EMIRI MOROKA -HEART MATRIX-

師岡絵美里のブログです♪


2017年12月30日土曜日

お知らせ いろいろ ヨーガ哲学集中講座2018年版


みなさんこんにちは。師岡絵美里です。

今日はお知らせいろいろです。

2018年の講座など、いろいろ更新してます。
割引期間中のものも多くありますので、ご希望にあったものを選択してくださったら嬉しいです。

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年末年始6日間限定特別価格12月29日〜1月3日まで

ヨーガの学びは私たちの人生の支えとなります。
集中講座では精神性を高めて心の純度をあげていく最高の時間です
みなさんの意欲的なご参加をお持ちしています。
いっしょに学んでいきましょう。

この6日間は特別割引とさせていてだきます。
やる気と即決で、人生によい勢いをつけてくださいね!

コースは以下のように、ニーズに合わせた3講座を用意しています。

すべてのコースが、一般の方、指導者の方双方に有益な内容になっています。
ヨーガ愛好家の方も、指導にあたる方も、初めての方も、もっと知りたいという方も、みなさん歓迎いたします。


・必須哲学コース 
2月スタート
ヨーガの徒であるなら必ず学び続けるべきインドの基本思想を学び、ヨーガ・スートラやバガヴァッドギーターなどの聖典を学習します。ヨーガ哲学がはじめての方はまずここから。そしてヨーガ哲学の学習経験者の方の、基礎の再確認に役立ててください。


・実践理論コース 
2月スタート

チャクラシステムやパンチャコーシャ論など、ヨーガの練習に欠かせないヨーガの精神身体理論をわかりやすい解説し、実修を行うことで理解をふかめていきます。知識を携えた上でのヨーガの練習は、飛躍的に自分を向上させます。



・マニアコース 
3月スタート
これまでヨーガを学んできた方と共に、さらに学習と洞察、そして対話による理解を深めていくコースです。ヨーガの宗教性や偉大なグルの言葉から、人生哲学を見出しましょう!



各コースの日程、詳細はサイトにてご覧ください。

年末年始6日間限定特別価格 12月29日〜1月3日まで

詳細はこちら
師岡絵美里の「ヨーガ哲学集中講座」2018年
「師岡絵美里のヨガエンライトメント」オンラインコース

元旦からスタートするオンラインのヨーガ
コースです。
運動と学びをバランスよく日課として行えるプラクティスコースです。
新年をヨーガの精神で迎え、身体調整も行えましょう。

申し込みを迷っているうちに募集が終わってしまった、、、という方もぜひお申し込みください。

新しい年をヨーガでビシッと過ごしましょう!!


最後の駆け込み価格:2017年12月31日13:00まで(3名のみ受付)
【2018年1月開催期】4週間のプログラムになります。
オンライン受講と実習の期間:2018年1月1日(月)〜2月4日(日)
通常料金:4週間 70,000円 ↓ 
 最後の駆け込み価格:2017年12月31日13:00まで
 ・新規の方:45000円
 ・リピーター(*該当講座履修者):42000円   
師岡絵美里のヨガエンライトメント

『美術館でヨガ』再開催ほぼ決定✨

11月に開催し、大変ご好評をいただいた東京国立近代美術館「美術館でヨガ」。

2018年2月4日(日)に再び開催する運びとなっております。
ほぼ決定という感じなのですが、正式な発表は年明けになりますのでもうしばらくお待ちください。

<予定>
日時: 2018年2月4日(日)午前の予定 
場所:東京国立近代美術館
講師:鑑賞進行=一條彰子(東京国立近代美術館企画課主任研究員)ヨガ講師:師岡絵美里

2017年12月11日月曜日

人生への親密度と、対処療法を超えたヨーガプラクティスについて



前回の記事で、サントーシャという「満たされた心」についてを話しました。

一般的には「知足」というように訳されますが、
これって「訳」ではないなと思います。


私のサンスクリットの先生は、


「サンスクリットの辞書には、その単語の訳や意味が乗っているわけじゃないのです。概念(もとのもの)が載っているだけで、
意味や文章上での訳というのは、自分で  ”うう〜〜わからない!” とかもがいたりしながらも、見つけていかないといけないのです。」

と、よく言ってました。



泣けるね。


これって、ヨーガや、思想や哲学、宗教や信仰、そして自分自身を理解してくすべての道に共通しているなあと思います。




たまたまサントーシャ(知足)を引き合いに出してますが、

こういうのって、

言葉から入ってしまうとその「意味」を探ることに時間と思考をつかってしまうのだと思います。

意味というのは架空のリンキングみたいなもので、

実際そうなのかというのは誰にもわからない。



私の瞑想の先生が言っていた言葉で、

「ヨーガ・スートラっていうのは、そもそも瞑想体験のことが書かれているものだから、ある程度のところまで読んでわかった感じがしても、
その先は瞑想を継続してやってないと、まったくわからない書物だよね。」

と。

これにはとても同感で、時間を経れば経るほど同感です。


ヨーガ・スートラにも載っている「サントーシャ」も、体験があってこそ理解につながるもので、本にそう書いてあったからそうしよう、というような動機だけでは、入り口にも立てないほど奥深いものだと思います。

言葉の持つ輝かしさが、一時的に心を照らしてくれることもありますが、
その言葉の真意は、行動を通じて自分を変えたり、自分の行為の中で洞察していくような能動的なアクションがないと、言葉としての「知足」を超えることができないのだと思います。




例えばだけど、サントーシャのよくある解釈で


”今あるもので満たされよう”

とか。

なんか聞こえはいい(笑)ヨガしてるっぽい(笑)


でもそれってもう、そもそも、そう思った段階で

「不満はあるけど、満たされるように努力します。」

という表現だよね、と思ってしまう(笑)


”今あるのもで満足できなかったんだけど、気持ちの問題かもしれないので、「足りている」と捉えてみます、がんばります。”


みたいなね。


これってもうなんか本当に、見ていてまどろっこしく、

低めの位置での現状維持で、内心しみったれてる人のセリフみたい。

欲しいなら欲しいって言えよ!!

正直になってくれたほうが、なんかやりようもあるゼ、

と思ってしまうのす。

のす。

(↑誤字でないことのアピール)



(笑)えらい雑な言い方ですません。でもそうおもうから正直に申した。






人間というのは体験ベースで成長する生き物で、

考え方を「考え」だけでコントロールするっていうのはすごく難しく、

心を心で操作するのは、とてもむずかしい。


だから、

知足、調和、ありのまま、

とかなんでもいいのだけれど、

いい感じの言葉を「飾り」や「隠れ蓑」みたいにしないで、

泣きながらでも「自分の人生にとってどういうことなのか」という意味を知ったらいいと思う。



”言葉の真の意味”を知るということは、

生身の体験によって自分の内面からえぐり出された血液みたいに、


リアルな、


飲んだら味があり、触ったら温度のあるものなんだと思う。


本を読んでも血は出ないけど、ちょっと走ったら汗は出る。

その汗かいてる自分でしか気づけないものがあるよね。

いつもそうやって理解してきた、とりあえず私は。暑苦しいね(笑)。

でもそうでないと、人生に直結するほどの「理解」にならないのだと思うのです。


何かを失敗するまで、

コテンパンまでやりきってみたり、

欲しがって得られない体験や

得て失う経験も、

そういうことをバカみたいに繰り返しながら



やっと、やっと、


大事なものをどのくらいの力で握っていたらいいのかがわかる。

放さないけれども、血の流れ止まっちゃうほど力いれずにいられるようになる。


自分も含め人や物を「のびのび生きている状態」にしておける心のゆとりが得られるというのは、

本当に幸福なことだと思う。




よく、悟りとか言うけれど、それだって別にすごいことなわけでなく、

この世界や自分の人生に対して、

本当の親密さを感じられるようになる

ただそのことだと思います。


そう感じられるようになるには、

さっきも言ったようなトライ&エラーの数々の中で、

その中に必ずある、なにかキラっと光るもの

それに気づける心を大事に大事に育てるしかない。



意識の中の呪縛が、記憶の中の呪縛が、強烈な呪文でもって



「また失敗するよ、また失うよ、また悲しむよ、しってるよね」



と言い放ってきても、



深呼吸して、冷静に、自分に負けないでいられる心を育てること。

人間の日常には、そういった自分自身との向かい合いという、

ハイエンドはプラクティスがある。




言ってしまうと、瞑想するなんて、それほど難しいことじゃない。

自分をよく知ることのほうがよっぽど難しく、

そもそも自分の持つ怖れに向かい合うことなんて、

お金もらたってしたくないほど億劫で難儀な作業なのに、

それでも多くの人がお金払ってでも、ヨガや、セミナーや、宗教や、カウンセラーやヒーラーの元で、自分と向かい合うね。

それは、そこにしか突破口がないということに、潜在的にも気づいているからなのだろうと思います。

自分をどうにかするしかない。






ヨーガの教えがたくさん載っているヨーガ・スートラや、他にもたくさんある経典は、意識レベルによって関わり方が変わってくると思います。


初めは、処方箋のようにすがってしまうかもしれない。
ヨーガの経典を対処療法的に使っている段階ですね。
根本的な対策とは離れて、表面に表れた状況に対応して処理することにヨーガの教えを使っている段階。

でも、「そのまま飲めば、これに効く」というような薬はない。

それがたとえヨーガ・スートラのような聖なる書物でも、
ヨガそのものであっても

そうなんだ・・・、

ということがわかってくる。


経典の内容は、単なる心や意識を描写なのだとわかってくると

本当の興味はもはや経典以上に、自分自身に返ってきます。

そうなってくると本当に、

ヨーガ・スートラでもバガヴァッドギーターでもそうだけど

これ、えらいおもしろいね!!


と心からの親密度が高まってきますね。









今日の最後に。



例えば、

長いことヨガやってても心が晴れないと感じるのは、
ヨガする時間の「心地よさ」以外に、

自分の内面ととことん向かい合うという心のプラクティスをしてないからだと思う。

自分の中からなんか”変なもん”が出てきても、それを明るさで照らしていくような、
それはある種の苦痛もともなう作業なんだけど、
自分に対しては自分でやるしかないよね。

そしてこういったプラクティスの恩恵はすごいから、
信用するに値すると思います。

自分の内面の暗さやネガティヴなものにも、
明るくて楽しくて大好きな自分に対してと同じくらいの愛を向けると、
なんといっても「慈悲」がわかるようになってくる。

人って、ほんとに仕方のないもので、
慈愛や慈悲の心でしか救えない部分があることがわかると
自分の弱さも、人の弱さも、
「すぐに変わらなくていいけど、でもいい方向にいけるようにがんばろうね」

と言えるようになってくるね。


さっき言ったことをもう一度。

自分も含め、人や物を「のびのび生きている状態」にしておける心のゆとりが得られるというのは、本当に幸福なことだと思う。




~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



長くなった。
いつも本当にありがとうございます。




最後に宣伝させて✨


<新しいコースのご提案>
意識改革と生き方の向上を促すコースです。
2018年をピカピカなハートからスタートできるように、元旦からスタートします。えみり先生盆暮れなくはりきってがんばるね(笑)みんなと関われるのがとても楽しいので、三が日も精神的に営業中。
運動もあるコースなので、正月太りとか強制的にできない仕組みのコースです。
*運動強度は無理ないところに調整できますのでご安心を。



悟り意識の目覚めとライトボディへ、スピリチュアルヨーガメソッド
「師岡絵美里のヨガエンライトメント」
オンラインコース




日常生活の改善と向上

運動による体への働きかけ

感情と心のケア

ヨーガ哲学の学び


これらが主軸になってます。
詳細はサイトでじっくりどうぞ。

「師岡絵美里のヨガエンライトメント」オンラインコース
モニター&リピーター割引での申し込み受付:2017年12月19日(火)24:00まで 
https://www.heartmatrix555.com/home/online-yoga-course/%E3%83%A8%E3%82%AC%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%A1%E3%83%B3%E3%83%88%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%82%B9/








愛と感謝をもういいよと断られそうなほどにこめて💓
EMIRI


2017年12月5日火曜日

Samtoshaー完全なる喜びー


先日、ヨーガ哲学講習のバガヴァッドギーターの回で「サントーシャ(知足)」について話題にあがり、お話しました。


サントーシャは「知足」「あるがままを肯定する」というようにいくつかの表現ができるのですが、

その根底にあるエッセンスはなんでしょう。


というのも、もともと消費のための経済社会と自意識過剰な世界にいる現代人。

物と情報にあふれた世界に住む私たちには「samtosha」ということの本来の意味合いを掴むのは、なかなか難しいものなのかもしれない、と思うことがあります。

人によって解釈が変わるのは、自然なことなので、どう捉えるかは自由なんですが、

ややマニア思考の私はさ、

発想が狭〜く偏ったところでこういうキーワードを解釈してしまうと

せっかくの[全体世界観]を、いちばんおいしい状態でキャッチする面白さが、減っちゃうのね

って思うのですわ。


なので私なりに感じるところも書きます。

別にこれが「正しい」解釈だとかそういうことじゃぜんぜんないです。
「正しさ」を振りまわしてると、いつかは自分で作った檻の中の哲学者みたいになるからね。それはやめときたい。






数年前にヨガスタジオLAVAさんのご依頼で新インストラクターさんにプレゼントされる
「YAMANIYAMAカード」、その中のサントーシャです。すごく気に入ってます。






はい。



サントーシャを受け身の発想で捉える人は

「あるもので満足」というような「条件へのあきらめ」と混同したり、

「現状で満足する」と捉えて、欲求をもっちゃいけないと勘違いする。

この場合そもそも「欲求」と「希望」、
ないしは「期待」と「希望」の違いがわかっていない
という“ベース勘違い”があるのがわかります。


知足ってそういうことじゃないのだけれど、
「欲を持たないようにする我慢」みたいになってしまい、
実際は満たされていないストレスをためたりする人もいます。


または、部分的に解釈して「少ないもので暮らす」などのスタイルにこだわりすぎたり、
そういった”様式”を徹底するあまりバランスが悪くなったり。


そういうこともよく見聞きします。




私自身はこのようなサンスクリットのワードについては

まずは歴代のグルの解釈を見ることと同時に

インドとの文化や風土的な違いを考慮して、日本発想をいったんはずしたところで見てみる作業をします。これかなり大事。


そして、自分の辞書で調べて単語の一番小さいまとまりまで遡り、
場合によっては語根まで行ってみます。

そうすると言葉の持つエッセンスが見えてくるからです。




私の初代サンスクリット辞典。スチューデント用で辞書をひく練習をさせてもらい、だんだんもっと分厚くて文法知識や単語判別力がないと引けない辞書へと入るのですが、いまだにこれで引くことが多い私。
















サントーシャsamtoshaは、
sam:完全に、tosha:輝き、喜び、満ち足りた心。

日本語のカタい言葉だとよけいにわかりにくくなることって多いのですが、これもですね。

私なりに感じる[santohsa]は

自分自身が「完全なる喜び」「完全なる輝き」「完全に満たされた心でもって」

と捉えてもよさそうに思っています。


自分自身の心を「満たされた状態で」万事物事に向かってみよ、

ということなのではないかな、とね。


ある状態とかある物をさして「これで満たされておくとする」というような、どこかから与えられた満足のことではなくて。



そもそも、外界のあり様に対してサントーシャするのではなくて、

自分自身の心のあり方をサントーシャにするという、

自分の初期設定を決定するような能動的な作業だと思っています。


サントーシャ。その心をもって外界に向かおうってわけだ。


そんな感じに思ってます。






ヨーガの八支即のヤマ(勧)は、心の初期設定をいつも教えてくれる。

人生の中で、いつも同じ精神状態でいられるなんてことはないから、

「自分自身について」という意味でのヨーガは

長く地道に、間をあけずに気をつけていないといけないね。




「人の価値」なんて言葉自体がそもそもいやらしいのだけど、

もし自分の価値みたいなものを考えるのであれば

能力ではなく、心の態度の質だと思う。

サントーシャしている心をもし完全に持つことができたら・・・

と、想像してみるだけでも、すごく価値のあることだと思います。

いつも、グルたちのあの赤ちゃんみたいなピッカピカな目を思い出す。

サントーシャの体現だなあと。

EMIRI