普通の光景 |
ヨーガ哲学を語る上で「グナ」はまず欠かせないコンセプトだと思っています。
グナ(プラーナの特性)を見ることで、
私たちは自分自身や現状の有り様を客観的に知ったり
コンディションを超えた自己を発見する手がかりになったりします。
グナ。
今回のバリのリトリートでは、
インド思想の基盤であるサンサーラ(輪廻)から始まり、現象世界の現れであるグナ、そしてカルマ、サンスカーラなどを一通りなぞり、
そしてメインのテーマに掲げていた「パンチャコーシャ」に入りました。
パンチャコーシャは以前の記事で少し書いたのでご参考までに。
パンチャコーシャ(身体五層論)で語られる人の精神的身体構造はその名の通りに五層なんですが、
その一番の内側の層は「アーナンダマヤコーシャ(歓喜鞘)」と呼ばれる、なにものも拠り所としない全き「歓」であり、全き「喜」なのです。
「喜び」に「条件」が伴う必要があるのは、
肉体やマインドなどの、まだ目の粗い層の常です。
”これがあるから嬉しい”、とか”美味しくて幸せ”、とか、”この人といるからハッピーとか”、そういうやつです。
もちろんそれもOK。
でもよほど気をつけていないと、そこには執着という自発的な罠があります。
肉体というのは可能な限り快を求めてしまうものでもあります。
「アーナンダ」は「歓喜」や「至福」と言われ、
「アートマン」の別称でもあります。
アーナンダマヤコーシャそのものをアートマンと言う場合もあれば、
アートマンに一番近い層であるのがアーナンダマヤコーシャ、とも言われます。
私自身は瞑想体験を通じて、
アートマンの光のみを反映した層、と感じております。
外界の影響を一切反映させない、まったき純。
でね。
私たちが目の粗い層(肉体)とか微妙な層(気とかマインド)などの意識レベルにおいて”体験したい!”と欲する喜びは、
本当のアーナンダへの憧れ、なのではないかと思うのです。
本当は一切の条件をともなわない喜びを知っているのだけど、
マインドや理性が常に動いてしまうので、どうしてもグナを反映させてしまう。
それが私たちの「経験」。
いろんな条件(グナ)を携えて
これが幸せ
これが完璧に幸福
と思える体験が欲しいのは
潜在的には ”無条件の至福” であるアーナンダを知っているからこそ、
疑似体験を求めているのではないかと思うのです。
しかしながら
しかしながら
条件(グナ)を揃えないと感じられない幸福は、
失うことや変わることへの怖れも付帯しています。
だからどんなにそれに浸っても、本当の意味で満たされることなく
また次を切望します。
失うことや変わることへの怖れも付帯しています。
だからどんなにそれに浸っても、本当の意味で満たされることなく
また次を切望します。
バリの田舎道 |
自然、光、穏やかな空気の中にいると、
何も説明できなかったとしても、
「アーナンダ」と言うこの言葉を知っているだけでいいんじゃないかとすら思います。
肉体や、マインド、知性といったそれぞれの意識レベルで
私たちは幸福を探してしまう生き物。
・・・探さなくても大丈夫。
そう感じさせてくれる自然の有り様には、いつも心を洗われます。
みなさんにはありますか?
一切の条件を必要としないでいられる瞬間って。
きっとあるはずなんです。
日常的に起こらないだけで、
でもきっとあるはずなんですよ。
その時、期待なんかをはるかに超えた
作為のない調和があるのだと思います。
今回は、何度もその思いを体験させてくれたバリ。
アーナンダマヤコーシャは
まばゆい光の繭のようなものなのかもしれない。
!!!
今、そう書いた瞬間、
私のいるこの東京のマンションの部屋の中が、
一瞬、ぶわーーーーーーっと
明るくなった!
神様ありがとう。
いつも、言葉ではわからないことを教えてくれて。
アーナンダマヤコーシャは
まばゆい光の繭のようなものなのかもしれない。
!!!
今、そう書いた瞬間、
私のいるこの東京のマンションの部屋の中が、
一瞬、ぶわーーーーーーっと
明るくなった!
神様ありがとう。
いつも、言葉ではわからないことを教えてくれて。
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