんなに目が開いてなかったのに、その時は目をあけてこっち見てた。
「すごいもの産んでしまった!!」と思ったのを今でも覚えている(笑)
祖母の死と娘の出産で、生まれるのと死ぬのは、本当はまったく同じことだと気づいた。
いらっしゃい、ちいさいこたち。
ありがとう、これまで生きたひとたち。
赤ちゃんでも青年でも中年でも老人でも、
人はいつもただの光。
すごく大きなただの光でしかない。
それが真実だと思うのです。