EMIRI MOROKA -HEART MATRIX-

師岡絵美里のブログです♪


2013年11月18日月曜日

どう生きるか。



心の友のヨーギーがガンで亡くなりました。

人が亡くなるってのは、不思議ですね。

・・・いや、本当は不思議ではないのですが、そう感じてしまう心の未熟さと、人生というものの奥行きを思います。

若くて、死の気配なんか感じられなかった方が亡くなられると、
心の中のその人のいた部分が空洞になってしまったかのような気がしました。

もちろん「肉体の死」でしかないというのはわかっていますが、
それでもやっぱり、もうあの声やあの体から醸し出される彼に会えないのだなあと思うと、さみしいなと思います。
恋しいとも言うのでしょうね。


友の死、そして肉体の死と輪廻を思いながら瞑想をしていたら、
インドの古代文献の一節がより心に響いてきました。


”サナトクマーラは運命の支配者だが、天界の医者と言えばアシュヴィニー双神である。”


これは、先月サンスクリット語のレッスンで出された練習用の文章でした。


なぜかこの文章を見た時、とても心に残ったんですね。


練習用の文章なので前後の脈絡がない状態だったので、
どんな話の流れでこの一文が発生したのかわからなかったのですが、
なぜかこの言葉が重みを持って響いてきたのです。


亡くなった友は、本当に本当にヨーガを生きていたので、
きっと最後までヨーガそのものとして存在していことは想像はできます。



運命の支配者がサナトクマーラで、天界の医師がアシュヴィニー双神ならば、

”命の長さ”である「寿命」は、いったいどちらの神が司っているのだろう。

そんな事をぼんやりと思いました。


個人的に感じるのは、

「健康」はある程度コントロールできると思います。
自分自身でなんとか気をつけられる範囲はあるし、例え病気になったとしても、どう生きるかの選択や、生きている限り失うことのない生の可能性はあると思います。


でも「寿命」はコントロールできないと思っています。

寿命。

それはもう、

その人の深いところにある”最も重大な事だけを入れる事ができる宝箱” の中に納められた「約束」でもあるように感じるのです。


だとすると、この生を ”どう生きるか” でしかない。


サンスクリット語の先生とこの話をしている中でこんな言葉をいただきました。


「何もせず、ただ生きていることにどんな意味があるのか、を自覚させるために長寿祈願があるのであり、単に楽しく過ごすために長寿を祈願するのではないということだと思います。ですから長寿でないことがいけないということにはならないのです。もちろん(若くして亡くなると)周りの方はつらいですが、でもむしろ、それまでしっかりと生きていたなら、より良い環境に早く移行する(生まれ変わる)チャンスでもあるのです。」






亡くなった友に、追善の光を送ります。

どうか恐怖の思いに打ち勝ち、迷いなく光へと進めますように。




さて、

これを読み、みなさんはどう思いましたか? 

「そうなんだ・・・、ヨーガやってても健康でいれるわけではないのか・・・」

と思いましたか?



彼に限らずヨーガをやっていても年若く、患って、亡くなる方はいます。

病気にならないという保証はどこでどう生きていてもありません。

だとすると、「どう生きるか」でしかないのです。

でもそれは、

病気であろうと早すぎる死であろうと、

「どう生きたか、がすべてを救う。」

とも言えるのです。

そこに光があります。


毎日、毎日、感謝。

それしかないですね。

なんであれ、今まさに生きている私たちは、明るく前を向いて歩く。

それだけでいいし、それしかできないとも言えます。


どうか私たちが、今日も明日も明後日も、

死ぬまでずっと、感謝して生きる事ができますように。


亡くなった友人に感謝をこめて
一切に感謝をこめて
ナマステ

師岡絵美里