EMIRI MOROKA -HEART MATRIX-

師岡絵美里のブログです♪


2020年12月23日水曜日

EMIRIの『年またぎヨーガ』2020~2021年・年末年始のオンラインヨーガ企画

〜鍛えて年越し、清めて年始〜

EMIRIの『年またぎヨーガ』


年末年始は体を鍛えて心のパワーも高め、清々しく新たな一年をスタートしましょう。

12月29日から1月3日までの6日間、オンラインにて朝のヨーガ、筋トレエクササイズ、そしてヨーガ哲学のお話を毎日お届けします。

 

 

 ヨガスタジオがお休みになる期間のヨーガ練習を確保したい

 一年の終わりと始まりをヨーガ哲学で心を整えたい

 お正月太りを防いで体をいい状態に保ちたい

 どこにもGo toできないから家での楽しみを増やしたい

 この際だから休みの間にナイスバディになってやる

 

そんな多種多様なご希望に、EMIRIがごっそりお応えします。

 

 

<毎朝のレッスン内容>

・筋トレエクササイズ(20分)

 腹筋、腕と背中、下半身、とバランスよく筋肉を刺激するエクササイズ。6日間通じて毎日同じメニューお届けしますので、継続して出席していただければだんだんと鍛えられて成果が現れてくるのを感じていただけます。

 

・ヨーガ(40分)

 体をほぐして十分に伸ばしていく心地よいヨーガ。先に筋トレをして程よく体温を上げ、成長ホルモンなどを分泌させた状態でヨーガの有酸素運動をすると効率よく脂肪が燃えて、柔らかく強い体を作ることができます。

 

 

・ヨーガ哲学のお話(20分)

 日替わりでヨーガ哲学をお届けします。

 

 

・フリートーク(10分・参加は任意)

 お時間が大丈夫な方は少しお話ししましょう!

 

 

<朝の時間に出席できない場合は・・・>

その日のレッスンのアーカイブ動画を当日内(23:59)までご覧いただけます。朝の時間にオンタイムで参加できなかった場合にお使いください。

(オンタイムで参加できた方も含め参加者全員にお送りします。)

アーカイブ動画の閲覧URLはレッスン終了後、当日12:00までにメールにてお送りいたします。

■期間:2020年12月29日(火)〜1月3日(日)までの6日間

午前8:00〜9:30

*レッスン本編は80分、最後のフリートーク10分は任意でご参加ください。

*途中参加可能ですが、レッスンがスタートしてしまいますと講師も一緒に運動を始めますので、画面の操作上で「入室許可」を出すのに少しお待たせしてしまう場合があることをご了承ください。「よくある質問」コーナーもお読みください。

 

 

■受講方法:オンライン

・ご自宅などのヨーガがしやすい環境と、インターネット通信の安定した環境にてご受講ください。

 

・使用アプリケーション:zoom

お申し込み完了後にメールでお送りするzoomミーティングのURLにアクセスしていただきます。あらかじめ、当日お使いになるPCやスマートフォンにzoomのアプリケーションをインストールしていただきます。詳細はお申し込み者様にお送りします。

 

■参加料金:(6日間分のご料金)

2020年12月25日23:59までにお申し込み:5000円

2020年12月27日〜28日18:00まで:5500円

お支払い方法:クレジット決済(paypal)・銀行振込

 

☆ご家族特典

同居のご家族も一緒に参加したい場合は、お一人分1000円の追加料金をあらかじめお支払いいただければご受講して頂けます。

上記は同居されているご家族で、同じ端末画面でのご参加になります。参加人数が増えてもzoomのURLに接続する端末は一台でお願いいたします。

当日対応は出来兼ねますので必ず事前にお申し出ください。

 

 

■お申し込み期間

2020年12月28日18:00まで

  

■期間限定の特典:

2020年12月25日(金)23:59までにお申し込み頂けますと500円割引の5000円にてご受講可能です。


詳細、お申込みはサイトへ


スマホを捨てたい、という衝動について。

雑記コラム

スマホを捨てたい、という衝動について。

最近、スマホをもう持たないでいたいな、と思う時がよくあります。

実際は日々の生活でも仕事でも不可欠なものとして使っているのでいきなりぽいっと捨てたり解約したりということはできないのですが。まずもって連絡ツールとして使っていますのでね。


でも・・・ガラケーとかに戻りたいなあ、とか思います。
いろいろ機能を搭載したスマホが、そこにいるだけで「うるさい」のです(笑)。


20代初めの頃に、一人暮らしをしていた家のテレビが故障して破棄したのをきっかけに、それ以降私は自宅にテレビを所持していません。テレビがないってこんなに静かで、こんなに心が軽いのだなあと思ったものです。実家に帰省した時に当たり前にテレビがついているのに違和感を感じたのですが、それは自分の暮らしではなく親の暮らしの要素なので、文句や意見は言いませんでしたが、やっぱりテレビっていらないな、と思ったわけです。

うっとおしく感じるならテレビがあってもつけなければいいじゃん、見たい時だけつければいいじゃん、と思うかもしれないですが、いいや、そこにテレビという代物があるだけでいろいろ「発している」ものがうるさいのです。電源をつけていなくても、テレビは存在自体が何かを放送しています(笑)。ですので、それ自体がないことが重要なのです。

テレビってヨーガ理論の言葉で言うとすごく「ラジャス(激質)」な物質で、画面をオンしていなくても「ほーら、いつでも待機してまっせ、すぐに電波と情報垂れ流しまっせ」と「言っている」存在に、感じるのです(笑)。この件は、なにも私が神経質なたちだからというわけではないと思っています。というのもヨーガ先生仲間の多くはテレビなしの人が多くて、そしてテレビ自体の箱(筐体)が放っている周波数、テレビのある実家や友達の家などに行った時の感覚など、似たような感覚を持つことが多いのですよね。わかるわかる、と。人の家だからいいけど、自分の空間にはいらないよね、と。それはテレビがなくなって、ない生活に慣れてみないと感じないことかもしれません。


で。最近、スマホにそれを感じます。

見なければいいのですが、そこにあるだけで「放っているもの」や、その「可能性」がうっとおしいのです(笑)

あはははは!

可能性がうっとおしいって!!スマホなんて「可能性」を売っているようなものだよね(爆)!


 もうあなたは山にお帰り・・・

と、ナウシカに言われそう。



そのたくさんの可能性を便利に実現してくれるツールですし、スマートフォンって「その時その場でやれること」が多いのが最大の特徴であり人々に使われている理由でしょう。

でもそれが、私にとっては気を散らすものです。(みんなもそうかな。)

空いた時間や、ちょっとした退屈の時、気晴らしの時などにスマホを開いてオンライン状態になると、そういった「なんでもない思考空間」「余白」と言ってもいいかな・・その中だけで起こってくるアイデアやインスピレーションが、とたんにどっかに行ってしまうんですね。それは私にとってひどく重要なことで、スマホを開いて雑多に時間を紛らわしている時にインド思想について深く考えたりはできない。


他の人との共通性(スマホ持っている同士だとできること)などにこだわったり執着しますと、どんどん自分の「余白的思考空間」が情報ややりとりで埋まってしまうのです。


うーんやっぱり、

あなたは来たところに帰ったほうがいいよ・・

と千尋に言われそう(笑)。


なのでバランス取って、「要件のみに使っていたい」というところに今のところは落ち着いていますが、要件だけでいいならば、スマホではくガラケーでもぜんぜんいけるな、とも思うのですね。とりあえずは、スマホ内からいろいろアプリを削除したここ何日。必要なものだけに整理。



では今日も、スマホの恩恵に預かる1日を過ごします。


ナマステ

EMIRI







 



「人生はままならない」について


もう今年が終わっちゃいますね!!!
驚きの速さ。



今年は、年明けに中国でのコロナウイルス発生による「コロナの不穏」からはじまり、それがあっという間に「自分たちのこと」になり、コロナ以外も他にもいろいろあったはずなのですが、なんにせよコロナコロナだったように思います。


話が冒頭から逸れる感じになるのですが、私「ホラー」って苦手なんです(笑)。非常に苦手で、怖い話、ホラー映画、お化け屋敷や肝試しなど、可能な限り避けます(笑)。夏の稲川淳二とか遭遇したくないです。

(ミステリーは大丈夫です。ミステリーに「怖がらせる装置」としてのホラーが加わると難しい。心理的な描写として人間の怖いところが語られている分にはおもしろく読める(観れる)のですが、「確実に怖がらせるための装置(ホラー要素)」が苦手なのですwww 伝わってます?)



そんな私なんですが、昔、流行った当時の頃ですが、鈴木光司の「リング」の小説を読んでしまったのです。映画の「貞子」ですよ。
うぐうううううう、もう思い出すだけで辛い(笑)。
映画は観てないですし、今後も観ないでしょう。あんなのビジュアルにされたらたまったもんじゃないです。CMとか短い映像だけでもういいです。

映画独自の恐怖装置もすごいとは思いますが、原作は原作でもう!!!
昼間からチビリそうなくらい怖くて、読み終わってもだいぶトラウマになったのですが、でも鈴木光司さんという作家の物語構成力は半端なく緻密で、練りこんだ読み物が好きな私はその巧みな引き込み術にまんまとハマってしまったんですねー。普段はそんなの手をつけないのに、当時(学生でした)アルバイト先の先輩だっかた上司だったかに、

「これすごいおもしろいよ」

と勧められて・・・。


 怖い話は本当に嫌いなんですが、「リング」とその続編「らせん」に関しては展開がおもしろかったです。なんとか最後まで読みましたがもう二度と読みたくないです(笑)、こわすぎ。


で、「リング」「らせん」以降、鈴木光司さんに一時期ハマり、他の作品も読みました。(だい〜〜〜ぶ前の話ですけどね。)ホラーでない作品もあり、それこそ私好みの「輪廻転生」的な発想が主軸のお話もあったように思います。どれもおもしろかった記憶があります。


昔すぎて、なんというタイトルの本か忘れてしまったのですが、いくつか読んだ作品の中で、物語の最後の最後にあった「主人公の言葉」が深く印象に残っているものがあります。


その言葉は

「人生はままならない。」

でした。

話の内容は、たしか二十代くらいの若い男性の主人公が、個性的で魅力的なのだけど非常に依存体質な女性と親密になり、最初はいいのだけどだんだんと彼女の中に潜在していた執着や嫉妬で起こってくるいろいろな不可思議な事象・・・・、そんな感じのお話。(ざっくりだけど、なんかドロドロした感じなのは伝わるかな!笑!)


これも鈴木光司さんのテイストなので、単なる嫉妬とか男と女のサガ的なメロドラマが焦点ではなく、人間の心の中にある(とくに女性の)根源的かつ本能的にねちっこいところの手の届かないようなすご〜〜〜〜い深いところまでシャベルを差し込んで、わざわざ私たちに見えるかたちにして目の前に置かれるような話、という感想が残っています。
(これも怖いじゃん!w)


お話の細部や、最後の顛末などもはっきり思い出せないくせに、なぜか最後の主人公の、

「人生はままならない。」

という言葉だけ、とにかく強く印象に残っています。

言葉自体の印象というものではなく、そこまでの物語の内容をすべて「まとめた」視点として、その言葉が物語全体の風景になっている、そんな印象なのです。

いわゆるホッとして安心するような終わり方ではなかった気がするし、かといって極端に悲劇的で後味の悪い終わりでもなかったように思うのですが、「いろいろなことがなんとか収まって、一息つけたとき」に、その上でもなお感じるものが、


「人生はままならない。」


そこにに集約されちゃった。

という感じです。




ここまで書くと「なんて本ですか?」と聞かれそうですが、思い出せません(笑)。




そう、それでやっぱり「人生はままならない」わけですよ(爆)!

そこが話したかったのですが、さかのぼりすぎて「リング」からになってしまいました。いつだって前説の長い私。


当時私は、たしかハタチかそこらで、「人生のままならなさ」など本当の意味ではわかっていなかったのですが、それでもその当時なりの、若いからこその心の葛藤はあったし、知性が及ぶ範囲なども狭かったのですがその中でも「生きるってなんだろう」というような問いかけをもってたように思います。(持っていたと信じたい、ガキだったけど。)



やっと話が冒頭の冒頭に戻るのですが、今年はコロナコロナで、コロナウイルスがどうというよりも、どうやって生きていくべきなのだろう、今後」というテーマが、多くの人たちの心にのしかかっているのではないかと思います。「のしかかっている」と言うと重いのですが、実際そうだと思うのですね。


前回、映画「嫌われ松子の一生」という映画の感想や考察で(ブログで読めます)、孤独についていろいろ思うところをつらつらと書かせていただきましたが、「社会」とか「世界」というものに対する拠り所のなさ」というような気配が、個人的な孤独感や孤立感を高めているようにも思います。


もちろん、新しい生き方を前向きに模索するムーブメントも確かに起こっていますし、ライフスタイルを変えるいいきっかけになった、という人もたくさんいると思います。


しかし社会全体で見ると、前向きな発想を持てる人ばかりではなく、本当に心が辛くなってしまっている人も大勢いると思います。
前向きな人であっても、「楽観」しているから前向きという感じではなく、「人生のままならなさ」を抱えたそのうえで、目線をあげようと努力している人が多いのだと思います。


たしかに、人生はままならないのですよね。
なんの保証もない、と言っても言い過ぎではないと思います。


そうなると、物理的な生活手段とか経済に関することだけではなく、心をどうやって明るい方へ、そして健康なほうへと導きながら進んでいくか、というのを、じっくり考える必要がありますね。


今までもそういったテーマについて考えて来た人は多いと思うのですが、コロナショックとでも言いますか、今回の件でもうちょっと土台から考えないと、太刀打ちできないものを見てしまった」感があると思います。


つまり、

「私たちの社会は脆い」

という大前提のうえに生きてるんだ・・・という、一種喪失感にも似たような不安定要素。


これまでもいろいろとブーム的にもあった「ハッピーに生きるコツ」とか、自己啓発的なもの、それらが無駄とは言いませんし、自分が頑張れば成功や幸福を手にできるという発想、ポジティヴシンキングや心の持ちようによって幸福度はあがるという発想も、無効になったわけではないですが(あったほうがいいですが)、でも、自分だけがんばっても立ち行かないものであったり、日々の心持ちで気分を明るい方に向けることで短期的には乗り越えられても、払拭しきれない「全体の雰囲気」や社会構造、時代の波というものがあると思います。


かなり悲観的な言い方になりますが、脆い基盤の上に、窮屈に立っているのが今の私たちのように思います。


このような世界で生きていく上で、心の健康を失わずにいるには・・・




とりあえずですが、無理をしないことかな、と思います。

とりあえずな事しか言えなくてすいません(笑)。

(その先の提案はまた書きます。)



あまり無理をしないほうがいいと思います。


そして苦しい、悲しい、不安、そういった思いがもしあるなら、助けを求めることも重要だと思います。恥ずかしいことじゃないし、そうしたほうがいいと思います。

つらい、不安だよ、ちょっと助けてほしい。
そう言っていいと思います。




いきなり社会を変えることは難しいので、「とりあえず」まず自分を少し楽にしてあげるのがいいと思います。


楽になるうえで、それを阻むのは、これまでの固定観念だと思います。


止まっちゃいけない、休んじゃいけないとか、役割への固執とか、完璧にやらないといけないとか、みんな出来ているのだから私もできないと・・・、とか。

またはそれを他者(主に家族や近しい人かなと思いますが)に対しても適用させようとするのを、いったん辞めてみるという策はありだと思います。



そんなこと言ったらずっと仕事行かないわ・・・w

とか、

子供は学校行かなくなるよね・・・

とか、いろいろ出てくると思うのですが、


自分が思っている以上に、みんなけっこう葛藤し、社会の不安定さを無意識に吸い込んで、明るく振舞っているように見える人や健康に問題のなさそうな人でも、世間の神経質な空気を吸い込んでちょっと弱っている人が多い、ということを認めてみるといいのではないかなと思います。


自分に、そして他人に、優しくなる、ということかなと。

無理しないで、無理させないで。


「みんながみんなに優しくなれば社会はよくなるよね」なんて楽観的に言うつもりはなく、むしろみんなが優しくなったところにつけ込んでくるような悪意があるこの社会の闇は深いのですが(笑えない)、でもまずは自分を少し解放させて、これまでの観念から自由にして、もう一度エネルギーをチャージして歩み出すのがいいのではないかなって。




そんな事を考えて、伝えたいなと思いながら過ごしている日々、私はよく自分自身の祖父や祖母のこと、祖父祖母の世代を思ってしまいます。
戦争体験のある彼らを救ったものはなんだろう、とか、今の社会現象どころじゃない、もっともっと壮絶で地獄とも言える悲惨な世界を体験して生き延びた彼らは、この人生のままならなさをどう生き抜いたのだろうと。

それについてはまた思うところを書こうと思います。



とりあえず、無理せずに!

具体的な「無理」をひとつ手放して。


ナマステ
EMIRI