EMIRI MOROKA -HEART MATRIX-

師岡絵美里のブログです♪


2014年1月24日金曜日

こどもとヨーガからの洞察




地域の子どもたちの定期的にヨーガを教えていて、

ヨーガの精神性も伝えられるように心がけています。


「次に、今までよりもチャレンジングなアーサナを教えます。

みなさんやりますか?」


と子どもたちに聞くと、5〜6歳くらいの子たちは

「やるやる〜〜」と無邪気に言います。


しかし少し大きくなった子どもたちは、こんな発言をする人もいます。

「えー見てから決める。」

と。

「それはだめ。やるっていったらやるの。」

と言う私。

結果全員にチャレンジはしてもらいます。

子どものヨガクラス内では「無理」「できない」という文言はなしにさせているけれど、

子どもたちはすでにテレビなどの影響か、
「冷やかし」や「あきらめ」の表現(態度)を身につけてしまっているので、
「そんなんむり〜〜」などと簡単に笑います。

私は「むりって言わない」の一点張りです。



大人にしても子どもにしても、
消極的な思考を身につけてしまった人を覚醒させるのはある意味ほんとに大変です。
厳しく指導しないといけないので。

個人的には厳しい指導なんてぜんぜんしたくないです。こっちのエネルギーを消耗するので。
そんな事はしたくなくて、人間が本来持っている力に委ねたいし、
大きな声とか出したくないし、乗り気でないことをさせるのも大変。

でも、「自由意志」とか言って楽な方に流れるのって、ぜんぜん魅力的だとは思わない。精一杯のところで直球勝負していたい。
だからこそ「ゆとり」っていうのがどんな感じなのかもわかります。
ずっとのんびりしてずっと「楽」だけしてるのが、ゆとりじゃないですよね。
私はそう感じています。

人として生まれたからには、
為すべき事があり、「適性」というエネルギーをちゃんとうまく使って終了しなければいけない。

できるだけストレートに自己を世界に奉じていくんです。
それはとても積極的な生き方です。

消極性というものは、何も生み出さない。

でも宇宙って無駄がないので、そんな消極的な人の有様も「反面的に」何かの役には立っていたりするんです。
例えば別の誰かの洞察の「モデルケース」になっていたり、
啓発を業とする人にとっては、「消極的な人を啓発し、覚醒させる」という事を学ぶための対象になり得ます。セミナーとか流行る。
だから無駄ではないんですけど、
でも。いつまでもそんな理由で世界の役に立ちたいのか。


もっともっと主体性のある役立ち方がしたいものです。

だから、積極的に、物事のポジティヴな側面を自分で引き出す生き方をしないと。

いつか誰かが世界をよくしてくれる。

そういう思いはもうぜんぜん通用しないので、

毎秒、毎瞬、自力で良くなろう。

そういう姿を大人が見せないと、

子どもたちが消極的に、
できない事を避けて、
みんなと同じで安心、
一番仲のいい友達とだけ遊んでいられればいい、
自己表現を避ける
わがままを通そうとする

という性質を当たり前に持ってしまいます。
そして極端な強制力の指導がないと動かない人になってしまう。

親はいつだって子どもの味方になる、めいっぱい褒めてあげるけど、
でも精神性や身体感覚の底上げをする努力は、親が教えないと、と思います。
そこを教えてないと、褒められる事を目的にしてしまうただの自意識過剰になります。


「ヨーガで、ピッカピカの強くて優しい心を作ってるんだよ。」
と、子どもたちに毎回くどく言っているのですが、
今はそれが先生のいつも言うおまじない的な感覚だったとしても、
いつかそれが人生の過程で生きてくれればいいなと思っています。
子どもたちに祝福を。


さあ、まずは大人の私たちですよ。

いつもで子どもに真似されるんだと気を引き締めて、
柔軟かつ清らか、それでいて強い生き方をしよう。

ダメなところを見せてはいけないって意味じゃないです。多いに見せていいと思います。

でも、その「ダメ」を必死こいてでも修復する涙ぐましい努力も見せるべきです。

オープンに。









2014年1月20日月曜日

行為しながら放棄する




昨日の続きですが、

すべての人の内に神を観ることができるか。

もし個々の人の内に至高の存在を見出せるならば、

私たちの「人との関わり方」はもっと大きく変わると思います。

今近くにいる人々に敬意を持てるだけではなく、


・・・実は大事なはここなんですが、・・・自分のやるべき事が見えてきます。

自分自身に迷いがなくなってきます。


自分以外のすべての人が至高の神の体現だと悟ると、自分の行為に神の力が発動します。


逆じゃない??って思いますか?

「自分は神なんだ!」って自尊心を持ったほうが、自己の内在する神聖なパワーが発動しそうでしょうか?
それもあると思いますが、そうであるなら他の人はなんなんだ、というところです。


これは私の体験的なところからも(おおいに)言ってますが、

すべての人が神の体現だ!とわかると、

「わたしの為すべき事」がはっきりわかります。


事を荒立てる事は何もしない、というのが「平和」なのかというと、そうではないです。

もちろん無理に荒立てなくていいのですが、

「私の存在は何事も刺激しないの」

というような “消極的な安全” ではなくて、

「真理に適うことをしよう」

というはっきりとした意思による行為が生まれます。

だからやっぱ、やることはやるのです。

そこでもまた人間としての葛藤は出てくるのですが、
ですが一歩前に進んで、やってみるんですよね。

肉体の重さや物事の表面の事象に支配されているうちは、
「今までの古い思考」に反する事をするのは億劫なんです。
でももしこの人生を輝くものとしたいなら、やってみるしかないんですよね。



私たちが「何を選択するか」というのは、この瞬間の「行い」の中にしかない。

人は「結果」の中に「その選択がよかったのかどうか」を探し求め、
さらには結果をコントロールしようとしますが、
そのような我心や「好み」を捨てなさいな、とギーターは教えます。
結果への期待を捨ててみると、
人生の今、一瞬一瞬が生き生きとしてきます。


今日も私は朝からバガヴァッド・ギーターを読みながら、
自分自身の小我と向かい合ってみました。
神との対話は、えてして自分の中の混沌や影と向かい合うことだとも言えます。

今日読んだ詩節はこれです。


第18章9節
「アルジュナよ。
なすべきであると考えて、定められた行為を、
執着と結果とを捨てて行う場合、
それはサットヴァ(純質)的な捨離であると考えられる。」


「行為」する事がもし「真理」に適っている場合、
それは「行いながらにしての捨離」になる。

この社会を強く生きながらにして、俗と業から離れる!すごい!


これはバガヴァッド・ギーターのメインメッセージのひとつだと感じます。

何もしないわけじゃないのです。

「惰性」を、「平穏」だと勘違いしちゃいけないんですね。


そのためには、
まず私たちは「為すべき事」を自分の内面から引き出さなくてはいけません。

だからやっぱり瞑想しましょう。

朝、顔洗ったらまずブランケットを腰に巻いて防寒しつつ、瞑想。




2014年1月19日日曜日

自分好き?




みなさん自分のこと好きですか?(笑)


私?そうねえ、大好き(爆)。


でもね、この「好き」の種類は昔とは大違いで、
私自身のパーソナリティのことではなく、私の中にいる神様が好きです。
大好きなんです。


だから今日も明日もあさっても、なんでもいいから神様が私を通って出てきますようにとお願いしてるんです。

これは、わがままで顕示欲の強かった若かりし私や、好き嫌いを動機に選択をしていた若かった自分からすると、
ほんとに大きな成長だと思います。


ある意味もう「私」はそんなに重要ではなく、
私という空洞から神様が出て来れますように、と、それが最優先なのです。


って、これを書いていたら、娘(5歳)が、


「まま。サティヤ・サイババ。」


と言ってマハットグル・サイババの本を私に持ってきて、


「ね。」



と念を押すようにサイババの写真を指差しました(笑)。


このシュール感、たまらない!!!

ナマステの資質 〜ギーター第十一章より〜


ヨーガの大聖典・神の詩「バガヴァッド・ギーター」で
私のとても好きなシーンを紹介します。

この物語は、主人公のひとりである戦士アルジュナと、神の化身であるクリシュナの対話によって進む物語です。
つまり、神との対話物語です。

神の化身であるクリシュナは、戦士アルジュナが本当に「神のガイド」を欲する時までは、アルジュナの「友人」として寄り添っていました。

戦場で「親族を殺さなければいけない」という究極の窮地に追い込まれたアルジュナは、心のそこから神の教え、「真理」を求めます。

その時クリシュナは、自分が神の化身としてヨーガの道をアルジュナに教えます。
それが「バガヴァッド・ギーター」、神の詩です。


今日紹介するのは、ギーターの中盤になりますが、第11章のくだりです。

「友人」の姿をまとっていたけれども実は「神の化身」であるクリシュナに、
「神(この世界のすべて)の相を見せてください」と頼みます。

つまり、友人としての姿ではなく、神(宇宙)のお姿を見せてほしいと頼むんですね。
また戦士アルジュナは、この「神」のすべてを観てみたいと同時に、
自分の局面している戦争の結末が知りたいのです。
自分、そして親族たちは、いったいどうなるのか。

クリシュナの教えに真摯に耳を傾けたアルジャナに対して、
クリシュナはそれを許可します。

しかし、森羅万象のすべて、創造のすべて、宇宙、真理、
それを「肉眼」で観る事はできないので、
クリシュナはアルジュナに「特別な目(天眼)」を授けて
自分(世界・神)のすべての相を見せます。


クリシュナは人間の姿でアルジュナに寄り添ってきた神の化身ですから、
その気になれば、人間の姿を取払い「宇宙」を見せることができるんですね。

しかしそれは生身の人間の体験としては衝撃ですよね。
友人としての親しみあるクリシュナの姿が、一瞬にして「宇宙」にまで拡大したのですから。
それはもう表現を越えているというか。ハリウッド映画の特殊映像でも追いつかないですよ。

それってどうでしょう、
例えば、「蟻」だと思っていた生き物が一瞬にして「富士山」に変身した!くらいの衝撃でしょうか?
いや、もっとだと思います。
一人の人が突如、生きた宇宙の秩序である神の曼荼羅として展開しだすのですから。


ギーターの第十一章十三節がとっても好きです。

「その時アルジュナは、神の中の神に身体において、全世界が一堂に会し、また多様に分かれるのを見た。」

この文言は、私の小さい頃から抱いていた「世界・宇宙」を一番忠実に表現しているもののひとつだと思っております。
なんどこの言葉によって、その時々の必要な“答え”を導き出したか、数えきれません。

世界はひとつであり、同時に多様。

そう言ってしまえば簡単ですが、
それがどんな小さな細胞ひとつの中にも宿る「存在性」であることを悟るには、
真剣にこの世界を生きる事が必要です。


クリシュナの見せたその「世界のすべての相」。
それはもう本当に荘厳な姿であり、
アルジュナの、人間の、想像を遥かに超えたものです。

その世界を観て畏れおののいたアルジュナは、ひれ伏して言います。
(・・わかりやすいように現代語で言いますと、)

「あなたがこんなにも輝く ”すべて” であり
神なんだだという事に気づいていなかったために、
私はあなたをただの友達だと思って軽々しくあなたを呼んだりしていました。
冗談を言ってからかったり、二人だけの時も大勢の人の前でも
あなたのことを軽んじていました。
あなたを真に知る事なく、無知ゆえにひどいことをしていました。

どうかそれを許してください。」


と。


このくだりもまた、いつも教訓であり真言であり真実として胸に入れておくように心がけています。

人はみんな神なんだ。

私たちは、思考の幼稚さや、乱雑さ、無知ゆえに、
人を裁く心や、敬意を欠いた思いを持つ癖があります。
心の中で軽んじたり、態度や発言で軽々しく扱うこともあります。

わたし自身はかなり、この「裁く」を手放すことができたように感じていますが、
若かった時代は自己顕示欲も強かったので、
他人よりも自分自身を裁いたり価値評価する気持ちが強かったように感じます。
今はないけどね。
自分と向き合うと、この辺りはすぐに浮き彫りにならざるを得ないものです。
たくさんのジャッジを自分の中に見つけては、自分を赦す作業を繰り返します。
それでもまだ残りの数%の残痕が、瞬間顔を出したりすることだってありますよね。
精神の修行、サーダナは続きます。

「裏表のない敬意」

私たちは生きて人と関わる事を通じて、それを学んでいるのだと思います。
相手とか状況を選んで高まったり弱まったりする敬意ではなく、
すべての命の中に神を見ること。

アルジュナの反省を、私たちはよき教訓にできると思います。

すべての人は神。
けして軽んじられるべき人などいないんです。

私たち、ヨーガを行う人なら常に、


नमस्ते ナマステ

と言いますよね。

この言葉を唱える“本当の資質”を養うのがヨーガだとも言えると思ってます。

日々、「ナマステ」を実践できているだろか。


それは、“ありがとう” とか “こんにちは” という意は
結果的にそういう意味で使われるわけで、真意は、


“私は あなたに 敬礼の念を 持ちます”

というとても敬虔な言葉です。

すべての人はクリシュナ(神)である。
あなたも、わたしも。

森羅万象のすべてに、

नमस्ते ナマステ

を言える資質を養っていくのが、ヨーガであり聖典の学習ですね。


ギーター、本当に素敵。