EMIRI MOROKA -HEART MATRIX-

師岡絵美里のブログです♪


2020年12月23日水曜日

EMIRIの『年またぎヨーガ』2020~2021年・年末年始のオンラインヨーガ企画

〜鍛えて年越し、清めて年始〜

EMIRIの『年またぎヨーガ』


年末年始は体を鍛えて心のパワーも高め、清々しく新たな一年をスタートしましょう。

12月29日から1月3日までの6日間、オンラインにて朝のヨーガ、筋トレエクササイズ、そしてヨーガ哲学のお話を毎日お届けします。

 

 

 ヨガスタジオがお休みになる期間のヨーガ練習を確保したい

 一年の終わりと始まりをヨーガ哲学で心を整えたい

 お正月太りを防いで体をいい状態に保ちたい

 どこにもGo toできないから家での楽しみを増やしたい

 この際だから休みの間にナイスバディになってやる

 

そんな多種多様なご希望に、EMIRIがごっそりお応えします。

 

 

<毎朝のレッスン内容>

・筋トレエクササイズ(20分)

 腹筋、腕と背中、下半身、とバランスよく筋肉を刺激するエクササイズ。6日間通じて毎日同じメニューお届けしますので、継続して出席していただければだんだんと鍛えられて成果が現れてくるのを感じていただけます。

 

・ヨーガ(40分)

 体をほぐして十分に伸ばしていく心地よいヨーガ。先に筋トレをして程よく体温を上げ、成長ホルモンなどを分泌させた状態でヨーガの有酸素運動をすると効率よく脂肪が燃えて、柔らかく強い体を作ることができます。

 

 

・ヨーガ哲学のお話(20分)

 日替わりでヨーガ哲学をお届けします。

 

 

・フリートーク(10分・参加は任意)

 お時間が大丈夫な方は少しお話ししましょう!

 

 

<朝の時間に出席できない場合は・・・>

その日のレッスンのアーカイブ動画を当日内(23:59)までご覧いただけます。朝の時間にオンタイムで参加できなかった場合にお使いください。

(オンタイムで参加できた方も含め参加者全員にお送りします。)

アーカイブ動画の閲覧URLはレッスン終了後、当日12:00までにメールにてお送りいたします。

■期間:2020年12月29日(火)〜1月3日(日)までの6日間

午前8:00〜9:30

*レッスン本編は80分、最後のフリートーク10分は任意でご参加ください。

*途中参加可能ですが、レッスンがスタートしてしまいますと講師も一緒に運動を始めますので、画面の操作上で「入室許可」を出すのに少しお待たせしてしまう場合があることをご了承ください。「よくある質問」コーナーもお読みください。

 

 

■受講方法:オンライン

・ご自宅などのヨーガがしやすい環境と、インターネット通信の安定した環境にてご受講ください。

 

・使用アプリケーション:zoom

お申し込み完了後にメールでお送りするzoomミーティングのURLにアクセスしていただきます。あらかじめ、当日お使いになるPCやスマートフォンにzoomのアプリケーションをインストールしていただきます。詳細はお申し込み者様にお送りします。

 

■参加料金:(6日間分のご料金)

2020年12月25日23:59までにお申し込み:5000円

2020年12月27日〜28日18:00まで:5500円

お支払い方法:クレジット決済(paypal)・銀行振込

 

☆ご家族特典

同居のご家族も一緒に参加したい場合は、お一人分1000円の追加料金をあらかじめお支払いいただければご受講して頂けます。

上記は同居されているご家族で、同じ端末画面でのご参加になります。参加人数が増えてもzoomのURLに接続する端末は一台でお願いいたします。

当日対応は出来兼ねますので必ず事前にお申し出ください。

 

 

■お申し込み期間

2020年12月28日18:00まで

  

■期間限定の特典:

2020年12月25日(金)23:59までにお申し込み頂けますと500円割引の5000円にてご受講可能です。


詳細、お申込みはサイトへ


スマホを捨てたい、という衝動について。

雑記コラム

スマホを捨てたい、という衝動について。

最近、スマホをもう持たないでいたいな、と思う時がよくあります。

実際は日々の生活でも仕事でも不可欠なものとして使っているのでいきなりぽいっと捨てたり解約したりということはできないのですが。まずもって連絡ツールとして使っていますのでね。


でも・・・ガラケーとかに戻りたいなあ、とか思います。
いろいろ機能を搭載したスマホが、そこにいるだけで「うるさい」のです(笑)。


20代初めの頃に、一人暮らしをしていた家のテレビが故障して破棄したのをきっかけに、それ以降私は自宅にテレビを所持していません。テレビがないってこんなに静かで、こんなに心が軽いのだなあと思ったものです。実家に帰省した時に当たり前にテレビがついているのに違和感を感じたのですが、それは自分の暮らしではなく親の暮らしの要素なので、文句や意見は言いませんでしたが、やっぱりテレビっていらないな、と思ったわけです。

うっとおしく感じるならテレビがあってもつけなければいいじゃん、見たい時だけつければいいじゃん、と思うかもしれないですが、いいや、そこにテレビという代物があるだけでいろいろ「発している」ものがうるさいのです。電源をつけていなくても、テレビは存在自体が何かを放送しています(笑)。ですので、それ自体がないことが重要なのです。

テレビってヨーガ理論の言葉で言うとすごく「ラジャス(激質)」な物質で、画面をオンしていなくても「ほーら、いつでも待機してまっせ、すぐに電波と情報垂れ流しまっせ」と「言っている」存在に、感じるのです(笑)。この件は、なにも私が神経質なたちだからというわけではないと思っています。というのもヨーガ先生仲間の多くはテレビなしの人が多くて、そしてテレビ自体の箱(筐体)が放っている周波数、テレビのある実家や友達の家などに行った時の感覚など、似たような感覚を持つことが多いのですよね。わかるわかる、と。人の家だからいいけど、自分の空間にはいらないよね、と。それはテレビがなくなって、ない生活に慣れてみないと感じないことかもしれません。


で。最近、スマホにそれを感じます。

見なければいいのですが、そこにあるだけで「放っているもの」や、その「可能性」がうっとおしいのです(笑)

あはははは!

可能性がうっとおしいって!!スマホなんて「可能性」を売っているようなものだよね(爆)!


 もうあなたは山にお帰り・・・

と、ナウシカに言われそう。



そのたくさんの可能性を便利に実現してくれるツールですし、スマートフォンって「その時その場でやれること」が多いのが最大の特徴であり人々に使われている理由でしょう。

でもそれが、私にとっては気を散らすものです。(みんなもそうかな。)

空いた時間や、ちょっとした退屈の時、気晴らしの時などにスマホを開いてオンライン状態になると、そういった「なんでもない思考空間」「余白」と言ってもいいかな・・その中だけで起こってくるアイデアやインスピレーションが、とたんにどっかに行ってしまうんですね。それは私にとってひどく重要なことで、スマホを開いて雑多に時間を紛らわしている時にインド思想について深く考えたりはできない。


他の人との共通性(スマホ持っている同士だとできること)などにこだわったり執着しますと、どんどん自分の「余白的思考空間」が情報ややりとりで埋まってしまうのです。


うーんやっぱり、

あなたは来たところに帰ったほうがいいよ・・

と千尋に言われそう(笑)。


なのでバランス取って、「要件のみに使っていたい」というところに今のところは落ち着いていますが、要件だけでいいならば、スマホではくガラケーでもぜんぜんいけるな、とも思うのですね。とりあえずは、スマホ内からいろいろアプリを削除したここ何日。必要なものだけに整理。



では今日も、スマホの恩恵に預かる1日を過ごします。


ナマステ

EMIRI







 



「人生はままならない」について


もう今年が終わっちゃいますね!!!
驚きの速さ。



今年は、年明けに中国でのコロナウイルス発生による「コロナの不穏」からはじまり、それがあっという間に「自分たちのこと」になり、コロナ以外も他にもいろいろあったはずなのですが、なんにせよコロナコロナだったように思います。


話が冒頭から逸れる感じになるのですが、私「ホラー」って苦手なんです(笑)。非常に苦手で、怖い話、ホラー映画、お化け屋敷や肝試しなど、可能な限り避けます(笑)。夏の稲川淳二とか遭遇したくないです。

(ミステリーは大丈夫です。ミステリーに「怖がらせる装置」としてのホラーが加わると難しい。心理的な描写として人間の怖いところが語られている分にはおもしろく読める(観れる)のですが、「確実に怖がらせるための装置(ホラー要素)」が苦手なのですwww 伝わってます?)



そんな私なんですが、昔、流行った当時の頃ですが、鈴木光司の「リング」の小説を読んでしまったのです。映画の「貞子」ですよ。
うぐうううううう、もう思い出すだけで辛い(笑)。
映画は観てないですし、今後も観ないでしょう。あんなのビジュアルにされたらたまったもんじゃないです。CMとか短い映像だけでもういいです。

映画独自の恐怖装置もすごいとは思いますが、原作は原作でもう!!!
昼間からチビリそうなくらい怖くて、読み終わってもだいぶトラウマになったのですが、でも鈴木光司さんという作家の物語構成力は半端なく緻密で、練りこんだ読み物が好きな私はその巧みな引き込み術にまんまとハマってしまったんですねー。普段はそんなの手をつけないのに、当時(学生でした)アルバイト先の先輩だっかた上司だったかに、

「これすごいおもしろいよ」

と勧められて・・・。


 怖い話は本当に嫌いなんですが、「リング」とその続編「らせん」に関しては展開がおもしろかったです。なんとか最後まで読みましたがもう二度と読みたくないです(笑)、こわすぎ。


で、「リング」「らせん」以降、鈴木光司さんに一時期ハマり、他の作品も読みました。(だい〜〜〜ぶ前の話ですけどね。)ホラーでない作品もあり、それこそ私好みの「輪廻転生」的な発想が主軸のお話もあったように思います。どれもおもしろかった記憶があります。


昔すぎて、なんというタイトルの本か忘れてしまったのですが、いくつか読んだ作品の中で、物語の最後の最後にあった「主人公の言葉」が深く印象に残っているものがあります。


その言葉は

「人生はままならない。」

でした。

話の内容は、たしか二十代くらいの若い男性の主人公が、個性的で魅力的なのだけど非常に依存体質な女性と親密になり、最初はいいのだけどだんだんと彼女の中に潜在していた執着や嫉妬で起こってくるいろいろな不可思議な事象・・・・、そんな感じのお話。(ざっくりだけど、なんかドロドロした感じなのは伝わるかな!笑!)


これも鈴木光司さんのテイストなので、単なる嫉妬とか男と女のサガ的なメロドラマが焦点ではなく、人間の心の中にある(とくに女性の)根源的かつ本能的にねちっこいところの手の届かないようなすご〜〜〜〜い深いところまでシャベルを差し込んで、わざわざ私たちに見えるかたちにして目の前に置かれるような話、という感想が残っています。
(これも怖いじゃん!w)


お話の細部や、最後の顛末などもはっきり思い出せないくせに、なぜか最後の主人公の、

「人生はままならない。」

という言葉だけ、とにかく強く印象に残っています。

言葉自体の印象というものではなく、そこまでの物語の内容をすべて「まとめた」視点として、その言葉が物語全体の風景になっている、そんな印象なのです。

いわゆるホッとして安心するような終わり方ではなかった気がするし、かといって極端に悲劇的で後味の悪い終わりでもなかったように思うのですが、「いろいろなことがなんとか収まって、一息つけたとき」に、その上でもなお感じるものが、


「人生はままならない。」


そこにに集約されちゃった。

という感じです。




ここまで書くと「なんて本ですか?」と聞かれそうですが、思い出せません(笑)。




そう、それでやっぱり「人生はままならない」わけですよ(爆)!

そこが話したかったのですが、さかのぼりすぎて「リング」からになってしまいました。いつだって前説の長い私。


当時私は、たしかハタチかそこらで、「人生のままならなさ」など本当の意味ではわかっていなかったのですが、それでもその当時なりの、若いからこその心の葛藤はあったし、知性が及ぶ範囲なども狭かったのですがその中でも「生きるってなんだろう」というような問いかけをもってたように思います。(持っていたと信じたい、ガキだったけど。)



やっと話が冒頭の冒頭に戻るのですが、今年はコロナコロナで、コロナウイルスがどうというよりも、どうやって生きていくべきなのだろう、今後」というテーマが、多くの人たちの心にのしかかっているのではないかと思います。「のしかかっている」と言うと重いのですが、実際そうだと思うのですね。


前回、映画「嫌われ松子の一生」という映画の感想や考察で(ブログで読めます)、孤独についていろいろ思うところをつらつらと書かせていただきましたが、「社会」とか「世界」というものに対する拠り所のなさ」というような気配が、個人的な孤独感や孤立感を高めているようにも思います。


もちろん、新しい生き方を前向きに模索するムーブメントも確かに起こっていますし、ライフスタイルを変えるいいきっかけになった、という人もたくさんいると思います。


しかし社会全体で見ると、前向きな発想を持てる人ばかりではなく、本当に心が辛くなってしまっている人も大勢いると思います。
前向きな人であっても、「楽観」しているから前向きという感じではなく、「人生のままならなさ」を抱えたそのうえで、目線をあげようと努力している人が多いのだと思います。


たしかに、人生はままならないのですよね。
なんの保証もない、と言っても言い過ぎではないと思います。


そうなると、物理的な生活手段とか経済に関することだけではなく、心をどうやって明るい方へ、そして健康なほうへと導きながら進んでいくか、というのを、じっくり考える必要がありますね。


今までもそういったテーマについて考えて来た人は多いと思うのですが、コロナショックとでも言いますか、今回の件でもうちょっと土台から考えないと、太刀打ちできないものを見てしまった」感があると思います。


つまり、

「私たちの社会は脆い」

という大前提のうえに生きてるんだ・・・という、一種喪失感にも似たような不安定要素。


これまでもいろいろとブーム的にもあった「ハッピーに生きるコツ」とか、自己啓発的なもの、それらが無駄とは言いませんし、自分が頑張れば成功や幸福を手にできるという発想、ポジティヴシンキングや心の持ちようによって幸福度はあがるという発想も、無効になったわけではないですが(あったほうがいいですが)、でも、自分だけがんばっても立ち行かないものであったり、日々の心持ちで気分を明るい方に向けることで短期的には乗り越えられても、払拭しきれない「全体の雰囲気」や社会構造、時代の波というものがあると思います。


かなり悲観的な言い方になりますが、脆い基盤の上に、窮屈に立っているのが今の私たちのように思います。


このような世界で生きていく上で、心の健康を失わずにいるには・・・




とりあえずですが、無理をしないことかな、と思います。

とりあえずな事しか言えなくてすいません(笑)。

(その先の提案はまた書きます。)



あまり無理をしないほうがいいと思います。


そして苦しい、悲しい、不安、そういった思いがもしあるなら、助けを求めることも重要だと思います。恥ずかしいことじゃないし、そうしたほうがいいと思います。

つらい、不安だよ、ちょっと助けてほしい。
そう言っていいと思います。




いきなり社会を変えることは難しいので、「とりあえず」まず自分を少し楽にしてあげるのがいいと思います。


楽になるうえで、それを阻むのは、これまでの固定観念だと思います。


止まっちゃいけない、休んじゃいけないとか、役割への固執とか、完璧にやらないといけないとか、みんな出来ているのだから私もできないと・・・、とか。

またはそれを他者(主に家族や近しい人かなと思いますが)に対しても適用させようとするのを、いったん辞めてみるという策はありだと思います。



そんなこと言ったらずっと仕事行かないわ・・・w

とか、

子供は学校行かなくなるよね・・・

とか、いろいろ出てくると思うのですが、


自分が思っている以上に、みんなけっこう葛藤し、社会の不安定さを無意識に吸い込んで、明るく振舞っているように見える人や健康に問題のなさそうな人でも、世間の神経質な空気を吸い込んでちょっと弱っている人が多い、ということを認めてみるといいのではないかなと思います。


自分に、そして他人に、優しくなる、ということかなと。

無理しないで、無理させないで。


「みんながみんなに優しくなれば社会はよくなるよね」なんて楽観的に言うつもりはなく、むしろみんなが優しくなったところにつけ込んでくるような悪意があるこの社会の闇は深いのですが(笑えない)、でもまずは自分を少し解放させて、これまでの観念から自由にして、もう一度エネルギーをチャージして歩み出すのがいいのではないかなって。




そんな事を考えて、伝えたいなと思いながら過ごしている日々、私はよく自分自身の祖父や祖母のこと、祖父祖母の世代を思ってしまいます。
戦争体験のある彼らを救ったものはなんだろう、とか、今の社会現象どころじゃない、もっともっと壮絶で地獄とも言える悲惨な世界を体験して生き延びた彼らは、この人生のままならなさをどう生き抜いたのだろうと。

それについてはまた思うところを書こうと思います。



とりあえず、無理せずに!

具体的な「無理」をひとつ手放して。


ナマステ
EMIRI






 

2020年10月18日日曜日

嫌われ松子からの考察ー孤独について考える・その3


「嫌われ松子の一生」を観て



その3 光を頼りに生きよう



私の感想としては・・


映画なのでシリアスなテーマも極端にそしてコミカルに描かれていますが、「孤独」は人の心にとってとても「怖い」ものだと思います。



このままずっと一人でいるより、

どうしょうもない人でも誰かいるほうがいい・・・

 

松子がそう思ったように、孤独をかりそめの幸福で埋めようとします。

それすら埋められないと自暴自棄への道筋ができ、そしてコミュニケーションの不足は人間の感受性を暗く狭いところに閉じ込めていくのだろうと思います。

 

孤独を怖れる心理というのは、原始の時代から人と人が共存して自分の命を守るという本能レベルでの意識が根本だと思うので、ほとんどすべての人が持っているものだと思います。ヨーガ・スートラ第二章にも「アヴィニヴェーシャ」という言葉で「死への恐怖(=生への執着)」として出て来ます。これは賢人ですら持っているものだ、という経文とともに。


孤独感というのは、元気がある時はまだそれを埋めてくれるものを得ようとする「欲望」として作動するのですが、その願いが打ちのめされて元気がなくなるところに行ってしまうと、心の機能自体を閉じていくのだなと思います。自暴自棄になっているうちはまだ元気で、そこから何者とも関わらない、興味を持たないように心を閉じ、そして鬱になったりしていくのだと思います。(そういう意味では松子は最後まで「内海クン」への熱烈な執着があったので、ある意味元気だったのだと思います。)




昨今、「自殺」の多さに、言葉にならない思いを抱くことが多いのですが、自殺というものが「本人の選択」だと言われている側面に、私は少し疑問を感じます。

 

自殺というのは、心の機能が閉じていく段階で起こるある種の「症状」であることの方が多いのではないかと思っています。

「自殺するぞ」

と明確な決心で「選ぶ」というのは、実際には少ないのではないかと。

三島由紀夫や乃木希典のようにはっきりとした意志を持って自決するというのは稀で、彼らの場合は心というものが最後まで自覚的な強さを持ち、意志と意思を持って自決しましたが、しかし心を病んでしまいその行動に赴いてしまった多くの自殺者は、意識的に「選ぶ」というよりも、心が「その段階」に入ってしまって、毎朝普通に出かけて電車に乗ったり、慣れている仕事をこなしたり、毎日行なっている家事をしている時の手順のような、いわば何もあらがっていないオートマティックさで「死ぬ」動作に入ってしまうのではないかと。いつものように階段を登って二階に上がって、なんの遺書もメッセージも残さずに自殺してしまった女優さんのように。(本当のところはどうだったのか知りえませんが・・・)

 

彼女、彼らが、なんで死んでしまったのかはもうわかりようがなく、どんなに推測してもそこに返答は得られません。

書いていると非常に悲しい気持ちになってきますし、面白い映画のレビューのつもりが最後この話になってしまい暗い気持ちにさせてしまっていたら本当に申し訳ないですが。


何が言いたかったかをまとめると、「心に侵食しているもの」に気をつけて、ということです。映画の松子は「ひとりぼっち」がいやでした。(松子は自殺はしていませんが)。自分で何かを選ぶよりも、心を侵食しているものが人生を方向づけてしまうことが多いものです。それを「選択」だと思うのは自我の錯覚で、“私が(あなたが)それを選んだのでしょう?”と言えないところがあります。

 

子供と接していても思うのですが、まだ心が柔らかく、周囲の雰囲気を自分の考えだと思ってしまいやすい子供は、ネット上で得られる社会の雰囲気や流行している考え方、大人たちに与えられた言葉に心を侵食されるのが簡単です。まだ自分の意思を持ちきれていない子供には、やはり真実とともに「明るさ」や「希望」を示して、そっちの雰囲気が大きい状態に舵取りをしてあげないと、ゴミみたいな情報から得るどうしょうもない思考、負の雰囲気、過剰で雑多な他人の思いに飲み込まれてしまいます。大人も、きっとそう変わらないですよね。


いつも思うのですが、正気を保って普通に生きていくということは、本当は大変なことで、その正気を保っていられるのは「幸運」とも言えるくらいな世の中だと思います。


何かあらがえないほどの雰囲気が心に侵食し、そして活動することや、生き永らえることの魅力よりも「その雰囲気」のほうが優勢になってしまうと、思考して選ぶ心の機能も閉じてしまい、「動作」がごく自然に「死」のほうへ赴いてしまう。「死」まで行かなかったとしても心の闇の方に行ってしまいます。自分で選ぶというよりも、そういう流れの方が多いのではないかと思います。


ちょっと話がずれましたね、かなり深刻な問題のほうへ。
戻します。




松子は最後の最後で、「社会的な自分」への小さな光を取り戻します。

わたし、まだいけるかも、と。

そこからの映画の終わり方はさすがに書かないでおきますが(ネット見れば一発ですがw)、生きることというのはつまり、光を頼りにすることなのではないかと思います。

この映画の「松子」は、愛せる人、自分をわかってくれる人を求めて最後まで生きました。そして自死もしていません。とても不器用で不運な人生なのですが、彼女自体はずっと輝いていたように思います。かりそめの愛でも誰かを信じたい、全身で信じる、というのは非常にパワーのいることです。最後の最後でもう一度自分の可能性に心が開いたのも、そのパワフルさゆえなのだと思います。

物語のプロセスにおいては、「あ〜あ〜、まつこ・・・」と思うところが多いのですが、しかし結局鑑賞後に残った感覚は、散々な人生を送った松子の物語にもかかわらず、けっこうスガスガしい風景でしたね。
もちろん別の感想もあると思いますし、ラストに落ち込んでしまったり、いたたまれない気持ちになったりする人も多いと思いますが、個人的には希望的に見届けられるものでした。

それはやっぱり、松子が最後に見た「自分という光」のおかげのような気がします。

以上、「嫌われ松子の一生」を観てのいろいろでした。

映画が好きなので、また映画からの考察を書きたいと思っています。
長文お付き合いありがとうございました。

 

光を頼りに生きよう!


2020年10月17日土曜日

嫌われ松子からの考察ー孤独について考える・その2

「嫌われ松子の一生」を観て

その2 生き物としての孤独

前回の投稿で映画「嫌われ松子の一生」から、だいたいのあらすじと、映画のひとつの観点である「孤独」についての考察を途中まで送りました。



「社会的な孤独」と、「生き物的な孤独」についての続きです。


人間には、社会に属しているというタイプの安心感があるのですが、もっと根源的で本能的な感覚で、「生き物」としての安心感というものがあるのだろう、と。

松子の感じた「ひとりぼっち感」は、生き物的、本能的な孤独が大きかったのではないかと思うのですね。

「生き物」といっても生物全般ではなくで、昆虫などの生き物はまた別の感覚で生きている生物として、主に人間や動物などに共通するところで話しています。


それを満たしてくれるものがなんなのか、というと、もう一言に「肌感」だと思うのです。身体に触れ合っていることで満たされる“生きている”実感”。結局、社会的な安心以上に、こっちの方が「生き物」としての孤独を癒してくれます。社会的孤独は感じていなくても生き物的な孤独を感じている人というのは多いのではないでしょうか。または、社会的な孤独を埋めるために生き物的孤独を満たしてくれる関係に依存してしまうことも多いと思います。松子の場合は人生これからという時に社会的に「まっとうな道」を外れてしまったこともあり、それ以降は生き物的孤独を埋める道に没頭してしまいます。ダブルですね。

 

松子の一生を観て、共感でも否定でもないなにか、言葉にならない「そうだよね・・」という思いがじわじわと湧いてきたのは、松子が終始この「生き物としての孤独」を埋めようとして「誰か」を求めていたという姿だと思いました。行くところまで行って「もう死のう」と思っていたにもかかわらず、声をかけてくれた通りすがりの優しい男性とすぐに関係を持って「これだ」と感じてしまう。松子は「人肌」から得られる生き物としての安心に常に引っ張られていたのだなあ〜と。

 

そして松子の特徴的な姿は、まだよく知り合ってもいない男性に自分のこれまでの身の上話を長々と詳細に話してしまうところ。知ってもらうことで満たされるという条件も松子には非常に重要で、人生の終盤、最終的に社会的孤独を選び、飲んで食って寝てゴミ屋敷に暮らしても、最後の最後まで「(誰かに)私のことを知ってもらう」ということに執着し続けます。最後その矛先が「光GENJI」にまで抽象化されるという(笑!!!)。ここでもまた、共感でも否定でもない「なにか」に胸がいっぱいになりました(笑)。

(しかも光GENJIの「内海光司」に設定したあたり、原作か脚本かわかりませんが、すばらしいセンスを感じます。他のメンバーじゃだめですよ、内海光司が最適な人選です。って、私より年下の方はこの話題わからないですねwww とにかく内海光司にしかない「松子が夢中になる要素」があるように思ってしまった私は、まんまと演出にハマってますねw)

 

松子はラスト、内海クンに自分の生い立ちを詳細にしたためた長い長い長い!ファンレターを書き、投函します。しかし返事は来ません。来ないことにまた憤慨し、発狂します。

 

「リアクション」があることが大事。


松子は、社会的にも、人間らしい人生という意味でも行けるところまで堕ちますが、それでも「誰かと関わりたい」と思っている。観ている側はその心理にもう腹パンチ的な「いたたまれなさ」を味わうのですが、この映画はそのあたりを全てコミカルに描いていて、他の登場人物の視点などで「明るさ」「希望」「なぐさめ」もちゃんと与えてくれているので、そこまで悲痛な気持ちにはさせない映画なのですが、それでも後からじわじわ来ます、

松子・・・・・

と(笑)。



続きはまた明日・・・(まだあるのですw)



2020年10月16日金曜日

嫌われ松子からの考察ー孤独について考える・その1


vol,1 松子の「孤独」を考える


先日「嫌われ松子の一生」という映画を観ました。2006年上映なのでだいぶ前の映画ですね。当時話題になっていたのですが、その時はあまり興味は持たずに観ていなかったのですが、その後主演の中谷美紀さんがインド紀行の本を出版し、それを読んでこの映画のことが印象に残っています。中谷美紀さんがヨーガを愛好しているというのは出版以前からちらっと知っていたので、インドやヨーガを彼女がどう体験したのか興味があって読んでみました。


本を読んでわかったのですが、その時の渡印の理由のひとつとして、純粋に本場でヨーガをしたいという目的もあったそうのですが、「嫌われ松子」の撮影が過酷すぎて精神的にボロボロになり、逃げるようにインドへ行った・・・的ないきさつが書かれてあったのを覚えています。本を読んだのもかなり前なので細かい内容はあまり覚えていないのですが、インドでの様々な体験記よりも、ちらちらと出てくる「嫌われ松子」の現場がどれほどキツかったか・・という吐露のほうが印象として残っています。おそらくそれについて多くのことは書かれていなかったように思うのですが、“心底きつかった”のだろうということがじわじわ伝わってきて、インド体験のエピソードよりも「どんだけ松子大変だったんだ・・!!」と思った記憶の方が強いのです(笑)。(撮影では監督から激しく怒鳴られ、あまりにつらくて撮影を放棄して現場から帰ってしまったこともあったと・・、後からネットの記事などでも知りました。)


そんなわけで、中谷美紀ちゃんをボロボロにしてインドにまで行かせしめた映画、という印象だけが強く残っていた「嫌われ松子の一生」。



すごい面白かったです!!!(笑)。


大集中して観れました。


こういう時「もっと早く観ておけばよかった」というような感想も言いがちなものなのですが、いやいや、今の私が観て非常に面白かったのだろう、と思います。


かなりネタバレしちゃうけど、感じたこと、思ったことを話しますと・・・まっさらな状態で映画を観たい方は、鑑賞後に読んでください。




話の流れとしては、松子の転落、です。
主人公「松子」はいろんなタイプの「ダメな男」に堕ちていきます。スタートの「笑顔が嘘くさい好青年」に淡い恋心を抱くくらいはまだぜんぜんよくて(でもその時にもう松子の男への見る目なさがちゃんと表現されてんだなと思った)、そのあとは売れない小説家DV男、そのDV男のライバルで松子の体とライバルへの優越感が目当ての妻帯者、松子の金を使い果たすヒモ男、平和すぎる男(笑)、そしてだめ押しに、親分の金を博打に使い逃亡する若い舎弟・・・。

終盤のひとつのハイライトとも言える段階で、親友の女友達に「こんな男といっしょにいちゃだめだ!!」と強く言われても松子は、


アンタになにがわかるのよ的に

『ひとりぼっちよりマシ・・・・』

と、唸るように、吐き出すように言うのですよね。


もうね〜〜〜(笑)、、、松子・・・・
ため息が出ちゃいました。


それは「共感」でも「批判」でもなく、なんとも言えない気持ちにさせられます。


あえてヨーガ的に言いますと、関係性への依存というのは「永遠ではないものを自分だと思ってしまう」という「無知」の部類に入ってしまうのですが、生身の人間の心のサガを思うと、一言に「愚かだ」などと言えないものがあります。

そうだよね、松子・・ひとりぼっちはいやだよね・・・

と同情しそうになるのですが、いやいや、親友の言葉の方が本当だぞ、とも(笑)。




それで、「ひとりぼっち」を考察しました。

 その心許なさ、拠り所のなさ・・・

若い時分はまだ経験も浅いので交際相手への依存的な気持ちもしかたないところがあったとしても、年を経てもなお、それが荒んだものや発展性のないものでも誰かとの関係性に依存してしまう心理。


ひとりよりマシ・・・・


松子の場合は完全に幼少時代からの「愛情ロス」で(そのように描かれていた部分がわりと大きい)、根本的体験は「父に笑ってほしい」「父に注目されたい」・・・そこからの「誰かに愛されたい」という気持ちが潜在的に大きいのですが、それが転じて男性に過剰にエネルギーを注いでしまう人格になったようです。

でもまあそんな「いきさつ」や幼少期の親の愛情不足という話は、多くの人が似たような経験を持っているものでもあります。でもみんなそこまで堕ちたりはしない。


松子が極端に堕落的な人生に堕ちていくのは、「マシ」という言葉に表れているように思いました。極めてダメな男だけどいないよりまし。相手がいれば、愛を注げるから。それによって生きている実感が保てるから。



ひとり、ってなんでしょうね。
松子が怖れた「ひとりぼっち」とは。

ひとりでいても「孤独」じゃない人はいますが、とりあえず今回の物語の中での「ひとりぼっち感」を「孤独」としますと、自分自身が生きている実感や世界から必要とされている実感があると、人間の心という機能は活性化していられるように思います。「ひとり」であったとしても、生活や人生の中で何か「注げるもの」や「役立っていられる場」みたいなものを持っていることで、例えば恋人や配偶者、一緒に暮らす家族がいなかったとしても完全な孤独にはならないように思います。

ただ!それは「社会的な孤独」ということについてで、人間には「生き物的な孤独」があります。生き物としてのひとりぼっち感ですね。



続きはまた、次回・・・・

2020年8月22日土曜日

ジャイナ教っておもしろい 〜視点変更の必要性を考える〜



ジャイナ教っておもしろい
〜視点変更の必要性を考える〜



現在「ヨーガ経典読解コース(ヨーガ・スートラ第一段・心の世界編)というオンラインでのヨーガ哲学コースを実施していて、その中でヨーガ哲学に関連のあるインドの宗教のいろいろを紹介しています。

というのも、ヨーガ哲学の基本理論は単独で出来上がったものではなく、時代の中でいろいろな思想に揉まれて影響を受けつつ変化・成立していった流れがあるからです。

ひとつの経典を学ぼうと思った時、その経典の考え方を支えているものが複合的にあり、下地になっている思想を解剖するように紐解いてみると「なんでこういう事をこの経典で言っているのか」というところが見えてきたりするんですね。

そういった理由から、「ヨーガ経典読解コース(ヨーガ・スートラ第一段・心の世界編)」では、ヨーガスートラを単独で見てみるという作業から、その周辺世界へと一歩踏み出すような感じで、「その当時のインドってどんな思想が渦巻いていたのか」という、いわば全体の地図を見ながら進む方法を取っています。ヨーガ哲学の骨格となる基礎理論を学んだ人には、さらに深い理解や考察する視点の位置をあげるような学び方を提案しているコースです。


その中で、ヨーガの源流となるヴェーダ(後期)と時代を共にする「原始仏教」や「ジャイナ教」という宗教に関しても紹介しています。



ジャイナ教ってのがまたすごく面白いのです。

ジャイナ教と言うと「徹底した不殺生」を遂行する宗教、というくらいでしたら知っている人は多いかと思います。
命あるものを殺さない、虫一匹殺さない、という姿勢です。

肉や魚、殺虫剤をふんだんに使って育てた野菜や果物を食べ、Gちゃん(あれねw)も蚊もハエも嫌う現代人の感覚ではなかなか実践も理解も難しいために、そればかりが強調され印象に残りやすいとは思いますが、ジャイナ教はそれだけでなく、神学的な要素や自然主義的な発想だけではなく、むしろかなり整理された哲学を持っている宗教なんですね。




そのひとつが、不定主義(スヤード・ヴァーダ)というものです。


開祖であるマハーヴィーラは、当時の思想家たちや仏教の開祖であるゴータマ・ブッダと同様に、「言語による真理表現の可能性」を深く模索しました。

そして、真理は多様に言い表せると説き、一方的判断を避けて「相対的に考察」することを教えます


マハーヴィーラは「事物については絶対的・一方的な判断を下してはならない」と主張しました。

言語的に表現した時、真理(真実)はすべて相対的なもので、ものごとは「ある点から見ると」という限定付きでしか表示することができない、と説きます。彼のこうした立場を「不定主義(スヤード・ヴァーダ)」または「相対論(アネーカーンタ・ヴァーダ)」と呼びます。


具体的な表現法としては、「これである」「これではない」という断定的表現をさけ、常に「ある点からすると」という限定を付すべきだとする「スヤード論」を用います。


ジャイナ教は、相対主義を思想的支柱とし、後世にヨーガ哲学の柱のひとつとなる「サーンキヤ学派」の二元論や、ヴェーダーンタ学派の不二一元論、また仏教の無我論などと対抗してインド思想史上重要な位置に置かれます。



ジャイナ教の基本的な思索態度として「事物については絶対的・一方的な判断を下してはならない」と唱えます。


これは現代の私たちにとって深く考えてみる大事なテーマだと思います。


もちろん、過剰なまでの相対思考は、結論や決定を逃す場合もありますが、現代人の知性のあり方としては「決めつけてしまう」ことの狭さに陥ることの方が多いかもしれない、と思います。


それゆえに「これはこうなんだ」と一方的に決めつける前に、この視点ではそう言えるが、はたしてそそれだけだろうか」という物の見方をできない人の方が多いと思います。


これは個人的な意見ですが、何かを考えることにおいて視点変更が可能というのは、知性のスペックが高いということだと思います。

知性に対して「スペック」という言い方はなんとなく無機質な感じがし、やや差別的にも聞こえそうであまり好みではないですが、そんな言葉のフィルターも外して言ってしまうと、心を漠然としたものとは捉えずに、「知性」というものも「機能」のひとつだと考えるインドの心理学的理論で言うと、知性の認識能力がきちんと働くというのは、知性が持っているもともとのスペックなのだと思います。



「この視点ではそう言えるが、はたしてそれだけだろうか」ということを見極めて、偏らないものの見方をしたうえで、
そのうえで今この瞬間に出さないといけない判断や意思決定などができると、心の偏りに支配されずに冷静に物事を進めていけるようにもなるように思います。


人の心とは、生きていろいろな経験をしている限り「偏り」の集大成みたいなものなんですが(笑)、だからこそこのような視点を変えて見てみることや、自分の思い込みというフィルターを一旦横に置いて観てみると、新たな視野が得られると思うのですよね。




こういった宗教的な内容を、(私の場合)講座資料として編集したり、再度調べなおしたりしていると、いつもその時その時の事象になぞらえて考えてしまうのが常です。

現在進行形の「コロナのこと」もそうですね。
それぞれに立場と視点があるのは当たり前として、そのうえで視点を変えて考えるようにしています。


私のもともとの性格の偏りもあるのですが(笑)、みんなが「同じ流れ」に流されて行くというのを見ると、気持ち悪くなってしまうところがあるんです(爆)。コロナの件でよく言う、「新しい生活様式」という言葉も、言葉による洗脳だな・・とかね(笑)。変わってよいものもあるとは思いますが、「本当にそうなのだろうか」という問いかけを持たずに生きていると、何も考えずに従属するばかりの生き方になります。



考えるということは、私たちの心の筋力みたいなもので、使わないと衰えます。いちいち議論的になったり争ったりする必要はないですが、「本当にそうなのだろうか」という問いかけを持ち、視点を変えたりしながら自分なりの考察をして行く必要があると思います。


もちろん、コロナという大キックで、必要な変化だけど起こっていなかったことがようやく起こったり、古いものを打破したおかげ価値観や行動の視界がひらけたこともたくさんあると思います。いい機会だった、と思えるものもたくさんあります。




しかし、個人的には「接触を控え続ける」ということには人間の人間らしさの根本として、限界があるだろ、と思ってしまいます。


なんでもかんでもオンラインでやる、オンラインでやれるからいいじゃん、というのも、ちょっと気持ち悪いです(笑)。
オンラインで「済む」ものも、オンラインの方が効率的なものもたくさんあると思いますし、オンラインで新たに可能になったこともたくさんあると思うのですが、「オンラインで済む」に同調しすぎるのは懸念が大きいです。


コロナ関係なくこの8年ほど、オンラインでヨーガ哲学を提供してきて、インターネットの恩恵で生きてきたという部分が大きい私が言うのもなんなんですが(笑!!)、人と人の間には、実際に会って、その温度感や空気を共有してしか得られないものが必ずあるとも思います。


先日、東京国立近代美術館に行きました。ずっと観たかったピータードイグ展を観に。緊急事態宣言の期間中、ピータードイグ展のオンライン鑑賞の番組が開催され、それを視聴してとても楽しかったのですが、やはり生で観ることの素晴らしさにはとうてい敵わない!!と唸ってしまいました。オンライン鑑賞をしたあとなので、なおさらそう思ったのだとも思います。


人間同士こそまさにそうだと思います。
実際に会うことが必要。
ふれあいは必要。



細かい事で言うと、現在私の所属しているスタジオは感染症拡大防止対策として、レッスン中のアジャスト(体に触って姿勢を直す行為)は控えていて、スタジオの方針であり、それをしていないと自治体の方針に協力をしていることにならないので、企業としても仕方ないのもわかります。私たちも従っているのですが・・・


実際、ヨーガクラスとしてすごーーーく無理を感じます。

アーサナの取り方と姿勢を修正する方法を、なるべくわかるように言葉で声がけしているのですが、言葉で聞いたことをそのまま自分の体に反映できる身体感覚のするどい人ばかりではなく、ヨーガを始めたばかりの人や、長年の姿勢の癖などが強い方には「手取り足取り」の作業も必要です。
間違った姿勢でアーサナを取り続けることは、修正すべき癖をさらに助長していることになり、もどかしさを感じますね。

ま、がんばって言葉で伝えますけどね、しばらくは(笑)。前向きに、これも先生としての成長と受け止め。

お家でヨーガができる機会が増えたのは素晴らしいことですが、できないので」という理由だけで物事が進んだ段階から、本質的なニーズに立ち返る時がそろそろ来てもいいのではないか思っています。それはヨーガクラスに関してだけではなく、いろいろな分野で。

コロナで否応無く、ある意味仕方なくそうなったところからの、次の段階へ。個人的にはそこを見逃さずに考えるようにしています。



そんなこんなで、身近なところで言うとそういう事もありつつ、コロナうんぬんに関しても、それ以外も、哲学や宗教理念が考えの幅を広げてくれたりすることは多々あります。そればっかりだ、と言ってもいいほど。



ジャイナ教の開祖マハーヴィーラは「言語による真理表現の可能性」を深く模索した、と述べました。

言葉は、意味とエネルギーを同時に運びます。
それらの言葉たちの中に「視点の違う真実」の多くが含まれています。
それらをすぐに「正解か不正解か」という発想に繋げたがる世界になっているのが昨今の日本ですが(今に始まったことじゃないけど)、言葉の中にある「意味」、そしてそれがもたらすエネルギーが、自分や世界に対してどういった影響を生んでいくのかをしっかり見つめながら生きたいなと思います。


ナマステ

 

2020年5月25日月曜日

存在とことば 〜美しき魂への追悼〜



インドの思想とその歴史に心惹かれて長い年月が経ったように思います。


その時々でクローズアップしている時代とか書物、人物など変化もあるのですが、最近は中世のヨーガ思想の探求がぐぐっと進んでいて、それを確認するためにまた紀元前のような古い時代の書物に戻ったりと、一生やっても終わらないであろう日々の思索に果てしなさを感じます。


古い書の中の、
賢人の言葉の、
ある一人の人生の伝記の中の、

そのたった「一行」の文言から広がる時間を超えた「知」は広大です。
気づくとその一行に何日も滞在し、その世界を旅している自分を発見します。



また、現実の中で知り体験する事柄の中にも多くの「叡智との同値」を見つけ、その中にしばし立ち止まって考えてしまうことも多々あります。



それは時に悲痛な形で示されることもあります。





非常に、言葉では表現され得ない悲しいニュースではありますが、先日、若い女性が自死したことをニュースで知りました。


世間の流行などにうとい私は故人のことはまったく知らなかったのですが、多くの人に愛され、そして多くの人に「損なわれて」いたことを知りました。


本当に悲しく、こんな時には宗教的死生観や哲学を持ち出したりしないで、ただただ故人を悼み、悲しむべきだろう、と思ってしまいました。人生への解釈など、それすらが暴力的だとすら思いました。
「喪に服す」という風習をどこの文化も持ちますが、新たに考える前にまず、残された者としてそれを受け入れる時間が必要です。


若い彼女の死を思い、そしてそれを受け入れなくてはいけない彼女を愛する人々の気持ちを思い、深く瞑想をしました。


その中で、彼女の「死」を思うことはそれ自体が彼女の「生」つまり「有」を思うことだと、瞑想の中で深く納得しました。









紀元前1世紀頃のインドに、ヴァイシェーシカ学派という、理論が難解な哲学派があります。世界観を理解するのには現代人の思考方法を一旦手放さないと入れない理論なのは確かです。


ただ、古代の人々の思考は今よりもずっとシンプルだったのだろう、とも思います。言語化すると難解な理論ですが、心の目をクリアにして捉えてみると、その見え方がわかるのです。


ヴァイシェーシカの理論は根本原理まで話すとかなり抽象的かつ広範なので今は控えますが、ひとつ大きな特徴として「実在論」であり、「実在」と「言葉」を「対応」させます。


「名付けられること(言語化できること)」は「実在」だ。

という考え方です。


(これは、現代によく言われる願望実現系の「言葉で唱えれば実現する!」という種の発想ではないので、そこと一緒にしないようにしておいてください。あくまで「存在」に関する論です。)



私たちはよく、「ない」という事を考えたり口にしたりします。
特にそれ以上なにも思索しなければ、「ない」は「ない」でしかない。


しかしヴァイシェーシカの理論では『“ない”がある』と考えます。

 この床に水甕の“ない”がある

 この牧場に牛の“ない”がある


と(言語化できる以上)そこには「水甕のない」や「牛のいない」が「実在する」というわけです。


(今も昔もインドには水甕と牛がたくさん「ある」のでしょう、多くの例えに水甕や牛がよく出てきます。りんごくらいの感覚で。)


「名付けられる」というのは「言語化できる」ということで、言語化できるものを「実在」として認めるヴァイシェーシカは、そういったわけでこの世界にかなりたくさんの「有」を認めることとなります。
亡霊だって、締め切りだって、白馬に乗った王子様だって、天国だって地獄だって、言語化されるのであれば「実在」なのです。
「実在と言葉を対応させる」と言ったのは、簡単に言うとこういうことです。
(理論構造はもっと抽象的で文章にすると普通の感覚だと「わけわからない」ものなので今回は割愛します。)




 床に 水甕のない がある

 牧場に 牛のいない がある

 床に 水甕のない がある

 牧場に 牛のいない がある




お亡くなりになった故人のことを思いました。
そして彼女を失ってしまった人々の気持ちを考えました。



 彼女の “いない” がある



そこには生命があり、記憶があり、確かに存在がある。

「ない」ことになどできない、人の命の重さがある。

それは感情論としてではなく、確かに「有る」ことであり、有るがために感情が途方もなく広がるのが人間の心だとも思いました。


ヴァイシェーシカの事など考えていたわけではないのに、追悼の瞑想の中で、故人を「ない」にできないという、人間としての当たり前の心性にしばし強制的に没入させられました。



 名付けられれば実在

 言語化し得るものは、ある




現実の中で知り体験する事柄の中にも多くの「叡智との同値」を見つける・・・というのを、得てしてこういった、苦しく逆説的な事柄の中で受け取ることを余儀なくされるのは、人間のこれまでに積んだ業なのか、と、深く考えてしまいました。



一人の女性への追悼から没入してしまった「実在」「有」に対する感触にどう向かうべきか、何かしらの回答を得たく、ヴァイシェーシカ学派およびインド六派哲学の理解にいつも頼っている宮元啓一先生の本を開くと、







存在とことば。と。


存在とことば。


ヴァイシェーシカ学派の理論は死生観というよりも自然哲学であり、物理的に現れている現象世界をどのように「観る」かというものなので、人の生死を考える時になぐさめられるというようなものではない。それはわかっていました。

しかし、


「存在とことば」

という章のタイトルを見ただけでそれ以上にページはめくれなくなりました。




この世に生まれ、素晴らしい名を“名付けられ”

確かにこの世に存在した美しき戦士

もっと長く生き輝くはずだった一人の「娘」を

この有限の幻想世界から連れ去ってしまったのも

それもまた「ことば」だった

無意味に投げつけられた、本来実態のないはずの悪意あることばは

投げつけられた人間には「実在」となり

本当の痛みとなり、そして本当の血を流させ

ことばが彼女を「損なって」しまった



それを思うともうページはめくれずに、どうしてこんなに、愛や喜びを生きることが難しい時代になってしまったのだろうと思わずにいられず、また、この世界を生き抜かなくてはいけない若い子供達になにを伝えるべきかを思いました。


考える時間が必要で、考えないといけないことだと思います。





ここまで読みますと私がひどく落ち込んでいるように思うかもしれませんし、確かに一人の女性の死に関してはそうではあるのですが、私の脳は活発で健全で、また「思い」がしっかりと湧いてくるのを感じていました。

放棄してしまいたいほど「ひどい」ことが起こる世の中だけど、自分にできることはまだある、と。



「ことばと存在」について、あきれるほど執着して考え尽くしたインド思想とその哲学が私にはある。それに支えられて生きてきた経験もある。


これを伝えていくことは、誰かの生命を活気づけるだろうし、誰かの心を励まし癒すものだと心から感じているから、それを伝えていこう、と。世の中を大きく変えたりなどできないし、自分の影響の範囲の狭さもわかっているけれど、小さい範囲でも「しない」を選ぶ事はしないほうがいい。そっちを選ぶと死ぬ時に後悔するのがわかるから。


古代インドも、また多くの思想の中でも、ことばは生命であり創造の力と捉えます。ことばに宿す知性がここまで下ってしまった時代の課題は大きいけれど、古代の叡智から学び知ったことを助けに「今」できることだってたくさんあることを強く感じます。

誰かを生かし、誰かを勇気付ける優しいことばで生きよう、と思いました。



長くなりました。


故人のご冥福を心からお祈りします。

苦悩から解放された魂に、みんなの愛が届きますように。

そして同じように「ことば」によって損なわれた多くの存在の「有」を讃え、この先の私たちのあゆみに加護を与えてくださることを祈ります。

世界がもっとよくなりますように。

自分にも、なにかできますように。





ナマステ
EMIRI



2020年5月6日水曜日

「手前に戻る」(まにぱどめヨーガ勉強会5/2,3)

<ヨーガコラム>
「まにぱどめヨーガ勉強会」5/2,3 
ヨーガ哲学セッションのシェア


「手前に戻る」


セッションで取り上げた「心の清澄」の回
ヨーガ・スートラ1-30〜39までについてを考察しました。


心ってどうしても動いてしまうものなので、乱れを感じたらまず意識的にできる安定の手段として、いくつか方法があるよ、という項目でした。ヨーガ・スートラがある人はお手元でもう一度確認してほしい内容です。



<ヨーガスートラ第1章より「心の清澄・心の安定のために」>
1-33 心の清澄は、他人の幸福への親しみ、不幸へのあわれみ、徳への 喜び、不徳への無関心を抱くことで生じる。

1-34  あるいは、息を吐き止めることによって。

1-35  また、五感を超える知覚の発達も、心の集中の助けとなる。

1-36  心の安定は、悲しみを超えた、輝く光を知覚することでも得られる。

1-37  欲望のない人間を瞑想することによっても、心は安定する。

1-38  夢の対象や夢を見ない睡眠の状態を瞑想することによっても心は安定する。

1-39 適切ないかなる対象を瞑想することによっても、心は安定する




このセッションに、お一方からとても考察しがいのある感想メールをいただきました。

この様な状況で少し気持ちがぶれていたところが落ち着いたというか、軸に戻して頂いたような感覚です。コロナの状況から “死は怖いことではない、意識は永遠なのだ” という事ばかりを言い聞かせている様な感じでしたが、今日の1-33からをおさらいした時に、もっと手前に戻ろうと思いました。

と。

「手前に戻る」について、すごく大事な気づきだと思いました。いい言葉をチョイスしたなあ!と思いました。


で。

そうですね!

「意識は永遠なのだ」はたしかにそうだけど、目の前にある現実に対応させるとなると高度かもしれないですね。

おっしゃる通り、少し手前に戻るといいんだと思います。
すごく大事なところに戻ったと思います。

そして「手前にもどる」ことが実は、「本質を知る」という意味での「先へ進む」ことになると思います。


「死は怖いことではない」というふうに唱えても、実際に死ぬことや病に陥ることがまだまだ「怖い」方にリアリティを感じるのなら、「怖くない」と言い聞かせることよりも「何を怖がっているのか、ちゃんと話そう」と自分と対話するほうが現状に合っていると思います。


もちろん意識は不滅、肉体は理由はなんであれいつか必ず消滅するという事、それは真理ですし、そこに悟っていられれば「究極的な安心」はあると思います。死の恐怖を超越できれば、ですね。


しかしですね、ヨーガ・スートラ第二章の「5つの煩悩」ってやりましたね(二章三節)。
「死への恐怖(アヴィニヴェーシャ)は賢人ですら持つものだ」とありました(二章九節)。
これはなかなかしぶといのですよ。
どんなに真理の知識を得て、賢さを高めたとしても、肉体が有る限りこの恐怖は根深く残るものなんだと容易に想像できます。

私なんて人が手を切って血が出ただけでもう自分の血の気が引きますもんw 注射針刺さるところ見れないですよ未だにwよわ!! 


もとい(笑)

肉体感覚のシンパシーってすごいんですよね。
他人の痛いは自分の痛いを刺激します。
誰かが交通事故や大怪我にあったと聞いたら自分のことのように苦しく感じるのも、自分でなくてよかったと悪気なくもはや反射的に思ってしまうのも、肉体への執着を持つ自我、心なんですよね。

だから今現在は、他人の病気、他人の死で、自分の身体感覚・記憶がいやおうなく刺激されちゃってるんだと思います、世界中の人たちが。


そんな不安定なグナばりばりのところに「意識は普遍なのだ。肉体はいずれ滅びるのだ。」と言ってみても、あんまり響かないだと思います。心の散漫さと身体の安全欲求のほうが勝ってしまうから。
真理っていうのは、すごいクリアな心で、すごい集中がなされている時に「理解」が開くもの。それもヨーガ・スートラにありましたね。不安定で散漫な心が見るのは「誤解された現実」と。


そして私が思いますに「意識は普遍なのだ、死は恐るものではない」という真理を「外圧によって悟る」には、もっともっと差し迫った危機じゃないとそこまで目覚めないんだと思います。
それこそ「知ってる人の半分以上が死んだ」くらいまで自分にとって差し迫った事柄にならないと「死は必定・魂は不変」みたいな「最高真理」と同調するほどには至らないんだと思います。
戦時中とか、敗戦直後の日本や、実際に戦地で死に向かって飛び込んでいった兵士のようなレベルまで行かないと、という事。(そうであっても人は生きたいのだから、なおさら。)
私の祖母は戦争を機にクリスチャンになりました。その後一生クリスチャンで、いつも真理の話をしていました。戦争が祖母にとって抜き差しならないレベルで「真理」への理解を迫ったんだろうと想像できます。


現在のコロナの件ではまだまだ「最高真理と同調する」ほどの悟りへの圧力にはならないと思います。

自分の心配、生活の心配の方で心が揺れるのが精一杯で、それはそれで必要なことで、良く言えば私たちまだまだぜんぜん平気で、平気なんだから、コロナで気持ちをざわつかせたりしないで日常をちゃんと生きればいい、ってことも言えるんだと思います。

人間の心ってそういう風に、良くも悪くも「生」や「生活」に執着があり、今はまだその執着を手放さざるを得ないほどの窮地ではないって事ですね。

だから無理に「死は恐るるにあらず」なんて極論をひっぱり出さずに「手前に戻ろう」でいいと思います。



そしてメディアの影響で「病気」や「死」への恐怖が刺激されているのでしょうが、本当はそういうことじゃなくておそらくみんな(一般市民)はもっと「具体的な現実」が怖いのだと思います。

実際に身内が亡くなったり自分の会社が経営破綻したとかならまた別ですが、そうでなければ「収入はどうなるのだろう」とか「雇用はどうなるのだろう」とか「子供の勉強・学力どうなるのだろう」「予定していたあれはどうなるのだろう」みたいな。そこは問題が個人によって変わってくるので、ちゃんと「個人的な不安」に向かい合ってあげるのが健全だと思います。

そこを自分と対話して「対策」を作れば、そっちの方が穏やかなプロセスで真理と向かい合えると思うんですよね。
なにもコロナの外圧で力任せに悟らなくてもいい(笑)。
人生にはもっと逼迫した個人的危機はきっとあるので(怖いね!w)、力技はそっちに取っておこう。
もちろん最高真理は胸に置きながら。




「個人的な不安」に向かい合う例として、
私の知人は今回の件だけでなく、食料自給率がかなり低い日本に問題を感じていました。災害や突発的な事が起こるとすぐに「なにか」を買い占めに走ったり、危機感に踊らされるあり方。実際に他国との物資のやりとりが途絶えたら手に入らなくなる食料は数多くあります。今普通に食べているものが買えなくなります。これはすごく身近な問題なんですよね。そうなるのは日本は簡単です。
今回のコロナでの自宅待機期間を、この問題に向かい合う時間にし、家庭菜園を拡大し食料の自給率を数パーセントでもあげる。もちろん仕事をやりながらなのでこの先仕事が元のスタイルに戻ったら手をかけられる範囲に限りはあるのですが、それも見越して今時間があるうちに準備しよう、と。季節ごとに日常的に使う野菜が常に数種類は採れる、という基盤を持っておくのは心の安定・精神的なインフラになります。もちろん喜びも。
すべての食料をスーパーに依存している生活から考えると、それだけでもすごいことだと思います。


また別の友人の例。
小学生の子供の学校の休講、塾も休業が長期になってきて、子供の学びや学力が心配に。
子供はやっぱり「場」があることで勉強ができるというのも大きくて、これまでの学校での成績とか子供の性格とかあまり関係なく、一人で家で勉強するというのは小学生やまだ受験や進路などに切羽詰まってない中一くらいの子には難しいです。子供が勉強しないことでイライラして当たってしまうという問題もある。(これが一番大きいかもですね。)
なんとかできないかと考え、同じように思っているお母さん友達らと話し、子供たちをオンラインでつないで、youtubeなどに上がっている学習動画をみんなで同じタイミングで観る、という勉強会を主催。
少しでも「場」を作る事で、みんなで勉強している、友達と繋がれる、という刺激を与えて明るい勉強の場を作ることをしています。


そんな風に「手前に戻る」ということの具体例はたくさんあると思います。


そして・・・

「自分でできること」の「限界」を知る事で真理がわかる

という側面もあるんだと思います。
上記のような、とにかくやってみる事にベクトルを向けた人たちは、おそらくその中で真理に近づいていくのだと思います。


最重要・最高真理ってのは、あると思います。

ヴェーダによるとアートマンはブラフマンなわけです。
ヨーガ・スートラによるとプルシャとプラクリティは別ものなのです。

今は、その真理の抽象度を下げて、現実に呼応させる知恵を身につけるのに最適な時期だと思います。

そういう意味ではとにかくギフト的な時期にいること、それを生かす方向にするのが、人生を理解するという意味での真理への道なんじゃないかと思うのです。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

以上、真理はたしかにあるということを前提に、「手前に戻る」というキーワードからの考察でした。

EMIRI

煩悩について(「まにぱどめヨーガ勉強会」4/22)



「まにぱどめヨーガ勉強会」4/22
ヨーガ哲学セッションのシェア


「煩悩について」


「煩悩」というものの詳細についてを書籍「現代人のためのヨーガ・スートラ」の解説とともにお話しました。


ヨーガで言う「煩悩」とは、真理を見ることができない心、真理につながらない心であり、「無知」を代表とする心の曇りということになります。

それぞれの概念をサンスクリットで言いますと
煩悩:クレーシャ
無知:アヴィドゥヤ
となります。

煩悩は「種子」のように例えられ、休眠中・弱まった状態・中断された状態・活動中、に分けられます。


・休眠中の煩悩
あるけれども眠っていて発動していない。なんらかの外的刺激が加わると起きる。
(土の中に埋まっていて、栄養が与えられたら芽が出てくるという潜在的な状態ですね。)


「死への恐怖(アヴィニヴェーシャ)」がその代表とも言える。
日々「死への恐怖」を感じていたら心はもたないので普段はそんなことを感じない。煩悩は眠っている。

しかしまさに、今回のコロナウイルスの蔓延ような、自分自身の体と命への危険性が高まったことで“起き上がった” 恐怖心や心の反応は「休眠中だったが起こされた煩悩」と言えますね、とお話しました。

死への恐怖という究極的なものではなかったとしても、「いつもとは違うこと」という刺激で姿を表した様々な「煩悩」を発見した人も多いのではないかなと思います。

その中には、怒り、憤り、無気力、無力感、差別意識、放棄したい気持ち、貪り、怠惰、無知による迎合、今まで体験したことのないレベルでの行動規制による身体的なストレスという刺激で持ち上がったものもいろいろあると思います。




・弱まった(気薄になっている)煩悩
煩悩があったとしても、その煩悩が「真理を学ぶこと」や「よき考え」で弱められている状態。

「煩悩を弱める要素」としての代表は「聖典学習(スヴァディヤーヤ)」。真理を学ぶこと。


例えば、先に挙げた「死への恐怖」という煩悩。
ヨーガスートラにしてもバガヴァッドギーターにしても「聖典」には「人は肉体が本体ではなく不変の意識なのだ」と説きます。
こういった教えがなければ、大抵の人は「体」が自分だと信じています。

しかし「体は本当の自分ではない」ということを知っていることによって「死への恐怖」という煩悩があったとしても、それが刺激された時に何も知らない状態よりも心を取り乱さずに済んだとすれば、それは「聖典学習によって煩悩が弱められた」という状態にあたる、ということになります。


私からのアドバイスとして、ある種「情報の混乱」とも言える状況で、日々ニュースやSNSなどで過剰で雑多な情報を浴びている人も多いかと思われる現在、質的にも量的にも普段ならヨーガの本を開いたりヨーガクラスに行ったりしてよき波動を浴びることで抑えられるものも、昨今の事情ではそのレベルを超える刺激にまみれている方も多いかな・・と。さらにはクラスに行ったりもできませんし。

ですので、こんな時期は「多すぎる情報(刺激)」を凌駕するくらいに「聖典学習」の方もどんどん増やすといいと思う、というお話をしました。

ニュースをどうしても見てしまう、という人も多いかと思いますが、ニュースのあとでもう一度真理の本に戻ったり、SNSを開くよりも自分の学びたいことの関連する読書などをしたりするといいかもしれません。



・中断された煩悩
煩悩が、何か別の「もっと強い煩悩」によって中断されている状態。
怒りや悲しみも真理に導かれないものとして煩悩なのですが、例えば「怒りA」があったとしても、別の「怒りB」の方が現在勝っていて、「怒りB」に夢中なために「怒りA」は思い出されないのですが、BがおさまってしまえばAはまた出てくる、けしてなくなったわけではない、ということです。

どうしても手に入れたいと思っていたAがあったのだけど、今Bへの渇望が強く、Aはどうでもよくなったかなと思ってはいたのだが、いざBを手に入れたらまたAが気になり始めた、みたいな(笑)。
Amazonなどの「あとで購入」に似てますね(笑)。
より思い出しやすい引き出しにしまってあると、すぐに渇望が湧くものです。


私からのコメントとして、今コロナコロナですごく思考が忙しいし、そのせいで別の事柄に関する思考は停止してしまっている部分もあるかのもしれない、と思ってみると、コロナ以前に取り組まないといけない案件があったんじゃなかったけ?ということを一回考えてみるといいかもしれないね、と話しました。
コロナにまみれて、別の重要案件を忘れているかもしれない・・という可能性もあり。




・活動している状態
煩悩が今まさに活性化されていて、自分でも気づいている状態。芽が出てしまった状態です。

重要なのは、この状態のみ自分で気づける煩悩で、逆に言うとこれにしか意識的には手をつけられない、ということ。

ヨーガの修習(アヴィアーサ)とは、意識の上に上がって来て「気づけた煩悩」に対して「サットヴァ(純質)」の行為を生み出す自己努力、というわけですね。


今、私たちはいろいろな現実に直面していると思います。
個人的なものも、国レベルのものも。

何かに対峙した時に、自分の中で心を衝突させてしまうと混乱します。

上がって来た煩悩、やって来た案件を、まず冷静に冷静に、深呼吸と共に見つめてみることをおすすめします。

「呼吸のない心」でガン見しても、自分の心の癖がざわつくだけです。

穏やかな静かな呼吸とともに「見る」と、複雑に見える物事や自分の心に「一点確かななにか」が見えることがあります。


セッションの最後のフリートークの際に、「心を落ち着けるためのなにかアイデアは・・」というテーマをいただき、私から

「勉強をすること」

という提案をしました。

ヨーガの勉強でもいいし、自分の好きなことでもいいし、この時期せっかく時間ができたなら今までやれなかった勉強をするのがいい、と。


・・・・・・



コロナ自粛期間のオンラインヨーガ、4/22のセッションではこういったお話をしました。


書籍「自己を知るヨーガ」の中にグルの素晴らしい言葉があるので最後にそれをくわえておきます。


「あなたは自分のところにやってくるものを避けることはできない。

それがやって来た時に自分自身を助ける正しい態度を身につけることはできる。」


スワミ・サッチダーナンダ師の言葉です。



今回のコロナの状況で「わたしの元にやって来たもの」はなんでしょう。

それは一人一人に来た「なにか」であって、ウイルスじゃないかもしれないですね。

そして、来たからには取るべき「自分自身を助ける正しい態度」とは。


そんなことを考え出すときっと、これまでに蓄積した既存の「情報」が邪魔してうまく考えられないかもしれません。

そんな時もぜひ、ヨーガの聖典を開いてみてください。

絡まった思考をほどいてくれると思います。

2020年1月19日日曜日

思想と哲学どう違う?〜EMIRIの変態的力説「君はいったい誰なんだ!」〜


思想と哲学、どう違う???
〜「君はいったい誰なんだ!」〜




みなさん、「思想」と「哲学」の違いって、自分なりにでいいので言葉で言えますか?

ないしは、考えたことありますか?



思想と哲学。

どっちもなんか「考え」に関係しそうだな。


思想って言うと、なんらかの主義みたいな、考え方の特徴みないなものがあって、


哲学って言うと、なんらかの主義みたいな、考え方の特徴があって・・・



っっって、あれ、同じじゃん!!

と、思ったあなた。



ふふふふ。思想と哲学の違いにフォーカスしてみますと面白いですよ。



なんかごっちゃにしてませんでしたか、今まで。
インド思想、インド哲学、同じ意味合いで言ってたりしませんでした?
「あの人の思想は〜〜」と「あの人の哲学は〜」を、たいした区分なく使ってませんでしたでしょうか。


まあね、一番表面に出てきた様子が似ているように感じられるので、思想と哲学って日常会話ではあまり区分されないかもしれません。


でも違うのですよ。
言葉が違うってことは、「その二つは同じ意味だ」と言われない限り、意味に違いがあります。


思想と哲学。
辞書的なところを根拠にしてみましょう。
webで検索できる三省堂・大辞林より。
長いのでとりあえず一番最初にある意味を載せます。



<思想>
① 人がもつ、生きる世界や生き方についての、まとまりのある見解。多く、社会的・政治的な性格をもつものをいう。



ですって。
じゃあ哲学は??



<哲学>
① 世界や人間についての知恵・原理を探究する学問。

② 自分自身の経験などから得られた基本的な考え。人生観。 「社長の経営術には一つの哲学がある」

初め英語 philosophy の訳語として「理学」「窮理学」「希哲学」「希賢学」などとした。のちに「哲学」が定着。philosophy はギリシャ語 philosophia (知恵への愛・希求の意)に由来〕



ですって。この意味合いだけを、スーパーおおざっぱにシンプルにして言いますと、



「思想」は、大多数の人か、ある集合範囲におさまる人たちか、個人かが、意識的にも無意識的にも「そうだ」と思っている考えのまとまりとその風潮(特徴)。


「哲学」は(上記の意味①より)物事の「ことわり(理)」を考察すること。



という感じ。



少し明確になってきた。
まあこれはあくまで上記の「辞書的な意味」から抽出した説明で、世の中の思想と哲学のすべてがこの説明で明確に区分できるかというと、まだあやしい。




もうちょっと考えてみよう。
またおおざっぱにシンプルに仮定してみます。



「思想」は、最初になんらかの特徴ある考えがあったとして、それを個人なり団体なり人々が、無自覚にも自覚的にも「まとっている」感じかな、と思うのです。


で、「哲学」って言うのは・・・・・
そういった「ある考え」なり「対象」となるモノを、
「なんでそういうことになるの?」という感じで、その原理を知ろうと働きかける思考、

と言えるかもしれません。


なので、なんらかの「思想」(誰か、ないしはみんながそう思っていたりすること)を「哲学する」ことも可能。


あくまで仮定です。でもそんなに遠くない仮定だと思います。そして言語なんてものは流動性のある仮定のうえに成り立っているものなので、仮定=不確か、とも言えないのダス。


そうでしょ? 昔と意味合いの変わってしまった言葉なんてたくさんありますもんね!今この地点における可能な限りの思索をもって定義づけなければ言葉なんて使えないのです。その連続なのです!
(めんどくさいヤツですね!!www)



で。


「インド哲学七つの難題」という書籍がありまして、宮元啓一先生という博士が著したおもしろい本があります。
私のお風呂タイムや寝る前の愛読書のひとつ。お風呂で読むと体があったまってホワっとしてしまい、まったく考察できないので毎回数行しか進まないのが真実なのですが、それはいいとして。



その中で先生は「哲学」をこう表現しています。



「哲学とはなにか。それは、われ思うに、知りたいという以外にいかなる動機もなく、純粋に知ることを切望する営みのことである。

そしてその営みは、その営みに用いられる論理への自覚的反省をまってはじめて確かなものとなる。」



と。
むずかしいですか?
大丈夫ですよ、またおおざっぱかつ的確に言いますから(笑)。



●ポイント1
「知りたいという以外にいかなる動機もなく、純粋に知ることを切望する営み」


そうだよね、知りたいよね。
知りたいのだ、人間は!


じゃあですよ。

「皇后さまのあたらしいドレスいくらなの??知りたい〜〜」とか、
「嵐の〇〇くんのスクープ、本当なの???知りたい〜」とか、
「エリカ様釈放!!この先どうなるの?知りたい〜〜」
「ゴーンさんの総資産いくら??知りたい〜〜〜」


。。。。これ、哲学ですかね?


知りたい、のは知りたい(笑)
でも哲学じゃなさそう(笑)
とりあえずゴシップぽいところに絞ったのはわかりやすさのためですw



哲学が哲学たる条件は、宮元先生の言葉からヒントをもらいますと「純粋に知ることを切望」。


皇后さまのドレスの値段にしても、嵐のメンバーのスクープにしても、エリカ様のその後にしても、ゴーン氏の総資産にしても、その知りたいの動機は「純粋」か。

そういうのは、好奇心とか、刺激ほしさ、みたいななんか別の「情」がありそうですよね。


哲学というのは、知に対するその動機の純度、が関わるのかもしれません。(きっとそうだと私は思っています。)


三省堂大辞林の方の意味で考えると、「 世界や人間についての知恵・原理を探究する学問」とありますように、その「原理」を知りたい、原理を探求する、これが哲学だとしますと、皇后さまのドレスの値段を知れたとしても(他の例えは割愛)、それがそうである「ことわり(理)」はわからないし、別に原理とかとかそんなのは「知りたい」の範疇じゃなかったとしたら、哲学ではない、ただ「情報を得た(それによって納得したり興奮した)」だけなのですね。

はい。






●ポイント2
宮元先生の示唆する「哲学」の定義に、

その営みは、その営みに用いられる論理への自覚的反省をまってはじめて確かなものとなる」

とあります。

ちょと難しい文章。


その営みに用いられる論理への自覚的反省をまってはじめて確かなものとなる

なんのこちゃ。

またおおざっぱに言います。



・「その営みに用いられる論理」とは、「知りたいという純粋な動機で探求する(営み)」をするうえで、探求できるように利用している「論(信頼できそうな方法とか視点とか)」を・・・



・「自覚的反省をまって」とは、「今、これこれを根拠に考えているけれども、果たしてこの考える方法や根拠、そして視点などは果たして有用だろうか、別の思索方法や観点もあるかもしれないのでそっちもやってみよう!」という感じで、自発的に(客観的にふりかえったり改めてみる感じで)反省することをもってして、という意。




つまりですよ。


哲学というのは、


・ことわり(原理)を知りたい(純粋に)


・ある考え方や論などを拠り所にしてまず考えてみる


・何らかの発見がある


・さらに、別の視点では、別の思考方法でも考えてみることができないか、という自発的な反省が起こる


・別の視点に立ってみたり、別の根拠をあたってみたり、別の思考論を用いてみたりしてまた探求


何らかの発見がある


くりかえし。



哲学。こんな感じです。



え〜〜〜〜終わらないじゃん!!
じゃあ、ヨーガ「哲学」を教わったとしても、なにか「これが正解」「こうしておいたらいい」みたいな約束事を確実に知れるわけじゃないの?
「自分で反省して、また自分で考える」を繰り返ししないといけないの?



と思ったあなた。


そのとおりです。

(笑)



だから大変なんですよ、哲学するって。
変態のやることだとも思います(爆)




でもねみなさん。

生き物として自然のサイクルに従って、食物連鎖の中で調和を生きている動物たちと違って、

「思考するようになった」

という人間の定義とも言える「条件」を備えてしまった時点で、


すでに人間はみな、「変態」なのです。



あははははは。
自論です。気にしないでね!
そんな大きく間違ってないと思うけど(笑)。







思想と哲学の違い。というところに話を戻しますね。



とても似ている「考え」に関する両者なのですが、


上記の三省堂大辞林の意味と宮元先生の言葉の双方を合わせて考えてみると・・・


「思想」は、自分で考えたり、自覚や意識したものとは限りません。

私たち日本人は「現代日本」の思想に幼いころから馴染んでいることがほとんどでしょう。

そういうものを「文化」とか「習慣」とか「価値観」とか「流行」とか「一般常識」という言葉で代用されることも多いけれども、その根本には「もとになる思想」が漂っているわけです。


思想は、大地に流れている水の性質みたいに、その水が清ければそれを飲む人や生き物の体は健康ですが、水になにか混じっていたら、それを飲む者の体の状態は変わってきます。思想はそういう風に、人々を大きく巻き込んで、その状態に促したり留めたりする力を持つものとも言えます。



戦前は天皇が神様だったというのも当時の日本の思想で、疑う人は少なかったのではないかと思います。
(なので、天皇は本当に神なのか?などと考察して口に出したら、変わっている人と思われたでしょう。)


年功序列とか終身雇用が当たり前だった時代はそれがひとつの思想だったと思います。あまり転職などしないほうが全うな生き方だ、という思想を持つ人も多かった時代かと。


家事は女がするもの、もひとつの思想だし、結婚はお見合いでするものだ、という思想だった時代もあったでしょう。



バブル時代の思想もありましたよね。
高くカールして後ろに流す前髪とか、肩幅の広いゴージャスなジャケットとかww、あれが素敵に感じられた当時の思想です。
あの頃は「三高」とか言って、高学歴・高身長・高収入でしたっけ? そういうのが結婚したい男性の条件、みたいな思想がもてはやされたり(笑)。


いい大学を卒業しないといい企業に入れない、高収入は得られない、というのも思想だった時代もありましたね。


日本人だったらだいたいの人が神社に言ったら手を合わせますし、ポイ捨てはしないほうがいいという思想がきれいな日本の街を作っているし、「成人というのは20歳です」なんかもひとつの思想ですね。他の場所では違いますが日本だとそうなのです。


だいたいの日本の人は「生の卵」はご飯にかけて食べれると思っているし、心理的な抵抗なく実行するでしょう(笑)。
外国人によって死ぬほど勇気のいる行為であったりもします。そういう思想を持たないからですwww


多くの日本人が、もともとはインドから来た「カレー」という文化に、カレー自体もだいぶ日本風になったけど、さらに「福神漬け」っていう日本の文化を当たり前のように付け加えます。

一般化して習慣化してますが、最初のどこかの時点で誰かが

「カレーには福神漬けだ」

という思想を立ち上げて、それが大衆化したのであろう。
(大げさだけどそういうことw)



そこを哲学すると、

「本当に福神漬けがいいのだろうか・・・
きゅうりのきゅーちゃんだっていいはずだ。
いや、べったら漬けで行くと、どうなるのか・・・
まて、なぜそもそも漬物なんだ。漬けたものでなくてもいいかもしれない。
まてよ、カレーに何かを加える必要があるのか?
このすでにひとつのメニューとして完成したカレーに、さらになにかを添加したいという心理の原因はなんだ????
寂しさなのか?満たされないものがあるのか?
おかんがずっとそうやって来たものを見ていたせいか?
その原理はなんだ!?

・・・では、

カレーを、そのままなにも添加せずに食べることに、
喜びを見出せはしないだろうか・・・・。

・・・・

カレーとは、なんだ?」





めんどくさ!!!!
こんな人いたらめんどくさいですね!!!
変態ですね!(爆)



でもね、おもしろおかしく書いてしまったけど、
哲学とは「知に対する希求」なのですが、
その前兆として「当たり前に疑問を呈する」というステップがあるのは確かなのです。
でなければ「思想」の中でゆら〜〜と、慣れ親しんだことに守られて、変わることなく生きることだってぜんぜん可能なのです。



そして、福神漬けでいちいちこんな風にやってたら、もう頭ぐるぐるで日々が忙しいですよね。


なので、本当に自分が知りたいと思うことに哲学するというのが重要で、なんでもかんでも疑問に思って疑って、ということじゃなく、大辞林の定義のように「世界や人間についての知恵・原理を探究する」というシンプルなところに着地するのだと思います。


だからね、「カレーに福神漬け」はもう美味しいからいいよ(笑)。
その思想はそのまま成り行かせよう。
3世紀くらい先の人間に改めて考察してもらうテーマとして譲り、「当時の日本人には、カレーに福神漬けをのせるという思想が当たり前にあったのです」と言わせよう。



ただ、その疑問視や思考方法を、別の、もっと自分にとって存在の根幹に関わるようなテーマに向けてみようじゃないか。


福神漬けで考察したら最後に「なにも加えないそのままのカレーで喜び感じられない?」というところに来たように、“正しく” 哲学するプロセスを持つと、問題の本質であったり物事の本質のところまでたどり着くことができます。これが、心にとって大事なのです!

同じことに悩んでばかりの人は、これができないのです。



そして福神漬けの件で最終的に「カレーだけじゃだめ?」という地点に着地したように、最後に「本質的で正しい質問」にたどり着くことができます。


ここがすごく重要で、


「本質的で正しい質問」ができると、その時に「正しい答え」が(この世界に)同時発生するのです。


これが、賢者の思考方法です。


逆の言い方をすると、「的外れな質問をしている時は、正しい答えは(この世界に)発生しない」のです。

(*この件は大事すぎるので別でまた書きます。)




きゅーりのきゅーちゃんじゃだめかな〜、
べったら漬けだとどうなる?
漬物じゃないといけない?



とか考えていたあたりは「可能性を探る」ということには成功していますが、まだ「本質」に到着していません。
なので疑問と可能性の間を行き来します。
それはそれで楽しいこともあります。けっこう楽しいからこそ、ここで終わってしまう場合も多いです。
カレーに合う新たなトッピングを見つけられたら楽しいですもんね。



でも。

さっきの例えを使って「カレーに何かを添加」を「私に何かを添加」に置き換えてみてください。


(私が)これを持っていたら、いい感じかな。
(私が)これを買って身につけると素敵かな。
(私が)資格の勉強して取得できれば、有利かなあ。
(私が)旅行をたくさんできたら、幸福感増えるかな。
(私に)素晴らしい恋人がいたら完璧かなあ。
(私が)有名になったら気分いいかな。


みたいな。
確かにこの「可能性のプロセス」は楽しいかもしれない。
実際にそうなっても、そこそこ楽しいし物質的には満たされると思う。


でも、「カレーだけじゃいけないっけ?」

のところが、

「私って、なにか付け加えないとだめなの?」

というところにもし到着できるならば、


「そもそも、わたしってなんだ?」

という質問にまでたどり着くことができます。


このプロセスが哲学です。
宮元先生のおっしゃるように、自分の疑問や質問に「自覚的反省」をもって考察を繰り返すことができれば、最後に「本質的で正しい質問」にたどり着くことができます。








そして、


「そもそも、わたしってなんだ?」


これが、ヨーガ哲学のテーマです。

「自己」についての「知」を求める。

それがヨーガ哲学です。

ヨーガからあなたへの哲学的に正しい質問は

「あなたは、誰ですか?」

という、この一言に帰結するのです。



その他たくさんあった「質問」、それらも個人の人生や個人の経験にとっては大事なものがきっとたくさんあります。それはそれで大事にしつつ、ヨーガが投げかける究極の質問について、考えてみたいと思いませんか?


「あなたは、本当は誰ですか?」


自己はなにか、ということです。







あ〜長かった!!!

とりあえず、大事なところに到着できました。




思想と哲学の違い、というところから、ヨーガ哲学の本質的な質問までをお話してみました。


ちょっと時間を作って、自分がもうすでに持っていたり、無自覚に慣れている「思想」を考えてみるとおもしろいかもしれません。


そして、その中でも自分の「存在」とか、人生にとって大事なテーマに関わることであったら、「今までの当たり前が本当にそうなのかな」と「哲学」してみるとなお、おもしろいと思います。





長かったですね!!(笑)

Namaste
EMIRI