EMIRI MOROKA -HEART MATRIX-

師岡絵美里のブログです♪


2018年7月28日土曜日

ワークショップ振り返り『本能とは内含されている理性である』グルからのシビレる真理



前回書いた美容ネタの記事が、、、、、

群を抜いてアクセスが多くびっくり(笑)。

このブログでメインで書いてるヨガ哲学ネタの大衆性のなさにびっくり(笑)

あははははは。

まあいっか。

どこまでもアウトロー。

ちょうしこいてアファリエイトしてる暇がない。
ありそうでない。


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はい。今日の本題です。

コーラ飲みながら書いてる。

(「あ、いいんだ!」って思ったでしょ。いいよ飲みなよたまには。私の親友のヨギも「最近はもうビールが親友」って言ってたよ(笑)!)


この夏は君が解脱!


本日のヨーガ哲学のワークショップに来てくださったみなさんと約束した、紹介した本をのせとくね、の件です。

今日講座内で紹介した本はこれ。

「自己を知るヨーガ ―スワミ・サッチダーナンダ講話録」





講座内で触れた「神とは・・」のくだりは33ページあたりだったかな。


“だったかな” 

というのは、あの後スタジオに本を置いて来てしまって、

これを書いてる今、手元にないのです。

すいません、もっかい確認して追記しとくので、もしよければ明日あたりにこちらにご訪問ください。


(追記:おしかった!39ページでした!2018.7.28)




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今日の講座テーマは


ヨーガ・スートラ2章9節からの洞察で、


「本能とは内包された理性」

について。


上記の本のスワミ・サッチダーナンダ師ではなく(笑)、


スワミ・ヴィヴェーカーナンダ師の言葉からの洞察をみんなでしましたね。


ヨーガ・スートラ2-9

「死の恐れとは、賢人にさえ存在する、潜在力に支えられた生への執着である。」



ヴィヴェーカーナンダぐるじの息が止まるほど真理に迫った解説を

エアコン直風の下でスカスカになった声で音読しつつ悶絶する私、

といういうのが今日のハイライトでしたね。





うぎゃーーーー。
たまんない。最高グル。



ちょっと前後の言葉割愛しますが、しびれポイントだけ載せときます。





 『実践によって、それは本能になるのだ、それは自動的になるのだ。

 われわれがいま自動的だと見なす全てのケースは、退化した理性である。

 ヨーギーの言葉に従えば、本能とは内含されている理性である。』








死ぬ。

この言葉のチョイスに死んでまう。

最高だ。







解説。。。



生への執着についてのスートラです。



私たちの”肉体を伴った心”は

 「この命を存続させたい」

という根本的な願望を携えて生まれてきます。 


2-9節では、その生命欲というものは賢人すら持っているものなのだ、と語っています。


賢人つったらグルレベルとかスワミレベルとかですよ。

そういう、真理を知っている知識ある人、悟った人にもあるのだ、と。



「快・不快」の感覚に人間の心がいち早く反応するのは、

自分自身の肉体的生命の存続が保たれるか否かを瞬間的に察知し、

快楽を「安全」と感じ、

不快を「危険」と感じ、
それが自分の命にとって、存在することにとって、

欲するべきか嫌うべきかを自動的にジャッジを下すため。



心はいくらでも複雑になれる器官を持つ複合的な仕組みなので、

お腹が空いたら食べたい、
疲れたら寝たい、
というようなシンプルな生存欲求だけに終わらず、

成長するにつれて、実際には生き死にに関係のない事柄までも、

安全/危険

快/不快

のジャッジを下します。 



この、「ジャッジするプログラミング」のような心理作用をヴィヴェーカーナンダ師は、 


 自動的だと見なされる全てのケースは「退化した理性」である

と言ってのけておられております。 (かっこよすぎて死にそう。)



 退化した理性



私たちは、過去のある段階において、

身の安全と危険の察知や

生存に役立った記憶を


今もうその役割では機能しないものであったとしても 

「自分安全基準」として採用し続けているのです。


それが師の言葉でいう「退化した理性」、


 「本能とは内含されている理性である 」


とも言っています。


これほどわかりやすい言葉にこれ以上できない、というくらい

気づかされる言葉だと思いませんか?


はーーーーしびれる。

すごいすぎる。

グルっていいな。

会いたいな。






・・・と、

熱くなる私を観覧するためのワークショップでもあったのですが、

みなさんいかがでしたでしょうか。

今日も私のグル好きっぷりをみて

「あの人いっちゃってるなあ」と

「自分はまだ大丈夫かもしれない」

という判断基準にしてしていただけていたら、すごくいいと思いますね!(笑)

いききってなんぼ。







というわけで。



私たちは、

内包された(過去の)理性を

機能性としては退化しているにも関わらず

自動的にそれが作動することを

日々毎秒、自分に許しているのです。 



恐れ、
悲しみ、
怒り、
落胆、


こういったことのほとんど全ては、

退化して肉体と心にしまわれた古い理性によって思考を介する間も無く
判断され、

”それは恐れに値する”
”それは怒りに値する”
”私は悲しい”
”私は落胆する”

と決定しています。

”嬉しい、楽しい、ほしい、 好む”

そういったものも、しくみは一緒。



意識の広さと奥行きを考えると、

私たちの表面で出てくる感情やリアクションというのは

ほとんどが、古い習慣の再利用をしているものなのです。


その繰り返しが、輪廻転生の所以なのだとスワミじ。



では私たちはそこから逃れられないのでしょうか。

そんなことはない


一筋の希望が、ヴィヴェーカーナンダ師の言葉にあります。


「実践によってそれは本能になるのだ、それは自動的になるのだ。 」





これは先のスワミの解説の中では

「あるひとつのオリジナルの理性」に慣れ親しんだ結果、

様式のようになって自動化されることを

「もともとは理性だったものが、退化し自動化し『本能』になる」

ということを説明していますが、


これをね、

今これからのこととして考えると・・・デス。


今これから「実践」することが、

心にとってインパクトを持ち、

そして継続的であれば、


その「選択された理性」は

「新たな本能」に

なり得る


とも言えますよね!!!

だから、ここから、どうするか、ですね。

 というところに話をまとめて、キマりましたね。今日は。

瞑想しちゃったよ。




だからこそヨーガ・スートラは、

ヤマニヤマも含めたヨーガの八支則を提唱しています。

ヨーガの八支則の諸支分の実施が、

「内包された(古い)理性」を打ち消すほどの「新たな本能」になれば、

人は変われる!


そうやって真理に目覚めていったグルたちや

人生を完成させた多くの先人たちがいるはずなのです。




ただしこれには、自覚がないといけないのだスワハ!




どかーん!


うまくまとまったと思う!





もうこのくらいでナマステしときます(笑)。



本日ご参加のみなさん、本当にありがとうございました。

またお待ちしてます。





Namaste
感謝をこめて

EMIRI




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