前回までの記事で「パンチャコーシャ(人間五層論)」のことを概要的に書きました。
今日は、パンチャコーシャ論とヨーガの八支則について
書こうかな。
パンチャコーシャ論とヨーガの八支則はそれぞれに呼応した理論です。
肉体の層であるアンナマヤコーシャ(食物鞘)と、八支則のヤマ・ニヤマ・アーサナのあたりまでが関連しています。
たしかに、ヤマ・ニヤマなどは特に、人の具体的な生き方や身体活動の整え方ですので、肉体の層であるアンナマヤコーシャのコンディションに直結しそう、と想像できると思います。
そんな感じで、それぞれのコーシャがそれぞれの支則に段階を追って対応しています。
じゃあそれで、それを知ったところで「何が」わかるのか、
さらには、現代を生きる私たちに「どんな」有用性があるのか、
そこがみなさんの気になるところだと思います。
本当は、そういった期待なく踏み込んでいけるといいんですが(笑)、私たちはインドに生まれてインド思想になんの抵抗もなく育った人間ではないので、その入り口においては「なにに効くのか」が知りたいのも当然かなと思います。
私が感じているところを書きます。
それは、この理論を知っているのと知らないのでは、
他者の気持ちやコンディションへの理解度が大きく異なる。
ということです。
もちろん、他人のことはすべてはわかりません。
その人の気持ちや感覚は、本当の意味ではその人だけが完全に体験するものです。
しかし、パンチャコーシャというヨーガの理論を知ることで、
「人の意識の構造」についての理解が進みます。
それは、自分というものを客観的に理解することでもあります。
それはやっぱり、他者のことも知るということにつながります。
「人というのは、それぞれの人生の中でそれぞれに持ち寄ったエネルギーとデータを使って、いろんなことをする生き物なんだな」
ということが、身体の内観で理解して行く感じです。
たとえば、内視鏡で自分の胃の中を観た人は、
「ああ、今までいろいろ暴飲暴食やどうでもいいものを食べたりしたけれど、こんなにきれいな状態で今も働いているいる、胃よ!」
という感慨を持つじゃないですか☆
もしくは、実際に目で見てみて、自分の体内がひどい状態だったら、
一目散に生活を改めますよね!
(「一目散に」、の使い方は間違っています。笑。それくらいの勢いで、という意味です。)
パンチャコーシャ理論のおもしろさや良さってそういう感じだと私は思っています。
自分自身へのリアリティが高まる事で、「愛」へのリアリティがとても鮮明になるのです。
人は、愛を生きたいのですよね。
でも人と人との関係の中で、必ずしも純粋な愛だけを表現できるかというとそうでもないので葛藤や摩擦がおきます。
ヨーガの哲学や古代の人間論を知ることで、
私たち現代人が少しでも「優しさ」と「愛」に根ざして生きることができればと思います。
もうひとつ。
ヨーガの八支則って、いったいなんのために実質する必要があるんだとう、という根本的な問いかけは大事です。
小さい子どもだったら、「こうしなさい。いいことだから。」で、「はーい」と実行できるかもしれないけれど(そうしない子もいるけど、笑)、
でも大人は思考のレベルで納得して行う必要があります。
ヨーガの八支則は、仮にあなたが「解脱」めいたものを目指していなかったとしても、人生にとってとても重要な「力」をもたらします。
それは「ヴィヴェーカ(識別智)」です。
果たしてそれが真理へとつながるベクトルを持っているのか、もしくはそうではなく心の苦悩の方向に行くものなのか。
それを瞬時に感知する冴え渡った知性です。
パンチャコーシャ論もまた、“自分自身の構造”を知る叡智ですので、
自分の思考や行動の「出所」を検索することが、だんだんとできるようになっていくます。だんだんとね。
もちろん聞いただけじゃダメですし、ヨーガは即席でなにかを為す行法ではありません。
いずれにせよ「知識」を得たら、そこからの意識的な生き方がものを言います。
でも!
知らないのに意識するのは無理です。
だからコツコツと伝えています。
ぜひバリでお会いしましょう。
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