EMIRI MOROKA -HEART MATRIX-

師岡絵美里のブログです♪


2013年12月26日木曜日

祝福を返すところまでが人生




みなさんこんにちは。

今年最後の大きな企画であったヨガリトリートinタイが終了して、
新たな気持ちで日々を送っています。
いろいろ伝えたい事もあるんですけど、物理的に忙しくてぼーぼーしてます(爆)
来年からは新しいスタジオである銀座Quanも始まるので、いろんな事が始動しています。

銀座Quanのサイトです。
http://www.quanyoga.com/index.html



タイリトリートにご参加のみなさん本当にありがとうございました。
あんなに濃い4日間、ちょっとないですよね(笑)

リトリートはひとつのきっかけ(大きなきっかけですが)であり、
心の目が開かれていれば日々は常に濃厚なまでの喜びに満ちあふれているということもまた真実ですね。

ご参加になれなかった方やこのメルマガの読者さまにも、ちょっとづつシェアしますのでお待ちくださいね。




私たちが「自由」を求めるのは、私たちがもとのと「自由」だからです。
私たちが「喜び」を求めるのは、私たちがもとのと「喜び」だからです。

そこから離れてしまうと、戻るのにエネルギーがいる時もあります。
でもそれをめんどくさがらずに、腰をあげないと何も始まりません。

人生80年近くもあるのに、その多くの時間をウダツの上がらない思考に捉われて、
迷ったり言い訳したりして、自分で空想したまやかしの世界の中を生きるなんて!
そんな事望んでいる人はいません。


自分を開いて、他者の喜びに自己を奉じましょう。
そうしない限り見えてこない、「本当の自分」がいます。


楽な方に閉じこもるの簡単ですが、
私たちにはこの世界をよいものにして、次の世代に伝えていくという役目があります。
自分のことばかり考えているのも簡単ですが、
「私中毒」はもうやめて、わがままをやめて、献身に心を開きましょう。

おとといのイブの日に、カトリックの教会のミサに参加しました。
今はヒンズーを学ぶ事にどっぷりの私ですが、、私は実家がキリスト教なので、
町の教会という空間はとてもなつかしく温かく感じます。
日常的には通ってないのですが、いつ行っても受け入れてくれる教会の存在には感謝ばかりです。
私たちが何をしている日でも、常に平和を祈ってくれている聖職者の方々。
いろいろな事が起こる世界ですが、信仰に身を捧げて日々祈る彼らの心の波動が、
世界の調和に均衡を与えています。

ミサで司祭様の祝福を頭上に受けた時、
光が入ってくるのがわかりました。
そして司祭様の実際の声での言葉がけ、「神の愛をいっぱいに受けとってください。」
という言葉が、細胞の隅々まで広がりました。

それで!
こっからが大事なんだ!

いただいた祝福を、私たちは世界に返す役割を担ったのだから。
もらうばっかじゃだめなんだ。
与えないと。
もうすっからかんになるまで与えないと。
そのすっからかんの私に、子供の笑顔や人々の幸福の波動が、恩恵としてまた還ってくるから、結局のところ私たちは、自分だけのためのわがままなんて言ってられないんだ。


どうか私たちが、欲に負けて役目を忘れてしまわないように、守ってください。

いつだって誰だって祝福されているのに、
それに気づかない愚かさや、
わかっているのに返すことを忘れてしまう無知をどうか取り払って、
神様、導いてください。

そう祈ろうじゃないですか。

祝福を受けることがゴールじゃなくて、それを返していくまでが人生なのだから。



さて。
来年はいろいろあります。

リトリートは、沖縄、オーストラリア、タイにもふたたび!
って感じで準備に入ってます。ヨーガとともに巡ります。
これらもすべて御縁のお陰で、たくさんの人々に助けられ、導かれています。
その御縁を通じて、スピリチュアルな体験をみなさんにご提供できそうです。
楽しみです。


<講座のお知らせ>

ギーターとウパニシャッドのそれぞれの講座もありますので、ぜひご参加ください。

「ウパニシャッド」という文献名は聞き慣れないかもしれませんが、
ヨーガ哲学の土台の考え方なので、ヨーガを学ぶ方であればどんな方でも大きな学びになると感じています。

(終了しました)




そんな感じです☆
今日もありがとうございます。
ナマステ
師岡絵美里


2013年11月18日月曜日

どう生きるか。



心の友のヨーギーがガンで亡くなりました。

人が亡くなるってのは、不思議ですね。

・・・いや、本当は不思議ではないのですが、そう感じてしまう心の未熟さと、人生というものの奥行きを思います。

若くて、死の気配なんか感じられなかった方が亡くなられると、
心の中のその人のいた部分が空洞になってしまったかのような気がしました。

もちろん「肉体の死」でしかないというのはわかっていますが、
それでもやっぱり、もうあの声やあの体から醸し出される彼に会えないのだなあと思うと、さみしいなと思います。
恋しいとも言うのでしょうね。


友の死、そして肉体の死と輪廻を思いながら瞑想をしていたら、
インドの古代文献の一節がより心に響いてきました。


”サナトクマーラは運命の支配者だが、天界の医者と言えばアシュヴィニー双神である。”


これは、先月サンスクリット語のレッスンで出された練習用の文章でした。


なぜかこの文章を見た時、とても心に残ったんですね。


練習用の文章なので前後の脈絡がない状態だったので、
どんな話の流れでこの一文が発生したのかわからなかったのですが、
なぜかこの言葉が重みを持って響いてきたのです。


亡くなった友は、本当に本当にヨーガを生きていたので、
きっと最後までヨーガそのものとして存在していことは想像はできます。



運命の支配者がサナトクマーラで、天界の医師がアシュヴィニー双神ならば、

”命の長さ”である「寿命」は、いったいどちらの神が司っているのだろう。

そんな事をぼんやりと思いました。


個人的に感じるのは、

「健康」はある程度コントロールできると思います。
自分自身でなんとか気をつけられる範囲はあるし、例え病気になったとしても、どう生きるかの選択や、生きている限り失うことのない生の可能性はあると思います。


でも「寿命」はコントロールできないと思っています。

寿命。

それはもう、

その人の深いところにある”最も重大な事だけを入れる事ができる宝箱” の中に納められた「約束」でもあるように感じるのです。


だとすると、この生を ”どう生きるか” でしかない。


サンスクリット語の先生とこの話をしている中でこんな言葉をいただきました。


「何もせず、ただ生きていることにどんな意味があるのか、を自覚させるために長寿祈願があるのであり、単に楽しく過ごすために長寿を祈願するのではないということだと思います。ですから長寿でないことがいけないということにはならないのです。もちろん(若くして亡くなると)周りの方はつらいですが、でもむしろ、それまでしっかりと生きていたなら、より良い環境に早く移行する(生まれ変わる)チャンスでもあるのです。」






亡くなった友に、追善の光を送ります。

どうか恐怖の思いに打ち勝ち、迷いなく光へと進めますように。




さて、

これを読み、みなさんはどう思いましたか? 

「そうなんだ・・・、ヨーガやってても健康でいれるわけではないのか・・・」

と思いましたか?



彼に限らずヨーガをやっていても年若く、患って、亡くなる方はいます。

病気にならないという保証はどこでどう生きていてもありません。

だとすると、「どう生きるか」でしかないのです。

でもそれは、

病気であろうと早すぎる死であろうと、

「どう生きたか、がすべてを救う。」

とも言えるのです。

そこに光があります。


毎日、毎日、感謝。

それしかないですね。

なんであれ、今まさに生きている私たちは、明るく前を向いて歩く。

それだけでいいし、それしかできないとも言えます。


どうか私たちが、今日も明日も明後日も、

死ぬまでずっと、感謝して生きる事ができますように。


亡くなった友人に感謝をこめて
一切に感謝をこめて
ナマステ

師岡絵美里