ヨーガスートラの節です。
I-42 名称と形態、およびそれらに関する知識が混入しているサマーディが、サヴィタルカ・サマーディすなわち思慮を伴うサマーディと呼ばれる。
I-43 記憶が十分に浄化されると、名称と属性の境界がなくなり、集中対象の知がひとり輝き出る。これがニルヴィタルカ・サマー ディすなわち思慮を伴わないサマーディである。
上記の節は、意識の高次の段階へと登る過程を説明したヨーガスートラ第一章の終盤の2節です。
samaapattih :サマーパッティ
という語が出て来ます。
サマーディと言われます。究極の意識に至るまでの、真の認識作業の段階が説明されます。
以下は私のひとり言的な思索。
私たちは自分自身を「わたし」として一個の個別体として認識したり、ひとつの事象や事物をそれ単独のものとして認識することができるのですが、それを行っているのは心であり理性です。
私たちがこの世界を認知するうえで、最初はこの心が大変役に立ちます。様々な事象に対して心の動きを通じてその有り様を認識していきます。
名前を付け、言葉によって意味を不可し、意味から分類をし、そして自分という物理的事象がどこにいるのかの位置を確認します。
それがそうであることを分かったような「感じ」を持ちます。
身体体験とはそういったものが長く続きます。
しかし心の動きは、私たちがひとたびこの世界の物事や事象、そして自己の、その深い深い本性を知りたいと思った時に、とたんに障害となります。
心は、全体(一切)捉えることができないのです。
理性は、ひとつひとつの事象の「ある側面」からしか見ることができないのです。
歴代の偉大な科学者はこのジレンマを越えようと何世紀にも渡って努力しています。しかし人間が脳の可能性のすべてを使い切っていないのと同じように、心がその真理を言葉にしてしまうと、限定された側面の世界へと落ちてしまいます。
偉大な「発見」は、心の動きを介さずに起こってきました。
人間にはそういった、本性のなせる技(神と直接に対話できる本質的な力)があります。
しかしその技を使うことよりも、その発見を説明概念の中へと言葉を使って落とし込み、物理的に伝え残していくことの方がはるかに難しいように思います。
神と話すことは、誰でもできるのです。
しかしそれは、一個の魂の言葉と理性を越えた体験であり、物理的次元の認識作業を越えたものです。
ひとりの人間が真に神と接触したその本質を、誰か別の人間の理性にわかってもらうことは一番と言っていいほどに難しい作業なのです。
もしも世界中のすべての人が同時に、この心の働きを一瞬でもいいので止めることができれば、人はなんの分離もない永遠を共に見ることができます。言葉による説明なしに。伝え残す必要もなしに。
毎日たくさんのことを感じて、いろいろなことを「知る旅」をしているようで、私たちはその全体の「ある側面からの、ある場合においての真実」を見ているだけにすぎない。
それが無駄であるとは思いません。
その作業を、謙虚な心持ちで行うからこそ、いつかかの源泉を、言葉なしに意味だけを、完全に知るのだと思います。
それを知る(見る)までは、本当はすべての事象に意味などないのです。
何も知らない。
何もわかっていない。
いったんそう認めてみることから始めるのがいいのかもしれません。
ヨーガスートラ第一章の42節、43節を読みながら。
私たちが、体験を幾重にも重ねるこの次元の真の整合性に思いを馳せました。
そう考えているだけで、たとえ心という無知なる理性を使っていたとしても、大きな感謝があふれてきます。
それだけでも、救済だと感じるのです。
ヨーガの教えに、そして人生に感謝します。