EMIRI MOROKA -HEART MATRIX-

師岡絵美里のブログです♪


2019年1月31日木曜日

シリーズ【5種のチッタ】vol.3ヴィクシプタチッタ〜 定まらない心の見極め



ヨーガではプラーナの質(グナ)の違いで「5つのチッタ(心)」が説明されます。

vol,1と2では「クシプタチッタ」「ムーダチッタ」について簡単に説明をしました。

今日は三つめです。「ヴィクシプタチッタ」。



▪ヴィクシプタチッタ(散漫な心)

支配的となるグナはない。心のはずみによってラジャス、タマス、サットヴァのいずれかの支配を受ける。
混乱した心、揺れる心。 真実を垣間見ることがあっても、新たな障害物が現れるとその真実を投げ出し、別の考えに従う。


[Viksipta]
refuted 論駁(ろんばく)された
  *論駁:相手の説に反対して論じ攻撃すること 
contracted 収縮した、しかめた、短縮した
thrown out 投げ出す、捨てる
frustrated 挫折した



vol,1で紹介したラジャス性支配にある「クシプタチッタ」は、自我意識によって心がどんどん外界に向かって動いている感じがみて取れるかと思います。非難、卑劣、などの感情の荒ぶりが見られますチッタです。


今回の「ヴィクシプタチッタ」は、どのグナに支配されるかが常にゆらいでいる心で、クシプタチッタやムーダチッタと似た意味合いも含みつつ、ラジャス集中(クシプタチッタ)だけでもタマス集中(ムーダチッタ)だけでもない、揺れ動く心、です。


内面の軸みたいなものを捨ててしまって(ないしは見つけられない)なんでも信じちゃうような散漫さや危うさ、本質が見えてないのに表面だけに飛びつく浅さのようなものを感じます。「自分のなさ」みたいなものがわかりますね。


一般的にこの感覚ってとても多いのではないかなって思います。ヨーガを学んでいる最中の人にも多い。現代の世の多様化した“スピリチュアル界隈”にも多く見受けられる傾向かと。自分にとって都合のいいことをすぐ信じてしまう。

一時的にサットヴァ(純・清・浄)なことに意識を向けていられる時もあっても、外界の刺激にさらされれば思考が混乱したり、気持ちが暗いところに落ちてしまうこともある、というような定まらなさ。
上がったり下がったり、明るかったり暗かったり。楽観したり悲観したり。



心を継続的に純なるものや本質に結びつけておくことの難しさを感じますね。ある時はこれを信じ、でも別の瞬間には同じものを疑う、忘れてしまう、というような揺れ動き。



書籍「現代人のためのヨーガ・スートラ」の中では、これは「ニューエイジ」に共感を持つ人々に間に典型的な心だ、とあります。「心地よく過ごすために、単に状況に応じて心のあり方を調整しているだけ」の、実際は「懐疑的な日和見主義」と。
なかなかキビシイですね!w




対策として。

ここはヨーガ・スートラにあるようにスヴァディヤーヤ(聖典学習)だと思います!聖典を読み学び続けること。そこから離れない努力。
時間はかかっても、自分の知性が真理にずっといられるだけの聖なる耐久力と認識力を持つために、ずっと聖典に触れ続けることかな、と。

ヨーガの道は続く。


グナ別チッタ解説はあとふたつになります。
読んでくださりありがとうございます。


Namaste
EMIRI

2019年1月30日水曜日

シリーズ【5種のチッタ】vol.2ムーダチッタ〜 重い心の見極め



ヨーガではプラーナの質(グナ)の違いで「5つのチッタ(心)」が説明されます。

前回の投稿ではそのうちの「クシプタチッタ」についてを簡単に説明しました。

今日は「ムーダチッタ」。

クシプタチッタがラジャスという刺激の質(グナ)が高まった興奮状態のような心でしたが、ムーダチッタは「タマス」という停滞と翳りの質に心が支配されている状態です。


▪ムーダチッタ[Mudha] (惑わされた心)
タマスが支配的になる心。鈍く朦朧。身体、富、家族、部族、国家など自分が「所属」を感じるもので頭がいっぱい。タマスによって心が重くなるため、自分が一体感を感じるものに固執し、それ以外を受け入れない。曇った目や重い心に支配されているため、現実をありのままに見ることができない。

〜〜〜〜
Mudha:
dull 鈍感な,愚鈍な; わかりの遅い.
ignorant 無知の 知らない 気づかない
stupid 愚かな、 無感覚な、
idiotic 大バカな、白痴の
〜〜〜〜


書籍「現代人のためのヨーガ・スートラ」の中では、この心の状態はクシプタチッタ同様にヨーガには不適切、ヨーガをやったとしても、強い欲望を通してしか集中できない、とあります。


実際・・・こういった停滞の質に心が絡め取られている時、この心の状態を自分で自覚するのはとても難しいものです。「気づけない」ということもタマスの特徴だからです。


自己観察のポイントとしては、損得勘定や自己防衛、自意識を満たす仲間意識などで「優越感」を持っていないか、他者を認めない狭い気持ちになっていないか、と考えてみるのがいいかもしれませんね。
もしも自分自身にこのような心の傾向を感じたら、自分の固定的な考え方を思い切って壊す必要があります。

ムーダチッタである時、人は往往にして「自尊心」や「優越感」がほしくて自分をよく見せようと外界に働きかけているはずです。それをやめて、「無知な自分」というものを一回認めた上で、あえて笑ってみるのがいいと思います。それは自己卑下ではなく、自己肯定として。
そして人の言うことや行いをジャッジせず、自分の考えというフィルターを通さないで物事を見る練習が必要ですね。これも実際は根気がいりますね(笑)。

ムーダチッタはかなり大変です。なんせ自分で気づきにくいので。
ムーダの中にいる間は、何事も人のせいや、外界のなんらかの事柄のせいなので、自分自身を省みることもまれなのです。
気づけたら本当にラッキーと思い、変えていくしかないですね。


あるグルに言わせると、この状態というのは「暇」なのだそうです(笑)。

自分が心から熱中できて純粋にそれに打ち込めるものなどがあると、悲しみに停滞したり暗いところで考えている時間などない、と。たしかにそうだと思います。

誰しも、その時々でタマスな心(停滞、無気力、無力感、猜疑心などの暗い心)になることはあると思います。
そこを持ち上げて、明るい方に行動を起こすのって、エネルギーがいるものですね。でも何もしないでいるとその感情や感覚はそこで増幅されていくので、ムーダチッタにはまってしまった時は、運動したり楽しいことをしたり、明るい場所に足を運ぶのがいいかなと思います。

瞑想、もいいかもしれないと思うかもしれませんが、ムーダチッタや前回紹介したクシプタチッタがすごく強い時は、まず体を動かしてしまうのがいいかと思います(経験的に)。

散漫さや停滞の心が意識を支配している力が強い場合、瞑想は一時的な落ち着きをくれるかもしれないですが心はなかなか手強く、目をあけてもとの世界に戻って外界の刺激にさらされると、また同じ感覚に戻ってしまうことも多いものです。

瞑想はすごくいいものですが、瞑想していない普通の時にラジャス・タマスをある程度クリアしておくのがいいと思います。クリアする手段は、体を程度に運動させたり(これがベストかも)、明るい楽しい行動をすること、笑うこと、など。

この辺りのお話は、この次の次にシェアする「エーカーグラチッタ」のところでまたお話しようかと思います。


ナマステ
EMIRI

2019年1月23日水曜日

シリーズ【5種のチッタ】vol.1クシプタチッタ〜荒ぶる心の見極め

こんにちは。エミリです。

心の状態を客観的に観察できるようになる、というのがヨーガ哲学の知識がもたらす素晴らしい効能のひとつです。

今日はそんな中からひとつ。
クシプタチッタ、というものをシェアします。


ヨーガでは、私たちの心を作り出すプラーナ(生命エネルギー)の「質」の違いから生じる、心の種類を説明します。

それは「5つのチッタ(心)」と説明され、


 怒りや刺激の質からなるチッタ(心)

 停滞の質からなるチッタ(心)

 いろんな質に変化し安定しないチッタ(心)

 一点の純粋さに集中したチッタ(心)

 心が動いていない状態


と分けます。


今日はそのなかの「クシプタチッタ」について。
怒りや刺激の質からなるチッタ(心)をシェアします。



クシプタチッタは、プラーナ(生命エネルギー)が「ラジャス」という刺激の質に高まった、興奮状態のような心で、外界に向かって自我意識が高まり、怒りや批難などの荒ぶった気持ちに心が集中した状態です。


”クシプタ” [Ksipta]は、

 despicable 卑劣な
 discharged 排出された
 thrown  投げられた、投じられた
 reviled 批難する、罵る

というような意味合いが含まれた言葉です。

このチッタ(心)の主役はラジャス性で、ラジャスは自我意識を高めて荒ぶる感情との一体感を増幅させます。

イライラとか、焦りの混じった怒りや興奮、嫉妬や他者批判などもこういった心です。

あまり持ちたくないけれど、完全にないわけでもない心模様かなと思います。

最初は「不満」からくるケースが多いかと。
何かに不満を持って、そこに憤りを感じ始め、被害者意識や利益を得ていない、損なわれたような感覚がするときに、その不満の矛先が他者になったり何か外の対象に向けられて、怒りや批難になっていく。
そんな流れが多いと思います。

人間は「一回やったことはそのあとまたやるのが簡単になる」という習性を持ちます。

一回、二回、と心の荒ぶりに任せて怒ったり荒れたり粗暴にしていると、そういう行為や心のあり方を続けるのが「簡単」になります。
逆の言い方だと、優しくなったり、物事に理解を示そうと心を開くのが難しくなっていきます。

自分の思い通りにならないことに対して、怒りや攻撃的な気持ちでしか対応できなくなっていき、そしてそれが定着しちゃうとその人の「性格」になってしまいますね。


いつもじゃなくても、誰しもこういう気分はあると思います。

もしこんなクシプタチッタな感じになったら・・・
心が荒れたら・・・


まずは、身近な木々や植物をただ眺めてみるといいかなと思います。

意識を植物や自然の波動に合わせると、自我で高ぶった心の炎症が癒えていくと思います。

マインドの中の「主語」が繰り出す絶え間ない雑音 

ー私が、あなたが、あの人が、あれが、これが・・・ー

を消す時間を持つことを、自分に許すといいかなと思います。


と、まあ簡単に言いますが、自我ってなかなか手こずるもの。
時間がかかりますが、地道に心の軌道修正ですね。


なぜ人は、自分の思い通りに行かないと、憤りを感じ、表現するしないは別としても「怒る」のでしょうか。それは「危険」を感じる不安と怖れが土台です。

保身に大きく傾いているとき、多くの場合において、物事を中立に、ありのまま見るのは難しくなります。

誰でも自分は大事ですが、「自分の利益」と「自分」を同一視してしまうと、損得と勝ち負けが心の関心事になりますね。

書籍「現代人のためのヨーガスートラ」では、この「クシプタチッタ」は、「ヨーガには至極不適切」と説明されます。

この状態でヨーガを始める人はいない、
するとしたら「敵を倒すための力を得るためだ」と書かれています(すごい!笑)。

「敵を倒す」というのを、もう少し、人々のよくある傾向に置き換えるなら、「すごいことできるって人に見せたい」というような対抗意識かなと思います。

それだと、心はいっこうに自由にはならへんよ、ってことですね。

でも、クシプタチッタに没頭している状態の時は「心の自由」なんて発想すら持たないかもしれないですね。
心の自由なんかよりも、権力や見栄えのいい自分、利益が欲しい、ということになるのだろうとおもいます。

インドの叙事詩「マハーバーラタ」ではこういう人がたくさん出てきて、みんな滅びていきます。(ドゥルヨーダナですね。)
ですが現代社会は、クシプタに煽られ、競争と所有と消費への刺激が世界を動かしている次元です。
ここをどう調和的に生きるかって、苦行ですね!(笑)


ともあれ、ヨーガをしているとだんだんこういうクシプタチッタな傾向は、個人の心としては少なくなると思います。それは恩恵ですね。


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2019年1月17日木曜日

手放せばもれなく自分が残る〜アパリグラハの教えより〜

ヨーガ・スートラに「アパリグラハ」という教えがあります。


非所有、という教えで「持ちすぎない」ということであったり、「持たない」ということ。

いろいろなものや条件に囲まれている私たちですので、物質的なすべてを持たないわけにはいかないのですが、持っていてもそれを所有する意識を持たないことであったり、持っていても執着しない、というスタンスも入ります。

人は物や条件に価値や愛着を感じて、その保持に忙しくなります。


ものに価値を感じる意識はたしかにあるのですが、その「価値」を手放すと、

もれなく「自分」が残る

というすばらしいギフトがありますね。


これはヨーガから教わったもっともシンプルで偉大な教えのひとつだなあと思います。


だって人は、とどのつまり「自分がわからない」ので、それを物や人に転嫁して、それゆえに不幸になったり満たされなかったりします。自分を理解して、愛の存在だと感じることができれば、人生開きますもんね。



「(不必要に)持たない自分」でいると、自分の強さが現れてきます。


手元にあるものは、あるものとして有用に使うとして、「物(条件なども含む)」を自分にまとわりつかせるのをやめれば、「自分」の生身の姿が見えてきます。


それゆえにヨーガストラはアパリグラハの節で、


「アパリグラハを確立した人は、過去と未来と出生に関する知識を得る。」


と言っているのでしょうね。


意識は物質にも固定されます。


物質的に密度の高いものに心を向け続けていると、心はそこに同化して


物理次元の諸々しか見えなくなっていきます。


”所有意識がかけらもない”という状態って、普通の人の状態だと想像できないものだと思います。


”物欲とかなくって〜〜”、などなど言ってみても、物に頓着がなくても、何か別の条件下では所有意識があったりするもので、実際には人は物や条件を必要とし、心でそれを所有します。


本当にアパリグラハが完成しちゃった人、というのは、心がいかなる対象にも絡みつかないからこそ、「時間」という思い込みからも自由なのでしょう。

自分のアイデンティティにまつわるすべての”虚構”すら非所有なので、自分の本来が見えているのでしょうね。


100%の純度でこんな状態になれなかったとしても、アパリグラハの実行で心の自由度が高まることは容易に想像できます。






「多くのものを持っていても、自分のことはわからない」

この現象は私たちの普通の生活と、この経済社会に広く浸透していますが、

こういった時代や環境にもアパリグラハのようなシンプルな教えというのは、本当に機能性の高い教えだと感じます。



自分の所有物であっても、「自分の物」と思うことやめてみたり、たまたまここに在ってくれた物、そんな感じで心をかためないこともひとつかと。


物を少なく生きよう的な時代の流れにのってみてもいいかもしれないです。

実際に、ないと工夫するので創造性が高まることもあります。







今日は、ごく浅いところの紹介ではありましたが、アパリグラハ(非所有)についてでした。





こんな風に、人生に必ず役立つヨーガ哲学。


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しびれますよ。






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2019年1月3日木曜日

2019年だって始まれば終わる


したをむいたいぬのぽーず
















あけまして三日目。

今日もグルの言葉。

『人間は考える動物である。

人間はその身体によって人間であるばかりではなく、その心によって人間なのだ。

「人は心なり」とサンスクリットの聖典は言う。

それがまずあなたの考えが正されなければならない理由である。それが、内なるヨーガがどうしても必要な理由である。
それゆえ、あなたの心をたえず内に向けよう。

あなたが外界に「多」を見るのは、あなた自身が多に分裂しているからである。あなたの人格が分離しているようである。


「私は太っている」と言う時あなたは身体的な人間である。
「私は聡明だ」と言う時、あなたは知性の人間である。
「私はあなたが好きだ」と言う時、あなたは情緒の人間である。

あなたは自分自身と多くを同一視する。

そんなふうに自分自身を分裂させてしまわずに、ひとつにしよう。

あなたの中にそのヨーガ(結合)を見出そう。自分によって、自己を知ろう。』



スワミサッチダーナンダ師の言葉です。

(書籍「自己を知るヨーガ」より)

自分自身と何かしらの外界の条件を同一視することは、私たちが常に行なっている思考ではありますが、師の言うように「そんなふうに自分自身を分裂させてしまわずに、ひとつにしよう」という言葉でハッとするものがありますね。


自分自身を分裂させないで


多くの人にとってのテーマかもしれない。

自分の「行動」は自分を統合するものであってほしいのに、行動をすると外へと多方面へと枝が伸びて行き、自分の内面的根っこになにがあるのかを見失いやすいもの。「考える」こともまたそうであったり。
自分を分裂させないために、ヨーガの観点からできることというのはいろいろあるのですが(例えば日常的な瞑想とか)、外に向かって行動をしているときに「進化」や「前進」という名の下に自分自身の本来から離れてしまわぬように注意できることもまた、あると感じます。

あまりに得意でないことや向いていないことに時間やエネルギーを使うと、分裂の方向に行きますね。水面下の葛藤がじわじわと、自分自身への疑問を増幅させたり。人の意見や賞賛を求めすぎると、これもまた心は分裂していくと思います。


心くつろいで、それでいて行動はがんばれること。そういうことをしているのが人生にはいいと思います。


新年。
みんなの中にたくさんの希望や目標があると思います。それらが調和的に奏でられて織りなされるといいなと思います。
その人の自然、おさまりがいいところにスポッと入れるといいなと。

なんでもかんでも簡単に「手放せ」と言えないのですが、それでも要らないものに手をかけて煩いを増やすよりも、持っていてちょうどいい感じに整理されるといいなって思うのですね。

平穏って大事ですね。
時にパッションを発火させてガツっと進むためにも、日々の平穏がとても大事。

今年も、みなさんの心がちょっと楽になったり、気持ちを取り直したり、笑えたりして前に進めるようなメッセージをこのブログでも送っていけたらと思います。


私はというと、今年は、ヨーガ哲学を私なりに伝えることにさらに注力し、そして踊りと創作の方もすでに決まっている予定を思うと色濃いことがたくさんできそうな予感でいっぱいです。
ヨーガの古典を題材にしたオリジナルの舞台も行う予定です!!わーい。


人生一度きり。がんばります。
なんせ健康で体が強いというギフト(これもカルマwww)をいただいているので、おそらくは平均よりもかなり多めにこの世のおシゴトをしないと解脱できない生まれなのを受け入れて(笑)。

空想上の幸せを掲げたりそれを追いかけるよりも
今できることを頑張ります。
この世に生まれたからには、人はみんな、愛の戦士なのです。



昔グループで踊っていたころ、一回だけ共演をしたことのある有名なドラマーさんが、ステージの前に言ってました。

「始まれば終わる。」

(笑)

緊張していた若手ダンサーの一人が彼に「緊張とかしないんですか」という初々しい質問をして、返ってきた言葉です。
(今思うと大御所にそんな質問できるあたり、若い!w)


ステージも、始まれば終わる。


そう思うといいよ、と言う意味でしょう。

簡単(笑)。
さすがベテラン。


人生もですね!(無理やり)
始まれば終わる。

いつか終わってしまうのだから、この貴重な時間を「自分以外のもの」になったりする努力は(若いうちでw)やめて、

自分の自然を生きよう。

そういう風にしかプラクリティってできてないんだな、と思うグナオタクのつぶやきでした。


Namaste
師岡絵美里


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2019年1月2日水曜日

今年も踊ろうと思う



あけまして2日目。

去年はバレエがんばった一年だったなあ、と。
バレエは自分のメインでやってる踊りを補完してくれるのでトレーニングとしてやってます。もとがバレエ出身ではないのでけして人前でバレエなどやれないけど、自分のオリジナルの踊りが確実に変わるのでとにかくやり続けてます。

週二回、行ける時は三回、時間を取ることに苦戦する時が多かったけど、二年前くらいに入会した職場から歩いていける素晴らしいスタジオのおかげで、自分のヨーガクラス終わったらそっこーいく、とか時短しながらなんとか通うことができてます✨


ジャンルはなんであれ、踊れば自分の心のホームに帰れる。

とりわけクラシックバレエのよきところは、自我を捨ててバレエのカタチに心から入る、という作業で。やるべきことがここまできっちり決めてくれてあるってすばらしく、多面的になりやすい自分をひとつにまとめてくれる。
ヨーガだとアシュタンガヨーガみたいな感じかな、とか思ったりする。やる事が決まっているからあれこれ考えずに没頭して、そこに自分を納めていくことで浄化させる。


そして人には、どんなに型を大切にしてもどうしたって出てしまう「個性」があるから、むしろ個性とかオリジナルとか意識して追いかけなくても、型が自然な自分を後押ししてくれる。
そのような機能性にまで高められているクラシックは、踊りにせよ音楽にせよ素晴らしいなあと思うのですね。


そんでもて。
長年裸足で踊ってきたせいか、履き物をはいて踊るのがほんとは好きでない私は(笑)、練習用バレエシューズの履き心地を求めていろいろ試した一年でした。つま先をまとめられるのが好きでないんだよね(笑)。。ってそれ言ったらバレエが一番向いてないよね(笑)。
今のところチャコットの生地が薄いのが一番すきです。



年末に、シューズの汚れを取り、特殊な方法で(なんじゃそれ)きれいにしてすっきり😀
並べて悦に入っていたら、娘が私のシューズのサイズを見て、

『あ、わたしと同じサイズじゃん。履いてないやつもらっていい?』

と!
君、そんなに足デカかったのか‼️‼️
えーーーー
娘は149センチになり、足は24。。。
この一年で10センチほど伸びました(笑)
すげーーーー、そりゃよく食べるわけだ。

娘には、クリスマスプレゼントで新しいトーシューズ。
自分で補強とかリボンやゴムの縫い付けとかもできるようになり、
成長を感じるというよりも『あー楽になってきたなあ』と思ってしまうテキトー母な私(笑)。
ま、それとは違うところがまた大変な歳なんだけどね。



今年も踊り、がんばります🚀✨

2019年1月1日火曜日

2019年 おめでとうとうございます



皆様あけましておめでとうとうございます。

2019年✨良い年になりますように。

ことしも、グルの言葉から


『ヨーガはたまに一度まとめてするよりも、毎日少しずつした方がよいということを覚えておこう。

毎日聖典の一部を抜き出して朗読し、読んだポイントについてしばらく熟考し、それを自分の生活の中に同化することに努めよう。

絶対にこうしなければならないという決まりはない。すべての修練についてひとつだけ決まりがあるとすれば、それは『あなたの能力にしたがって行い、やりすぎないようにする』ということだ。

ハートの鍛錬に、かたくなさは禁物である。

前屈の姿勢のとき、隣にいる人が顔を両膝の間に埋めることができるのに、自分は足の指すら手が届かないからと言って、自分の背中を痛めてもよいのだろうか。
他の人々と競争するのはやめよう。

最良のものとは、常に“もっともたやすいもの”である。真理は平明であり、非常にたやすく近づかれるべきものだ。』

スワミサッチダーナンダ師の言葉より


ナマステ✨