EMIRI MOROKA -HEART MATRIX-

師岡絵美里のブログです♪


2020年1月19日日曜日

思想と哲学どう違う?〜EMIRIの変態的力説「君はいったい誰なんだ!」〜


思想と哲学、どう違う???
〜「君はいったい誰なんだ!」〜




みなさん、「思想」と「哲学」の違いって、自分なりにでいいので言葉で言えますか?

ないしは、考えたことありますか?



思想と哲学。

どっちもなんか「考え」に関係しそうだな。


思想って言うと、なんらかの主義みたいな、考え方の特徴みないなものがあって、


哲学って言うと、なんらかの主義みたいな、考え方の特徴があって・・・



っっって、あれ、同じじゃん!!

と、思ったあなた。



ふふふふ。思想と哲学の違いにフォーカスしてみますと面白いですよ。



なんかごっちゃにしてませんでしたか、今まで。
インド思想、インド哲学、同じ意味合いで言ってたりしませんでした?
「あの人の思想は〜〜」と「あの人の哲学は〜」を、たいした区分なく使ってませんでしたでしょうか。


まあね、一番表面に出てきた様子が似ているように感じられるので、思想と哲学って日常会話ではあまり区分されないかもしれません。


でも違うのですよ。
言葉が違うってことは、「その二つは同じ意味だ」と言われない限り、意味に違いがあります。


思想と哲学。
辞書的なところを根拠にしてみましょう。
webで検索できる三省堂・大辞林より。
長いのでとりあえず一番最初にある意味を載せます。



<思想>
① 人がもつ、生きる世界や生き方についての、まとまりのある見解。多く、社会的・政治的な性格をもつものをいう。



ですって。
じゃあ哲学は??



<哲学>
① 世界や人間についての知恵・原理を探究する学問。

② 自分自身の経験などから得られた基本的な考え。人生観。 「社長の経営術には一つの哲学がある」

初め英語 philosophy の訳語として「理学」「窮理学」「希哲学」「希賢学」などとした。のちに「哲学」が定着。philosophy はギリシャ語 philosophia (知恵への愛・希求の意)に由来〕



ですって。この意味合いだけを、スーパーおおざっぱにシンプルにして言いますと、



「思想」は、大多数の人か、ある集合範囲におさまる人たちか、個人かが、意識的にも無意識的にも「そうだ」と思っている考えのまとまりとその風潮(特徴)。


「哲学」は(上記の意味①より)物事の「ことわり(理)」を考察すること。



という感じ。



少し明確になってきた。
まあこれはあくまで上記の「辞書的な意味」から抽出した説明で、世の中の思想と哲学のすべてがこの説明で明確に区分できるかというと、まだあやしい。




もうちょっと考えてみよう。
またおおざっぱにシンプルに仮定してみます。



「思想」は、最初になんらかの特徴ある考えがあったとして、それを個人なり団体なり人々が、無自覚にも自覚的にも「まとっている」感じかな、と思うのです。


で、「哲学」って言うのは・・・・・
そういった「ある考え」なり「対象」となるモノを、
「なんでそういうことになるの?」という感じで、その原理を知ろうと働きかける思考、

と言えるかもしれません。


なので、なんらかの「思想」(誰か、ないしはみんながそう思っていたりすること)を「哲学する」ことも可能。


あくまで仮定です。でもそんなに遠くない仮定だと思います。そして言語なんてものは流動性のある仮定のうえに成り立っているものなので、仮定=不確か、とも言えないのダス。


そうでしょ? 昔と意味合いの変わってしまった言葉なんてたくさんありますもんね!今この地点における可能な限りの思索をもって定義づけなければ言葉なんて使えないのです。その連続なのです!
(めんどくさいヤツですね!!www)



で。


「インド哲学七つの難題」という書籍がありまして、宮元啓一先生という博士が著したおもしろい本があります。
私のお風呂タイムや寝る前の愛読書のひとつ。お風呂で読むと体があったまってホワっとしてしまい、まったく考察できないので毎回数行しか進まないのが真実なのですが、それはいいとして。



その中で先生は「哲学」をこう表現しています。



「哲学とはなにか。それは、われ思うに、知りたいという以外にいかなる動機もなく、純粋に知ることを切望する営みのことである。

そしてその営みは、その営みに用いられる論理への自覚的反省をまってはじめて確かなものとなる。」



と。
むずかしいですか?
大丈夫ですよ、またおおざっぱかつ的確に言いますから(笑)。



●ポイント1
「知りたいという以外にいかなる動機もなく、純粋に知ることを切望する営み」


そうだよね、知りたいよね。
知りたいのだ、人間は!


じゃあですよ。

「皇后さまのあたらしいドレスいくらなの??知りたい〜〜」とか、
「嵐の〇〇くんのスクープ、本当なの???知りたい〜」とか、
「エリカ様釈放!!この先どうなるの?知りたい〜〜」
「ゴーンさんの総資産いくら??知りたい〜〜〜」


。。。。これ、哲学ですかね?


知りたい、のは知りたい(笑)
でも哲学じゃなさそう(笑)
とりあえずゴシップぽいところに絞ったのはわかりやすさのためですw



哲学が哲学たる条件は、宮元先生の言葉からヒントをもらいますと「純粋に知ることを切望」。


皇后さまのドレスの値段にしても、嵐のメンバーのスクープにしても、エリカ様のその後にしても、ゴーン氏の総資産にしても、その知りたいの動機は「純粋」か。

そういうのは、好奇心とか、刺激ほしさ、みたいななんか別の「情」がありそうですよね。


哲学というのは、知に対するその動機の純度、が関わるのかもしれません。(きっとそうだと私は思っています。)


三省堂大辞林の方の意味で考えると、「 世界や人間についての知恵・原理を探究する学問」とありますように、その「原理」を知りたい、原理を探求する、これが哲学だとしますと、皇后さまのドレスの値段を知れたとしても(他の例えは割愛)、それがそうである「ことわり(理)」はわからないし、別に原理とかとかそんなのは「知りたい」の範疇じゃなかったとしたら、哲学ではない、ただ「情報を得た(それによって納得したり興奮した)」だけなのですね。

はい。






●ポイント2
宮元先生の示唆する「哲学」の定義に、

その営みは、その営みに用いられる論理への自覚的反省をまってはじめて確かなものとなる」

とあります。

ちょと難しい文章。


その営みに用いられる論理への自覚的反省をまってはじめて確かなものとなる

なんのこちゃ。

またおおざっぱに言います。



・「その営みに用いられる論理」とは、「知りたいという純粋な動機で探求する(営み)」をするうえで、探求できるように利用している「論(信頼できそうな方法とか視点とか)」を・・・



・「自覚的反省をまって」とは、「今、これこれを根拠に考えているけれども、果たしてこの考える方法や根拠、そして視点などは果たして有用だろうか、別の思索方法や観点もあるかもしれないのでそっちもやってみよう!」という感じで、自発的に(客観的にふりかえったり改めてみる感じで)反省することをもってして、という意。




つまりですよ。


哲学というのは、


・ことわり(原理)を知りたい(純粋に)


・ある考え方や論などを拠り所にしてまず考えてみる


・何らかの発見がある


・さらに、別の視点では、別の思考方法でも考えてみることができないか、という自発的な反省が起こる


・別の視点に立ってみたり、別の根拠をあたってみたり、別の思考論を用いてみたりしてまた探求


何らかの発見がある


くりかえし。



哲学。こんな感じです。



え〜〜〜〜終わらないじゃん!!
じゃあ、ヨーガ「哲学」を教わったとしても、なにか「これが正解」「こうしておいたらいい」みたいな約束事を確実に知れるわけじゃないの?
「自分で反省して、また自分で考える」を繰り返ししないといけないの?



と思ったあなた。


そのとおりです。

(笑)



だから大変なんですよ、哲学するって。
変態のやることだとも思います(爆)




でもねみなさん。

生き物として自然のサイクルに従って、食物連鎖の中で調和を生きている動物たちと違って、

「思考するようになった」

という人間の定義とも言える「条件」を備えてしまった時点で、


すでに人間はみな、「変態」なのです。



あははははは。
自論です。気にしないでね!
そんな大きく間違ってないと思うけど(笑)。







思想と哲学の違い。というところに話を戻しますね。



とても似ている「考え」に関する両者なのですが、


上記の三省堂大辞林の意味と宮元先生の言葉の双方を合わせて考えてみると・・・


「思想」は、自分で考えたり、自覚や意識したものとは限りません。

私たち日本人は「現代日本」の思想に幼いころから馴染んでいることがほとんどでしょう。

そういうものを「文化」とか「習慣」とか「価値観」とか「流行」とか「一般常識」という言葉で代用されることも多いけれども、その根本には「もとになる思想」が漂っているわけです。


思想は、大地に流れている水の性質みたいに、その水が清ければそれを飲む人や生き物の体は健康ですが、水になにか混じっていたら、それを飲む者の体の状態は変わってきます。思想はそういう風に、人々を大きく巻き込んで、その状態に促したり留めたりする力を持つものとも言えます。



戦前は天皇が神様だったというのも当時の日本の思想で、疑う人は少なかったのではないかと思います。
(なので、天皇は本当に神なのか?などと考察して口に出したら、変わっている人と思われたでしょう。)


年功序列とか終身雇用が当たり前だった時代はそれがひとつの思想だったと思います。あまり転職などしないほうが全うな生き方だ、という思想を持つ人も多かった時代かと。


家事は女がするもの、もひとつの思想だし、結婚はお見合いでするものだ、という思想だった時代もあったでしょう。



バブル時代の思想もありましたよね。
高くカールして後ろに流す前髪とか、肩幅の広いゴージャスなジャケットとかww、あれが素敵に感じられた当時の思想です。
あの頃は「三高」とか言って、高学歴・高身長・高収入でしたっけ? そういうのが結婚したい男性の条件、みたいな思想がもてはやされたり(笑)。


いい大学を卒業しないといい企業に入れない、高収入は得られない、というのも思想だった時代もありましたね。


日本人だったらだいたいの人が神社に言ったら手を合わせますし、ポイ捨てはしないほうがいいという思想がきれいな日本の街を作っているし、「成人というのは20歳です」なんかもひとつの思想ですね。他の場所では違いますが日本だとそうなのです。


だいたいの日本の人は「生の卵」はご飯にかけて食べれると思っているし、心理的な抵抗なく実行するでしょう(笑)。
外国人によって死ぬほど勇気のいる行為であったりもします。そういう思想を持たないからですwww


多くの日本人が、もともとはインドから来た「カレー」という文化に、カレー自体もだいぶ日本風になったけど、さらに「福神漬け」っていう日本の文化を当たり前のように付け加えます。

一般化して習慣化してますが、最初のどこかの時点で誰かが

「カレーには福神漬けだ」

という思想を立ち上げて、それが大衆化したのであろう。
(大げさだけどそういうことw)



そこを哲学すると、

「本当に福神漬けがいいのだろうか・・・
きゅうりのきゅーちゃんだっていいはずだ。
いや、べったら漬けで行くと、どうなるのか・・・
まて、なぜそもそも漬物なんだ。漬けたものでなくてもいいかもしれない。
まてよ、カレーに何かを加える必要があるのか?
このすでにひとつのメニューとして完成したカレーに、さらになにかを添加したいという心理の原因はなんだ????
寂しさなのか?満たされないものがあるのか?
おかんがずっとそうやって来たものを見ていたせいか?
その原理はなんだ!?

・・・では、

カレーを、そのままなにも添加せずに食べることに、
喜びを見出せはしないだろうか・・・・。

・・・・

カレーとは、なんだ?」





めんどくさ!!!!
こんな人いたらめんどくさいですね!!!
変態ですね!(爆)



でもね、おもしろおかしく書いてしまったけど、
哲学とは「知に対する希求」なのですが、
その前兆として「当たり前に疑問を呈する」というステップがあるのは確かなのです。
でなければ「思想」の中でゆら〜〜と、慣れ親しんだことに守られて、変わることなく生きることだってぜんぜん可能なのです。



そして、福神漬けでいちいちこんな風にやってたら、もう頭ぐるぐるで日々が忙しいですよね。


なので、本当に自分が知りたいと思うことに哲学するというのが重要で、なんでもかんでも疑問に思って疑って、ということじゃなく、大辞林の定義のように「世界や人間についての知恵・原理を探究する」というシンプルなところに着地するのだと思います。


だからね、「カレーに福神漬け」はもう美味しいからいいよ(笑)。
その思想はそのまま成り行かせよう。
3世紀くらい先の人間に改めて考察してもらうテーマとして譲り、「当時の日本人には、カレーに福神漬けをのせるという思想が当たり前にあったのです」と言わせよう。



ただ、その疑問視や思考方法を、別の、もっと自分にとって存在の根幹に関わるようなテーマに向けてみようじゃないか。


福神漬けで考察したら最後に「なにも加えないそのままのカレーで喜び感じられない?」というところに来たように、“正しく” 哲学するプロセスを持つと、問題の本質であったり物事の本質のところまでたどり着くことができます。これが、心にとって大事なのです!

同じことに悩んでばかりの人は、これができないのです。



そして福神漬けの件で最終的に「カレーだけじゃだめ?」という地点に着地したように、最後に「本質的で正しい質問」にたどり着くことができます。


ここがすごく重要で、


「本質的で正しい質問」ができると、その時に「正しい答え」が(この世界に)同時発生するのです。


これが、賢者の思考方法です。


逆の言い方をすると、「的外れな質問をしている時は、正しい答えは(この世界に)発生しない」のです。

(*この件は大事すぎるので別でまた書きます。)




きゅーりのきゅーちゃんじゃだめかな〜、
べったら漬けだとどうなる?
漬物じゃないといけない?



とか考えていたあたりは「可能性を探る」ということには成功していますが、まだ「本質」に到着していません。
なので疑問と可能性の間を行き来します。
それはそれで楽しいこともあります。けっこう楽しいからこそ、ここで終わってしまう場合も多いです。
カレーに合う新たなトッピングを見つけられたら楽しいですもんね。



でも。

さっきの例えを使って「カレーに何かを添加」を「私に何かを添加」に置き換えてみてください。


(私が)これを持っていたら、いい感じかな。
(私が)これを買って身につけると素敵かな。
(私が)資格の勉強して取得できれば、有利かなあ。
(私が)旅行をたくさんできたら、幸福感増えるかな。
(私に)素晴らしい恋人がいたら完璧かなあ。
(私が)有名になったら気分いいかな。


みたいな。
確かにこの「可能性のプロセス」は楽しいかもしれない。
実際にそうなっても、そこそこ楽しいし物質的には満たされると思う。


でも、「カレーだけじゃいけないっけ?」

のところが、

「私って、なにか付け加えないとだめなの?」

というところにもし到着できるならば、


「そもそも、わたしってなんだ?」

という質問にまでたどり着くことができます。


このプロセスが哲学です。
宮元先生のおっしゃるように、自分の疑問や質問に「自覚的反省」をもって考察を繰り返すことができれば、最後に「本質的で正しい質問」にたどり着くことができます。








そして、


「そもそも、わたしってなんだ?」


これが、ヨーガ哲学のテーマです。

「自己」についての「知」を求める。

それがヨーガ哲学です。

ヨーガからあなたへの哲学的に正しい質問は

「あなたは、誰ですか?」

という、この一言に帰結するのです。



その他たくさんあった「質問」、それらも個人の人生や個人の経験にとっては大事なものがきっとたくさんあります。それはそれで大事にしつつ、ヨーガが投げかける究極の質問について、考えてみたいと思いませんか?


「あなたは、本当は誰ですか?」


自己はなにか、ということです。







あ〜長かった!!!

とりあえず、大事なところに到着できました。




思想と哲学の違い、というところから、ヨーガ哲学の本質的な質問までをお話してみました。


ちょっと時間を作って、自分がもうすでに持っていたり、無自覚に慣れている「思想」を考えてみるとおもしろいかもしれません。


そして、その中でも自分の「存在」とか、人生にとって大事なテーマに関わることであったら、「今までの当たり前が本当にそうなのかな」と「哲学」してみるとなお、おもしろいと思います。





長かったですね!!(笑)

Namaste
EMIRI

2020年1月15日水曜日

インドの物理理論グナその4 集中と瞑想のヨーガ的前提( EMIRIのメールでヨーガ講座・初級編)


<<新年企画>>
*こちらはメルマガで配信した記事になります。




EMIRIのメールでヨーガ講座
「初級編4・集中と瞑想のヨーガ的前提」



新年企画としてメール講座的に書いています。



〜心の浄化・具体的編〜


前回の配信までに、「グナ」という古代インドの物理理論のお話と、心(知性)の浄化が必要なんだよ〜って言うお話をしました。

ヨーガを考える上で最重要概念のひとつです。

プラーナの性質である「グナ」は、

・サットヴァ:純粋性・光や明るさの質

・タマス:停滞性・翳りや暗さの質

・ラジャス:活動性・動きや刺激の質



こんな感じでしたね。

しつこく言っているので覚えてきましたか?(笑)。



で、ヨーガで言うところの「瞑想」の質や、真理というものは「サットヴァ(純質)」なんだ、と。

ですので知性(心)がサットヴァじゃないと、瞑想も変なことになるし、真理だと思ったものが実はそうでない、なんてことになるぜ、と。




瞑想ってなんじゃろ


関係ある範囲で脱線しますが、「瞑想」についてもうちょい細かく言います。
(あとで元々のテーマに戻るので大丈夫!ついてきて。)



一言に瞑想と言いますと、目を閉じて心を静かにさせている状態も、なんかリラクゼーション的にほわ〜〜〜と目を閉じている感じも、世の中的には瞑想と言ってしまいますよね。


なんですが「ヨーガにおいての瞑想」という定義はもっと厳密ですのです。
(日本語おかしくなってきたw まあ良いでしょう、面白い方が印象に残る。)



経典「ヨーガ・スートラ」の示すところの「瞑想」は、同経典の中の「ヨーガの八支則」の中の「順番」も考慮するとわかります。


ヨーガの八支則において「瞑想」と言う段階に入るまでの過程として、

 五感の制御(制感)〜〜集中〜〜瞑想

という段階を経ます。この順序に重きを置き、瞑想に至るまでに「五感の制御」と「集中」という段階の完成があると捉えましょう。

以下に整理してみます。



瞑想の前提1:感覚の制御ができている

八支則でいうと「制感」っていうもので、プラティヤハーラと言いますが、聞きなれない漢字熟語とわけわからないカタカナ用語を見るだけで「あ、ダメだわヨガ哲学わからんわ」となりそうな方は、今は言葉にこだわらず、とりあえず「五感をコントロールしている状態」だと思ってください。


五感ってほら、
良い匂いがしたらもっと嗅ぎたくなるし、
美味しそうなもの見たら食べたくなるし、
素敵な人がいたらお近づきになりたくなったり、
変な音が聞こえたらビビったりするじゃないですか。


そんな感じの「五感」が、統制されている。つまり外界の出来事への「反応」が起こらず、シーンとしてる。
そしてむしろ何かを「知覚する」という五感の機能性を「自己の内面」を見る方に向けられる、そんな感じです。


それだけでも、縁遠い感じがしますよね(笑)
むずいですよね。
引け腰および腰ですよ。

だっていい匂いは心地いいし、美味しいものは美味しいし、誰かの話し声が聞こえてきたら気になるものです。


でもヨーガの修行過程では、五感の外界への反応を、OFFにします。



瞑想の前提2:一つの対象に対して長い時間「集中」ができる

長い時間ってどれくらいやねん、と言いますと、一説によると・・・

一時間半以上

だそうです!(爆)

あはははは、なが!


私が言ってるんじゃないですよ!古代の賢者が言ってます。

(「現代人のためのヨーガ・スートラ」3章の解説より)


まあでも厳密な一時間半ってことじゃなくても、それくらいの次元でってことですよきっと(笑)。


日常の思考の動きなんて、何かに1秒も集中していないことの方が多いですよね。
あれを思い、次の瞬間これを思い。

youtubeの動画でも、動画分数が( )分とか出ると、長いな・・とか思ってしまいませんか?(カッコ内には自分の思い当たる分数を入れてね♫)



心(思考)ってそもそも散漫さがウリなのです。いろいろ感じてあっちこっち行くことができるのがあたしの持ち味よ♡って。
ですので、もしあなたが何か集中できる趣味でも行為でも想いでも、何かあるのなら、それってかなり貴重なこと。
そのテーマの中にあなたの人生のキーがあると思うので、集中していられる何かがあったら大事にするといいですね!



ちょっとずれましたが、仮に何かに集中したとしても、別の思考が急におっぱじまったりしますよね。


ひとつの対象に(長時間)集中し心を結んでいられる。


これがヨーガにおいての集中で、瞑想の前段階だというわけです。






瞑想の前提3:集中の対象はサットヴァなものでなくてはいけない


ほら!来ましたよグナ!!

話が冒頭に戻れましたでしょ??言ったでしょ、元のテーマに戻れるって!!!(笑)




ここで来るわけですよ、グナが。




瞑想の前段階での「集中」において、その集中対象は・・・



サットヴァなものじゃないといけない♡



サットヴァな対象とは、純質なもの。

純質ってなんだ。それは真理であり光であり、清いもの。

あるいは真理へと導いてくれるもの。



真理ってなんだ!

真理ってのは、「本当のこと」です。(そのまますぎてわかりにくい!)


前提として私たちの思考は、物事を脚色して、好きなように歪めて見ています。自分のことも他人のことも、出来事も経験も、その時の心のあり方によって質が変わってしまいますでしょ? 


そういう風に、心のあり方に影響を受けて質を変えてしまうものは全て「相対的なもの」であり、とどのつまり「幻想」なんですよ、と。

*幻想を「マーヤー」っていいますが、今は暗記への拒否反応を起こさないよう、覚えなくてもいいです。



幻想じゃなくて、心に影響されない不変の「何か」。それが真理。



「自己」もそうで、心のあり方によって変化し、相対によって変わってしまう「自己像」は、文字通りただの「像」で、低次元での自分の捉え方なんですね。それじゃない、と言っています。


“まったき自己”ともいうべき、真の自己・真我なるものが、幻想である心の世界のさらに内奥に、あるんだよ〜〜〜、と、先人達はそう教えておるのです。

で、そう言った質のものを集中対象に選びなさい、ということです。



じゃあ、サットヴァじゃない対象はなに?とか考えるとわかりやすいかと。



ラジャス性(激質)のものを集中対象にしてしまうと、心の動きがどんどん高まり、欲求とか好き嫌いとか快不快とか、煩悩的になっていきます。


好きだからと言って、目を閉じてラーメンに集中したとしても、「やべーー食べたい!もう目の前にあるくらいにリアルに想像できるわ!味まで思い出せる!」となっていましたら、五感が刺激されて反応を起こしていることになりますので、「前提1」も覆してしまいますよね(笑)。
たとえはラーメンじゃなくてもいいですw
五感がムクムク立ち上がるもの、気持ちが興奮したり荒ぶるものは瞑想に赴くための集中対象としてはNG。
欲しい欲しい!が高まるものもNG。
オレオレ!私私!が高まるのも、ラジャス性ですね。



タマス性(翳質・暗質)な対象に集中したらば。
そうですね、例えば、
暗〜〜〜〜〜い記憶、に集中。
恨みや嫉妬心に集中。。。
憎しみに集中。
いや〜〜〜な気持ちに集中。。。。。
残酷な妄想に集中。。。。
心配事に集中。。。。

笑。怖いですね!!
もはやこれは瞑想じゃないことくらい、ヨーガをしていない人でもわかりますねwww


心を低い方、無知な方に赴くグナがタマスです。暗い気持ちや、執着・貪欲を引き起こす類のものは、集中対象にならないわけです。


瞑想時にわざとこういう思いに集中する人はいない(はず)ですが、でも人の普段の思考ってこういう暗い案件にも集中してしまいますよね。
タマスは「無自覚」のグナとも言えます。
むしろ日常で起こる思考の波として気をつけないといけないです。




前回までのお話に戻れそうですね!


ヨーガをやるっていうことは、とどのつまり「サットヴァ」を選択すること、というお話でした。


日常から「グナ」を見極める目と心があれば、集中するという時にサットヴァを選択できるようになります。


そして前回のお話では、グナを見極めるにはということで「心(知性)」を「メガネ」に例え、きれいな布でメガネを拭いて、これまでの汚れを落とすことが必要だよ〜、というお話をしましたね。


で!

汚れたレンズ(心)を拭くための、きれいでキメの細かい布とは。
それがヨーガ・スートラの中では、

「聖典学習」

「身体浄化の修行」

「至高の存在への祈念」


だよ、と紹介されているんですね。

というところまでをお話ししました。






だいぶ、ヨーガの前提が見えてきましたでしょうか?

次回に続きます。


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本日も最後までお読みくださりありがとうございます。

ナマステ

EMIRI

2020年1月14日火曜日

インドの物理理論グナその3 心を浄化する手立て( EMIRIのメールでヨーガ講座・初級編)

<<新年企画>>


*こちらはメルマガで配信した記事になります。



EMIRIのメールでヨーガ講座
「初級編3・心を浄化する手立て」



新年企画としてメール講座的に書いています。


〜グナを見極めるには?〜


前回の配信で、「グナ」という古代インドの物理理論のお話をしました。ヨーガを考える上で最重要概念のひとつです。

前回は、グナを見極めるには心(知性)を純化しないといけない、というところまでお話しました。

プラーナの性質である「グナ」は、

・サットヴァ:純粋性・光や明るさの質

・タマス:停滞性・翳りや暗さの質

・ラジャス:活動性・動きや刺激の質



こんな感じでしたね。

で、ヨーガをやるっていうことは、とどのつまり「サットヴァ」を選択すること、というお話でした。




でもって、いざ実践しようという段階になり、サットヴァであろうと思ってもまず



「これはサットヴァなのか?ラジャスなのか?タマスなのか?」



というところで迷ったり誤認してしまいますと、実践のヨーガがなかなか進まないわけです。
(「迷うこと」も修行の段階ではあるのですが、そこから抜けられないんじゃ先がないですよね。)




また、サットヴァなるものを知識的に理解しても、普段の癖でラジャスやタマスに陥ったり、「欲求」の方が強い段階ですとサットヴァを認識してもそれを選択することができないんですよね。


体に悪いとわかっていながらも食べてしまう“なにか”、みたいな感じです(笑)。
もうなんにも創造的発展や純粋な気持ちがないとわかっている関係でも、ひとりになるのが怖くて別れられない、とかね(笑)。
次の日絶対に具合悪くなるってわかってるのに、深酒、とか(笑)。
これ一袋たべちゃったらすごい罪悪感と胃が気持ち悪くなるけど食べちゃうポテチ、とかですよ(笑)。
挙げたらキリなく、上記よりも「重い」ものはたくさんあるでしょう。




心が純化されるまでは、人は迷い、そして間違えます。



はじめのうちは、ただ単に「気持ちのいいもの」や「快適なもの」をサットヴァ(純粋の質)だと思ってしまう段階もあります。五感を満たす快楽の心地よさを、純粋性と勘違いしてしまうということですね。





サットヴァは、本来の自己であり真理そのものの性質であり、もしくは真理へと「つながる」ものの性質です。ラジャスやタマスを避けてサットヴァを選べる認知力が発達するまでは、自分の思考でこれを考えて見極める訓練をしていかないといけないんですね。




でも実際の世の中や、現代人の思考って、どうですか?



一般的な当たり前を信仰し、


情報に左右され、


人の目を気にして、


正解が(考えなくても)与えられることを期待し、


多くの人が言っていることをよく考えずにすぐ信じ、


自分や物事を決めつけ、


その時の感情に翻弄されながら、


上記のような心を習慣と惰性でなんとかバランスを取りながら、生きているわけです。



この状態で真理に心研ぎ澄まし、物事の真の性質を見極めることは、無理なんですね。





この世界に、真に「考えている」人はあまり多くいません。



それが心の生み出す「無知」の世界なのです。




では、そこから抜け出して、自分の目と心をクリアにするには、本当の意味で自分で「サットヴァに考え」、物事の「さが」を見極められるようになるにはどうしたらよいか。






それにはまず、前回のメガネの話で例えますと、きれいな布でメガネを拭いて、これまでの汚れを落とすことが必要です。



「メガネ(知性)が曇ったな〜〜」と、汚れた目の荒い布でレンズをごしごし拭いても、もっと汚れるしもっと傷がつきますね。もっと心が混乱して視界を悪くしてしまいます。




汚れたレンズを拭くための、きれいできめの細かい布


ヨーガの世界ではそれは「聖典学習」と「身体浄化の修行」、そして「帰依の心」です。




これは経典「ヨーガ・スートラ」による定義です。みっつを合わせて「クリヤーヨーガ(行為のヨーガ」と言います。






聖典学習で、経験で濁ってしまった知性に「真理」という浄化の知識を投入します。真理の知識は、汚れた体を洗う聖水にようなもので、この知識がないと経験の中で道に迷います。



身体浄化の修行によって、肉体や心が感情や欲求の奴隷にならない自己を確立させます。



帰依の心は「神への祈念」と言われ、放っておけば自己中心的になる人間の心を、より大きな存在を意識することで、いわば「人格」を清めます。





上記の三つは、どれかひとつだけやればいいというものではなく、三つを同時に行いましょう、と教えられます。




そしてこういった修練をすることで、体験することの「グナ」を見極め、サットヴァを選び、過度なラジャスや無自覚のタマスを避ける、という意識的な生き方ができるようになっていくわけです。



「心」に翻弄させられていた段階から、「心」を制御する自己を作っていきますと、心はサットヴァな対象に集中することができるようになり、真の穏やかさが育ち、そして瞑想が開かれていくわけですね。






グナを見極めるというのは相当に高度な心の状態で、それをヴィヴェーカ(識別)と言います。



グナの見極め。それはヨーガ哲学やその実践に入門された方が、その後もしばらく当たり続ける壁ではあるのですが、「グナの見極め」「グナの選択」という試行錯誤の体験というは、失敗も含めて重要だと私は思います。



何事も、理屈を教わっただけではそれを真に経験することはできず、ヨーガも知識を得ることと同時に、実践されなければ自分のものにならないのですよね。



というわけで、今回は「心を浄化する手立て」についてお話しました。

次回に続きます♫


さらなる興味がわいた方や、もっと深く知りたい方はぜひ開催中・募集中のオンライン講座などもチェックしてみてください。




本日も最後までお読みくださりありがとうございます。

ナマステ

EMIRI

2020年1月12日日曜日

インドの物理理論グナその2心を浄化するヨーガ的理由( EMIRIのメールでヨーガ講座・初級編)





<<新年企画>>

EMIRIのメールでヨーガ講座

「初級編2・インドの物理理論グナ」


*こちらはメルマガで配信した記事になります。





〜グナを見極めるには?〜


前回の配信で、「グナ」という古代インドの物理理論のお話をしました。ヨーガを考える上で最重要概念のひとつです。



グナというのは創造物の原材料である「プラーナ」が持つ「性質」のことで、物事(物理現象)の持つ個別の性質についての考え方でしたね。

プラーナの性質の違いを三つと捉え、サットヴァ、ラジャス、タマスという言い方をするよ、と。


・サットヴァ:純粋性・光や明るさの質

・タマス:停滞性・翳りや暗さの質

・ラジャス:活動性・動きや刺激の質



こんな感じでした。思い出しはできましたか?



この宇宙の物事は、なんでもかんでもプラーナからできている。


プラーナ。それは物理学の世界の素粒子のようでもあります。
ミクロの世界の最小単位、最初の形まで戻すとすべては「なんにでも変化できる最初の物質」になるよ、というかんじです。



実際は、私たちが生きて体験している次元では、物質として硬いものもあれば柔らかいものもあるし、熱いものもあれば冷たいものもある。


一般的に人間が知覚できるものは物質としてかなり複雑になった段階のもので、それらをヨーガの理論では「粗大な物質」と言います。


心の動きやその状態もプラーナの構成によって変化しているものなので、嬉しい気持ちもあれば、悲しい気持ちもあるし、憎しみや怒りもあれば、優しさや愛もあります。
それらをグナで捉えると「サットヴァな感情」もあれば「ラジャスな感情」も「タマスな感情」もある、という風に考えます。


そんな感じで、すべての物質は同じプラーナからできていても「個別性」がある。すべての現象はサットヴァとラジャスとタマスの配合物で、その配分を変えることで「違い」を持ちます。極めてサットヴァ性が高いものもあれば、なにをどうしたってラジャスでしかない、というものもある。



説明をものすご〜くハショリますが(笑)、


そういった個体とか物事が持つ性質の違い(グナ)を“見分ける知性”を高めることが、ヨーガを進めるうえで必須のプロセスであり、獲得すればそれは聖なる技術とでも言える叡智の心なのです。


どうして必要かと言いますと、サットヴァな知性だけが真理を理解し、真我(本当の自己)へと目を向けることができるから。


ラジャスな心は刺激性の欲に由来しさらなる欲に目を向けます。

タマスな心もまた、停滞性の欲に由来し、無知へと落ちていきます。


こういった知性(心)はけしてヨーガで目指すところの「真の自己」に気づけない知性であり、真理ではないものを「これが正しい」と勘違いしてしまう知性なんです。それをヨーガ哲学の世界では「無知(真理がわからない心)」と言います。


(ちなみに、鈍さ暗さの性質をあらわす「タマス」はしばしば「無知(真理がわからない心)」と同義で使われています。マントラの中でもよく出てくるキーワードで、“どうかタマス(無知)を払い、真の光(サットヴァ)に到達できますよに〜〜”と唱えていたりします。)



というわけで〜〜〜

とどのつまり、ヨーガの目標地点は「サマーディ」という「心の動きが止まって意識そのものに留まる」という境地を目指しているのですが、その道のりのことを「ヨーガ行」としますと、“ヨーガを行う”ということは、真の自己へと向かうことができる「サットヴァな心(知性)」を育て、そして現実の中でグナを見極め続ける鍛錬、となります。




なにがサットヴァで、なにがラジャスで、なにがタマスなのか


それを現実の中で見極めることができないといかん、というわけです。



「わーい!これはサットヴァだ!」
と思ったものが、実際はすごくラジャスなものだったり、タマスなものだったり、という勘違いが続くと、いつまでたっても真理へと向かうことができず、欲や無知の中で同じことを繰り返しちゃうよね〜っていうことです。そういう心の動きが「解脱できないカルマ」となり、今回の人生が終わっても次の生に引き継がれる、と考えるわけです。



で、またハショリますが(笑)



じゃあ「物事の性質の違い」であるグナを見分けるってどうやるの?

となりますよね。



これは実は「どうやるか」ではなく、

自分の心をサットヴァにする

に限ります。



やり方の話ではなく、状態の話になるんですね。



それはヨーガで言うところの「心の浄化」作業で、心というのは哲学用語で言いますと「知性」で、知性を清浄化することで、グナの見極めができる知性になっていく、ということです。



例えるなら、メガネを持っていたとして、


「ものをよく見るには、このメガネをどうやってかけたらいいの?


という質問だと、質問自体が少しおかしいのはわかりますよね。


「メガネはただかければいいだけで、重要なのはそのメガネのレンズがきれいかどうか、ということだよ。」


と答えることができます。





心(知性)も同じくで、

「どうやってグナを見極めるの?」

という質問にはそのまま答えることができず、

「グナを観ている自分の目(心)をきれいにすればいい」


という返答になります。





次回は、どうやって心(知性)を浄化するか

(メガネレンズの汚れの落とし方ですね)

に進みましょう。



だいぶハショッたのですがおおかた言い得たと思います。
もっと詳しい内容は、オンラインの哲学コースなどで詳しくお伝えしています。ヨーガが教える物理現象の秘密や心についての知識が思考にダウンロードされると、物事の見え方はクリアになってきます。


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本日も最後までお読みくださりありがとうございます。

ナマステ

EMIRI

2020年1月8日水曜日

インドの物理理論グナその1( EMIRIのメールでヨーガ講座・初級編)

<<新年企画>>

EMIRIのメールでヨーガ講座

「初級編1・インドの物理理論グナ」


*こちらはメルマガで配信した記事になります。



みなさんあらためまして、新年あけましておめでとうございます。このメルマガもはや何年書いてるか、忘れてしまったけど(笑)、いつも読んでくださりありがとうございます。


毎回私が感じたことなどをヨーガの教えに照らし合わせて書いたコラムや、ヨーガ理論をピックアップしてお伝えしていますが、新年企画として今日はメール講座的に書いてみます。


さらなる興味がわいた方やもっと深く知りたい方はぜひ開催中・募集中のオンライン講座などもチェックしてみてください。




〜サットヴァを選ぼう〜


新年はじめのメッセージで何を書こうかと思い、そうだなやっぱり基本に帰ろう、と思いました。


私の中に、ヨーガ哲学を初めて習いますという方々にお話をする際に、いくつかベーシックな手順というのがありまして、もし時間をかけてお付き合いできる場合はヨーガやその思想の歴史から入ることが多いのですが、単発のワークショップなど短い時間の中でお話する場合は、とにかくこの知識だけでも持って帰れば、日常の中で応用でき、自分自身の心を見つめるためのひとつの基準になりますよ!というものをお渡しすることが多いです。

それが「グナ」の理論で、これは哲学うんぬんの前に、インド的「物理法則観」と言ってもいいもので、この世界のあらゆる現象をどんな風に捉えているかというところになります。


グナというのは「性質」とか「徳質(特質)」などと訳されることが多いです。物事(物理現象)のそれぞれは個別の「性質」を持ちます。古代インドの物理の考え方では、その性質の違いを三つに分けて考えるため「3グナ」と言ったりもします。


では、その「物質」が “なにから” 創られているかというと、「プラーナ」からできている、と考えます。プラーナとは、いわば「なんにでも変化できるエネルギー」で、生命エネルギー、物理現象の原材料、というわけです。



この世界のありとあらゆるものは、プラーナからできていると考える。そして三つの性質の違い(グナ)を持つ。


「グナ」とは「プラーナ」の性質の違いのことを指します。


プラーナの三つの性質(グナ)の違いは、

・サットヴァ:純粋性・光や明るさの質

・タマス:停滞性・翳りや暗さの質

・ラジャス:活動性・動きや刺激の質



と分けられます。
(これがヨーガを進めていく上で非常に大事な概念なので、ぜひもうここは言葉として暗記しちゃってもいいかと思います。)

物理現象のすべては、これらのグナのあり方(配分)の違いによって、個別の性質を持ちますよ、というわけですね。


そしてインド的な物理世界観のおもしろいところは、普段私たちがいわゆる「物」だと思っているもの(目で見たり手で触ったりできるもの)以外も「物質」ととらえ、例えば私たちの「思考」や「感情」「記憶」なども、同じくプラーナでできているし、「心」と呼んでいるものも、なにか漠然としたものではなく、これまた「物質」のひとつであると解きます。


グナは、物事の性質の差についてを語っており、硬いものもあれば柔らかいものもあり、水のような性質のものもあれば、火のような性質のものもあり、物事はすべて固有のグナを持っています。


ですので、プラーナでできた「心」の状態にも「グナ(性質)」があります。


自分の「心」は今、どんなグナであるか。

それを洞察し、そして「どんなグナでありたいか」とか「どんなグナでいると真理を理解し生きることができるか」というように「考える」ことが、ヨーガ哲学の重要な最初の一歩であり、そしてそれが修行の最後まで着いてくる考察と実践の道になります。



自分の「心」は今、どんなグナであるか。


・サットヴァ:純粋性・光や明るさの質

・タマス:停滞性・翳りや暗さの質

・ラジャス:活動性・動きや刺激の質


ちょっと考えてみてください。



最終的なことを開示しておきますと、ヨーガの修練とは「サットヴァの質を高めること」になります。


また、心が真理を理解できる状態というのは「サットヴァ」な状態のみです。


そして、ヨーガで言うところの「瞑想」とは、心身を「サットヴァ」に落ち着かせ、心という物理的な現象を超えた境地(サマーディと言います)へ赴こうとするその方向性および、そこに至ることが目的となります。


今日は、ヨーガの基本概念「グナ」のお話をしました。



しつこいけどもう一回(笑)

自分の「心」は今、どんなグナかな。

純粋で明るいかな(サットヴァ)、

なんとなく後ろ向き、もしくはちょっと停滞してるかな(タマス)、

欲とか刺激に翻弄されがちかな(ラジャス)、


なんて風に洞察してみて、ちょっとでも明るく純粋な方=「サットヴァ」に向かわせてみよう。

そういう心がけが「日常のヨーガ」で、自分自身への静かな向かい合いであり、欲に由来していない魂的な向上心を見出すうえで、とても有用な洞察だと思います。






最後までお読みくださりありがとうございます。

ナマステ
EMIRI










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