EMIRI MOROKA -HEART MATRIX-

師岡絵美里のブログです♪


2020年5月25日月曜日

存在とことば 〜美しき魂への追悼〜



インドの思想とその歴史に心惹かれて長い年月が経ったように思います。


その時々でクローズアップしている時代とか書物、人物など変化もあるのですが、最近は中世のヨーガ思想の探求がぐぐっと進んでいて、それを確認するためにまた紀元前のような古い時代の書物に戻ったりと、一生やっても終わらないであろう日々の思索に果てしなさを感じます。


古い書の中の、
賢人の言葉の、
ある一人の人生の伝記の中の、

そのたった「一行」の文言から広がる時間を超えた「知」は広大です。
気づくとその一行に何日も滞在し、その世界を旅している自分を発見します。



また、現実の中で知り体験する事柄の中にも多くの「叡智との同値」を見つけ、その中にしばし立ち止まって考えてしまうことも多々あります。



それは時に悲痛な形で示されることもあります。





非常に、言葉では表現され得ない悲しいニュースではありますが、先日、若い女性が自死したことをニュースで知りました。


世間の流行などにうとい私は故人のことはまったく知らなかったのですが、多くの人に愛され、そして多くの人に「損なわれて」いたことを知りました。


本当に悲しく、こんな時には宗教的死生観や哲学を持ち出したりしないで、ただただ故人を悼み、悲しむべきだろう、と思ってしまいました。人生への解釈など、それすらが暴力的だとすら思いました。
「喪に服す」という風習をどこの文化も持ちますが、新たに考える前にまず、残された者としてそれを受け入れる時間が必要です。


若い彼女の死を思い、そしてそれを受け入れなくてはいけない彼女を愛する人々の気持ちを思い、深く瞑想をしました。


その中で、彼女の「死」を思うことはそれ自体が彼女の「生」つまり「有」を思うことだと、瞑想の中で深く納得しました。









紀元前1世紀頃のインドに、ヴァイシェーシカ学派という、理論が難解な哲学派があります。世界観を理解するのには現代人の思考方法を一旦手放さないと入れない理論なのは確かです。


ただ、古代の人々の思考は今よりもずっとシンプルだったのだろう、とも思います。言語化すると難解な理論ですが、心の目をクリアにして捉えてみると、その見え方がわかるのです。


ヴァイシェーシカの理論は根本原理まで話すとかなり抽象的かつ広範なので今は控えますが、ひとつ大きな特徴として「実在論」であり、「実在」と「言葉」を「対応」させます。


「名付けられること(言語化できること)」は「実在」だ。

という考え方です。


(これは、現代によく言われる願望実現系の「言葉で唱えれば実現する!」という種の発想ではないので、そこと一緒にしないようにしておいてください。あくまで「存在」に関する論です。)



私たちはよく、「ない」という事を考えたり口にしたりします。
特にそれ以上なにも思索しなければ、「ない」は「ない」でしかない。


しかしヴァイシェーシカの理論では『“ない”がある』と考えます。

 この床に水甕の“ない”がある

 この牧場に牛の“ない”がある


と(言語化できる以上)そこには「水甕のない」や「牛のいない」が「実在する」というわけです。


(今も昔もインドには水甕と牛がたくさん「ある」のでしょう、多くの例えに水甕や牛がよく出てきます。りんごくらいの感覚で。)


「名付けられる」というのは「言語化できる」ということで、言語化できるものを「実在」として認めるヴァイシェーシカは、そういったわけでこの世界にかなりたくさんの「有」を認めることとなります。
亡霊だって、締め切りだって、白馬に乗った王子様だって、天国だって地獄だって、言語化されるのであれば「実在」なのです。
「実在と言葉を対応させる」と言ったのは、簡単に言うとこういうことです。
(理論構造はもっと抽象的で文章にすると普通の感覚だと「わけわからない」ものなので今回は割愛します。)




 床に 水甕のない がある

 牧場に 牛のいない がある

 床に 水甕のない がある

 牧場に 牛のいない がある




お亡くなりになった故人のことを思いました。
そして彼女を失ってしまった人々の気持ちを考えました。



 彼女の “いない” がある



そこには生命があり、記憶があり、確かに存在がある。

「ない」ことになどできない、人の命の重さがある。

それは感情論としてではなく、確かに「有る」ことであり、有るがために感情が途方もなく広がるのが人間の心だとも思いました。


ヴァイシェーシカの事など考えていたわけではないのに、追悼の瞑想の中で、故人を「ない」にできないという、人間としての当たり前の心性にしばし強制的に没入させられました。



 名付けられれば実在

 言語化し得るものは、ある




現実の中で知り体験する事柄の中にも多くの「叡智との同値」を見つける・・・というのを、得てしてこういった、苦しく逆説的な事柄の中で受け取ることを余儀なくされるのは、人間のこれまでに積んだ業なのか、と、深く考えてしまいました。



一人の女性への追悼から没入してしまった「実在」「有」に対する感触にどう向かうべきか、何かしらの回答を得たく、ヴァイシェーシカ学派およびインド六派哲学の理解にいつも頼っている宮元啓一先生の本を開くと、







存在とことば。と。


存在とことば。


ヴァイシェーシカ学派の理論は死生観というよりも自然哲学であり、物理的に現れている現象世界をどのように「観る」かというものなので、人の生死を考える時になぐさめられるというようなものではない。それはわかっていました。

しかし、


「存在とことば」

という章のタイトルを見ただけでそれ以上にページはめくれなくなりました。




この世に生まれ、素晴らしい名を“名付けられ”

確かにこの世に存在した美しき戦士

もっと長く生き輝くはずだった一人の「娘」を

この有限の幻想世界から連れ去ってしまったのも

それもまた「ことば」だった

無意味に投げつけられた、本来実態のないはずの悪意あることばは

投げつけられた人間には「実在」となり

本当の痛みとなり、そして本当の血を流させ

ことばが彼女を「損なって」しまった



それを思うともうページはめくれずに、どうしてこんなに、愛や喜びを生きることが難しい時代になってしまったのだろうと思わずにいられず、また、この世界を生き抜かなくてはいけない若い子供達になにを伝えるべきかを思いました。


考える時間が必要で、考えないといけないことだと思います。





ここまで読みますと私がひどく落ち込んでいるように思うかもしれませんし、確かに一人の女性の死に関してはそうではあるのですが、私の脳は活発で健全で、また「思い」がしっかりと湧いてくるのを感じていました。

放棄してしまいたいほど「ひどい」ことが起こる世の中だけど、自分にできることはまだある、と。



「ことばと存在」について、あきれるほど執着して考え尽くしたインド思想とその哲学が私にはある。それに支えられて生きてきた経験もある。


これを伝えていくことは、誰かの生命を活気づけるだろうし、誰かの心を励まし癒すものだと心から感じているから、それを伝えていこう、と。世の中を大きく変えたりなどできないし、自分の影響の範囲の狭さもわかっているけれど、小さい範囲でも「しない」を選ぶ事はしないほうがいい。そっちを選ぶと死ぬ時に後悔するのがわかるから。


古代インドも、また多くの思想の中でも、ことばは生命であり創造の力と捉えます。ことばに宿す知性がここまで下ってしまった時代の課題は大きいけれど、古代の叡智から学び知ったことを助けに「今」できることだってたくさんあることを強く感じます。

誰かを生かし、誰かを勇気付ける優しいことばで生きよう、と思いました。



長くなりました。


故人のご冥福を心からお祈りします。

苦悩から解放された魂に、みんなの愛が届きますように。

そして同じように「ことば」によって損なわれた多くの存在の「有」を讃え、この先の私たちのあゆみに加護を与えてくださることを祈ります。

世界がもっとよくなりますように。

自分にも、なにかできますように。





ナマステ
EMIRI



2020年5月6日水曜日

「手前に戻る」(まにぱどめヨーガ勉強会5/2,3)

<ヨーガコラム>
「まにぱどめヨーガ勉強会」5/2,3 
ヨーガ哲学セッションのシェア


「手前に戻る」


セッションで取り上げた「心の清澄」の回
ヨーガ・スートラ1-30〜39までについてを考察しました。


心ってどうしても動いてしまうものなので、乱れを感じたらまず意識的にできる安定の手段として、いくつか方法があるよ、という項目でした。ヨーガ・スートラがある人はお手元でもう一度確認してほしい内容です。



<ヨーガスートラ第1章より「心の清澄・心の安定のために」>
1-33 心の清澄は、他人の幸福への親しみ、不幸へのあわれみ、徳への 喜び、不徳への無関心を抱くことで生じる。

1-34  あるいは、息を吐き止めることによって。

1-35  また、五感を超える知覚の発達も、心の集中の助けとなる。

1-36  心の安定は、悲しみを超えた、輝く光を知覚することでも得られる。

1-37  欲望のない人間を瞑想することによっても、心は安定する。

1-38  夢の対象や夢を見ない睡眠の状態を瞑想することによっても心は安定する。

1-39 適切ないかなる対象を瞑想することによっても、心は安定する




このセッションに、お一方からとても考察しがいのある感想メールをいただきました。

この様な状況で少し気持ちがぶれていたところが落ち着いたというか、軸に戻して頂いたような感覚です。コロナの状況から “死は怖いことではない、意識は永遠なのだ” という事ばかりを言い聞かせている様な感じでしたが、今日の1-33からをおさらいした時に、もっと手前に戻ろうと思いました。

と。

「手前に戻る」について、すごく大事な気づきだと思いました。いい言葉をチョイスしたなあ!と思いました。


で。

そうですね!

「意識は永遠なのだ」はたしかにそうだけど、目の前にある現実に対応させるとなると高度かもしれないですね。

おっしゃる通り、少し手前に戻るといいんだと思います。
すごく大事なところに戻ったと思います。

そして「手前にもどる」ことが実は、「本質を知る」という意味での「先へ進む」ことになると思います。


「死は怖いことではない」というふうに唱えても、実際に死ぬことや病に陥ることがまだまだ「怖い」方にリアリティを感じるのなら、「怖くない」と言い聞かせることよりも「何を怖がっているのか、ちゃんと話そう」と自分と対話するほうが現状に合っていると思います。


もちろん意識は不滅、肉体は理由はなんであれいつか必ず消滅するという事、それは真理ですし、そこに悟っていられれば「究極的な安心」はあると思います。死の恐怖を超越できれば、ですね。


しかしですね、ヨーガ・スートラ第二章の「5つの煩悩」ってやりましたね(二章三節)。
「死への恐怖(アヴィニヴェーシャ)は賢人ですら持つものだ」とありました(二章九節)。
これはなかなかしぶといのですよ。
どんなに真理の知識を得て、賢さを高めたとしても、肉体が有る限りこの恐怖は根深く残るものなんだと容易に想像できます。

私なんて人が手を切って血が出ただけでもう自分の血の気が引きますもんw 注射針刺さるところ見れないですよ未だにwよわ!! 


もとい(笑)

肉体感覚のシンパシーってすごいんですよね。
他人の痛いは自分の痛いを刺激します。
誰かが交通事故や大怪我にあったと聞いたら自分のことのように苦しく感じるのも、自分でなくてよかったと悪気なくもはや反射的に思ってしまうのも、肉体への執着を持つ自我、心なんですよね。

だから今現在は、他人の病気、他人の死で、自分の身体感覚・記憶がいやおうなく刺激されちゃってるんだと思います、世界中の人たちが。


そんな不安定なグナばりばりのところに「意識は普遍なのだ。肉体はいずれ滅びるのだ。」と言ってみても、あんまり響かないだと思います。心の散漫さと身体の安全欲求のほうが勝ってしまうから。
真理っていうのは、すごいクリアな心で、すごい集中がなされている時に「理解」が開くもの。それもヨーガ・スートラにありましたね。不安定で散漫な心が見るのは「誤解された現実」と。


そして私が思いますに「意識は普遍なのだ、死は恐るものではない」という真理を「外圧によって悟る」には、もっともっと差し迫った危機じゃないとそこまで目覚めないんだと思います。
それこそ「知ってる人の半分以上が死んだ」くらいまで自分にとって差し迫った事柄にならないと「死は必定・魂は不変」みたいな「最高真理」と同調するほどには至らないんだと思います。
戦時中とか、敗戦直後の日本や、実際に戦地で死に向かって飛び込んでいった兵士のようなレベルまで行かないと、という事。(そうであっても人は生きたいのだから、なおさら。)
私の祖母は戦争を機にクリスチャンになりました。その後一生クリスチャンで、いつも真理の話をしていました。戦争が祖母にとって抜き差しならないレベルで「真理」への理解を迫ったんだろうと想像できます。


現在のコロナの件ではまだまだ「最高真理と同調する」ほどの悟りへの圧力にはならないと思います。

自分の心配、生活の心配の方で心が揺れるのが精一杯で、それはそれで必要なことで、良く言えば私たちまだまだぜんぜん平気で、平気なんだから、コロナで気持ちをざわつかせたりしないで日常をちゃんと生きればいい、ってことも言えるんだと思います。

人間の心ってそういう風に、良くも悪くも「生」や「生活」に執着があり、今はまだその執着を手放さざるを得ないほどの窮地ではないって事ですね。

だから無理に「死は恐るるにあらず」なんて極論をひっぱり出さずに「手前に戻ろう」でいいと思います。



そしてメディアの影響で「病気」や「死」への恐怖が刺激されているのでしょうが、本当はそういうことじゃなくておそらくみんな(一般市民)はもっと「具体的な現実」が怖いのだと思います。

実際に身内が亡くなったり自分の会社が経営破綻したとかならまた別ですが、そうでなければ「収入はどうなるのだろう」とか「雇用はどうなるのだろう」とか「子供の勉強・学力どうなるのだろう」「予定していたあれはどうなるのだろう」みたいな。そこは問題が個人によって変わってくるので、ちゃんと「個人的な不安」に向かい合ってあげるのが健全だと思います。

そこを自分と対話して「対策」を作れば、そっちの方が穏やかなプロセスで真理と向かい合えると思うんですよね。
なにもコロナの外圧で力任せに悟らなくてもいい(笑)。
人生にはもっと逼迫した個人的危機はきっとあるので(怖いね!w)、力技はそっちに取っておこう。
もちろん最高真理は胸に置きながら。




「個人的な不安」に向かい合う例として、
私の知人は今回の件だけでなく、食料自給率がかなり低い日本に問題を感じていました。災害や突発的な事が起こるとすぐに「なにか」を買い占めに走ったり、危機感に踊らされるあり方。実際に他国との物資のやりとりが途絶えたら手に入らなくなる食料は数多くあります。今普通に食べているものが買えなくなります。これはすごく身近な問題なんですよね。そうなるのは日本は簡単です。
今回のコロナでの自宅待機期間を、この問題に向かい合う時間にし、家庭菜園を拡大し食料の自給率を数パーセントでもあげる。もちろん仕事をやりながらなのでこの先仕事が元のスタイルに戻ったら手をかけられる範囲に限りはあるのですが、それも見越して今時間があるうちに準備しよう、と。季節ごとに日常的に使う野菜が常に数種類は採れる、という基盤を持っておくのは心の安定・精神的なインフラになります。もちろん喜びも。
すべての食料をスーパーに依存している生活から考えると、それだけでもすごいことだと思います。


また別の友人の例。
小学生の子供の学校の休講、塾も休業が長期になってきて、子供の学びや学力が心配に。
子供はやっぱり「場」があることで勉強ができるというのも大きくて、これまでの学校での成績とか子供の性格とかあまり関係なく、一人で家で勉強するというのは小学生やまだ受験や進路などに切羽詰まってない中一くらいの子には難しいです。子供が勉強しないことでイライラして当たってしまうという問題もある。(これが一番大きいかもですね。)
なんとかできないかと考え、同じように思っているお母さん友達らと話し、子供たちをオンラインでつないで、youtubeなどに上がっている学習動画をみんなで同じタイミングで観る、という勉強会を主催。
少しでも「場」を作る事で、みんなで勉強している、友達と繋がれる、という刺激を与えて明るい勉強の場を作ることをしています。


そんな風に「手前に戻る」ということの具体例はたくさんあると思います。


そして・・・

「自分でできること」の「限界」を知る事で真理がわかる

という側面もあるんだと思います。
上記のような、とにかくやってみる事にベクトルを向けた人たちは、おそらくその中で真理に近づいていくのだと思います。


最重要・最高真理ってのは、あると思います。

ヴェーダによるとアートマンはブラフマンなわけです。
ヨーガ・スートラによるとプルシャとプラクリティは別ものなのです。

今は、その真理の抽象度を下げて、現実に呼応させる知恵を身につけるのに最適な時期だと思います。

そういう意味ではとにかくギフト的な時期にいること、それを生かす方向にするのが、人生を理解するという意味での真理への道なんじゃないかと思うのです。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

以上、真理はたしかにあるということを前提に、「手前に戻る」というキーワードからの考察でした。

EMIRI

煩悩について(「まにぱどめヨーガ勉強会」4/22)



「まにぱどめヨーガ勉強会」4/22
ヨーガ哲学セッションのシェア


「煩悩について」


「煩悩」というものの詳細についてを書籍「現代人のためのヨーガ・スートラ」の解説とともにお話しました。


ヨーガで言う「煩悩」とは、真理を見ることができない心、真理につながらない心であり、「無知」を代表とする心の曇りということになります。

それぞれの概念をサンスクリットで言いますと
煩悩:クレーシャ
無知:アヴィドゥヤ
となります。

煩悩は「種子」のように例えられ、休眠中・弱まった状態・中断された状態・活動中、に分けられます。


・休眠中の煩悩
あるけれども眠っていて発動していない。なんらかの外的刺激が加わると起きる。
(土の中に埋まっていて、栄養が与えられたら芽が出てくるという潜在的な状態ですね。)


「死への恐怖(アヴィニヴェーシャ)」がその代表とも言える。
日々「死への恐怖」を感じていたら心はもたないので普段はそんなことを感じない。煩悩は眠っている。

しかしまさに、今回のコロナウイルスの蔓延ような、自分自身の体と命への危険性が高まったことで“起き上がった” 恐怖心や心の反応は「休眠中だったが起こされた煩悩」と言えますね、とお話しました。

死への恐怖という究極的なものではなかったとしても、「いつもとは違うこと」という刺激で姿を表した様々な「煩悩」を発見した人も多いのではないかなと思います。

その中には、怒り、憤り、無気力、無力感、差別意識、放棄したい気持ち、貪り、怠惰、無知による迎合、今まで体験したことのないレベルでの行動規制による身体的なストレスという刺激で持ち上がったものもいろいろあると思います。




・弱まった(気薄になっている)煩悩
煩悩があったとしても、その煩悩が「真理を学ぶこと」や「よき考え」で弱められている状態。

「煩悩を弱める要素」としての代表は「聖典学習(スヴァディヤーヤ)」。真理を学ぶこと。


例えば、先に挙げた「死への恐怖」という煩悩。
ヨーガスートラにしてもバガヴァッドギーターにしても「聖典」には「人は肉体が本体ではなく不変の意識なのだ」と説きます。
こういった教えがなければ、大抵の人は「体」が自分だと信じています。

しかし「体は本当の自分ではない」ということを知っていることによって「死への恐怖」という煩悩があったとしても、それが刺激された時に何も知らない状態よりも心を取り乱さずに済んだとすれば、それは「聖典学習によって煩悩が弱められた」という状態にあたる、ということになります。


私からのアドバイスとして、ある種「情報の混乱」とも言える状況で、日々ニュースやSNSなどで過剰で雑多な情報を浴びている人も多いかと思われる現在、質的にも量的にも普段ならヨーガの本を開いたりヨーガクラスに行ったりしてよき波動を浴びることで抑えられるものも、昨今の事情ではそのレベルを超える刺激にまみれている方も多いかな・・と。さらにはクラスに行ったりもできませんし。

ですので、こんな時期は「多すぎる情報(刺激)」を凌駕するくらいに「聖典学習」の方もどんどん増やすといいと思う、というお話をしました。

ニュースをどうしても見てしまう、という人も多いかと思いますが、ニュースのあとでもう一度真理の本に戻ったり、SNSを開くよりも自分の学びたいことの関連する読書などをしたりするといいかもしれません。



・中断された煩悩
煩悩が、何か別の「もっと強い煩悩」によって中断されている状態。
怒りや悲しみも真理に導かれないものとして煩悩なのですが、例えば「怒りA」があったとしても、別の「怒りB」の方が現在勝っていて、「怒りB」に夢中なために「怒りA」は思い出されないのですが、BがおさまってしまえばAはまた出てくる、けしてなくなったわけではない、ということです。

どうしても手に入れたいと思っていたAがあったのだけど、今Bへの渇望が強く、Aはどうでもよくなったかなと思ってはいたのだが、いざBを手に入れたらまたAが気になり始めた、みたいな(笑)。
Amazonなどの「あとで購入」に似てますね(笑)。
より思い出しやすい引き出しにしまってあると、すぐに渇望が湧くものです。


私からのコメントとして、今コロナコロナですごく思考が忙しいし、そのせいで別の事柄に関する思考は停止してしまっている部分もあるかのもしれない、と思ってみると、コロナ以前に取り組まないといけない案件があったんじゃなかったけ?ということを一回考えてみるといいかもしれないね、と話しました。
コロナにまみれて、別の重要案件を忘れているかもしれない・・という可能性もあり。




・活動している状態
煩悩が今まさに活性化されていて、自分でも気づいている状態。芽が出てしまった状態です。

重要なのは、この状態のみ自分で気づける煩悩で、逆に言うとこれにしか意識的には手をつけられない、ということ。

ヨーガの修習(アヴィアーサ)とは、意識の上に上がって来て「気づけた煩悩」に対して「サットヴァ(純質)」の行為を生み出す自己努力、というわけですね。


今、私たちはいろいろな現実に直面していると思います。
個人的なものも、国レベルのものも。

何かに対峙した時に、自分の中で心を衝突させてしまうと混乱します。

上がって来た煩悩、やって来た案件を、まず冷静に冷静に、深呼吸と共に見つめてみることをおすすめします。

「呼吸のない心」でガン見しても、自分の心の癖がざわつくだけです。

穏やかな静かな呼吸とともに「見る」と、複雑に見える物事や自分の心に「一点確かななにか」が見えることがあります。


セッションの最後のフリートークの際に、「心を落ち着けるためのなにかアイデアは・・」というテーマをいただき、私から

「勉強をすること」

という提案をしました。

ヨーガの勉強でもいいし、自分の好きなことでもいいし、この時期せっかく時間ができたなら今までやれなかった勉強をするのがいい、と。


・・・・・・



コロナ自粛期間のオンラインヨーガ、4/22のセッションではこういったお話をしました。


書籍「自己を知るヨーガ」の中にグルの素晴らしい言葉があるので最後にそれをくわえておきます。


「あなたは自分のところにやってくるものを避けることはできない。

それがやって来た時に自分自身を助ける正しい態度を身につけることはできる。」


スワミ・サッチダーナンダ師の言葉です。



今回のコロナの状況で「わたしの元にやって来たもの」はなんでしょう。

それは一人一人に来た「なにか」であって、ウイルスじゃないかもしれないですね。

そして、来たからには取るべき「自分自身を助ける正しい態度」とは。


そんなことを考え出すときっと、これまでに蓄積した既存の「情報」が邪魔してうまく考えられないかもしれません。

そんな時もぜひ、ヨーガの聖典を開いてみてください。

絡まった思考をほどいてくれると思います。

2020年1月19日日曜日

思想と哲学どう違う?〜EMIRIの変態的力説「君はいったい誰なんだ!」〜


思想と哲学、どう違う???
〜「君はいったい誰なんだ!」〜




みなさん、「思想」と「哲学」の違いって、自分なりにでいいので言葉で言えますか?

ないしは、考えたことありますか?



思想と哲学。

どっちもなんか「考え」に関係しそうだな。


思想って言うと、なんらかの主義みたいな、考え方の特徴みないなものがあって、


哲学って言うと、なんらかの主義みたいな、考え方の特徴があって・・・



っっって、あれ、同じじゃん!!

と、思ったあなた。



ふふふふ。思想と哲学の違いにフォーカスしてみますと面白いですよ。



なんかごっちゃにしてませんでしたか、今まで。
インド思想、インド哲学、同じ意味合いで言ってたりしませんでした?
「あの人の思想は〜〜」と「あの人の哲学は〜」を、たいした区分なく使ってませんでしたでしょうか。


まあね、一番表面に出てきた様子が似ているように感じられるので、思想と哲学って日常会話ではあまり区分されないかもしれません。


でも違うのですよ。
言葉が違うってことは、「その二つは同じ意味だ」と言われない限り、意味に違いがあります。


思想と哲学。
辞書的なところを根拠にしてみましょう。
webで検索できる三省堂・大辞林より。
長いのでとりあえず一番最初にある意味を載せます。



<思想>
① 人がもつ、生きる世界や生き方についての、まとまりのある見解。多く、社会的・政治的な性格をもつものをいう。



ですって。
じゃあ哲学は??



<哲学>
① 世界や人間についての知恵・原理を探究する学問。

② 自分自身の経験などから得られた基本的な考え。人生観。 「社長の経営術には一つの哲学がある」

初め英語 philosophy の訳語として「理学」「窮理学」「希哲学」「希賢学」などとした。のちに「哲学」が定着。philosophy はギリシャ語 philosophia (知恵への愛・希求の意)に由来〕



ですって。この意味合いだけを、スーパーおおざっぱにシンプルにして言いますと、



「思想」は、大多数の人か、ある集合範囲におさまる人たちか、個人かが、意識的にも無意識的にも「そうだ」と思っている考えのまとまりとその風潮(特徴)。


「哲学」は(上記の意味①より)物事の「ことわり(理)」を考察すること。



という感じ。



少し明確になってきた。
まあこれはあくまで上記の「辞書的な意味」から抽出した説明で、世の中の思想と哲学のすべてがこの説明で明確に区分できるかというと、まだあやしい。




もうちょっと考えてみよう。
またおおざっぱにシンプルに仮定してみます。



「思想」は、最初になんらかの特徴ある考えがあったとして、それを個人なり団体なり人々が、無自覚にも自覚的にも「まとっている」感じかな、と思うのです。


で、「哲学」って言うのは・・・・・
そういった「ある考え」なり「対象」となるモノを、
「なんでそういうことになるの?」という感じで、その原理を知ろうと働きかける思考、

と言えるかもしれません。


なので、なんらかの「思想」(誰か、ないしはみんながそう思っていたりすること)を「哲学する」ことも可能。


あくまで仮定です。でもそんなに遠くない仮定だと思います。そして言語なんてものは流動性のある仮定のうえに成り立っているものなので、仮定=不確か、とも言えないのダス。


そうでしょ? 昔と意味合いの変わってしまった言葉なんてたくさんありますもんね!今この地点における可能な限りの思索をもって定義づけなければ言葉なんて使えないのです。その連続なのです!
(めんどくさいヤツですね!!www)



で。


「インド哲学七つの難題」という書籍がありまして、宮元啓一先生という博士が著したおもしろい本があります。
私のお風呂タイムや寝る前の愛読書のひとつ。お風呂で読むと体があったまってホワっとしてしまい、まったく考察できないので毎回数行しか進まないのが真実なのですが、それはいいとして。



その中で先生は「哲学」をこう表現しています。



「哲学とはなにか。それは、われ思うに、知りたいという以外にいかなる動機もなく、純粋に知ることを切望する営みのことである。

そしてその営みは、その営みに用いられる論理への自覚的反省をまってはじめて確かなものとなる。」



と。
むずかしいですか?
大丈夫ですよ、またおおざっぱかつ的確に言いますから(笑)。



●ポイント1
「知りたいという以外にいかなる動機もなく、純粋に知ることを切望する営み」


そうだよね、知りたいよね。
知りたいのだ、人間は!


じゃあですよ。

「皇后さまのあたらしいドレスいくらなの??知りたい〜〜」とか、
「嵐の〇〇くんのスクープ、本当なの???知りたい〜」とか、
「エリカ様釈放!!この先どうなるの?知りたい〜〜」
「ゴーンさんの総資産いくら??知りたい〜〜〜」


。。。。これ、哲学ですかね?


知りたい、のは知りたい(笑)
でも哲学じゃなさそう(笑)
とりあえずゴシップぽいところに絞ったのはわかりやすさのためですw



哲学が哲学たる条件は、宮元先生の言葉からヒントをもらいますと「純粋に知ることを切望」。


皇后さまのドレスの値段にしても、嵐のメンバーのスクープにしても、エリカ様のその後にしても、ゴーン氏の総資産にしても、その知りたいの動機は「純粋」か。

そういうのは、好奇心とか、刺激ほしさ、みたいななんか別の「情」がありそうですよね。


哲学というのは、知に対するその動機の純度、が関わるのかもしれません。(きっとそうだと私は思っています。)


三省堂大辞林の方の意味で考えると、「 世界や人間についての知恵・原理を探究する学問」とありますように、その「原理」を知りたい、原理を探求する、これが哲学だとしますと、皇后さまのドレスの値段を知れたとしても(他の例えは割愛)、それがそうである「ことわり(理)」はわからないし、別に原理とかとかそんなのは「知りたい」の範疇じゃなかったとしたら、哲学ではない、ただ「情報を得た(それによって納得したり興奮した)」だけなのですね。

はい。






●ポイント2
宮元先生の示唆する「哲学」の定義に、

その営みは、その営みに用いられる論理への自覚的反省をまってはじめて確かなものとなる」

とあります。

ちょと難しい文章。


その営みに用いられる論理への自覚的反省をまってはじめて確かなものとなる

なんのこちゃ。

またおおざっぱに言います。



・「その営みに用いられる論理」とは、「知りたいという純粋な動機で探求する(営み)」をするうえで、探求できるように利用している「論(信頼できそうな方法とか視点とか)」を・・・



・「自覚的反省をまって」とは、「今、これこれを根拠に考えているけれども、果たしてこの考える方法や根拠、そして視点などは果たして有用だろうか、別の思索方法や観点もあるかもしれないのでそっちもやってみよう!」という感じで、自発的に(客観的にふりかえったり改めてみる感じで)反省することをもってして、という意。




つまりですよ。


哲学というのは、


・ことわり(原理)を知りたい(純粋に)


・ある考え方や論などを拠り所にしてまず考えてみる


・何らかの発見がある


・さらに、別の視点では、別の思考方法でも考えてみることができないか、という自発的な反省が起こる


・別の視点に立ってみたり、別の根拠をあたってみたり、別の思考論を用いてみたりしてまた探求


何らかの発見がある


くりかえし。



哲学。こんな感じです。



え〜〜〜〜終わらないじゃん!!
じゃあ、ヨーガ「哲学」を教わったとしても、なにか「これが正解」「こうしておいたらいい」みたいな約束事を確実に知れるわけじゃないの?
「自分で反省して、また自分で考える」を繰り返ししないといけないの?



と思ったあなた。


そのとおりです。

(笑)



だから大変なんですよ、哲学するって。
変態のやることだとも思います(爆)




でもねみなさん。

生き物として自然のサイクルに従って、食物連鎖の中で調和を生きている動物たちと違って、

「思考するようになった」

という人間の定義とも言える「条件」を備えてしまった時点で、


すでに人間はみな、「変態」なのです。



あははははは。
自論です。気にしないでね!
そんな大きく間違ってないと思うけど(笑)。







思想と哲学の違い。というところに話を戻しますね。



とても似ている「考え」に関する両者なのですが、


上記の三省堂大辞林の意味と宮元先生の言葉の双方を合わせて考えてみると・・・


「思想」は、自分で考えたり、自覚や意識したものとは限りません。

私たち日本人は「現代日本」の思想に幼いころから馴染んでいることがほとんどでしょう。

そういうものを「文化」とか「習慣」とか「価値観」とか「流行」とか「一般常識」という言葉で代用されることも多いけれども、その根本には「もとになる思想」が漂っているわけです。


思想は、大地に流れている水の性質みたいに、その水が清ければそれを飲む人や生き物の体は健康ですが、水になにか混じっていたら、それを飲む者の体の状態は変わってきます。思想はそういう風に、人々を大きく巻き込んで、その状態に促したり留めたりする力を持つものとも言えます。



戦前は天皇が神様だったというのも当時の日本の思想で、疑う人は少なかったのではないかと思います。
(なので、天皇は本当に神なのか?などと考察して口に出したら、変わっている人と思われたでしょう。)


年功序列とか終身雇用が当たり前だった時代はそれがひとつの思想だったと思います。あまり転職などしないほうが全うな生き方だ、という思想を持つ人も多かった時代かと。


家事は女がするもの、もひとつの思想だし、結婚はお見合いでするものだ、という思想だった時代もあったでしょう。



バブル時代の思想もありましたよね。
高くカールして後ろに流す前髪とか、肩幅の広いゴージャスなジャケットとかww、あれが素敵に感じられた当時の思想です。
あの頃は「三高」とか言って、高学歴・高身長・高収入でしたっけ? そういうのが結婚したい男性の条件、みたいな思想がもてはやされたり(笑)。


いい大学を卒業しないといい企業に入れない、高収入は得られない、というのも思想だった時代もありましたね。


日本人だったらだいたいの人が神社に言ったら手を合わせますし、ポイ捨てはしないほうがいいという思想がきれいな日本の街を作っているし、「成人というのは20歳です」なんかもひとつの思想ですね。他の場所では違いますが日本だとそうなのです。


だいたいの日本の人は「生の卵」はご飯にかけて食べれると思っているし、心理的な抵抗なく実行するでしょう(笑)。
外国人によって死ぬほど勇気のいる行為であったりもします。そういう思想を持たないからですwww


多くの日本人が、もともとはインドから来た「カレー」という文化に、カレー自体もだいぶ日本風になったけど、さらに「福神漬け」っていう日本の文化を当たり前のように付け加えます。

一般化して習慣化してますが、最初のどこかの時点で誰かが

「カレーには福神漬けだ」

という思想を立ち上げて、それが大衆化したのであろう。
(大げさだけどそういうことw)



そこを哲学すると、

「本当に福神漬けがいいのだろうか・・・
きゅうりのきゅーちゃんだっていいはずだ。
いや、べったら漬けで行くと、どうなるのか・・・
まて、なぜそもそも漬物なんだ。漬けたものでなくてもいいかもしれない。
まてよ、カレーに何かを加える必要があるのか?
このすでにひとつのメニューとして完成したカレーに、さらになにかを添加したいという心理の原因はなんだ????
寂しさなのか?満たされないものがあるのか?
おかんがずっとそうやって来たものを見ていたせいか?
その原理はなんだ!?

・・・では、

カレーを、そのままなにも添加せずに食べることに、
喜びを見出せはしないだろうか・・・・。

・・・・

カレーとは、なんだ?」





めんどくさ!!!!
こんな人いたらめんどくさいですね!!!
変態ですね!(爆)



でもね、おもしろおかしく書いてしまったけど、
哲学とは「知に対する希求」なのですが、
その前兆として「当たり前に疑問を呈する」というステップがあるのは確かなのです。
でなければ「思想」の中でゆら〜〜と、慣れ親しんだことに守られて、変わることなく生きることだってぜんぜん可能なのです。



そして、福神漬けでいちいちこんな風にやってたら、もう頭ぐるぐるで日々が忙しいですよね。


なので、本当に自分が知りたいと思うことに哲学するというのが重要で、なんでもかんでも疑問に思って疑って、ということじゃなく、大辞林の定義のように「世界や人間についての知恵・原理を探究する」というシンプルなところに着地するのだと思います。


だからね、「カレーに福神漬け」はもう美味しいからいいよ(笑)。
その思想はそのまま成り行かせよう。
3世紀くらい先の人間に改めて考察してもらうテーマとして譲り、「当時の日本人には、カレーに福神漬けをのせるという思想が当たり前にあったのです」と言わせよう。



ただ、その疑問視や思考方法を、別の、もっと自分にとって存在の根幹に関わるようなテーマに向けてみようじゃないか。


福神漬けで考察したら最後に「なにも加えないそのままのカレーで喜び感じられない?」というところに来たように、“正しく” 哲学するプロセスを持つと、問題の本質であったり物事の本質のところまでたどり着くことができます。これが、心にとって大事なのです!

同じことに悩んでばかりの人は、これができないのです。



そして福神漬けの件で最終的に「カレーだけじゃだめ?」という地点に着地したように、最後に「本質的で正しい質問」にたどり着くことができます。


ここがすごく重要で、


「本質的で正しい質問」ができると、その時に「正しい答え」が(この世界に)同時発生するのです。


これが、賢者の思考方法です。


逆の言い方をすると、「的外れな質問をしている時は、正しい答えは(この世界に)発生しない」のです。

(*この件は大事すぎるので別でまた書きます。)




きゅーりのきゅーちゃんじゃだめかな〜、
べったら漬けだとどうなる?
漬物じゃないといけない?



とか考えていたあたりは「可能性を探る」ということには成功していますが、まだ「本質」に到着していません。
なので疑問と可能性の間を行き来します。
それはそれで楽しいこともあります。けっこう楽しいからこそ、ここで終わってしまう場合も多いです。
カレーに合う新たなトッピングを見つけられたら楽しいですもんね。



でも。

さっきの例えを使って「カレーに何かを添加」を「私に何かを添加」に置き換えてみてください。


(私が)これを持っていたら、いい感じかな。
(私が)これを買って身につけると素敵かな。
(私が)資格の勉強して取得できれば、有利かなあ。
(私が)旅行をたくさんできたら、幸福感増えるかな。
(私に)素晴らしい恋人がいたら完璧かなあ。
(私が)有名になったら気分いいかな。


みたいな。
確かにこの「可能性のプロセス」は楽しいかもしれない。
実際にそうなっても、そこそこ楽しいし物質的には満たされると思う。


でも、「カレーだけじゃいけないっけ?」

のところが、

「私って、なにか付け加えないとだめなの?」

というところにもし到着できるならば、


「そもそも、わたしってなんだ?」

という質問にまでたどり着くことができます。


このプロセスが哲学です。
宮元先生のおっしゃるように、自分の疑問や質問に「自覚的反省」をもって考察を繰り返すことができれば、最後に「本質的で正しい質問」にたどり着くことができます。








そして、


「そもそも、わたしってなんだ?」


これが、ヨーガ哲学のテーマです。

「自己」についての「知」を求める。

それがヨーガ哲学です。

ヨーガからあなたへの哲学的に正しい質問は

「あなたは、誰ですか?」

という、この一言に帰結するのです。



その他たくさんあった「質問」、それらも個人の人生や個人の経験にとっては大事なものがきっとたくさんあります。それはそれで大事にしつつ、ヨーガが投げかける究極の質問について、考えてみたいと思いませんか?


「あなたは、本当は誰ですか?」


自己はなにか、ということです。







あ〜長かった!!!

とりあえず、大事なところに到着できました。




思想と哲学の違い、というところから、ヨーガ哲学の本質的な質問までをお話してみました。


ちょっと時間を作って、自分がもうすでに持っていたり、無自覚に慣れている「思想」を考えてみるとおもしろいかもしれません。


そして、その中でも自分の「存在」とか、人生にとって大事なテーマに関わることであったら、「今までの当たり前が本当にそうなのかな」と「哲学」してみるとなお、おもしろいと思います。





長かったですね!!(笑)

Namaste
EMIRI

2020年1月15日水曜日

インドの物理理論グナその4 集中と瞑想のヨーガ的前提( EMIRIのメールでヨーガ講座・初級編)


<<新年企画>>
*こちらはメルマガで配信した記事になります。




EMIRIのメールでヨーガ講座
「初級編4・集中と瞑想のヨーガ的前提」



新年企画としてメール講座的に書いています。



〜心の浄化・具体的編〜


前回の配信までに、「グナ」という古代インドの物理理論のお話と、心(知性)の浄化が必要なんだよ〜って言うお話をしました。

ヨーガを考える上で最重要概念のひとつです。

プラーナの性質である「グナ」は、

・サットヴァ:純粋性・光や明るさの質

・タマス:停滞性・翳りや暗さの質

・ラジャス:活動性・動きや刺激の質



こんな感じでしたね。

しつこく言っているので覚えてきましたか?(笑)。



で、ヨーガで言うところの「瞑想」の質や、真理というものは「サットヴァ(純質)」なんだ、と。

ですので知性(心)がサットヴァじゃないと、瞑想も変なことになるし、真理だと思ったものが実はそうでない、なんてことになるぜ、と。




瞑想ってなんじゃろ


関係ある範囲で脱線しますが、「瞑想」についてもうちょい細かく言います。
(あとで元々のテーマに戻るので大丈夫!ついてきて。)



一言に瞑想と言いますと、目を閉じて心を静かにさせている状態も、なんかリラクゼーション的にほわ〜〜〜と目を閉じている感じも、世の中的には瞑想と言ってしまいますよね。


なんですが「ヨーガにおいての瞑想」という定義はもっと厳密ですのです。
(日本語おかしくなってきたw まあ良いでしょう、面白い方が印象に残る。)



経典「ヨーガ・スートラ」の示すところの「瞑想」は、同経典の中の「ヨーガの八支則」の中の「順番」も考慮するとわかります。


ヨーガの八支則において「瞑想」と言う段階に入るまでの過程として、

 五感の制御(制感)〜〜集中〜〜瞑想

という段階を経ます。この順序に重きを置き、瞑想に至るまでに「五感の制御」と「集中」という段階の完成があると捉えましょう。

以下に整理してみます。



瞑想の前提1:感覚の制御ができている

八支則でいうと「制感」っていうもので、プラティヤハーラと言いますが、聞きなれない漢字熟語とわけわからないカタカナ用語を見るだけで「あ、ダメだわヨガ哲学わからんわ」となりそうな方は、今は言葉にこだわらず、とりあえず「五感をコントロールしている状態」だと思ってください。


五感ってほら、
良い匂いがしたらもっと嗅ぎたくなるし、
美味しそうなもの見たら食べたくなるし、
素敵な人がいたらお近づきになりたくなったり、
変な音が聞こえたらビビったりするじゃないですか。


そんな感じの「五感」が、統制されている。つまり外界の出来事への「反応」が起こらず、シーンとしてる。
そしてむしろ何かを「知覚する」という五感の機能性を「自己の内面」を見る方に向けられる、そんな感じです。


それだけでも、縁遠い感じがしますよね(笑)
むずいですよね。
引け腰および腰ですよ。

だっていい匂いは心地いいし、美味しいものは美味しいし、誰かの話し声が聞こえてきたら気になるものです。


でもヨーガの修行過程では、五感の外界への反応を、OFFにします。



瞑想の前提2:一つの対象に対して長い時間「集中」ができる

長い時間ってどれくらいやねん、と言いますと、一説によると・・・

一時間半以上

だそうです!(爆)

あはははは、なが!


私が言ってるんじゃないですよ!古代の賢者が言ってます。

(「現代人のためのヨーガ・スートラ」3章の解説より)


まあでも厳密な一時間半ってことじゃなくても、それくらいの次元でってことですよきっと(笑)。


日常の思考の動きなんて、何かに1秒も集中していないことの方が多いですよね。
あれを思い、次の瞬間これを思い。

youtubeの動画でも、動画分数が( )分とか出ると、長いな・・とか思ってしまいませんか?(カッコ内には自分の思い当たる分数を入れてね♫)



心(思考)ってそもそも散漫さがウリなのです。いろいろ感じてあっちこっち行くことができるのがあたしの持ち味よ♡って。
ですので、もしあなたが何か集中できる趣味でも行為でも想いでも、何かあるのなら、それってかなり貴重なこと。
そのテーマの中にあなたの人生のキーがあると思うので、集中していられる何かがあったら大事にするといいですね!



ちょっとずれましたが、仮に何かに集中したとしても、別の思考が急におっぱじまったりしますよね。


ひとつの対象に(長時間)集中し心を結んでいられる。


これがヨーガにおいての集中で、瞑想の前段階だというわけです。






瞑想の前提3:集中の対象はサットヴァなものでなくてはいけない


ほら!来ましたよグナ!!

話が冒頭に戻れましたでしょ??言ったでしょ、元のテーマに戻れるって!!!(笑)




ここで来るわけですよ、グナが。




瞑想の前段階での「集中」において、その集中対象は・・・



サットヴァなものじゃないといけない♡



サットヴァな対象とは、純質なもの。

純質ってなんだ。それは真理であり光であり、清いもの。

あるいは真理へと導いてくれるもの。



真理ってなんだ!

真理ってのは、「本当のこと」です。(そのまますぎてわかりにくい!)


前提として私たちの思考は、物事を脚色して、好きなように歪めて見ています。自分のことも他人のことも、出来事も経験も、その時の心のあり方によって質が変わってしまいますでしょ? 


そういう風に、心のあり方に影響を受けて質を変えてしまうものは全て「相対的なもの」であり、とどのつまり「幻想」なんですよ、と。

*幻想を「マーヤー」っていいますが、今は暗記への拒否反応を起こさないよう、覚えなくてもいいです。



幻想じゃなくて、心に影響されない不変の「何か」。それが真理。



「自己」もそうで、心のあり方によって変化し、相対によって変わってしまう「自己像」は、文字通りただの「像」で、低次元での自分の捉え方なんですね。それじゃない、と言っています。


“まったき自己”ともいうべき、真の自己・真我なるものが、幻想である心の世界のさらに内奥に、あるんだよ〜〜〜、と、先人達はそう教えておるのです。

で、そう言った質のものを集中対象に選びなさい、ということです。



じゃあ、サットヴァじゃない対象はなに?とか考えるとわかりやすいかと。



ラジャス性(激質)のものを集中対象にしてしまうと、心の動きがどんどん高まり、欲求とか好き嫌いとか快不快とか、煩悩的になっていきます。


好きだからと言って、目を閉じてラーメンに集中したとしても、「やべーー食べたい!もう目の前にあるくらいにリアルに想像できるわ!味まで思い出せる!」となっていましたら、五感が刺激されて反応を起こしていることになりますので、「前提1」も覆してしまいますよね(笑)。
たとえはラーメンじゃなくてもいいですw
五感がムクムク立ち上がるもの、気持ちが興奮したり荒ぶるものは瞑想に赴くための集中対象としてはNG。
欲しい欲しい!が高まるものもNG。
オレオレ!私私!が高まるのも、ラジャス性ですね。



タマス性(翳質・暗質)な対象に集中したらば。
そうですね、例えば、
暗〜〜〜〜〜い記憶、に集中。
恨みや嫉妬心に集中。。。
憎しみに集中。
いや〜〜〜な気持ちに集中。。。。。
残酷な妄想に集中。。。。
心配事に集中。。。。

笑。怖いですね!!
もはやこれは瞑想じゃないことくらい、ヨーガをしていない人でもわかりますねwww


心を低い方、無知な方に赴くグナがタマスです。暗い気持ちや、執着・貪欲を引き起こす類のものは、集中対象にならないわけです。


瞑想時にわざとこういう思いに集中する人はいない(はず)ですが、でも人の普段の思考ってこういう暗い案件にも集中してしまいますよね。
タマスは「無自覚」のグナとも言えます。
むしろ日常で起こる思考の波として気をつけないといけないです。




前回までのお話に戻れそうですね!


ヨーガをやるっていうことは、とどのつまり「サットヴァ」を選択すること、というお話でした。


日常から「グナ」を見極める目と心があれば、集中するという時にサットヴァを選択できるようになります。


そして前回のお話では、グナを見極めるにはということで「心(知性)」を「メガネ」に例え、きれいな布でメガネを拭いて、これまでの汚れを落とすことが必要だよ〜、というお話をしましたね。


で!

汚れたレンズ(心)を拭くための、きれいでキメの細かい布とは。
それがヨーガ・スートラの中では、

「聖典学習」

「身体浄化の修行」

「至高の存在への祈念」


だよ、と紹介されているんですね。

というところまでをお話ししました。






だいぶ、ヨーガの前提が見えてきましたでしょうか?

次回に続きます。


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本日も最後までお読みくださりありがとうございます。

ナマステ

EMIRI

2020年1月14日火曜日

インドの物理理論グナその3 心を浄化する手立て( EMIRIのメールでヨーガ講座・初級編)

<<新年企画>>


*こちらはメルマガで配信した記事になります。



EMIRIのメールでヨーガ講座
「初級編3・心を浄化する手立て」



新年企画としてメール講座的に書いています。


〜グナを見極めるには?〜


前回の配信で、「グナ」という古代インドの物理理論のお話をしました。ヨーガを考える上で最重要概念のひとつです。

前回は、グナを見極めるには心(知性)を純化しないといけない、というところまでお話しました。

プラーナの性質である「グナ」は、

・サットヴァ:純粋性・光や明るさの質

・タマス:停滞性・翳りや暗さの質

・ラジャス:活動性・動きや刺激の質



こんな感じでしたね。

で、ヨーガをやるっていうことは、とどのつまり「サットヴァ」を選択すること、というお話でした。




でもって、いざ実践しようという段階になり、サットヴァであろうと思ってもまず



「これはサットヴァなのか?ラジャスなのか?タマスなのか?」



というところで迷ったり誤認してしまいますと、実践のヨーガがなかなか進まないわけです。
(「迷うこと」も修行の段階ではあるのですが、そこから抜けられないんじゃ先がないですよね。)




また、サットヴァなるものを知識的に理解しても、普段の癖でラジャスやタマスに陥ったり、「欲求」の方が強い段階ですとサットヴァを認識してもそれを選択することができないんですよね。


体に悪いとわかっていながらも食べてしまう“なにか”、みたいな感じです(笑)。
もうなんにも創造的発展や純粋な気持ちがないとわかっている関係でも、ひとりになるのが怖くて別れられない、とかね(笑)。
次の日絶対に具合悪くなるってわかってるのに、深酒、とか(笑)。
これ一袋たべちゃったらすごい罪悪感と胃が気持ち悪くなるけど食べちゃうポテチ、とかですよ(笑)。
挙げたらキリなく、上記よりも「重い」ものはたくさんあるでしょう。




心が純化されるまでは、人は迷い、そして間違えます。



はじめのうちは、ただ単に「気持ちのいいもの」や「快適なもの」をサットヴァ(純粋の質)だと思ってしまう段階もあります。五感を満たす快楽の心地よさを、純粋性と勘違いしてしまうということですね。





サットヴァは、本来の自己であり真理そのものの性質であり、もしくは真理へと「つながる」ものの性質です。ラジャスやタマスを避けてサットヴァを選べる認知力が発達するまでは、自分の思考でこれを考えて見極める訓練をしていかないといけないんですね。




でも実際の世の中や、現代人の思考って、どうですか?



一般的な当たり前を信仰し、


情報に左右され、


人の目を気にして、


正解が(考えなくても)与えられることを期待し、


多くの人が言っていることをよく考えずにすぐ信じ、


自分や物事を決めつけ、


その時の感情に翻弄されながら、


上記のような心を習慣と惰性でなんとかバランスを取りながら、生きているわけです。



この状態で真理に心研ぎ澄まし、物事の真の性質を見極めることは、無理なんですね。





この世界に、真に「考えている」人はあまり多くいません。



それが心の生み出す「無知」の世界なのです。




では、そこから抜け出して、自分の目と心をクリアにするには、本当の意味で自分で「サットヴァに考え」、物事の「さが」を見極められるようになるにはどうしたらよいか。






それにはまず、前回のメガネの話で例えますと、きれいな布でメガネを拭いて、これまでの汚れを落とすことが必要です。



「メガネ(知性)が曇ったな〜〜」と、汚れた目の荒い布でレンズをごしごし拭いても、もっと汚れるしもっと傷がつきますね。もっと心が混乱して視界を悪くしてしまいます。




汚れたレンズを拭くための、きれいできめの細かい布


ヨーガの世界ではそれは「聖典学習」と「身体浄化の修行」、そして「帰依の心」です。




これは経典「ヨーガ・スートラ」による定義です。みっつを合わせて「クリヤーヨーガ(行為のヨーガ」と言います。






聖典学習で、経験で濁ってしまった知性に「真理」という浄化の知識を投入します。真理の知識は、汚れた体を洗う聖水にようなもので、この知識がないと経験の中で道に迷います。



身体浄化の修行によって、肉体や心が感情や欲求の奴隷にならない自己を確立させます。



帰依の心は「神への祈念」と言われ、放っておけば自己中心的になる人間の心を、より大きな存在を意識することで、いわば「人格」を清めます。





上記の三つは、どれかひとつだけやればいいというものではなく、三つを同時に行いましょう、と教えられます。




そしてこういった修練をすることで、体験することの「グナ」を見極め、サットヴァを選び、過度なラジャスや無自覚のタマスを避ける、という意識的な生き方ができるようになっていくわけです。



「心」に翻弄させられていた段階から、「心」を制御する自己を作っていきますと、心はサットヴァな対象に集中することができるようになり、真の穏やかさが育ち、そして瞑想が開かれていくわけですね。






グナを見極めるというのは相当に高度な心の状態で、それをヴィヴェーカ(識別)と言います。



グナの見極め。それはヨーガ哲学やその実践に入門された方が、その後もしばらく当たり続ける壁ではあるのですが、「グナの見極め」「グナの選択」という試行錯誤の体験というは、失敗も含めて重要だと私は思います。



何事も、理屈を教わっただけではそれを真に経験することはできず、ヨーガも知識を得ることと同時に、実践されなければ自分のものにならないのですよね。



というわけで、今回は「心を浄化する手立て」についてお話しました。

次回に続きます♫


さらなる興味がわいた方や、もっと深く知りたい方はぜひ開催中・募集中のオンライン講座などもチェックしてみてください。




本日も最後までお読みくださりありがとうございます。

ナマステ

EMIRI

2020年1月12日日曜日

インドの物理理論グナその2心を浄化するヨーガ的理由( EMIRIのメールでヨーガ講座・初級編)





<<新年企画>>

EMIRIのメールでヨーガ講座

「初級編2・インドの物理理論グナ」


*こちらはメルマガで配信した記事になります。





〜グナを見極めるには?〜


前回の配信で、「グナ」という古代インドの物理理論のお話をしました。ヨーガを考える上で最重要概念のひとつです。



グナというのは創造物の原材料である「プラーナ」が持つ「性質」のことで、物事(物理現象)の持つ個別の性質についての考え方でしたね。

プラーナの性質の違いを三つと捉え、サットヴァ、ラジャス、タマスという言い方をするよ、と。


・サットヴァ:純粋性・光や明るさの質

・タマス:停滞性・翳りや暗さの質

・ラジャス:活動性・動きや刺激の質



こんな感じでした。思い出しはできましたか?



この宇宙の物事は、なんでもかんでもプラーナからできている。


プラーナ。それは物理学の世界の素粒子のようでもあります。
ミクロの世界の最小単位、最初の形まで戻すとすべては「なんにでも変化できる最初の物質」になるよ、というかんじです。



実際は、私たちが生きて体験している次元では、物質として硬いものもあれば柔らかいものもあるし、熱いものもあれば冷たいものもある。


一般的に人間が知覚できるものは物質としてかなり複雑になった段階のもので、それらをヨーガの理論では「粗大な物質」と言います。


心の動きやその状態もプラーナの構成によって変化しているものなので、嬉しい気持ちもあれば、悲しい気持ちもあるし、憎しみや怒りもあれば、優しさや愛もあります。
それらをグナで捉えると「サットヴァな感情」もあれば「ラジャスな感情」も「タマスな感情」もある、という風に考えます。


そんな感じで、すべての物質は同じプラーナからできていても「個別性」がある。すべての現象はサットヴァとラジャスとタマスの配合物で、その配分を変えることで「違い」を持ちます。極めてサットヴァ性が高いものもあれば、なにをどうしたってラジャスでしかない、というものもある。



説明をものすご〜くハショリますが(笑)、


そういった個体とか物事が持つ性質の違い(グナ)を“見分ける知性”を高めることが、ヨーガを進めるうえで必須のプロセスであり、獲得すればそれは聖なる技術とでも言える叡智の心なのです。


どうして必要かと言いますと、サットヴァな知性だけが真理を理解し、真我(本当の自己)へと目を向けることができるから。


ラジャスな心は刺激性の欲に由来しさらなる欲に目を向けます。

タマスな心もまた、停滞性の欲に由来し、無知へと落ちていきます。


こういった知性(心)はけしてヨーガで目指すところの「真の自己」に気づけない知性であり、真理ではないものを「これが正しい」と勘違いしてしまう知性なんです。それをヨーガ哲学の世界では「無知(真理がわからない心)」と言います。


(ちなみに、鈍さ暗さの性質をあらわす「タマス」はしばしば「無知(真理がわからない心)」と同義で使われています。マントラの中でもよく出てくるキーワードで、“どうかタマス(無知)を払い、真の光(サットヴァ)に到達できますよに〜〜”と唱えていたりします。)



というわけで〜〜〜

とどのつまり、ヨーガの目標地点は「サマーディ」という「心の動きが止まって意識そのものに留まる」という境地を目指しているのですが、その道のりのことを「ヨーガ行」としますと、“ヨーガを行う”ということは、真の自己へと向かうことができる「サットヴァな心(知性)」を育て、そして現実の中でグナを見極め続ける鍛錬、となります。




なにがサットヴァで、なにがラジャスで、なにがタマスなのか


それを現実の中で見極めることができないといかん、というわけです。



「わーい!これはサットヴァだ!」
と思ったものが、実際はすごくラジャスなものだったり、タマスなものだったり、という勘違いが続くと、いつまでたっても真理へと向かうことができず、欲や無知の中で同じことを繰り返しちゃうよね〜っていうことです。そういう心の動きが「解脱できないカルマ」となり、今回の人生が終わっても次の生に引き継がれる、と考えるわけです。



で、またハショリますが(笑)



じゃあ「物事の性質の違い」であるグナを見分けるってどうやるの?

となりますよね。



これは実は「どうやるか」ではなく、

自分の心をサットヴァにする

に限ります。



やり方の話ではなく、状態の話になるんですね。



それはヨーガで言うところの「心の浄化」作業で、心というのは哲学用語で言いますと「知性」で、知性を清浄化することで、グナの見極めができる知性になっていく、ということです。



例えるなら、メガネを持っていたとして、


「ものをよく見るには、このメガネをどうやってかけたらいいの?


という質問だと、質問自体が少しおかしいのはわかりますよね。


「メガネはただかければいいだけで、重要なのはそのメガネのレンズがきれいかどうか、ということだよ。」


と答えることができます。





心(知性)も同じくで、

「どうやってグナを見極めるの?」

という質問にはそのまま答えることができず、

「グナを観ている自分の目(心)をきれいにすればいい」


という返答になります。





次回は、どうやって心(知性)を浄化するか

(メガネレンズの汚れの落とし方ですね)

に進みましょう。



だいぶハショッたのですがおおかた言い得たと思います。
もっと詳しい内容は、オンラインの哲学コースなどで詳しくお伝えしています。ヨーガが教える物理現象の秘密や心についての知識が思考にダウンロードされると、物事の見え方はクリアになってきます。


さらなる興味がわいた方やもっと深く知りたい方はぜひ開催中・募集中のオンライン講座などもチェックしてみてください。



本日も最後までお読みくださりありがとうございます。

ナマステ

EMIRI