EMIRI MOROKA -HEART MATRIX-

師岡絵美里のブログです♪


2015年8月16日日曜日

サマーパッティ。


ヨーガスートラの節です。

I-42 名称と形態、およびそれらに関する知識が混入しているサマーディが、サヴィタルカ・サマーディすなわち思慮を伴うサマーディと呼ばれる。 

I-43 記憶が十分に浄化されると、名称と属性の境界がなくなり、集中対象の知がひとり輝き出る。これがニルヴィタルカ・サマー ディすなわち思慮を伴わないサマーディである。 


上記の節は、意識の高次の段階へと登る過程を説明したヨーガスートラ第一章の終盤の2節です。

samaapattih :サマーパッティ

という語が出て来ます。
サマーディと言われます。究極の意識に至るまでの、真の認識作業の段階が説明されます。

以下は私のひとり言的な思索。

私たちは自分自身を「わたし」として一個の個別体として認識したり、ひとつの事象や事物をそれ単独のものとして認識することができるのですが、それを行っているのは心であり理性です。

私たちがこの世界を認知するうえで、最初はこの心が大変役に立ちます。様々な事象に対して心の動きを通じてその有り様を認識していきます。
名前を付け、言葉によって意味を不可し、意味から分類をし、そして自分という物理的事象がどこにいるのかの位置を確認します。
それがそうであることを分かったような「感じ」を持ちます。
身体体験とはそういったものが長く続きます。

しかし心の動きは、私たちがひとたびこの世界の物事や事象、そして自己の、その深い深い本性を知りたいと思った時に、とたんに障害となります。

心は、全体(一切)捉えることができないのです。
理性は、ひとつひとつの事象の「ある側面」からしか見ることができないのです。

歴代の偉大な科学者はこのジレンマを越えようと何世紀にも渡って努力しています。しかし人間が脳の可能性のすべてを使い切っていないのと同じように、心がその真理を言葉にしてしまうと、限定された側面の世界へと落ちてしまいます。

偉大な「発見」は、心の動きを介さずに起こってきました。
人間にはそういった、本性のなせる技(神と直接に対話できる本質的な力)があります。

しかしその技を使うことよりも、その発見を説明概念の中へと言葉を使って落とし込み、物理的に伝え残していくことの方がはるかに難しいように思います。
神と話すことは、誰でもできるのです。
しかしそれは、一個の魂の言葉と理性を越えた体験であり、物理的次元の認識作業を越えたものです。
ひとりの人間が真に神と接触したその本質を、誰か別の人間の理性にわかってもらうことは一番と言っていいほどに難しい作業なのです。

もしも世界中のすべての人が同時に、この心の働きを一瞬でもいいので止めることができれば、人はなんの分離もない永遠を共に見ることができます。言葉による説明なしに。伝え残す必要もなしに。


毎日たくさんのことを感じて、いろいろなことを「知る旅」をしているようで、私たちはその全体の「ある側面からの、ある場合においての真実」を見ているだけにすぎない。
それが無駄であるとは思いません。
その作業を、謙虚な心持ちで行うからこそ、いつかかの源泉を、言葉なしに意味だけを、完全に知るのだと思います。
それを知る(見る)までは、本当はすべての事象に意味などないのです。

何も知らない。
何もわかっていない。
いったんそう認めてみることから始めるのがいいのかもしれません。


ヨーガスートラ第一章の42節、43節を読みながら。
私たちが、体験を幾重にも重ねるこの次元の真の整合性に思いを馳せました。

そう考えているだけで、たとえ心という無知なる理性を使っていたとしても、大きな感謝があふれてきます。
それだけでも、救済だと感じるのです。

ヨーガの教えに、そして人生に感謝します。









2015年8月12日水曜日

瞑想の大切さ、エネルギーを産むこと


集中力ってのは宝ですね。

しかし頭の中に持ち物(思い込みとか雑多な情報の類)が多いと、人や物で混雑した所をまっすぐには進みにくいように、集中へと向かうエネルギーがいろんな物にぶつかってベクトルを定めることができません。

電車に乗っていたりカフェにいたりすると、そこが静かでみんな黙っていても頭から音が漏れているのが聴こえます。
(慣れてるのでそれで私が混乱することはないですが。)
調子が悪そうな体の部位からは弱い波動が漏れているのがわかります。
体が疲れやすいのも調子が悪いのも、頭からの音漏れのせいだよ、と思えることも多々。

でも普段はそういった感じの人たちであっても、自然の中に行けばその頭の中と騒音とその漏れはかなり少なくなります。

植物は人間の吐く二酸化炭素を吸ってくれるだけではなく、人の出す無秩序な波動も吸収してくれます。そして優しいものに変換してくれるか、自らの生命力と引き換えになってくれます。動物やペットさんたちもそうです。

でもそればっかりに頼っていると、地球は弱って命を育む星でいられなくなります。自分で自分を整理して、浄化していかないとですね。

人はもっと、意識を静かにさせてないといけません。
頭の中のカオスを漏らすのではなく、一人一人が光を放ってエネルギーを与える存在にならないとです。


人は思考を鎮めて浄化された意識状態でいることができれば、それこそそこにいるだけで空気清浄機のようになれるのです。
バッテリーチャージャーにもなれます。

エネルギーをもらって使ってばかりの人間でしたが、
これからは個人レベルで、エネルギーを産む人にならないといけないと思います。

瞑想を規則的に実践すればそれは可能なんです。

ほんとう言い尽くされた事ではありますが、日々の瞑想は本当の大事です。
意識の中の混雑や無秩序を、晴らす必要があります。

やり方など知らなくても、日々の中で内面の静けさに身を置くことを10分でもいいから取ろうと努力すれば、おのずとわかってきますし、そうでなければ瞑想への赴き方を知るためにヨーガの場に習いに来てほしい。そう思います。

では今日も、静かな夏の夜に瞑想しましょう。


2015年8月10日月曜日

神の体験。陸に戻る理由。


ヨーガスートラの解説書である「インテグラルヨーガ」のスワミサッチダーナンダ師の言葉は、何度読み返してもいつも新しい感動があります。

ヨーガスートラの解説と実践のための講座をしていると、生徒さんからいろんな角度の質問があがってきます。その度に、自分の思考が解釈の邪魔をしないように歴代の解説書を開きます。

先日開いた項に、今現在の私自身の深い部分を言い表してくれる言葉がありました。
もう何度も読んでいますが、やはり私の心を新しくしてくれます。



「<神>を体験するということは正真正銘の“何か”であって、そうした心を越えたときのみにもたらされることなのだ。<神>は心によっては理解され得ない、なぜなら心は事象であって、事象が事象よりも精妙なものを理解することは、到底できないからだ。」


先日、とても久しぶりに映画「グランブルー」を観ました。ジャックマイヨールをモデルにした有名な映画です。

ジャックの友人であるエンゾが、本人の身体的生理的限界を越えた海底まで降り、海面にはあがったものの息絶える直前の言葉で、ジャックにこう言います。

「本当だった。」

何が?と聞くジャックに

「・・・・戻る理由が見つからない。」

この言葉は、遠い記憶を呼び覚ますような、究極の憧れのような気持ちを呼び起こします。

生きている間、私たちはジャックやエンゾの言うところの「陸」の世界で有為の世界の様々な側面を体験し、観て、感じています。あたかもそれが本当のようなものとして体験をします。
肉体を持っていきているので、やはりその時はそれが真実なのです。真実のあるひとつの側面、というほうが正しいかもしれません。

しかし私たちは人生の中で肉体を持ちながらも、幸運にも何度か、もしくは何度も、稀にか常にかは人それぞれですが、<神>に接触する機会を持つことがあります。
多くの人にとってそのことを忘れている時間のほうがあるかに長いのかもしれないですが、それでも、人の魂とは脱皮を繰り返して源の還ろうとするものなので、
誰にでもあり得る事です。


スワミサッチダーナンダ師の、
「心は事象であって、事象が事象よりも精妙なものを理解することは、到底できないからだ。」
という言葉は、私に深い安堵を与えてくれます。
そう、黙ればいいだけなんだ、と。



『ことばというものは終わらせる機能しかない。はじめる機能などありはしない。』
三島由起夫の言葉です。

『表現されたときに何かが終わっちゃう。その覚悟がなかったら芸術家は表現しなければいい。一刻一刻に過ぎてゆくのをだれもとめることはできない。しかしことばが出たらとめられる。それが芸術作品でしょう。(中略)ことばというのは世界の安死術だと思いますね。ことばというのは安死術です。そうしなければ時が進行してゆくことに人間は耐えられない。』

創造の世界とは、止めることのできない事象の移ろいで、人はその中で何かを知覚することで自己を理解していきます。そしていつか言葉のない沈黙の「それ」へと戻ります。

何年か前に瞑想をしていた時、私はぎゅうぎゅうに圧縮された、内壁が幾何学的水玉模様の高速のトンネルを抜けて、ある世界に着いたことがありました。
着いた先には、肉眼では観た事のない「ぜんぶ」である「色」の"何か”がありました。

そこは裏と表がなく、こっちとあっちがなく、私が「何も」発しないでいられたわずかな間だけ「時」ありませんでした。
(「その間だけ時がない」という表現が間違っているのはわかりますが、言葉ではそうとしか言えません。)
かろうじてあるのは、私が私だと認識しているギリギリで最小の自己意識の背後に「うしろ」らしきものがあるような気がしただけです。
それ以外に「位置」を決めるものがありませんでした。

音に関しては、皆無でした。
私たちの世界では、動くものは音であり、音がなければ現れることができない。変化とは音であり、創造とは音です。
しかしそこでは、音が介在しない「動き」があったのです。それを言葉で説明することはまったくできません。

今思うとそれは私個人のソウルの原形であり、私個人の意識のスターゲートだったのがわかります。

私はそこで、沈黙を守っていられた間だけ、永遠を観ることができました。
しかし私のエゴ、つまり言葉が動いてしまったんです。
「ここにいたい」と思ってしまいました。
グランブルーのエンゾのように、陸に戻る理由が見つかりませんでした。
地球上で観ることのできない「すべて」である「色」、一秒でも長くこれを観ていたい、と思ってしまったんです。
しかし思ったとたんにそれは「言語化」され、「観ていたい」という言葉になってしまった瞬間に、「時間」が生まれてしまいました。
私はもといたトンネルに、来た時よりかはスローな速度、かつおおざっぱに緩んでいく液体のように、「時間と創造」「感覚」の世界へと漏れ出していきました。

離れていくとき、もったいなようなさみしいような、しかたがないようないろんな感覚が混ざっていましたが、それでも、目をあけて「現実」の世界を観てみると、それはその体験の前とは違うものでした。

「それ」は、この地上の世界のすべての現象の背景に原理として働いていて、時間という音の中で一瞬でも完全な沈黙に身を置く事ができれば、「それ」を見出し、知覚することもできる、と。

冒頭のスワミサッチダーナンダ師の言葉が好きです。