月曜17:00銀座。
というクラスを固定で担当しています、7月くらいからか。
前は夕方の時間帯のクラスは、子どもの帰宅時間の関係などから引き受けていなかったのですが、月曜に限っては子どもが夕方に習いごとに行ってる時間に自分のクラスをかぶらせてみた。試験的に。
仕事と家族の都合のバランス取りにくくなったらまた考えようということで。
でもこの月曜17:00銀座。
けっこう気に入ってる。
なんでかっていうと、私のクラスの後にYuko先生(後藤裕子先生)が担当していることが多くて、スタジオに行きますと先生に会えるのです。
前後の短い時間なんですが、先生と私の中でのその時々の蜜な話ができるのが楽しいひととき。
今日も。
Yuko先生、ヨーガ行をおさめにここ数日間スタジオは留守でいらっしゃり、しばらくぶりのご帰還。
その間にあったことや感じたことなどを聞かせてくれました。
感性的な言語で話しをしていたので、それを一般的な言葉でここに書いたりできないんですが(秘密って意味ではなく、言語の技術的に)、
「(本来の)知覚」と[chitta vritti(心の動き)]の話をして、むむむとうなるほど洞察がすすんだ時間を持てました。
Yogas chitta vritti nirodhah (yoga sutra1-2)
と書いてありますわけです。
心の動きとめまっせ、それがヨガやん。
ってね。
今日先生と話したうえでわたしが感じたことをかいてみると、
純粋意識から伸びるであろう本来の触手である知覚は、本来なんでも知覚できる。
同じく純粋なる五感(パンチャインドリヤ)は本来純粋であるが、
純粋であるがゆえに(奔放さも含め)、外的要因(香とか音とか色とか、つまり五微細元素パンチャタンマートラ)へ過敏に赴きつづける。
五感はもともとそっちを感知するようにできてるから、そっちしか興味ない。
「純粋なる知覚」はその間、いったいなにをしているのかというと、
なにもしていないにひとしい。
「ない」に等しい。
それが一般的に、人間の粗大なるレベルの常でもあるんだけど。
五感は移り変わるものしか感じることができない、それは知覚ファミリーの中の小さな子どもたちのようなもの、の気がします。
大いなる知覚は、移り変わらないもの、グナじゃないものへと知を向けることができる。
つづく・・・
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