EMIRI MOROKA -HEART MATRIX-

師岡絵美里のブログです♪


2016年1月14日木曜日

よくある質問。侵略か、調和かについての考察。




アーリア人がインドのそれまでの文明に対して「侵略」したのかどうか、というのは、実際のところわからない話だと思います。

私は基本的にはそのスタンスでいるようにしています。

どっちでもあったのだろう、と。



侵略の色もかなりあったでしょうし、

でも融合の面もあっただろうし、




わかりません。




でも世界史の教科書がさらっと

「アーリア人の侵略」

とか見出しに書いちゃうような決定的かつ一面性なものではないのは確かです。





私は学者ではないので、これ以上歴史についての説明はできないんですが、






そう、




私は高校生の時、世界史のとっても品のあるご婦人の先生によく質問をする生徒でした。



ヨーロッパの歴史や中東の歴史、近代の歴史などを(学校のお勉強的に)学びながら、よく思ったのです。


なぜ、キリスト教など神様を信じている人たちで、博愛や祈りを尊重する人たちが、他の文化の人たちを段圧したり戦争をしたり制服したりという行為に出るのだろう・・・


と。当時は本当に純粋に疑問だったんです。



「変なの・・」


くらいな、女子高生なりのギモンでもありました。
しかし知りたい気持ちはとても大きかったです。
だからいつもご婦人の品のいい世界史の先生に廊下で質問(インタビューみたいなノリで)していたのです。



と。


インドに侵入したアーリア人のことも聞いた記憶があります。

てゆうか親近感なんてまったくなかったですよ、アーリア人に。

インドも辛いとか暑いとかのイメージだけ(笑)

でも女子高生も気になったんですよ。



なんで、「侵略」なのかなって。



世界の歴史的な宗教戦争についてが出てくるたびに、思ってました。


それは私がキリスト教の家で育ったから、というのが大きいです。


聖書に書かれていることと、世界史の教科書の中で見るものがあまりに違うから。

小さい頃に自分の通っていたとても小さな教会の、親愛を絵に描いたような優しい先生たちと、歴史の中で出てくる宗教的人々の振る舞いが全然違うから。

その辺、疑問符の臨場感が強かったのだと思います。




世界史の品のいいご婦人の先生はこう話してくれました。





「そうね。そう思うわよね。


でも人の心っていろいろあるのよ。宗教上の理想はみんな持っているの。


でも、キリスト教でもイスラム教でもそれが抱えている理想と、

人の持つ”何かがしたい”、という気持ちは、

また別のところになってしまうのね。


すごく不思議に思うかもしれないけれど、


人の心っていろいろあるのよ。」




と。





「いろいろあるのよ」・・・・・!



この時の私の気持ちは、すごく表現しにくいです。



「いろいろあるのよ」という一見答えになってなさそうな返答ですが、はぐらかされた感じはしませんでした。


先生が言いたい事はずっともっと奥が深くて、それが一番表面に出ると「いろいろある」になってしまう「しょうがなさ」みたいなものを、高校生なりに感じていました。


そして、その時抱いた私の気持ちは、今思うととても興味深く


「いろいろある」というその事象・感性を、


そのうち自分でわかるように説明してみたい・・・


と、なんだか少し希望みたいなものを感じたのを覚えています。




そしてそのうち私は、先生方から「答え」が聞きたいのではなく、「ご意見」が聞きたくなるのでした。高校生なりに哲学的進歩をしたのだと思います。



世界史の先生、古典の先生、英文法の先生、が常に私の心のパネラーでした。



どの先生も、非常勤講師でご年配の先生。古典の先生なんかはご高齢!でした。

いろんなこと経験し尽くして、半分リタイアしてて、それでもゆとりがあるから高校に来て教えてくれている先生たち。

私も安心して接していたのだと思います。



歴史にも、古代の言葉にも、英文法にも、すべてそこには人間のフィーリングがあって、そのフィーリングは一貫した「答え」ではなくて、

その時の人の気持ちが模様を作ります。



「それについて先生はどう思いますか」


そう聞いていろんなお話をしてくれる先生方が好きでした。






アーリア人に戻ります。


だから侵略かどうかってのはもう見て確認できないからわかんないんだけど、



でもアーリアンは先に住んでいた人たちやその土着の信仰を「悪魔」という紹介にしたて、アーリアンは純潔純粋神聖だぞや、とカースト制度(って言い方は私はあまりしないけど、でも一般的にそれ)を作って支配層になり、「バラモン(アーリアンの宗教)は不浄がだいっきらい、見るのも触るのもイヤ、だからそれ触ってる奴らとはまじわんない」、という感じで、インドの民をそれぞれのレベルごとのカテゴリーの中に押し込めたのですな。



ヨガインストラクターさんたちの哲学講義の基礎のところでこういう話しをすると、


「ええ、アーリア人ひどい・・下の人かわいそう・・」

みたいな発想を持たせてしまうんですが、


「うん、でもね、その侵略した(とされている)人たちが、ヴェーダをまとめて、それがヨーガ思想の基礎になってるんだよ。」




というと、、、なんちゅうかもう、ナイーブな子は傷ついちゃうよね。



どっちが本当のアーリアン!?



みたいな(笑)


どっちも本当なだけなのよ。


何度も言うけど、侵略というスタイルがアーリア人の全てではないと思います。もっといろいろあったでしょう。

でも、その後のインドの社会的後進を生むことにもなる差別的階級社会を構築したのは、ヴェーダとバラモン教を生んだアーリアンが根っこなのは確かだと思います。

これはもう、そうなんだと受け入れるしかないんじゃないかと。
(新らしい歴史的発見が今後あるかもしれないけどね。)


でもこれこそやっぱり、ヴェーダ、ウパニシャッドが言わんとする「物質原理」のなせる技なわけです。




原質(プラーナ)はもともとみな同じ。

それがどういうグナ(特質)に動くかだけです。

人の心もそう。それなだけです。




崇高な瞑想意識やずば抜けて洞察的な知性とともに、

破壊の心を持つことだってできてしまうのです。

それが人間。




だからヨーガスートラには、最後の最後は「サットワ(最高の知性であり浄の質)」ですら、二ローダ(ストップ)させようぜ、と言ってます。

今どんなに清くても、明日、闇に落ちる素質はあるのです。
その反対もあるのです。



スターウォーズだね!(笑)




まあとっても平ったくすれば、「プラーナの機能性がすごい」、ってだけ。なんにだってなれる。

心(チッタ)はプラーナで出来てるから、良いも悪いもなんだって起こるのです。





だから皮肉的ではあるけれど、
侵略的排他的行為と
ヴェーダ聖典を生み出したほどの高次の真理探求は
真逆のように感じるかもしれないけれど
どちらも同じ人たちから生まれている。




それをよくよく感じることができば、

先ほど書いた私の世界史の先生の言葉を再度お伝えできるわけです。







「すごく不思議に思うかもしれないけれど、人の心っていろいろあるのよ。」



と。




「理想と、人の持つ”何かがしたい”、という気持ちは、また別のところになってしまうのね。」



あ~。

泣いちゃうですよ。


フナコシ先生ありがとう。先生の気持ちがよくわかります。

教えるのは世界史でもヨーガでもそれは表面的な違いで




人間のこと




をいろんな角度から学んでいるんですね、私たち。




みなさんに愛を送ります。



そのくらいしかできないから。





どうか私たちが人間の心の持つ光と闇の双方を、



同じものとして理解できますように。



左手と右手を平等に合掌するような自然さで。






読んでくださりありがとう。


好きな感じだったら、何か感じることがあったら、
どっかでシェアしといてくだされば嬉しいです。




Namaste
師岡絵美里

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