EMIRI MOROKA -HEART MATRIX-

師岡絵美里のブログです♪


2018年2月26日月曜日

人が「哲学する」にいたることについて。



インド哲学の根本が「輪廻」の思想のため、

「なんども生まれ変わるこの生の苦から脱する」

というところに基礎があることによって逆に、

「この世の幸福や、生の喜びとは」

という問いかけも生まれてきます。





人が「哲学する」にいたることについて。







自分のいる世界のありようにそれほど疑問なく、

人間どうしの付き合いや社会の中で「都合をつけて」生きることに疑問を持たず、

幸福の定義に疑問を持たず、

一般的な価値観に疑問なく、

物理的にも順風満帆、ないしは、まあまあいい人生だしこんなかんじでいいかな、

と納得のいっている人が「人生は苦である」という考察に向かう動機を持つことはなかなか無いと思うので、

私が好んで探求しているインド思想や、同じではなけれども近い感覚でいうと仏教思想などにおいて

「生を苦」

とまで見なすことが、

思想の源流をきずいた古代の人々にとって「ちょっと思いついた」テーマや、一時的メランコリックではないのだろうと思います。





でもだからといって、生きること自体が苦である、というテーマは、

今生きている人々にとって全面的に肯定されるわけではないだろうし、

全面的に否定されるものでもない、

これもたしかです。


「生」は私たちに、苦しみを与えることもあれば喜びを与えることもあり

今生きている多くの人にとって、その実体験の中では、どちらかひとつに決定されるものでもないと思います。



ですから、「哲学する」ということは、

与えられた決定を鵜呑みにすることではなく、

(それでいいのだったら哲学はいらない)

上記のように「生は苦」という古代の思想からのひとつの提案があった場合に、


今生きている私たちが

「どのような条件のもとで自分は(自分たちは)は苦しみを抱くのか」

そして

「それにどう対処をするのか」

という方向へと意識を向けたとき、

インドの哲学やその他の思想の中にある、ひとつの「問い」をより深く掘り下げる自分自身の哲学になると感じます。


現実の生活に「生かしなおす」こと


このような焼き直しをなんどもトライ&エラーしていくことで

人生のうちにある深く秘められた神秘に触れていくのだと思います。


生きていて、苦しみをまったく感じないようなひとはいないでしょう。

肉体的な痛みであったとしても、それは心の苦痛につながることがあるし、「不幸」ではなかったとしても、憂いや、心の傷を持ちながら歩いている人だってきっとたくさんいると思います。





私がインド思想から学んでいる多くの感性は

結局は自分自身への内省に行き着くにしても、


人は、元気そうに明るく見えても、

心の中にもっと深いものを持ち合わせて生きている場合が多く、

ひとつの側面や現れだけからはわからない

見えない部分

そういったものへの、言葉なきシンパシーを高めてくれます。


世界中のすべての人と仲良くできるわけではないけれど、

理解しようとする心を持つことは、努力したいと思っています。


それでも生じる摩擦や
葛藤や
離別があったとしても、

それによって、人と人が出会って関わっているこの世界に生まれたことを否定する理由にはならないと思います。

感じる心の純度をあげていくと、

生の中に起こってくる「幸か、不幸か」という問いかけの先に、

生きる

ということの二元性のない喜びが開いていたりします。

考えて、考えて、考えて、

その先に考えを超えた空洞があるように。

哲学の行き着く先は、

きっとなんてことないさっぱりとしたもの

なんじゃないかと思います。