EMIRI MOROKA -HEART MATRIX-
師岡絵美里のブログです♪
2016年8月23日火曜日
うるわし月曜日、その2(チッタを語る長いたわごと)
今現在の私の感覚なんですが、
チッタはそう簡単に止まったりしない、とわりきってます。
とくに、理論と言葉を使う私たちにはとうてい遠い道のりです。
理論と言葉を使う私たちには、できないとも言える。
ヨーガに憧れている人や目指す人の希望・期待を叩き壊しそうですが、
でも実際そうです。
本当に難しいです。
まずもって知覚(これは五感じゃないよ)をフルパフォーマンスにしないかぎり、チッタヴリッティの細部を観察して掴んでおくことができないので、心の作用が止まってるかどうかもわかんないのでスワハ。
「チッタ止まってる〜〜」「できてるかも〜〜」、
とか思ってること自体がchitta vritti じゃないですか(笑)。
「わたしチッタ止められるようになってきました」とか、もし口頭で言っているような輩がいたら、まずナルシストか大いなる勘違いでしょう(爆、辛口!)
チッタ、心の動きは、私たちが肉体を持って摂取と排泄を繰り返しているだけで「動き」ます。
無心でご飯をもぐもぐ食べてて、
「あ〜今まったくなにも考えてなかったわ〜チッタとまってた〜♩」
とか、そういうことじゃないしね(笑)
それはただ自発的になんも考えてなかっただけで、”考え”という粒子自体はそのへんをふわふわっと自由に漂って(つまりチッタは無秩序に動いて)いただけの話なんですわ。
”ヨーガやって穏やかになった人”、であっても。
「感情のアップダウンがなくなる」ということも”チッタ止め”じゃないんすよ。
どんなに感情が穏やかでも、まだ「穏やかさ」という質(グナ)は残るわけです。これもまたチッタヴリッティなんだな。
ほんと大変よ、ヨーガは。
半端ないです。
例えば、
感情的に波風なく、ごく穏やかに柿ピーを無心で食べてる人がいるとします(どんなだ!)。
柿ピーを口に運び咀嚼するという肉体的な動作以外は、
一見するとチッタヴリッティはなさそうじゃんね。
でもね、ちょっと考えてほしい。
チッタヴリッティが「ある」か「ない」かということじゃなくて、
その時チッタヴリッティを「見ることが(知覚が)」できるか、という方に観点を変えてみる。
無心で柿ピーを取って食べている。
その時、知覚(五感じゃないよ)はどうしているのか。
感情もそんなに動いてない。じゃあ、その時「知覚」は何をしてる?
野放し・・・
です。
感情や考えが動いてない(←これが一見、チッタヴリッティニローダっぽく見える)
だからといって「知覚」がその人の心的・肉体的動作のすべてを「把握」しているわけではない。
これを別の言い方するとさ、「ぼーっとしてる」ってことです(笑)
かなり鈍感なところにいるってことです、爆。
研ぎ澄ませてるつもりでも、まだまだまだまだ超鈍感ワールドにいる私たち。
感情に左右されてない分「知覚」はフリーな状態にもかかわらず、
無意識化でいろんな方向に動くチッタヴリッティを見ていられるほうに働いてない、ということで、
つまり本来的鋭敏な知覚は、鈍感なまま野放しになってるつうことです。
難しいね〜〜〜チッタヴリッティにろーだハ。
何が言いたいの??、と言われそうですが、
別にオチはないです。
チッタはそんな簡単にニローダできない、って言いたかっただけ。
たとえ絵描きや音楽家が、絵や音楽に没頭して一瞬の閃光や突き抜けた光明を得たとしても、その境地を普通の時に発生させたり持続させることができないように、「チッタ止まった」的な近い体験があっても、それを再現とか連続再生できない。
再現、再生できない、のです。
だから簡単に、アートはヨーガだ、とも言えない。
言いたいけど言えない。
ヨーガらしい感じの瞬間や時間はたくさんあるけど、やっぱり純粋にヨーガではない。
だったらアートはアートでいいからアートとしてやってたいなと私は思う。
そういうところが私は恐ろしくドライなのです。
だからさ、一瞬とか一時とか一日とかそういう単位を、
大事に、純粋に生きるしかないんだなと思うのです。
ああ〜疲れますね、こういう話!笑
読んでてぐったりしませんか?
言語で言うのはほんと無駄に等しいとわかっていながら、言ってしまう私もかなりラジャシックな女ですね〜〜〜(爆)。
てゆーかよくここまで読みました!!!
長くて何言ってるのか意味不明?それとも楽しめた?
流し読み? 全部ちゃんと読んだ?
どっちでも、本当にありがとう。
たわ言ざれ言ワールドでした!!
瞑想して、ひっこみます。
Namaste
絵美里
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