心の友のヨーギーがガンで亡くなりました。
人が亡くなるってのは、不思議ですね。
・・・いや、本当は不思議ではないのですが、そう感じてしまう心の未熟さと、人生というものの奥行きを思います。
・・・いや、本当は不思議ではないのですが、そう感じてしまう心の未熟さと、人生というものの奥行きを思います。
若くて、 死の気配なんか感じられなかった方が亡くなられると、
心の中のその人のいた部分が空洞になってしまったかのような気が しました。
もちろん「肉体の死」でしかないというのはわかっていますが、
恋しいとも言うのでしょうね。
友の死、そして肉体の死と輪廻を思いながら瞑想をしていたら、
インドの古代文献の一節がより心に響いてきました。
インドの古代文献の一節がより心に響いてきました。
”サナトクマーラは運命の支配者だが、
これは、先月サンスクリット語のレッスンで出された練習用の文章でした。
なぜかこの文章を見た時、とても心に残ったんですね。
練習用の文章なので前後の脈絡がない状態だったので、
どんな話の流れでこの一文が発生したのかわからなかったのですが、
なぜかこの言葉が重みを持って響いてきたのです。
亡くなった友は、本当に本当にヨーガを生きていたので、
運命の支配者がサナトクマーラで、
”命の長さ”である「寿命」は、
そんな事をぼんやりと思いました。
個人的に感じるのは、
「健康」はある程度コントロールできると思います。
自分自身でなんとか気をつけられる範囲はあるし、例え病気になったとしても、どう生きるかの選択や、生きている限り失うことのない生の可能性はあると思います。
でも「寿命」はコントロールできないと思っています。
寿命。
それはもう、
その人の深いところにある”最も重大な事だけを入れる事ができる宝箱” の中に納められた「約束」でもあるように感じるのです。
だとすると、この生を ”どう生きるか” でしかない。
サンスクリット語の先生とこの話をしている中でこんな言葉をいただきました。
「何もせず、ただ生きていることにどんな意味があるのか、
亡くなった友に、追善の光を送ります。
どうか恐怖の思いに打ち勝ち、迷いなく光へと進めますように。
さて、
「そうなんだ・・・、ヨーガやってても健康でいれるわけではないのか・・・」
と思いましたか?
彼に限らずヨーガをやっていても年若く、患って、亡くなる方はいます。
病気にならないという保証はどこでどう生きていてもありません。
だとすると、「どう生きるか」でしかないのです。
でもそれは、
病気であろうと早すぎる死であろうと、
「どう生きたか、がすべてを救う。」
とも言えるのです。
でもそれは、
病気であろうと早すぎる死であろうと、
「どう生きたか、がすべてを救う。」
とも言えるのです。
そこに光があります。
毎日、毎日、感謝。
それしかないですね。
なんであれ、今まさに生きている私たちは、明るく前を向いて歩く。
それだけでいいし、それしかできないとも言えます。
どうか私たちが、今日も明日も明後日も、
死ぬまでずっと、感謝して生きる事ができますように。
亡くなった友人に感謝をこめて
一切に感謝をこめて
ナマステ
師岡絵美里