前回の記事で、サントーシャという「満たされた心」についてを話しました。
一般的には「知足」というように訳されますが、
これって「訳」ではないなと思います。
私のサンスクリットの先生は、
「サンスクリットの辞書には、その単語の訳や意味が乗っているわけじゃないのです。概念(もとのもの)が載っているだけで、
意味や文章上での訳というのは、自分で ”うう〜〜わからない!” とかもがいたりしながらも、見つけていかないといけないのです。」
と、よく言ってました。
泣けるね。
これって、ヨーガや、思想や哲学、宗教や信仰、そして自分自身を理解してくすべての道に共通しているなあと思います。
たまたまサントーシャ(知足)を引き合いに出してますが、
こういうのって、
言葉から入ってしまうとその「意味」を探ることに時間と思考をつかってしまうのだと思います。
意味というのは架空のリンキングみたいなもので、
実際そうなのかというのは誰にもわからない。
私の瞑想の先生が言っていた言葉で、
「ヨーガ・スートラっていうのは、そもそも瞑想体験のことが書かれているものだから、ある程度のところまで読んでわかった感じがしても、
その先は瞑想を継続してやってないと、まったくわからない書物だよね。」
と。
これにはとても同感で、時間を経れば経るほど同感です。
ヨーガ・スートラにも載っている「サントーシャ」も、体験があってこそ理解につながるもので、本にそう書いてあったからそうしよう、というような動機だけでは、入り口にも立てないほど奥深いものだと思います。
言葉の持つ輝かしさが、一時的に心を照らしてくれることもありますが、
その言葉の真意は、行動を通じて自分を変えたり、自分の行為の中で洞察していくような能動的なアクションがないと、言葉としての「知足」を超えることができないのだと思います。
例えばだけど、サントーシャのよくある解釈で
”今あるもので満たされよう”
とか。
なんか聞こえはいい(笑)ヨガしてるっぽい(笑)
でもそれってもう、そもそも、そう思った段階で
「不満はあるけど、満たされるように努力します。」
という表現だよね、と思ってしまう(笑)
”今あるのもで満足できなかったんだけど、気持ちの問題かもしれないので、「足りている」と捉えてみます、がんばります。”
みたいなね。
これってもうなんか本当に、見ていてまどろっこしく、
低めの位置での現状維持で、内心しみったれてる人のセリフみたい。
欲しいなら欲しいって言えよ!!
正直になってくれたほうが、なんかやりようもあるゼ、
と思ってしまうのす。
のす。
(↑誤字でないことのアピール)
(笑)えらい雑な言い方ですません。でもそうおもうから正直に申した。
人間というのは体験ベースで成長する生き物で、
考え方を「考え」だけでコントロールするっていうのはすごく難しく、
心を心で操作するのは、とてもむずかしい。
だから、
知足、調和、ありのまま、
とかなんでもいいのだけれど、
いい感じの言葉を「飾り」や「隠れ蓑」みたいにしないで、
泣きながらでも「自分の人生にとってどういうことなのか」という意味を知ったらいいと思う。
”言葉の真の意味”を知るということは、
生身の体験によって自分の内面からえぐり出された血液みたいに、
リアルな、
飲んだら味があり、触ったら温度のあるものなんだと思う。
本を読んでも血は出ないけど、ちょっと走ったら汗は出る。
その汗かいてる自分でしか気づけないものがあるよね。
いつもそうやって理解してきた、とりあえず私は。暑苦しいね(笑)。
でもそうでないと、人生に直結するほどの「理解」にならないのだと思うのです。
何かを失敗するまで、
コテンパンまでやりきってみたり、
欲しがって得られない体験や
得て失う経験も、
そういうことをバカみたいに繰り返しながら
やっと、やっと、
大事なものをどのくらいの力で握っていたらいいのかがわかる。
放さないけれども、血の流れ止まっちゃうほど力いれずにいられるようになる。
自分も含め人や物を「のびのび生きている状態」にしておける心のゆとりが得られるというのは、
本当に幸福なことだと思う。
よく、悟りとか言うけれど、それだって別にすごいことなわけでなく、
この世界や自分の人生に対して、
本当の親密さを感じられるようになる
ただそのことだと思います。
そう感じられるようになるには、
さっきも言ったようなトライ&エラーの数々の中で、
その中に必ずある、なにかキラっと光るもの
それに気づける心を大事に大事に育てるしかない。
意識の中の呪縛が、記憶の中の呪縛が、強烈な呪文でもって
「また失敗するよ、また失うよ、また悲しむよ、しってるよね」
と言い放ってきても、
深呼吸して、冷静に、自分に負けないでいられる心を育てること。
人間の日常には、そういった自分自身との向かい合いという、
ハイエンドはプラクティスがある。
言ってしまうと、瞑想するなんて、それほど難しいことじゃない。
自分をよく知ることのほうがよっぽど難しく、
そもそも自分の持つ怖れに向かい合うことなんて、
お金もらたってしたくないほど億劫で難儀な作業なのに、
それでも多くの人がお金払ってでも、ヨガや、セミナーや、宗教や、カウンセラーやヒーラーの元で、自分と向かい合うね。
それは、そこにしか突破口がないということに、潜在的にも気づいているからなのだろうと思います。
自分をどうにかするしかない。
ヨーガの教えがたくさん載っているヨーガ・スートラや、他にもたくさんある経典は、意識レベルによって関わり方が変わってくると思います。
初めは、処方箋のようにすがってしまうかもしれない。
ヨーガの経典を対処療法的に使っている段階ですね。
根本的な対策とは離れて、表面に表れた状況に対応して処理することにヨーガの教えを使っている段階。
でも、「そのまま飲めば、これに効く」というような薬はない。
それがたとえヨーガ・スートラのような聖なる書物でも、
ヨガそのものであっても
そうなんだ・・・、
ということがわかってくる。
経典の内容は、
単なる心や意識を描写なのだとわかってくると
本当の興味はもはや経典以上に、自分自身に返ってきます。
そうなってくると本当に、
ヨーガ・スートラでもバガヴァッドギーターでもそうだけど
これ、えらいおもしろいね!!
と心からの親密度が高まってきますね。
今日の最後に。
例えば、
長いことヨガやってても心が晴れないと感じるのは、
ヨガする時間の「心地よさ」以外に、
自分の内面ととことん向かい合うという心のプラクティスをしてないからだと思う。
自分の中からなんか”変なもん”が出てきても、それを明るさで照らしていくような、
それはある種の苦痛もともなう作業なんだけど、
自分に対しては自分でやるしかないよね。
そしてこういったプラクティスの恩恵はすごいから、
信用するに値すると思います。
自分の内面の暗さやネガティヴなものにも、
明るくて楽しくて大好きな自分に対してと同じくらいの愛を向けると、
なんといっても「慈悲」がわかるようになってくる。
人って、ほんとに仕方のないもので、
慈愛や慈悲の心でしか救えない部分があることがわかると
自分の弱さも、人の弱さも、
「すぐに変わらなくていいけど、でもいい方向にいけるようにがんばろうね」
と言えるようになってくるね。
さっき言ったことをもう一度。
自分も含め、人や物を「のびのび生きている状態」にしておける心のゆとりが得られるというのは、本当に幸福なことだと思う。
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長くなった。
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