EMIRI MOROKA -HEART MATRIX-

師岡絵美里のブログです♪


2016年2月25日木曜日

暗号、あるいは意味なんてない


人生というのは暗号を解いていくようなもの


すでに視界に入っている領域や感じ取れる範囲の中に


それ以上の情報が含まれている

おびただしいほどに



でもその暗号というのは

mindで考えて意味のわかるものはなく


そもそも意味というものもない



しいて言えば


その暗号が解けたときに見えてくる景色は


「すべて」という絵画


すべて、という和音であり

すべて、という織物




隠し絵みたいなもの

どちらの「絵」が見えても

どっちの絵にも意味はない















”今見ることのできる観念”に

限界や制限があるということを知るだけで

どちらの絵であっても即座に自由にスイッチして見ることができれば、

別に!

どっちの絵にも意味なんてない


出来事は基本的にすべてニュートラルでしかない




人は、意味を求める。


でも

「全部」が見えれば

意味が必要なくなる



ただハーモニー


ただハーモニー、それだけ


ハーモニクスに

理由も、動機も、目的も

いらないから。







意味なんて、ないのさ

だから歌うよね

歌うしかないよねー!

わたしには、それは踊ることなんだけど、

君の”それ”はなんだ?

それを世界に見せて欲しい、できるだけ今すぐに






で、今日はチャゲアス。(笑)(この前はミスチルだった。)

理由は聞かないで。そんなものないから。

”君が思うよりも、僕は君が好き”

そう言える人生と、そう思ってるのに言えない人生なら、

言える方にいたいでしょ絶対。

だって、生きるってそういう情熱じゃん。

何も意味なんてない。






愛だよ!



EMIRI MOROOKA


2016年2月23日火曜日

何かが満ちて、何かが終わる


満月ですね。

この満月は、何かとっても「変わり時」の満月のように感じます。

占い感覚ではなく、

地球のリズムに人の心がどんな風にフロウしてゆくかの直感という感じです。


話が変わりますが、





我が家には、何枚かのクリシュナとラーダーの絵が飾られています。

クリシュナとラーダーは、カップルとしての理想を描きつつ、
神聖な愛の象徴です。

理想って言っても欲から出る理想じゃなくて、

無条件の愛と献身の象徴ですね。


こういった「象徴」が実際に心にイキイキと生きてくるには、やっぱり「信心」が必要だと思います。

信心は、特定の教義とかタイトル(神の名や宗教の名)への執着ではないです。

何にもカテゴライズされない純粋な自己への信頼。

自分の心の清さと強さの表現であるように感じます。

ここでいう「表現」というのも人に対して見せるものではなく、

自分が感じている自己の透明度、という己に対しての表現かな。

そんな感じです言葉にすると。

「象徴」は、その透明度を助けてくれたり支えてくれたりします。

クリシュナとラーダーの絵を見ていると、

今回のこの人生で自分が為そうとしている「表現」がはっきりとします。


愛を勘違いしないで生きていけますように。

この人生の中で出会った人たちの幸福に貢献できますように。

”特別な人”というマインドが作り出そうとするカテゴライズに惑わされず、すべての自己の中に眠る本来の自己に、敬意を示せますように。

本当は何も持っていない自分を、心から賛美できますように。



満月に話を戻します。

何かおそらく、変え時ですね。

みんなその要素を持つのではないでしょうか。

けっこうなギアチャンジしてもいいと思いますよ。

いろんなことがいっぱい起きるじゃないですか、人生。

でも、本来「出来事」はみなニュートラルなものだから、

何か「これはおかしい」とおいうようなことが起こっても

それがどうダメなのかということにいつまでも目を向け続けるではなく

すっごい単純に、

もっとシンプルでもっといい感じのものを自分で作ろう!!!

という発想で、先へ進めばいいのですよ。

想像力を働かせて、実行に移すしかないですね。


今きっと、何かが満ちて、何かが終わる時だと思います。

新しいドアが開く時でもありますね。

ワクワクして進みましょう。






2016年2月22日月曜日

映画、Interstellar


現在私はヨーガスートラ哲学の集中コースを実施しているのですが、
たいてい講義の中で余談が炸裂してしまいます。

って言っても、本当の意味での無駄な話ではなく(笑)、
「興味深くて関係があること」
という余談です。


先週の講義では映画の話になりました。

ヨーガスートラの内容を説明する上で、第1章のサマーディの段階の話や、
第1章後半に出てくる「名称と属性を欠いた対象への集中」というあたりで、
五感を超えた領域について話さなくてはいけません。
仮に伝わらなくても話すようにはしています。
でも最近は、時代が進み、人々の意識も進み、捉えられる現象の範囲がだんだん拡大してきたようで、何年か前よりも伝わる気がします。

それで横道にそれた話は、
「Interstellar」
という映画の話です。

講義の中で話した内容をここで文章で再現することはできないのですが、
参加者の皆さんに講義の後にメールで送った内容をシェアします。
よかったら観てみてください。
私の好きな映画であり、意識が経験していくプロセスにおいて参考になる映画だと思っています。


以下、参加者のみんなへのメール。


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皆さんこんにちは!
二回目の講義も充実のセッションになり楽しかったですね!


さて、前回の講義の合間に私の五次元余談が炸裂してしまいましたが、そこで上がった映画です。

内容も面白いですが、みてほしいのは映像です。
宇宙空間と次元が変わるところの映像表現が素晴らしいです。

時間の尺度や空間の座標が変わるあたりというのは、本当は、私たちがいつも使っている三次元的な「視覚」で捉えられる現象ではないのですが、
それでもこの映画の中の描写は素晴らしいと思います。
(私が個人的に)瞑想体験の中で通過した地点と類似しています。

ある段階にいくと、瞑想の中での視覚も拡大し、
限界の枠が一つ外に大きくなります。(本当は外でも中でもないです。)

そして、
私たちは「時間」という概念を使っても「視覚」で物を見ているのですが、
その時間の概念が外れた時に起こる視覚が、この映画ではうまく描写されていると思います。


「人体」という三次元体験装置の中に自我意識の「座標」を置いている私たち人間には、
自由に扱えるはずの「イメージ」ですら、意図的に越えていかない限り個々に「限界」を持っています。
想像できることに制限があるんですね。
こういった映画の良いところは、イメージ力の限界を押し広げてくれることなのではないかと思います。


映画は「ドラマ」の部分が感情を揺するので、ある意味かなりのchitta vritti を引き起こしますよね(笑)
ですから、よっぽどいいと思わない限りあんまり人には勧めないのですが、これはおすすめです。
アメリカの映画らしくかなりドラマチックですが(笑)、活動の質、ラジャス感があるからこそ、自分の中の沈黙、サットワの質も発見につながればいいと思います。


では引き続き、ヤマニヤマの宿題に励んでみてください。

水曜にまた会いましょう!
最終日、お昼一緒に行ける人は終了後に行きましょうね。


絵美里

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以上です。

この映画については、書きたいなと思っていたんですが結局書いてませんでした。
時間を外した永遠の刹那は、言葉にするとなにか変わってしまう。
話したくても。


それでも言葉にしてる人もいる。
村上春樹氏など。
それはおそらく「物語」の力がそうさせるのだと思う。
それを発現させている春樹さんはきっと、すごく体が健康なんだと思う。
体が健康でないと、ああいうお話を自分の身体を通過させて出すことは難しい。
健康=病気がない、という意味ではなく、
体とマインドをシンプルに保つ継続的な努力をしているのだろう、という意味。

物語。
あるいは音楽。
音楽ではもっともっと簡単で単純だ。
和音一つでも行ける。
私が踊る所以でもある。
説明するより、踊ろう、と思う。
シヴァのように。



では、今日も良い日を。


Namaste
師岡絵美里

2016年2月20日土曜日

与えることについてのよくある誤解と、愛の本質



散文です。詩のように。


整理して書く時間が今はないので、このままで。








”与えること”




それは大事なコンセプトだし




与えるというのはすばらしいこと





しかし ”与える” という行為の前提に



「わたしの」



という気持ちがくっついているかぎり



与えることも



いつか苦しみになる








最初はまだ、それでも上手くいくんだ



”与える”ことができると



自分が大きくなれたような



優等感めいたものもかんじられる




でもそれが続く限りはエゴの肥やし




「わたし」はうぬぼれたり落ち込んだりを繰り返す









確かに与えることは多くの人にとってのテーマでもある





でも「誰が」与えるのか








 わたしが わたしの 愛を与える



とか



  わたしが わたしの 時間を与える



とか



 わたしが わたしの 優しさを 与える

わたしが わたしの 許しを 与える

 わたしが わたしの 寛容を 与える  




などなどなど







どんなに与えても、




こんなふうに ”所有格” 付きの愛を差し出していたら




そこには充足も安息もない







「自分のものを人に与えている」



という発想そのものが不幸だから









バガヴァッドギーターにはこうある



  行為しながら、行為を手放せ





どんなすばらしいことをやったとしても、それを「する」のは「わたし」ではなく



神である



ヨーガ・スートラの言葉では



イーシュワラプラニダーナ(永遠なるものへの帰依)






どんな素晴らしい行為であっても



「わたしがやった」と思ってる限り自我が黙ることはなく



結果として新たな切望・渇望が起こる




「自分が自分の所有するなにか(それが感情であっても物であっても)を与えている」



と思っているから、だから




うまいこと受け取ってもらえなかった時に「不満」を持ったりする


ああそれはとても、救いがない






相手の受け取り方やその後の処理方法にリクエストがあるくらいなら



与えたりしなう方がいい、お互いのために




結果への期待を手放せていないうちは



与えても


見返りを求める自分の心の作用に毒される








バガヴァッドギーターのエッセンスをもう一回借りてみる



自分のことを



「愛を与える行為者である」



とみなしている限り



その心に最終的な平安が来る事がない










(これは伝わっているのか?わからないけれど!)




自身の「行為」に「自己」に帰属させ


「わたし」に愛や優しさ、寛容、許しと言った肌触りのよい概念を「所有」させたうえで与えているかぎり



人は孤独から自由にはなれず



二元性を超える事ができない





愛は本来、



与える事も受け取ることも必要としていない ”なにか” 





私たちは、数々の業の中で


心の浄化と純粋な完全性を取り戻すために



「与える」


というレッスンを通じて


愛の完全性がどんなものなのかを思い出している


ただそれだけであり



愛は本来、誰のものでもない




与えても、与えても、なお満たされないのなら、



心のなかで「わたしの」と思っているから



それは誰のものでもないから





数々の業の中で




私たちはまだ生きている



与えることを通じて




与えるという次元も超えて行こう



ただそこにあるものだから

























なんてね。



わたしがごちゃごちゃ言うよりも



この歌大好き。(笑)














Namaste
師岡絵美里




2016年2月14日日曜日

好き嫌いについて、ヨーガ・スートラより。


ヨーガスートラに「ラーガ」と「ドヴェーシャ」という教えがあります。

(※カタカナ表記は実際のサンスクリットの音を表現しきれないことをご了承ください。)

ラーガは、一言で言うと「執着」なんですが、
好ましい感覚を得た事により、その事柄をまた求める、または手に入れたものを(快であるがゆえに)離さない、という感じ。

快体験との同一視、という風にも言われます。

ドヴェーシャは、苦を感じた体験により、その事柄を避けたいという感じです。苦体験との同一視。


この教えは、他の節を重要にかかわり合っているすごーく大事な節だと私は思っています。

ヨーガ・スートラの二章の最初の方にでてきますので、本をお持ちの方はぜひ再度読んでみてください。

ヨーガスートラは時に、散文的で実はまとまってないなどと評されることもあります。
まあそういわんといて、とも思うのですが・・・インドの他の歴代書物の構成や韻律などがすごすぎる、ということを知ってしまうと、比較した場合にそう感じることもあるのかもしれないです。
かも、です。


でも。
でも私が個人的に感じるのは、

実際に、本当にこのヨーガ・スートラの書かれていることに思いをはせながら人としてのリアルな領域を生きていると、

絶妙だ・・・

と思えるくらいにその構成や順序が生き生きとつながってくるものです。

「できなさ」とか「つまずき」とかにちゃんと寄り添っているのだと思います。

人間のダメなところに、ちょうどいいタイミングで釘をさしたり、策を与えたり。


その哲学や書物の完成度は後世の人々の心と行為によって決定されるのであれば、自信持って私はヨーガ・スートラが好きだ。

「好きだ」っていう述部もおかしい文章だが(笑)、そうとしか書けない。



前出の「ラーガ」と「ドヴェーシャ」もです。

ヨーガ・スートラと言えば、第二章の中盤以降の「ヨーガの八支則」があまりにも有名で、なおかつ多くのヨガ入門者がいきなりそこから入ろうとしてつまずくところでもあります。

ヨーガ・スートラでもコンテキストがとても大事だと思うのです。

その前になんて書いてあって、

そしてどこに行こうとしているのか。


好きとか嫌いとか、
気持ちいいとか、不快とか、

そういったものは、人間が日常の中でとても頻繁に持つ感情・感覚です。意識してなくても、心の中で選別して支配されています。

それらを、ある程度客観的に整理して見る事ができれば、
八支則もどこに向かっているのかがわかります。

根気がいるんだけどね。。

だったら本当に何年単位とかでインドのアシュラムにこもったほうがいいんじゃないかと思うくらい、私たちの一般生活の普通の日常の中でこれを自己努力するのは、気力がいる。

だから生徒さんには強要はしない。
これらの思索に疲れてしまって、学ぶ前のほうが楽しくいきててんじゃないか、という人だっているくらいだ。

実際に、もともと体質的に精神修行に耐性がない人もいるので、
今の段階でそのステージで調和してるっていう人に、
あえて理論なんぞを振り回すつもりなんてない。


必要な人に、ラーガ、ドヴェーシャを自己観察するメリットは多いにあるのでそれは伝えてはおきたいなと思っています。


結局、日常の中ですべての好き嫌いを「排除」できたりはしないと思います。

体質があるからしょうがないところもあるし。




というわけで、完璧にできたい気持ちは自分を縛るだけ。


実践にもポイントがあると思うのです。

自分の性質を理解することと、それに束縛されないこと。
好き嫌いでシリアスにならないこと。
好き嫌いで思考が作り上げるドラマにはまらないこと。
どうでもいいものに没頭しないこと。

これらを意識してなおかつある程度でもいいのでできれば、
人生はかなり軽やかだと思うのです。


快不快によって心を支配される傾向から数パーセントでも脱却しただけで、人生はとても「楽」になるから。
ここで言う楽とは、心の乱れや低迷からの自由、という意味での楽。


そんな感じです。





感性が静かに爆発型のわたしはいつもアンテナ。

インテリ大学筋肉運動学部所属、って感じの私。

そしてこんな私も段階的に成長していると思うので

同じタイトルで「続き」を書いたりというのはあまりできないのですが

これまでの記事とかこれからの記事に曼荼羅式でリンクしていると思うので、

どこかでこの話の着地点を感じ取っていただければ幸いです。

ま、着地しなくてもいんだけどね(笑)



みなさんの貴重な時間、これを読んでくださって本当にありがとう。


Namaste
師岡絵美里

2016年2月13日土曜日

ヨーガの哲学TT、2月期スタート


今月からヨーガ哲学のTTがスタートして、先日一回目の講義をしました。

参加してくださっているみなさんから面白い質問や、いろんな角度からの意見がでて、すごくおもしろいセッションになっています。
やっぱりいいなあと思った。

「真理」のもとに集い、あっているかよくわかんないけど自分の感じる事を言ってみる、というセッション。

実際はあっているかまちがっているかではなく、そうやって発言するという体験をしながら自分でひとつひとつ、また総合的に感じ取って行くのが哲学の「学び方」なんじゃないかと思うのです。

それは、study ともlearnとも違う運びだと思うんです。

もちろんそれらの要素もあるんだけど
でもそれらが「イキイキとして」いないとだめで、

哲学を学ぶというのは思考だけでやってしまいがちな思索を、恥も見栄も捨てたところの行為としてやっていくことなんだと思います。

まだヨーガ・スートラの一章の前半までしかやってないのですが、
カルマの話やサンスカーラの話で盛り上がりました。

結局、ヨーガを理解するっていうのは、「エネルギーとその原理」を理解することであり、またそれを「どう使うか」を理解することなんですよね。

私はそう思っています。

さっき、ヨーガ哲学の理解って

study ともlearnとも違う運び

と言いましたが、

じゃあなんだろね、と思って考えてみた。

いろんな言い方できるだろうけど、私が感じるのは、

develop


包みを開けてみる感じ、です。

包みを開けてみる時、先に期待してしまうと、中身を見た時にさまざまな感想が起こってしまうでしょ。思ってたものと違ったりすると混乱したり残念になったり。
自分の先入観とか記憶を持って開けると、中身を勘違いしてしまうこともあります。中に入ってるのは○なのに、○に類似した何かだと思い込んだり。それでわかった感じがしていると、実際には本質と違うから時分の人生に「機能」してこない。

だから、その包みを開ける前に頭を一回リセットして、
真っ白くらいの感覚で開けてみるといいんだと思います。

そうできると、その中身を通じて自分を「発展」させることができるんじゃないかなと思うのです。



2016年2月1日月曜日

ヨーガの先生のアシスタントについて


長いワークショップやリトリートなどではアシスタントに入ってもらうことがあります。


私がクラスや教えることに集中できるようにたくさんフォローしてもらって、いつもありがたい存在で感謝しております。


子供がもっと小さかった頃は完全にシッターさんとしていてもらったこともたくさんありました。彼女たちの存在なくしては私の活動は成り立たなかったので本当に感謝しています。

いつか逆の立場になった時とか、何かできる時には助けになれればと思っています。



で、先日、



「どうやったらアシスタントになれますか」



という単刀直入、超シンプルな質問を受けました(笑)


うーん、そうですねえ、

私個人の感覚ですと、アシスタントを頼める方、もしくは申し出てくれる方との間には、ヨーガクラスの外での交流や信頼が「かなり」ある人で成り立っていると思います。


「ちょっと」、じゃないです。「かなり」ですね。


例えば次回のバリ島でのリトリートに同行してくれるマサくんとは、ヨーガ以外でもダンスを一緒に作ったり活動を共にしています。
彼は一人でもなんでもやれるし、自分でしっかり決められる人なので頼りになります。出会ってからの時間ではなく密度と質なので、
そういうのはやっぱりわかります。


前回のバリリトリートをバックアップしてくれた美季ちゃんとは付き合いも長く、どのタイプの話でも共にできる間柄です。
本当の家族ではないけれど、ある意識ステージでの家族っぽくなってきた感じです。ソウルファミリー。
同じく同行してくれたかさっちこと笠原美奈氏も、すごく察してくれる人で、「教えること」で私たち講師がどのくらいエネルギーを使うのかを理解してくれるので、それを近くでわかってもらえるだけでもこちらが癒されます。

本当に「相性」とか「マッチング」みたいな感じ。


あ、あとはね、私の場合アシスタントしてくれる方との関係はいわゆる師弟関係とは違うので、アシスタントさんが精神的に自立していることもかなり大事です。
自分のやりたいこととかビジョンがある人。



「どうやったらアシスタントになれますか」と質問してくださった生徒さんは、私のアシスタントになりたいというわけじゃなく、自分が好きな先生についていろんな活動を共にしたい、と思っているようでしたので、私の個人的な意見だけじゃなく、広い意味でのアシスタントさんの求められるものを書いてみます。



おそらく、「こういう人がアシスタントにいい」というような積極的な書き方をするとそれはきっと個人的なニーズにだいぶよってしまうと思うので、

ここでは「こういう人はなしだな」というネガティヴな書き方をしようと思います。

その方が広く一般的だと思いますのであえてね。






□先生はヨーガのことや自分の疑問に何でも答えてくれる、と思っている人や、それを望んでいる人。


もちろんベースは伝えますが、体験の中で自分で考えるのがヨーガですので、依存心を持って入ってくる人は先生のアシスタントは難しいと思います。
そういう人がずっと近くにいると先生であっても疲れちゃうのです。



□ノウハウなどを盗もうと思っている人

つまり、先生のやっていることが好きなんだけど、でもそこに対して敬意を持てない人ですね。

ヨーガの先生は寛大な人が多いし、与えることに対して開いている人がほとんどだから、どうぞどうぞと出してくれると思います。
それでも!近くにいる人があからさまに「搾取」していくと、先生でも消耗させられます。
そのうちに一人でインドとかに行って数年帰ってこない、とかになってしまいますので気をつけて。


まあでも先生がたは大抵こういう人を見抜くので、もともと近づけないかもしれないし、あるところで解任することで「教え」をする場合もあるでしょうね(笑)。



□先生のプライベートを他でばらまく人


アシスタントをしたりすると、先生のクラスでは見せない表情やプライベートに近いところまで関わることにもあると思います。

そういった事を、他の生徒さんなどと混ざって楽しく話してしまう人は、・・・なしですね。


生徒さんたちが自分の好きな先生や教わっている先生の事を知りたい&話したいと思うのは、よくあることだと思います。慕っているからこそ話したい、というのもありますよね、きっと。


でも低いレベルでの興味に乗ってしまう人は、先生をアシストできないと思います。不向きです。

先生のこととかスタジオのこととかを、
興味、好奇心、ゴシップ感覚で話す人も、たぶんたくさんいると思います。


そしてヨーガをやっていたとしても、面白い話題として先生のことをあれこれ話したい人もいるのは、仕方ないですね。
どんな人でも入ってこれる、裾野が広いのもヨーガのいいところなので、いろんな心の段階の人たちがヨーガをする分、
みんながみんな本当の意味での「尊重」をベースに生きているわけではないのも事実です。
そこを引き上げていきたいのですが、時間もかかります。


なので、外で先生のプライベートや、先生自身が自ら公開していない個人的な事を「軽く」話してしまう人、話題として提供してしまうような人は、無理だと思います。

もしあなたが、本当の意味で先生に近づきたい、もっとヨーガを学びたい、と思うなら、
例えばスタジオフリークな人たちのコミュニティとか、
他人の事をおしゃべりするのが好きな集まりには入らない方がいいと思います。

もし入りたくても、そうしないでいられるならば、逆に素質あり。可能性が開けます。




そんな感じです。
他にもあるかもしれないけど、とりあえず。


Namaste
師岡絵美里