EMIRI MOROKA -HEART MATRIX-

師岡絵美里のブログです♪


2019年3月23日土曜日

娘と語るブッダの教え 「ダイバダッタのお話編」


娘と語るブッダの教え
「ダイバダッタのお話編」


うちのブッダ


娘(11歳)に、お話をせがむことがあります(笑)。

ブッダのエピソードに詳しい娘に、

「ねえ、ダイバダッタ(提婆達多)の話が聴きたい。」

というと、喜んで話してくれます。

(「あとでいい?」と言われることもあります、爆)


ダイバダッタはブッダの弟子でありながら、ブッダへの昔からの嫉妬や憎悪を払拭しきれず、ブッダを殺そうと図った人物です。


当時繁栄した王国であったマガダ国のアジャセ王子と友達になったダイバダッタは、恨めしいブッダをやり込める策として、アジャセ王子を味方につけ、精神的に支配し、王子にその父であるビンビシャラ王を殺させよう、と図りました。

自分と近しいアジャセ王子を王様にすれば、最強のマガダ国をバックにつけた教団を作ってブッダを越えることができるではないかわっはっは、と。

ダイバダッタに乗せられたアジャセ王子は父を幽閉して殺してしまいました。



同時にダイバダッタはブッダを殺そうとします。

上から巨大な石を落として事故死と見せかけようとしたり、酒に酔わせた象をブッダに向かわせたり、ブッダの弟子たちを仲間割れさせようとしたり・・・いろいろします。

でもブッダは、ダイバダッタのいろんな策略にはまらず、むしろいつも通り人々を真理へと導き、そのうちに、かのアジャセやその母親もブッダに帰依しちゃいます。

絶大な後ろ盾も失ったダイバダッタにはもう自爆的な行為しか行えず、自ら仕組んだ毒薬が自分に回ってしまい、壮絶な死を遂げます。



とのことを、娘の、時々脱線するところや(サブキャラの話をもっとしたくなったり)、時系列が前後したり、主語がなくて誰のことを言っているのかわからなくなる部分などに「補助輪っか」をつけるようにサポートしながら、物語を話してもらいます。

これってすごくおもしろくて、娘の中でもその物語がどんどん生きてくるのがわかります。知っているだけではなく、誰かに話すってすごいことですね。


「それで、ダイバダッタの話からわかることってなんじゃろね。」

と最後に聞いてみたら、娘は言いました。



「嫉妬と憎しみは自分を殺す、ってことじゃない。」


と。

「ブッダは、嫉妬や憎しみで体を動かすと、それがいつか自分に帰ってくる、ってダイバダッタに言ったね。」

と娘。


「体を動かすと」というのは、それを動機に行動をすると、ということですね。

また、

「あなたが本当に争っていたのは私(ブッダ)ではなく、自分自身です、って言っていたね。それってさ、ドゥルヨーダナと同じだね。」


と。(ドゥルヨーダナについては、前の記事をご覧ください。インドのマハーバーラタの登場人物です。)

とのこと。





・・・・。



深いですねーーーーーー(笑)。



自分で仕掛けた毒が自分を殺した。


このことも、内面で起こったことを表しているように思います。



「相手の不幸を望む」という感情の毒が、自分に返ってくるという法則を物語っています。




ダイバダッタのことを他人事と思わずに、自分のこととして考えよ、というのが仏教としての教えでしょうね。

そんな恨みや妬みは私にはないわ、ではなく、ダイバダッタは全ての人の中にある最も低い煩悩を表現している。


こういったエピソードの中の誰かを「悪者」にして誰かを「正義」とするのではなく、自分を振り返る鏡とするのが学びですね。

だってブッダのような人であっても、そんなにも恨まれ憎しみを向けられるわけです。

自分でいいと思う道を歩んでいても、勘違いされ、理解されず、嫌われることがあります。

そんな時ブッダは「どうしていたか」。

いつも通り、真理を説いていました。

いつも通り。



自分のことを嫌う人や悪く思う人がいたとしても、その人を説得することはできないことがほとんどです。

特に相手が、自分の思いを正当化している時は、相容れられるスペースがありません。

だから、しかたない。
しかたないはいわゆる諦めではなく、スペースのないところに無理には入れないという物理的なことです

これも自分に振り返ると、自分が自分を正当化していると、誰も入ってこれなくなるんだな、ということを学ぶ機会ですね。


ダイバダッタのように自分を嫌う人がいても、せめてこちらは、ブッダのようにスペースを開いて、いつも通りで。


そんな感じだと思います。



娘が繰り広げる哲学的なエピソードをメルマガやブログなどに載せるととても人気で(笑)。実際に会える範囲にいる読者さんから、もっと聞きたいと言ってもらえます。
わかりますよ〜(笑)
ティーンの純粋な洞察ってのはすごいものがあり、大人に近づいた解析力と、大人よりもフィルターなく物事を捉える目線が、絶妙なんですよね。
小学生のうちにたくさん聞いておこうと思います。
中学入ったら、思春期になったら・・、また別のフェーズに行ってしまうのがわかるので(笑)。



追記:
ちなみに、私はヨーガ哲学と仏教思想は切り離して学ぶようにしてます。
近いところもあるけど、バラモン教(そしてのちのヒンドゥー教)と仏教の決定的な違いを知ることで、双方の言っていることや目的を客観的に理解しようと勤めています。(信仰心に関してはもっと主体的な経験から双方のそれぞれに心を開いています。)
ヨーガ哲学と仏教思想は、混ぜて勉強すると「合致が行かないところ」で疑問と不要な苦悩が起こると思います。ので、入門者の皆さんは特にお気をつけください。ある程度学びが進むと、それぞれを合わせて考えられるようになりますので、そこまでは分けて学ぶのがいいと思います。
娘もその辺は理解できるようになってきて、ヴェーダの内容の時代的必然要素における変遷と、ブッダ個人の考え、そしてのちの仏教繁栄の背景をいつも分けて教えるようにしています。
そんな話もまた。


最後まで読んでくださりありがとうございます。
Namaste
EMIRI

2019年3月17日日曜日

娘との対話「比較することで起こる自己認識の不幸」について



こんにちは、エミリです。
今日はちょっと、娘との対話を書こうと思います。
私の毎日は、彼女とのヨーガ的対話に支えられています。


11歳の娘と、毎日ヨーガ哲学で、いろんな話をします。ほぼ毎日。

最近はヨーガ哲学の基本中の基本である「グナ*」についてを彼女はわかりたいようで、「自分のことを自慢する男子」についてお題を投げてきた(笑)。
なかなか小学生らしいお題でかわいいのですが、うちの食卓ではそれが哲学の議題になります(笑)。




*グナ:物理的次元での諸現象の「性質」のこと。
諸現象を作り出す「プラーナ(生命気)」の各性質のことを「グナ」と言います。




小学生男子で多いのは、「俺お前よりも頭いいもん」、「俺の方が塾行ってるし〜」、「俺のほうが〜〜できるし」「俺の方が持ってる」という会話が多く、言い合いになっている、と(笑)。

 「これは、なにグナになる?」と。

うふふふ(笑)


そういう自慢や虚勢張り合いの言い合いばっかりだと、だんだんとケンカになるのに、なんでそういうことを言いたいのか、そればっかりになるのか、と。
それはどんなグナなのか、と聞いてきた。


と、まあ(笑)、

グナうんぬんの前に、子供のうちはそれもコミュニケーションのひとつなんだろうというのがあるけど、でもお題に上がってしまったのでそれでヨーガ哲学を話すことになるのです(笑)。


子供大人関係なく、そういう「人と比べる」意識や態度の底にあるもの、それは何か考えてみよう、と。

「オレはおまえよりすごい!って思いたい、 ”欲望”?」と娘。

そうだね、まあ欲望かもだけど、欲望で一括りにする前にもう少し具体的に見てみるといいかも ね、と私。


競争意識とかプライド意識とか、色々言い方はあるけど、なぜそういう意識を持つのかを考えてみよう、と。


娘は、「勝ちたいっていう気持ちかな。勝つと嬉しい。それはラジャス*なのかな。」


*ラジャス:グナのひとつ。「刺激の質」で、それが増大すると自我が強まり、感情としては怒りなどの荒ぶる心になる



私:「行きすぎるとラジャスだよね。ラジャスが強まるとどうなるか覚えてる?」

娘:「怒ったりする。憎しみになったり、争いになる。」

私:「そういうことが多いね。 男子はそれで怒ったりしてる?」

娘:「そんなこともない。言い合ってるだけな感じ(笑)。そのあとまた遊んでるし(笑)。」

私:「じゃあまだお互いに戯れてるだけなんだよ。そのやりとりをある意味楽しんでいるのかも。子供のうちはそういう関わり方もコミュニケーションなのかもしれない。

でもそれが大人になってもずっとそういう関わり方ばかりだったら、どんな感じになると思う?

・・・よく知っている「人物」で見てみるといいと思うよ。マハーバーラタ*だと、究極的な人がいるよね。」


*マハーバーラタ:古代インドの物語、ヒンドゥー教の聖典「バガヴァッドギーター」を含む大叙事詩。娘の愛読書。



娘:「”欲しい”と”勝ちたい”ばっかりの人は、ドゥルヨーダナ*だよね。」


*ドゥルヨーダナ:マハーバーラタの登場人物。虚栄心、嫉妬、憎しみを体現する。


私:「そうだね、ドゥルヨーダナは最後どうなった? 人生通じて彼は幸せそうだった?」

娘:「怒りとか憎しみばっかりだった。・・・安心した時が一度もない。

最後、一人になって死んだ。」



憎しみと権力欲に支配されたドゥルヨーダナがイカサマ賭博で宿敵パーンドゥ兄弟をおとしいれようとする。
賭けで奪ったドラウパディ妃(パーンドゥ兄弟の妃)が連行され、ドゥルヨーダナの弟により衣服を剥がされそうになるが、ドラウパディの渾身の祈りによってクリシュナ神が現れその聖なる力で「剥いでも剥いでも剥がされない衣」を与えて守護する。マハーバーラタのテーマである「ダルマ・アダルマ」を象徴する超重要シーンのひとつ。(画像wikipediaより) 



私:「そうだね。ドゥルヨーダナはさ、憎しみの対象である人を負かして、自分が勝つことで “何を得たかったのか” わかる?」


娘:「“自分は強い”って思いたい。それと、”嫌いな人が幸せにならないこと” が欲しい。」

私:「そうだね。

”自分は強い”って方さ、自分だけで思うことはできないのかな。相手がいなくても、自分は強いのだって思えないかな。そしたら打ち負かす敵を持つ必要なさそうじゃない?

あと、“嫌いな人が不幸にならないと自分は満足できない”ってのも、わかりやすいアヴィドゥヤ*だよね。

自分のことを嫌いな人とか相性が合わない人でも、仮に敵でもさ、その人の幸福を願うことはできるはずじゃんね。

実際にさ、マハーバーラタの賢者たちは、敵であっても”祝福”の言葉を送りあってるよね。彼らにとって言った言葉は真実だから、思ってないなら言わないし。だから、できるんだよ、好き嫌いとは別の話にできるはず。」


*アヴィドゥヤ:真理から離れた心のあり方。無知。


娘:「誰かを負かさないと、自分は強いとか幸せとか思えないんだね。」



私:「そう。そこだね。だからさ、相手と自分を比べたり負かしたりしないと、自分がわからないってこと、だよね。

そういうののことを、マハーバーラタでは「盲目」っていうキーワードに例えているよね。目は見えていても盲目、って。人と比べないと自分が見えないの。」



娘:「・・・・・うーーん。 人と比べなくても、いちいち勝ったりしなくても、自分は見いだせるよね。」



私:「お、そう思えそう? (いちいち勝ったり、って表現がいいねwww)
うん。じゃあ人と比べなくても自分を見いだせるってのはどういう状態で可能になると思う?」


娘:「うーーん。寝る前とか、瞑想してるときに、心が静寂になると、自分のしたこととか言ったことが見えてくるから、それで自分ってこういう人ってわかる。」


私:「それもいいね。
じゃあさ、さっきの男子の話だとさ、言い合っている対象の「お友達」を、自分のことすごいって思うために ”使ってる” じゃんね。そこわかる?」


娘:「うん」


私:「じゃあ。寝る前とか瞑想の時に出てくるそれでいうと、「記憶」とか「思い出」を「自分」を知るために使ってるよね。

「何か」を使っているということには変わらない。自己認識の対象が「友達の反応」から「自分の記憶」に変わっただけと捉えるとどう? 

それも使わないとしたら?」


娘:「うーーん、そうすると、頭が真っ白で静かになるから・・・・

ひたすら行動するかな。




私:「お〜〜〜(笑)

そうきたね!すごくいいね!行為のヨーガ*だ!

*「行為のヨーガ」:バガヴァッドギーターで提唱される「無私の行い」としてのヨーガ、またはヨーガスートラで提唱される実践のヨーガ。


じゃあ、「何か」に頼らずに自分を知る、については?」


娘:「・・・そしたら、アートマン*について、考えてみる、かなあ。」

*アートマン:真の自己、神と等しい自己、魂


私:「いいね〜〜〜!(笑)

でもさ、アートマンは考えてもわからないところもあるじゃん。もちろん考えることは大事だけど。その場合は?」


娘:「アートマンをわかっている人を真似してみる。」


私:「素晴らしい!!!!(笑) 

ウパース*狙いですね! グルは偉大だね!」



娘:「ウパースってなに?(笑)」

*ウパース:同値する。ヨーガ的な意味だと、すでに悟ったグルの波動を、その側にいることでまとわせてもらい体得すること。







と、この会話は先週のもの。
こんな会話が、我が家では夕飯の時や娘の就寝前によく話されています。
なんて偏った家庭なんでしょう(爆)!
・・大丈夫です、普通の小学校に通うことでバランス取れてますし、子供らしい欲も幼さもたくさんありますので(笑)。


ヨーガ哲学を学び、知ることの大きなギフトの一つは、宇宙の摂理や真理を、日常の普通のことにトレースして見つめ直していけることです。

娘は私が自宅でヨーガ哲学のスカイプ講義をしている間、聞いていることが多く、また古代のインドの物語を好む読書好きが功を奏して、心の基礎が聖典の文言になってきています。グルや聖人の残した例え話を自分の体験に投影することで、自分の現実を理解しようと自然としています。そして彼女は、それを「楽しいこと」と言います。そう、楽しいんですよ、ヨーガ哲学は。


真理を学ぶことや考えることって、人間の行為の中でも素晴らしく幸福なことで、それは喜びなんだと思います。娘はそういう話をするとき、いつも嬉しそうに、ワクワクした顔で話します。

特に自分の日常の学校での出来事を、私がヨーガの教えで解釈する話が好きで、キリのいいところでやめないと延々聞きたがります。いっぺんに知ったことはすぐに忘れるから今日はここまでにしよう、といつも終わらせると、「楽しかった♪」と言います。


私たちはみんな「本当の自分」を知ることに魂的なニーズを感じています。それを教えてくれるのがヨーガで、面白くないわけがない。娘を見ていると本当にそう感じます。


だからみな、生徒さんも、聖典を読んだりするのは難しいと思いながらも、それでも「知りたい」という気持ちでヨーガ哲学に向かいます。そういう個々の魂のニーズを、私は心から礼拝します。

「悟り」とか「解脱」とか、そういうの目指してなくたっていいんですよ(笑)

「本当の自分について」をよく知ることができるという、それだけで、生きることの心の自由度があがります。

ナマステ


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最後まで読んでくださりありがとうございます!

Namaste
EMIRI






2019年3月7日木曜日

執着とカルマ


ヨーガでは、執着から離れることを重要視します。

重要というよりも、必要と言ったほうがいいかもしれないです。

なぜ執着はよくないのか、という素朴な疑問のところこお答えすると、執着は苦しみの原因になるためです。

執着があると、その対象(物とか状況とか)を得られない場合は苦しみを生み、また執着したものを得てしまってもそれを失うことへの恐れや苦しみを持つことになります。

また執着は「物の見方(感じ方)」を偏らせてしまう原因になり、それによって悲しまなくていいことを悲しんだり、怒らなくていいことに怒ったり、苦しまなくていいことに悩んでしまいます。

物の見方や感じ方の偏りは、誰しもあるものですが、執着の強さや多さがその偏りを過度なものにすると、物事をありのままに見ることができなくなり、結果自分が悩んだり苦しんだりすることになります。

こういった事が、ヨーガにとってなぜ「障害」となるかの、それは「人生の仕事」を停滞させるからになります。

ここで言う「人生の仕事」とは、カルマの浄化です。

カルマとは過去(今回の人生だけじゃなく別の生も含む)に、自分が自由意志で行なった「行為」をさします。「自由意志」をどのように使ったかがそのカルマの質になりますね。


人の人生はカルマの浄化の場と考えられ、人にはそれぞれに、過去のどこかしらで自分がした行為の果実を受け取り、それを受け入れ、より清浄なものへと昇華させて終えていくという仕事があります。

運命論的に聞こえるかもしれないですが、先ほども述べたように、自分の自由意志で行為したものの結果なので、決定しているのはすでに為したカルマの質だけであって、それを受け取って「どうするか」は今生きている自分自身に委ねられています。

ですので現在の自分が、受け取ったものをどう扱うかというところに人生の意義が生まれたり、その人なりの心の徳性が問われるわけですね。

そしてそれは体を持って生きている間にしかできない仕事なので、やはり生きている間にそのことに気づいて、自分自身の行為から生まれた果実を浄化していく必要があると考えます。

執着に話をつなげると、「執着」から起こる心の苦しみに時間とエネルギーを注いでいると、この「カルマの受け取り」が遅くなるという停滞が起こります。

カルマはもうそこにあるので、あとは準備が整ったカルマが人生に姿を表せばいいのですが、私たちが何かに執着して苦しんだり力んだりしていると、準備のできたカルマが現れる事ができずに時間だけが経過します。

その間にも人は行為をするので新たなカルマを作り続け、どんどん浄化待ちのカルマが溜まっていく、というわけです。

カルマの浄化という人生における仕事をほったらかして、何か局所的な事柄(感情)に執着していると、人生の必要な「流れ」は停滞していきます。

流れのない水が淀むように、人生にも必要な動きがなくなると淀みが生まれます。
そして淀みは心に反映されて、不満や、生きにくさ、晴れない心を作っていくことになります。


こんな感じに、執着は色々なレベルで「停滞」を起こします。

もし何か一つでいいので、こだわって硬くなった欲を捨てる事ができれば、それはすごく小さな事であったとしても何かしらの「流れ」を起こし、自分自身の浄化の助けになります。

カルマとか言われると、何か罪滅ぼし的な印象がイメージとしてある人もいるかもしれないですが、カルマにもあらゆる質があり、純粋な喜びや何か素晴らしいことを反映したカルマだってあり、何かに執着して人生を堰き止めていると、喜ばしいカルマや素敵な事すらも堰き止めてしまいます。

もったいないとかそう言う次元でもないのですが、でも、もったいないですよね(笑)
幸福を経験する事も人生の大事な仕事。

自分から苦しむ必要はないし、苦しみの責任を何か(誰か)に転嫁しているその執着を捨てれば、人生は光の場になると思います。

喜びも幸福も、要はそれに執着しなければ、それも一つの浄化になりますね。


執着を捨てると時間が流れだす。
人生に動きがもたらされる。

これは、自分の経験上もすごく感じる事で、現状を受け入れる事であったり、なんとなくあてにしていたものを切ってみたり、変えないとなあと思っていたことを腰を上げて変えてみたり、または「変えたい」というこだわりさえも手放してみたりなど、その時々のケースは色々なんですが、不要なこだわりや欲を捨てると、何かが動き出して、何かが解ります。

そうやってひとつひとつ気づいていく事もまたヨーガの道のりであり、無知であった自分や、今もまだ途中でしかない自分に気づきながら、歩いていくのだと感じます。

この「カルマ」うんぬんのあたりを、これを読んでくださっているみなさんが受け入れる受け入れないは人それぞれでよく、みんながみんなこういった思想に納得するとは思っていませんが、インドやそこで生まれたヨーガではそういう風に考えるんだ、という知識としてでも知っていると、どこかで人生の役に立つと思います。

カルマは浄化しない限り着いてきますので、執着にエネルギーを使っている時間は、ないはずなんですよね。

そうはいっても大なり小なり執着を繰り返して生きている私たちには、やっぱり日々の「導き」が必要で、そういったわけで己の無知を認め、毎日聖典を読んでいます。




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ヨーガの教えは本当に人生を支える心の宝物であり、教えそのものがグルです。



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2019年3月5日火曜日

東京国立博物館にてインド細密画を楽しむ


東京国立博物館へ

昨日は、午前中仕事を終え、そのあと急いで上野へ。

素敵で聡明で美人でアートな大先輩の女性お二人と、上野アートツアー♪

ふうううう〜〜〜
楽しすぎて卒倒しそうでした(笑)


お誘いしてくださったのは、東京国立近代美術館で活躍されていて、一昨年に同美術館での「美術館でヨーガ」を企画してくださりヨーガ講師を私に担当させてくださった教育や普及活動担当の主任の方、と、同じく美術の研究とお仕事に長年従事されている舞踊家でもある方、どちらもアートに人生を捧げたお二人の女性。
強調しますと、とにかく芸術のプロのお二人と。
ヨーガでの出会いとつながりでもあるので、芸術とヨーガの双方を分けることなく同じ源から出るものとしてお話しできるのが素晴らしく楽しいのです。


そして芸術鑑賞を通じて人間の魂の旅を見つけられるのは本当に幸せな行為ですね。
昨日はもう、お二人との芸術的対話と、芸術の神様からの刺激でもう、心がいっぱいいっぱいに(笑)。楽しすぎでした。



梅が咲き誇る朗らかな庭園を歩きながら、昨日の一番のおめあてである東京国立博物館の東洋館で展示されている「インドの細密画」を目指しました。

https://www.tnm.jp/modules/r_exhibition/index.php?controller=item&id=5636

ひとつひとつは小さな作品なんですが、その小さな紙の上で北インドの当時の様子が、浮き立つくらいにイキイキと描かれていました。吸い込まれそうです。

吟遊詩人やシタールの音楽とともに宵を楽しむ人々、宮廷内の女性たちのリラックスした姿や、苦行に身を置く行者、お化粧しながら恋人を待つ王宮の女性、口論する男女なんていう面白いシチュエーションもあり、こうやって過ごしたんだなあ、と想像も巡らせながら鑑賞しました。

ヨーガを知る上で、文化的な背景を感じ取りながら進むのはとても素敵だし大事なことだと思います。海外の人に日本の「部分」だけを使えてもなかなか理解が難しくても、文化としてこういう土壌があるんだよと伝えると「なるほど」となるように、やはりヨーガもインドの人々の当時の暮らしや心の物語を見ることで、なぜそういう発想に至ったのか、が汲み取りやすくなります。



今回観に行ったインドの細密画は、ムガル帝国時代とのことで、地域的にも文化的にもややイスラムの色合いが見て取れるものもあったのですが、修行僧の姿などはやはりヨーガのもので、ヒンドゥー寄りのものもいくつか見れました。

インド好き、ヨーガ好きな方々にはぜひ見てもらいたいなあと思います。

また、東京国立博物館の東洋館は素晴らしく、入ってすぐの展示でもうヒンドゥーの神々や神話に登場する存在たちの石像に出会えます。


心が和む柔らかな表情のガネーシャ、神話をそのままに抽出したナーガに乗るガルーダ、クシャトリア戦士たちの勇ましい顔つきと肉体美、アプサラス女神たちの妖艶で官能的な姿、などなど・・・神々の祭典的な空間です。

インド叙事詩がバイブルの私には、もうここに住みたい!と言えるほど(笑)

興味のある人にとっては観ても観ても飽きない、歴史と神話からのメッセージが溢れています。



皆さんもよかったらぜひ!
桜のシーズンは上野公園自体が、おびただしい人と缶チューハイと自撮り棒でフルになるので、美術館や博物館も同時に混むかもしれないですね、、、(反対にすいてるかもしれないけど。)ちょっと時期は考慮して、なるべく空いてる時に鑑賞できるといいと思います。



最後まで読んでくださりありがとうございます。




Namaste
絵美里