EMIRI MOROKA -HEART MATRIX-

師岡絵美里のブログです♪


2016年1月11日月曜日

Think twice about Japan vol,1


日本が戦力を放棄して平和憲法を持つ国家になった経緯は相当に複雑ですし、今もなお、解釈や方向性を議論され続けていいます。

この先どうなっていくのかもわかりません。




でも私は、



「戦わないという戦い方」



が完全に全うされ、

完全に善の中に立脚しているのなら、

それは素晴らしいと思います。

また、一つの国としてそれがまっとうできるなら、なお偉大なことだと思います。





国や文化の「あり方」というのは、

そこに住む人たちの「心のフォーマット」になります。




よっぽど独自の思索を探求していたりしてもなお、生まれ育った場所の文化や思考習慣はその人の考え方のフォーマットになります。




もちろん、その雛形がよく作用するかどうかは個々のケースです。

それは民族全体でも、個人の人生でも同じだと思います。







日本の戦争放棄は、その法が誕生してからだいぶ時間が経過してきました。



もうすでに「生まれた時から戦争放棄の国でした」

という日本人ばかりです。

もちろんそれを意識して生きている人は少ないとは思いますが。




何を言いたいかというと、多くの日本人に取って、

潜在的に民族全体で「他者と戦わない」というのが「心のフォーマット」になっているように思えます。

仮説ですが、実際にそうだとも思います。




ある場合ではそれは助け合いと共存的に、

別の傾向としては、主張が弱く自分の意見を前に出さないために、

おのずと理解されないフラストレーションが増えてゆく。

それはもう、ケースバイケースで、よく出るときとそうでないときがありますよね。






もちろん日本人でも「力」で解決しようとする人もたくさんいますが、それはおそらく日本人全体で言うと少数なんじゃないかと。




そういった暴力事の「事件性」が高いと、メディアで大きく公表されるのでとても「目立つ」し、それらをニュースなどで観ると、




”日本もひどい国だ・・決して平和ではない・・”




と思いたくなりますが。




でも実際、多くの人たちは善良で、優しくて、「争う」という発想の前に、




「なんとか柔らかい方向でおさめよう」




と思うタイプの人の方が圧倒的に多いのではないかと思うのです。




最近の日本の「国家的一大事」の一つは東日本大震災に集中すると思いますが、

あれほどの天災と大きすぎる被害の中でも

日本人は略奪や自己を助けるための行為に走らずに

大災害の直後からみんなで協力した、そういう民族です。




東京など、誰が住んでいるのかよくわからない都会でも、

あの災害の後は小さな単位から大きな組織まで、みんな助け合おうという気持ちで日常を送りました。







日本人にとって「平和」という感性は、

平和憲法以前に心のフォーマットだったのではないかと思います。




それは日本の古い書物を開いてみると、感じます。







ちょっと言い方が軽いですが、日本民族って







 平たくて前向き







なんですよ(笑)




”男女混浴風呂”みたいな文化というか。江戸時代的な。




みんなで開けっぴろげてるからこそ、変な欲が起こらない。




もし(欲が)起こっても、楽しくて色っぽい感じで全て解決される、みたいなね。






でも、歴史の中のどこかで一回は「闇と無知」と体験するのが民族の試練なんだと思います。




それは他者から与えられた闇ではなく、自己の持つ闇によって苦しむ体験です。



自分たちの中にある「恐れ」や「強欲」を徹底的に体験し

「無知」を体験し

「愚かさ」を経験します。




それは、「土」から離れていく人間が経験するプロセスなんでしょう。




日本の国もそういった時代があり、

戦争まっしぐら、侵略、略奪、破壊と搾取に明け暮れた時代がありました。制圧した諸外国で屈辱的・悲惨なことをしたのも、歴史的な事実だと思います。





でも結局は二発の原子爆弾を投下され、「やりすぎた」日本は「力」で鎮圧されました。







そして、




「軍事を放棄すること」




という印をGHQによって圧されました。







歴史を客観的に見ると、第二次世界大戦で負けたのでアメリカを代表とするGHQに軍力を封印され、その結果平和憲法なるものが制定された、となるのですが。




でも、それは本当に三次元的な表面に現れただけの、ごく部分的な模様だと私は思います。


事のきっかけと経緯が何であれ、日本は「戦わない」方のstateになったのですが、

でもね、

宇宙曼荼羅の視点で見ると、それは敗戦で仕方なくそうなったとか、
もう日本が戦争しないようにそういう状態にさせられたという事とは、実はほとんど関係ないところで”そうなった”のですよね。

もちろん歴史的因果関係は表面的にはありますよ。

でも深いところでは、

日本という民族の持つホメオスタシス(恒常性)が、日本民族の闇を治癒の方向へと向けた

というのが私の仮説です。私はそう感じます。



日本のカルマ、なんですよね。




戦争が、とかアメリカが、とかじゃなく。




日本という民族的集合が「学ばなければいけない」大きなレッスンのひとつであり、



自らの手で肥大したエゴを手放して、


もともとの目的を思い出していくプロセスなんじゃないかと思うのです。




壮大すぎるし被害が多すぎるプロセスですが。




そのプロセス自体が「ダルマ」によって運ばれたのだと思います。




つまりこの日本という土地に生まれたなら




奪ったり力を振るったりすることで何かを為そうなんてやり方はもう全くお門違いで




尊い精神と、どこまでも柔軟な楽観で人類的な平和の一部になりましょうよ




ということなんじゃないかなと。



すごーく大きな闇と混乱を経験してみないと、人間というのは自己の本質の光に気づけないものなんでしょうね。






「戦わないという戦い方」


は、インド最大の叙事詩マハーバーラタの中の大戦争に出てくる強烈なお話があります。

それはまた次回書こうかな。




今日はね、


日本に生まれたということについて、そして日本のダルマについて考えるためのドアをみなさんと一緒に開けたかったのです。




日本のダルマを理解するということは、日本人である自分自身のダルマに関わることだと思うからです。


大げさな感じではなく、でも大事なこととして、今後も書いていきたい話題の一つです。

今日はちょっと重い角度から行きましたが、

笑えるような面白い角度からも話したいですね。


この内容、ご自身の興味を感じるようでしたらシェアしたりしてください。


次回また。











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