EMIRI MOROKA -HEART MATRIX-

師岡絵美里のブログです♪


2017年11月22日水曜日

アートマンとコーヒーミルク〜過干渉のススメ〜


こんにちは。えみりです。


きょうは。

エネルギーの「展開」と観察者についての考察。

というところから行きますが、おちがどこにいくかな〜〜(笑)。




イメージしてくださいね。




スプーンでゆっくりかき混ぜたコーヒーに

ポーションのミルクを数滴落としてみると、


ミルクはぐるぐるまわりながら

様々な模様を変化・展開していきます。




その展開のプロセスには、


 スプーンでかき回したコーヒーの速度と方向、

 ポーションのミルク数滴の落とし加減、

 コーヒー自体の温度や、その変化


そういった様々な「条件」を帯びてぐるぐると回転し



ぶつかったり、混ざったり


あらゆる可能性を持って「干渉」しあいながら、その模様を作っています。





この「模様」の見え方、デザイン、これが今現在自分が目の前に見ている「現実の」風景だとします。




それは次の瞬間にはもうそうではない

一瞬のまたたきで、


毎秒、変化することだけが定められた、ただの「動き」なんですが、

人間の意識の次元の低さが、本来は「一瞬」であり、変化してしまうその模様を、やや長いスパンで「変わらない風景」のように見ていられる「時間空間 」を生み出しています。
インド思想の言い方だと「アハンカーラ:自我」ですね。






仏教と、インドのバラモン寄りの思想の大きな違いは、


そういった現象の変化を「とらえている何者か」についての「取り扱い」です。


インドの考え方ですと、現象を観ている主体(デーヒン)である「アートマン(真我)」をかかげていますよね。

しかし仏教では、アートマンはない、とします。



これがバラモンおよびヒンズー思想と、

釈迦の解いた原始の仏教の大きな「違い」とされますね。

一般的にはそうです。

私はこの一般的な説をちょっと一回、横におくこととして

角度を変えて絵解きするような感じで観ています。







さきほどの例えで、

ぐるぐるまわるコーヒーにミルクを数滴落としたところからの「動き」。

「動き」が生み出す「干渉」で、「変化」していくと話しました。






この「干渉」なんですけど、



一般的な時間感覚は、


過去 現在 未来


という順序だと皆がおおかた信じているので


「過去のこの出来事が今のこれにつながってる」


と言いがちです。

つまり過去から「干渉」を受けている。



しかし、コーヒーカップの中という世界が、

一人の人間の一人生だとしますと、

その「干渉」は常に内部で「現在」起こり続けているのが、一目でわかります。


1:ぐるぐるミルクの中心付近で起こっていることは、

2:同時に、カップの縁にちかいところで起こっていることから、

今この瞬間、影響を受けていて、

もっというと、

上記の1と2は「双方向」的に干渉しあっています。

おしくらまんじゅうみたいなことです。



となると、普段私たちが「過去」とか「未来」と呼んでいる時間概念的な座標は、

「現在」という性質が持っているたくさんのレイヤー(層)の中の、

あるひとつのレイヤーにすぎないことがわかります。

それは ”時間的な意味合いでの未来” でも

”時間的な意味合いでの過去”でもない。








インドのヴェーダ権威的な思想ですと、

このコーヒーとミルクのぐるぐるを「ただ観ている」という自己を、

アートマンおよびブラフマン、またはサンキヤ思想などの言い方をするとプルシャ、と言います。

こういった「不変の自己」というものをヴェーダ文化(バラモン教、ヨーガ派、ヒンズー、全部含みます)はかかげますよね。


コーヒーとミルクのグルグルを観ている自己があり、

見ている自己は、ひとつのコーヒカップの「ぐるぐる」を体験しおわったら、べつのコーヒーカップに宿り、なんども「ぐるぐるを経験」をする。


これ、インドっぽい思想ね。輪廻転生スワハ。






で、


かと思うとブッダの説いた思想では、アートマンはない。となる。


どっちやん、て。



どっちだよーーゥ!!!








えっとねーーーーー(笑)


この「どっちかに決めたい」「正解を決めてくれ」という発想自体が、

試験勉強で育ってしまった日本人くさい優等生発想なので、それちょっと今は捨てよう。優等生してたらヨーガはわかんねーぜ。

いつもインストラクターさんの講習でも言ってたけど(最近やってないのでまたやるね)、

インド思想理解したいなら、その「正解」を欲しがる気持ちを捨てないと、わかんねーよガールズ♡

と言ってきたよね、みんな(笑)おぼえてる?






自論ですが、「どっちでもいい」(笑)



アートマン、ある

アートマン、ない


どっちでもいい。

個人的には、どっちの思想にも強烈に惹かれるので、どっちでもいいです(笑)。






わたしがしりたいのはーーーーーーーーーーー!



「何が起こっているか」


だよ。


そこなのです。







続きはまた書くね。



(爆)



うそうそ。とりあえず、きょうまとまるところまで書くね。




きょうのところのまとめ。




アートマンがある・なし、に関わらず



「コーヒーカップの中のミルクのぐるぐる」はありますね。


それが私たちの一人一人の人生だから。



もちろんその現象自体が「幻想」

インド宗教の言い方ではマーヤー(幻)

仏教の言い方で、「色(動き)」つうのは「空」なんだよ、ですね。
*空についての訳はあえてしないどくね。




どっちも。それァ幻想〜だと言ってる。

なのですが、

物事を体験するための自己を持っている限り、私たちはそれをリアルに体験します。


インド思想的にとらえると、ひとつのコーヒーカップのぐるぐるの回転数が終わったら、次のコーヒーカップに移ってまたぐるぐる。
カルマ背負ってぐるぐる。




仏教的な感じだと、
コーヒーとミルクの織りなす「ぐるぐる」渦巻きのいろんなポイントに座標(自己)を置くことで、
あたかも違う人生を歩んでいるように見える。

でも人類全体はひとつのコーヒーカップという「識*」を展開して、
その中でミルクは、はじめのひとつの「動き」からありとあらゆる干渉をうんで、結果が原因となり、原因がまた次の結果を生みながら、
ぐるぐるしているだけ。
その生命の躍動とも言える連続的な干渉をいろいろな「地点」で認識しているのが、個人意識。

 *識:ここでは密教的な使い方で言っています。すべてのものの存在に遍在している純粋意識とその総体、のように捉えます。








よく、「起こっていることにはみな意味がある」

などと言うけれど


ほんとにそうか?



(笑)



意味ではなく、現象としてミルクがぶつかりあっているだけでもある。

ただそのぶつかりあいは、単に一方方向から来ている波ではなくて

海流みたいに、


ものすごーーーーーーーーーーーく遠くで起こっていることの影響を


ものすごーーーーーーーーーーーーーーく離れたところで受け取っている、


実際はそういうことのほうが多いのでス。








だからさ、うまくまとめると(笑)



あの時ああだったら、いまこうなんだ、

とか

私がこうしたから、こうなったんだ

とか

あれがああだったから今こうなんだ、とかね


ある次元までは「ある」とはおもうけど、

あんまりそういうことにいろいろ言ってても

それこそそんなに意味はない

ってことだと私は思う。



次の瞬間、どっか知らんところから来た「干渉」を

波の出どころを知ることもなく体験する

とも言えてしまうほど

物事というのは広大な領域で生成されて

個人の人生に届きます。




でも大事なのはそこからで、



「次の干渉」を生成するのは、この瞬間の自分の行為。


なにをするか、

なにを思うか、


そういったエネルギーの投げかけが


遠い遠い、一生会わない、かすりもしない人々の人生に


強く影響を及ぼす「波」を送っているとしたら?



だとしたら、


いい波(干渉)を、出したいよね。


それが人情じゃんね(笑)




そういうのを、



愛の過干渉💗


と言います!!


あははははは(爆)


オアトがよろしいようで☆




ま、これは、実際にうまくやれているかどうかの話じゃない。
気持ちの問題。
だからうまい人生送れているかなんて、自己評価も、人の評も気にしなくていいと思う。


波を放つ時の、自分のその時の心持ちの問題だと思う。











こんなながーーーーいの読んでくれてありがとうございます。

もうここまで読んでくれる人って、すごい心の友だと思う。

異論反論あったとしてもね。

勝手に友情を送って干渉するね☆



ありがとう。

EMIRI






2017年11月14日火曜日

苦しみと救済についての考察


こんにちは。えみりです。
今日は、最近のわたしの考察を送ります。

最近は、インド思想と仏教思想の違いに影響&反発があったところを見つけ、そこから「相違」と片付けられがちな両者の理論の違いの中に
そんなことはないんじゃないか、もしかしたら、
私たちの意識レベルが低いだけで、その本当の意味(同じことを言っている)がわかっていないだけなんじゃないか、
というところを、常に考えながら、自分の体験する物事を見ることで検証中です。変態だね、私。






ブッダの言葉に、


  自分の救済者は自分自身である。

  他の誰が救ってくれようか


  自分を正しく制御してはじめて


  人は得難い救済者を手に入れるのだ


  (真理のことば160)






ってあります。


仏教思想をみていると、物事の因果関係は、

けして過去と現在だけはなく、

未来からくる因果のようなものを感じます。

(縁起についてはまた書きます。)




この先大丈夫になっていくように、成長できるように

今このくらいのこと、超えとけ、、、

みたいな玉を坂の上のほうから転がされる(笑)。

玉を投げてくるのは、未来の自分。

そんなインディージョーンズみたいな時間劇。




ブッダはわたしたちに

人の心が持つ特性、


「”苦しみ”を苦しむ」という執着について


よくよく考えてみよ、と言います。





この世界が無常だということが本当の意味でわかっていれば、

”苦しみ”に苦しむことはないのだとブッダは言います。




もしも本当に「無常」を理解していれば



「希望」を持つこととセットで「落胆」も同じカゴの中に入れてしまうことはない。



ある日急に、希望が損なわれた時、

カゴの中に残っている「落胆」のほうに目がいくのは、人情的にしかたのないことなのだけど、


そもそも無常を知っていれば

わざわざカゴの中に「落胆とセットの希望(つまり二元性の苦しみ)」を入れなくても、

物事の「そのまま」を希望とすることが可能なのだろうと思います。







私は、自分で作ったヨガ哲学の集中トレーニングのテキスト中に、

「カルマヨーガ」についての見解と補足を書いておりました。

以下、自分で書いたこと。



「カルマヨーガ」は無償の奉仕・善行とも言われますし、

行いのすべてを神に捧げることとも言われますが、

 ”何かよいこと”をやったので、”何か良いこと”が返ってくる

という ”期待” の中で行われるものではなく、

その瞬間の行為そのものが

それを行なっている矢先からすでに、ポジティヴなフィードバックとなっている状態のこと。


活動の中で目的を持ったり成果をあげていくことは、今まで通り続けていくけれど、

しかし自分自身が受け取る最大のギフトは、

今この瞬間の”行い”そのものである

それを見出していくのがカルマヨーガです。






と私は書きました。


・・・・われながら解釈力に泣けるんだけど(笑)

しかしもはや、自分に刺さってくる真理の逆輸入。

人生っていろいろだ。

いろいろ痛感・・・。








ブッダの言葉からの考察。


「苦しみを苦しんでしまう」ことから脱するには

私たちの意識がもっと洗練されなければ逃れることができない、と。



ブッダは

もっとも深いレベルでの苦しみに、よくよく関心をよせてみよ、言ます。

最終的には「偏在することへの苦しみ」についてを追求することであり、

それは、

私たちが先天的に持つ「本質に対する無知さ」を理解すること、
と説きます。

サマーディ(三昧)に深く入った状態であったとしても、

その集中から現実の世界に戻ったとき、まだ自己への愛着は残るのだから、と。

その自己への愛着は、いずれ対象を求め、外界への執着につながっていくから。







もう一回ブッダの言葉に戻ってみます。




自分の救済者は自分自身である。

他の誰が救ってくれようか


自分を正しく制御してはじめて


人は得難い救済者を手に入れるのだ






最後の一文、「得難い救済者」。


ブッダのオリジナルな教えではこの救済は「智慧:プラジュニャー」という「本当の知識(理解)」なのだと思います。

それと同時に、インドの文化的発想にだいぶ浸った私には、
これは「グル(師)」のことのような気もします。
現実的には誰か手を差し伸べてくれる人がいることも多い。
導きを与えてくれる人。





何かひとつを乗り越えようと、

自分自身に飽き飽きするほどの関心と、心からの質問を持った時、

とりあえず、、、私の人生では毎回、

「先生」と呼べる救済の存在が現れます。



娘が今よりももっともっと小さかったころ、私は自分の人生を支えて保護してくれる基本的な思想として、それまでも知っていたヨーガが、本当の意味で機能しはじめました。

同時に、サンスクリットの先生や、瞑想の師匠と呼べる先生に会えました。

その先生たちの教えは、当時の私を救ったこともまた確かではあるけれど、今現在の私にこそ機能しているようにも感じます。







探求中の事柄なのでここでうまくまとめられないのですが、

むりやりまとめる。




人生の中で起こる辛辣な経験すら、この世に対する自分自身の”機能性”を高めるための「耐久テスト」なのかもしれないね。。。

もしそうだとすると、もともと耐久力や強さを考慮した物体にしかそんな「耐久テスト」は与えられないのだから、自分ってけっこう頑丈に造られてる仕様なんだな、と。
(うぇ〜〜、すごく自虐的前向き発言!!)


こんくらい腹パンチくらっても、

このくらい派手にかっこ悪く転んで炎上しても

あ、、、生きてるね、


みたいな(笑)


いや、そうそう頻繁だとヤダけどね、きついやつは(笑)


でも、時としてさ、

いろいろあるのが人生で

未来の自分が放り投げてきた巨大な球を全身で受け止めて

「大丈夫な自分」をがんばって更新していくことが必要な時もあるのだな、と思った。






深呼吸。

起き上がれば青空。

受け入れて行こう、全部。

「苦しみを苦しむ」は、ブッダもオススメしてないからちょっとやめといて、

そのままを受け入れて、それをどう思い直すことができるかが、

自分との勝負だと思うから。




最後まで読んでくださりありがとうございます。

EMIRI