EMIRI MOROKA -HEART MATRIX-

師岡絵美里のブログです♪


2020年5月25日月曜日

存在とことば 〜美しき魂への追悼〜



インドの思想とその歴史に心惹かれて長い年月が経ったように思います。


その時々でクローズアップしている時代とか書物、人物など変化もあるのですが、最近は中世のヨーガ思想の探求がぐぐっと進んでいて、それを確認するためにまた紀元前のような古い時代の書物に戻ったりと、一生やっても終わらないであろう日々の思索に果てしなさを感じます。


古い書の中の、
賢人の言葉の、
ある一人の人生の伝記の中の、

そのたった「一行」の文言から広がる時間を超えた「知」は広大です。
気づくとその一行に何日も滞在し、その世界を旅している自分を発見します。



また、現実の中で知り体験する事柄の中にも多くの「叡智との同値」を見つけ、その中にしばし立ち止まって考えてしまうことも多々あります。



それは時に悲痛な形で示されることもあります。





非常に、言葉では表現され得ない悲しいニュースではありますが、先日、若い女性が自死したことをニュースで知りました。


世間の流行などにうとい私は故人のことはまったく知らなかったのですが、多くの人に愛され、そして多くの人に「損なわれて」いたことを知りました。


本当に悲しく、こんな時には宗教的死生観や哲学を持ち出したりしないで、ただただ故人を悼み、悲しむべきだろう、と思ってしまいました。人生への解釈など、それすらが暴力的だとすら思いました。
「喪に服す」という風習をどこの文化も持ちますが、新たに考える前にまず、残された者としてそれを受け入れる時間が必要です。


若い彼女の死を思い、そしてそれを受け入れなくてはいけない彼女を愛する人々の気持ちを思い、深く瞑想をしました。


その中で、彼女の「死」を思うことはそれ自体が彼女の「生」つまり「有」を思うことだと、瞑想の中で深く納得しました。









紀元前1世紀頃のインドに、ヴァイシェーシカ学派という、理論が難解な哲学派があります。世界観を理解するのには現代人の思考方法を一旦手放さないと入れない理論なのは確かです。


ただ、古代の人々の思考は今よりもずっとシンプルだったのだろう、とも思います。言語化すると難解な理論ですが、心の目をクリアにして捉えてみると、その見え方がわかるのです。


ヴァイシェーシカの理論は根本原理まで話すとかなり抽象的かつ広範なので今は控えますが、ひとつ大きな特徴として「実在論」であり、「実在」と「言葉」を「対応」させます。


「名付けられること(言語化できること)」は「実在」だ。

という考え方です。


(これは、現代によく言われる願望実現系の「言葉で唱えれば実現する!」という種の発想ではないので、そこと一緒にしないようにしておいてください。あくまで「存在」に関する論です。)



私たちはよく、「ない」という事を考えたり口にしたりします。
特にそれ以上なにも思索しなければ、「ない」は「ない」でしかない。


しかしヴァイシェーシカの理論では『“ない”がある』と考えます。

 この床に水甕の“ない”がある

 この牧場に牛の“ない”がある


と(言語化できる以上)そこには「水甕のない」や「牛のいない」が「実在する」というわけです。


(今も昔もインドには水甕と牛がたくさん「ある」のでしょう、多くの例えに水甕や牛がよく出てきます。りんごくらいの感覚で。)


「名付けられる」というのは「言語化できる」ということで、言語化できるものを「実在」として認めるヴァイシェーシカは、そういったわけでこの世界にかなりたくさんの「有」を認めることとなります。
亡霊だって、締め切りだって、白馬に乗った王子様だって、天国だって地獄だって、言語化されるのであれば「実在」なのです。
「実在と言葉を対応させる」と言ったのは、簡単に言うとこういうことです。
(理論構造はもっと抽象的で文章にすると普通の感覚だと「わけわからない」ものなので今回は割愛します。)




 床に 水甕のない がある

 牧場に 牛のいない がある

 床に 水甕のない がある

 牧場に 牛のいない がある




お亡くなりになった故人のことを思いました。
そして彼女を失ってしまった人々の気持ちを考えました。



 彼女の “いない” がある



そこには生命があり、記憶があり、確かに存在がある。

「ない」ことになどできない、人の命の重さがある。

それは感情論としてではなく、確かに「有る」ことであり、有るがために感情が途方もなく広がるのが人間の心だとも思いました。


ヴァイシェーシカの事など考えていたわけではないのに、追悼の瞑想の中で、故人を「ない」にできないという、人間としての当たり前の心性にしばし強制的に没入させられました。



 名付けられれば実在

 言語化し得るものは、ある




現実の中で知り体験する事柄の中にも多くの「叡智との同値」を見つける・・・というのを、得てしてこういった、苦しく逆説的な事柄の中で受け取ることを余儀なくされるのは、人間のこれまでに積んだ業なのか、と、深く考えてしまいました。



一人の女性への追悼から没入してしまった「実在」「有」に対する感触にどう向かうべきか、何かしらの回答を得たく、ヴァイシェーシカ学派およびインド六派哲学の理解にいつも頼っている宮元啓一先生の本を開くと、







存在とことば。と。


存在とことば。


ヴァイシェーシカ学派の理論は死生観というよりも自然哲学であり、物理的に現れている現象世界をどのように「観る」かというものなので、人の生死を考える時になぐさめられるというようなものではない。それはわかっていました。

しかし、


「存在とことば」

という章のタイトルを見ただけでそれ以上にページはめくれなくなりました。




この世に生まれ、素晴らしい名を“名付けられ”

確かにこの世に存在した美しき戦士

もっと長く生き輝くはずだった一人の「娘」を

この有限の幻想世界から連れ去ってしまったのも

それもまた「ことば」だった

無意味に投げつけられた、本来実態のないはずの悪意あることばは

投げつけられた人間には「実在」となり

本当の痛みとなり、そして本当の血を流させ

ことばが彼女を「損なって」しまった



それを思うともうページはめくれずに、どうしてこんなに、愛や喜びを生きることが難しい時代になってしまったのだろうと思わずにいられず、また、この世界を生き抜かなくてはいけない若い子供達になにを伝えるべきかを思いました。


考える時間が必要で、考えないといけないことだと思います。





ここまで読みますと私がひどく落ち込んでいるように思うかもしれませんし、確かに一人の女性の死に関してはそうではあるのですが、私の脳は活発で健全で、また「思い」がしっかりと湧いてくるのを感じていました。

放棄してしまいたいほど「ひどい」ことが起こる世の中だけど、自分にできることはまだある、と。



「ことばと存在」について、あきれるほど執着して考え尽くしたインド思想とその哲学が私にはある。それに支えられて生きてきた経験もある。


これを伝えていくことは、誰かの生命を活気づけるだろうし、誰かの心を励まし癒すものだと心から感じているから、それを伝えていこう、と。世の中を大きく変えたりなどできないし、自分の影響の範囲の狭さもわかっているけれど、小さい範囲でも「しない」を選ぶ事はしないほうがいい。そっちを選ぶと死ぬ時に後悔するのがわかるから。


古代インドも、また多くの思想の中でも、ことばは生命であり創造の力と捉えます。ことばに宿す知性がここまで下ってしまった時代の課題は大きいけれど、古代の叡智から学び知ったことを助けに「今」できることだってたくさんあることを強く感じます。

誰かを生かし、誰かを勇気付ける優しいことばで生きよう、と思いました。



長くなりました。


故人のご冥福を心からお祈りします。

苦悩から解放された魂に、みんなの愛が届きますように。

そして同じように「ことば」によって損なわれた多くの存在の「有」を讃え、この先の私たちのあゆみに加護を与えてくださることを祈ります。

世界がもっとよくなりますように。

自分にも、なにかできますように。





ナマステ
EMIRI



2020年5月6日水曜日

「手前に戻る」(まにぱどめヨーガ勉強会5/2,3)

<ヨーガコラム>
「まにぱどめヨーガ勉強会」5/2,3 
ヨーガ哲学セッションのシェア


「手前に戻る」


セッションで取り上げた「心の清澄」の回
ヨーガ・スートラ1-30〜39までについてを考察しました。


心ってどうしても動いてしまうものなので、乱れを感じたらまず意識的にできる安定の手段として、いくつか方法があるよ、という項目でした。ヨーガ・スートラがある人はお手元でもう一度確認してほしい内容です。



<ヨーガスートラ第1章より「心の清澄・心の安定のために」>
1-33 心の清澄は、他人の幸福への親しみ、不幸へのあわれみ、徳への 喜び、不徳への無関心を抱くことで生じる。

1-34  あるいは、息を吐き止めることによって。

1-35  また、五感を超える知覚の発達も、心の集中の助けとなる。

1-36  心の安定は、悲しみを超えた、輝く光を知覚することでも得られる。

1-37  欲望のない人間を瞑想することによっても、心は安定する。

1-38  夢の対象や夢を見ない睡眠の状態を瞑想することによっても心は安定する。

1-39 適切ないかなる対象を瞑想することによっても、心は安定する




このセッションに、お一方からとても考察しがいのある感想メールをいただきました。

この様な状況で少し気持ちがぶれていたところが落ち着いたというか、軸に戻して頂いたような感覚です。コロナの状況から “死は怖いことではない、意識は永遠なのだ” という事ばかりを言い聞かせている様な感じでしたが、今日の1-33からをおさらいした時に、もっと手前に戻ろうと思いました。

と。

「手前に戻る」について、すごく大事な気づきだと思いました。いい言葉をチョイスしたなあ!と思いました。


で。

そうですね!

「意識は永遠なのだ」はたしかにそうだけど、目の前にある現実に対応させるとなると高度かもしれないですね。

おっしゃる通り、少し手前に戻るといいんだと思います。
すごく大事なところに戻ったと思います。

そして「手前にもどる」ことが実は、「本質を知る」という意味での「先へ進む」ことになると思います。


「死は怖いことではない」というふうに唱えても、実際に死ぬことや病に陥ることがまだまだ「怖い」方にリアリティを感じるのなら、「怖くない」と言い聞かせることよりも「何を怖がっているのか、ちゃんと話そう」と自分と対話するほうが現状に合っていると思います。


もちろん意識は不滅、肉体は理由はなんであれいつか必ず消滅するという事、それは真理ですし、そこに悟っていられれば「究極的な安心」はあると思います。死の恐怖を超越できれば、ですね。


しかしですね、ヨーガ・スートラ第二章の「5つの煩悩」ってやりましたね(二章三節)。
「死への恐怖(アヴィニヴェーシャ)は賢人ですら持つものだ」とありました(二章九節)。
これはなかなかしぶといのですよ。
どんなに真理の知識を得て、賢さを高めたとしても、肉体が有る限りこの恐怖は根深く残るものなんだと容易に想像できます。

私なんて人が手を切って血が出ただけでもう自分の血の気が引きますもんw 注射針刺さるところ見れないですよ未だにwよわ!! 


もとい(笑)

肉体感覚のシンパシーってすごいんですよね。
他人の痛いは自分の痛いを刺激します。
誰かが交通事故や大怪我にあったと聞いたら自分のことのように苦しく感じるのも、自分でなくてよかったと悪気なくもはや反射的に思ってしまうのも、肉体への執着を持つ自我、心なんですよね。

だから今現在は、他人の病気、他人の死で、自分の身体感覚・記憶がいやおうなく刺激されちゃってるんだと思います、世界中の人たちが。


そんな不安定なグナばりばりのところに「意識は普遍なのだ。肉体はいずれ滅びるのだ。」と言ってみても、あんまり響かないだと思います。心の散漫さと身体の安全欲求のほうが勝ってしまうから。
真理っていうのは、すごいクリアな心で、すごい集中がなされている時に「理解」が開くもの。それもヨーガ・スートラにありましたね。不安定で散漫な心が見るのは「誤解された現実」と。


そして私が思いますに「意識は普遍なのだ、死は恐るものではない」という真理を「外圧によって悟る」には、もっともっと差し迫った危機じゃないとそこまで目覚めないんだと思います。
それこそ「知ってる人の半分以上が死んだ」くらいまで自分にとって差し迫った事柄にならないと「死は必定・魂は不変」みたいな「最高真理」と同調するほどには至らないんだと思います。
戦時中とか、敗戦直後の日本や、実際に戦地で死に向かって飛び込んでいった兵士のようなレベルまで行かないと、という事。(そうであっても人は生きたいのだから、なおさら。)
私の祖母は戦争を機にクリスチャンになりました。その後一生クリスチャンで、いつも真理の話をしていました。戦争が祖母にとって抜き差しならないレベルで「真理」への理解を迫ったんだろうと想像できます。


現在のコロナの件ではまだまだ「最高真理と同調する」ほどの悟りへの圧力にはならないと思います。

自分の心配、生活の心配の方で心が揺れるのが精一杯で、それはそれで必要なことで、良く言えば私たちまだまだぜんぜん平気で、平気なんだから、コロナで気持ちをざわつかせたりしないで日常をちゃんと生きればいい、ってことも言えるんだと思います。

人間の心ってそういう風に、良くも悪くも「生」や「生活」に執着があり、今はまだその執着を手放さざるを得ないほどの窮地ではないって事ですね。

だから無理に「死は恐るるにあらず」なんて極論をひっぱり出さずに「手前に戻ろう」でいいと思います。



そしてメディアの影響で「病気」や「死」への恐怖が刺激されているのでしょうが、本当はそういうことじゃなくておそらくみんな(一般市民)はもっと「具体的な現実」が怖いのだと思います。

実際に身内が亡くなったり自分の会社が経営破綻したとかならまた別ですが、そうでなければ「収入はどうなるのだろう」とか「雇用はどうなるのだろう」とか「子供の勉強・学力どうなるのだろう」「予定していたあれはどうなるのだろう」みたいな。そこは問題が個人によって変わってくるので、ちゃんと「個人的な不安」に向かい合ってあげるのが健全だと思います。

そこを自分と対話して「対策」を作れば、そっちの方が穏やかなプロセスで真理と向かい合えると思うんですよね。
なにもコロナの外圧で力任せに悟らなくてもいい(笑)。
人生にはもっと逼迫した個人的危機はきっとあるので(怖いね!w)、力技はそっちに取っておこう。
もちろん最高真理は胸に置きながら。




「個人的な不安」に向かい合う例として、
私の知人は今回の件だけでなく、食料自給率がかなり低い日本に問題を感じていました。災害や突発的な事が起こるとすぐに「なにか」を買い占めに走ったり、危機感に踊らされるあり方。実際に他国との物資のやりとりが途絶えたら手に入らなくなる食料は数多くあります。今普通に食べているものが買えなくなります。これはすごく身近な問題なんですよね。そうなるのは日本は簡単です。
今回のコロナでの自宅待機期間を、この問題に向かい合う時間にし、家庭菜園を拡大し食料の自給率を数パーセントでもあげる。もちろん仕事をやりながらなのでこの先仕事が元のスタイルに戻ったら手をかけられる範囲に限りはあるのですが、それも見越して今時間があるうちに準備しよう、と。季節ごとに日常的に使う野菜が常に数種類は採れる、という基盤を持っておくのは心の安定・精神的なインフラになります。もちろん喜びも。
すべての食料をスーパーに依存している生活から考えると、それだけでもすごいことだと思います。


また別の友人の例。
小学生の子供の学校の休講、塾も休業が長期になってきて、子供の学びや学力が心配に。
子供はやっぱり「場」があることで勉強ができるというのも大きくて、これまでの学校での成績とか子供の性格とかあまり関係なく、一人で家で勉強するというのは小学生やまだ受験や進路などに切羽詰まってない中一くらいの子には難しいです。子供が勉強しないことでイライラして当たってしまうという問題もある。(これが一番大きいかもですね。)
なんとかできないかと考え、同じように思っているお母さん友達らと話し、子供たちをオンラインでつないで、youtubeなどに上がっている学習動画をみんなで同じタイミングで観る、という勉強会を主催。
少しでも「場」を作る事で、みんなで勉強している、友達と繋がれる、という刺激を与えて明るい勉強の場を作ることをしています。


そんな風に「手前に戻る」ということの具体例はたくさんあると思います。


そして・・・

「自分でできること」の「限界」を知る事で真理がわかる

という側面もあるんだと思います。
上記のような、とにかくやってみる事にベクトルを向けた人たちは、おそらくその中で真理に近づいていくのだと思います。


最重要・最高真理ってのは、あると思います。

ヴェーダによるとアートマンはブラフマンなわけです。
ヨーガ・スートラによるとプルシャとプラクリティは別ものなのです。

今は、その真理の抽象度を下げて、現実に呼応させる知恵を身につけるのに最適な時期だと思います。

そういう意味ではとにかくギフト的な時期にいること、それを生かす方向にするのが、人生を理解するという意味での真理への道なんじゃないかと思うのです。

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以上、真理はたしかにあるということを前提に、「手前に戻る」というキーワードからの考察でした。

EMIRI

煩悩について(「まにぱどめヨーガ勉強会」4/22)



「まにぱどめヨーガ勉強会」4/22
ヨーガ哲学セッションのシェア


「煩悩について」


「煩悩」というものの詳細についてを書籍「現代人のためのヨーガ・スートラ」の解説とともにお話しました。


ヨーガで言う「煩悩」とは、真理を見ることができない心、真理につながらない心であり、「無知」を代表とする心の曇りということになります。

それぞれの概念をサンスクリットで言いますと
煩悩:クレーシャ
無知:アヴィドゥヤ
となります。

煩悩は「種子」のように例えられ、休眠中・弱まった状態・中断された状態・活動中、に分けられます。


・休眠中の煩悩
あるけれども眠っていて発動していない。なんらかの外的刺激が加わると起きる。
(土の中に埋まっていて、栄養が与えられたら芽が出てくるという潜在的な状態ですね。)


「死への恐怖(アヴィニヴェーシャ)」がその代表とも言える。
日々「死への恐怖」を感じていたら心はもたないので普段はそんなことを感じない。煩悩は眠っている。

しかしまさに、今回のコロナウイルスの蔓延ような、自分自身の体と命への危険性が高まったことで“起き上がった” 恐怖心や心の反応は「休眠中だったが起こされた煩悩」と言えますね、とお話しました。

死への恐怖という究極的なものではなかったとしても、「いつもとは違うこと」という刺激で姿を表した様々な「煩悩」を発見した人も多いのではないかなと思います。

その中には、怒り、憤り、無気力、無力感、差別意識、放棄したい気持ち、貪り、怠惰、無知による迎合、今まで体験したことのないレベルでの行動規制による身体的なストレスという刺激で持ち上がったものもいろいろあると思います。




・弱まった(気薄になっている)煩悩
煩悩があったとしても、その煩悩が「真理を学ぶこと」や「よき考え」で弱められている状態。

「煩悩を弱める要素」としての代表は「聖典学習(スヴァディヤーヤ)」。真理を学ぶこと。


例えば、先に挙げた「死への恐怖」という煩悩。
ヨーガスートラにしてもバガヴァッドギーターにしても「聖典」には「人は肉体が本体ではなく不変の意識なのだ」と説きます。
こういった教えがなければ、大抵の人は「体」が自分だと信じています。

しかし「体は本当の自分ではない」ということを知っていることによって「死への恐怖」という煩悩があったとしても、それが刺激された時に何も知らない状態よりも心を取り乱さずに済んだとすれば、それは「聖典学習によって煩悩が弱められた」という状態にあたる、ということになります。


私からのアドバイスとして、ある種「情報の混乱」とも言える状況で、日々ニュースやSNSなどで過剰で雑多な情報を浴びている人も多いかと思われる現在、質的にも量的にも普段ならヨーガの本を開いたりヨーガクラスに行ったりしてよき波動を浴びることで抑えられるものも、昨今の事情ではそのレベルを超える刺激にまみれている方も多いかな・・と。さらにはクラスに行ったりもできませんし。

ですので、こんな時期は「多すぎる情報(刺激)」を凌駕するくらいに「聖典学習」の方もどんどん増やすといいと思う、というお話をしました。

ニュースをどうしても見てしまう、という人も多いかと思いますが、ニュースのあとでもう一度真理の本に戻ったり、SNSを開くよりも自分の学びたいことの関連する読書などをしたりするといいかもしれません。



・中断された煩悩
煩悩が、何か別の「もっと強い煩悩」によって中断されている状態。
怒りや悲しみも真理に導かれないものとして煩悩なのですが、例えば「怒りA」があったとしても、別の「怒りB」の方が現在勝っていて、「怒りB」に夢中なために「怒りA」は思い出されないのですが、BがおさまってしまえばAはまた出てくる、けしてなくなったわけではない、ということです。

どうしても手に入れたいと思っていたAがあったのだけど、今Bへの渇望が強く、Aはどうでもよくなったかなと思ってはいたのだが、いざBを手に入れたらまたAが気になり始めた、みたいな(笑)。
Amazonなどの「あとで購入」に似てますね(笑)。
より思い出しやすい引き出しにしまってあると、すぐに渇望が湧くものです。


私からのコメントとして、今コロナコロナですごく思考が忙しいし、そのせいで別の事柄に関する思考は停止してしまっている部分もあるかのもしれない、と思ってみると、コロナ以前に取り組まないといけない案件があったんじゃなかったけ?ということを一回考えてみるといいかもしれないね、と話しました。
コロナにまみれて、別の重要案件を忘れているかもしれない・・という可能性もあり。




・活動している状態
煩悩が今まさに活性化されていて、自分でも気づいている状態。芽が出てしまった状態です。

重要なのは、この状態のみ自分で気づける煩悩で、逆に言うとこれにしか意識的には手をつけられない、ということ。

ヨーガの修習(アヴィアーサ)とは、意識の上に上がって来て「気づけた煩悩」に対して「サットヴァ(純質)」の行為を生み出す自己努力、というわけですね。


今、私たちはいろいろな現実に直面していると思います。
個人的なものも、国レベルのものも。

何かに対峙した時に、自分の中で心を衝突させてしまうと混乱します。

上がって来た煩悩、やって来た案件を、まず冷静に冷静に、深呼吸と共に見つめてみることをおすすめします。

「呼吸のない心」でガン見しても、自分の心の癖がざわつくだけです。

穏やかな静かな呼吸とともに「見る」と、複雑に見える物事や自分の心に「一点確かななにか」が見えることがあります。


セッションの最後のフリートークの際に、「心を落ち着けるためのなにかアイデアは・・」というテーマをいただき、私から

「勉強をすること」

という提案をしました。

ヨーガの勉強でもいいし、自分の好きなことでもいいし、この時期せっかく時間ができたなら今までやれなかった勉強をするのがいい、と。


・・・・・・



コロナ自粛期間のオンラインヨーガ、4/22のセッションではこういったお話をしました。


書籍「自己を知るヨーガ」の中にグルの素晴らしい言葉があるので最後にそれをくわえておきます。


「あなたは自分のところにやってくるものを避けることはできない。

それがやって来た時に自分自身を助ける正しい態度を身につけることはできる。」


スワミ・サッチダーナンダ師の言葉です。



今回のコロナの状況で「わたしの元にやって来たもの」はなんでしょう。

それは一人一人に来た「なにか」であって、ウイルスじゃないかもしれないですね。

そして、来たからには取るべき「自分自身を助ける正しい態度」とは。


そんなことを考え出すときっと、これまでに蓄積した既存の「情報」が邪魔してうまく考えられないかもしれません。

そんな時もぜひ、ヨーガの聖典を開いてみてください。

絡まった思考をほどいてくれると思います。