EMIRI MOROKA -HEART MATRIX-

師岡絵美里のブログです♪


2018年8月2日木曜日

悪とは。スワミサッチダーナンダ師とヨガナンダ師の教えからの考察


オンライン講座のお知らせ&ヨーガ哲学コラム


こんにちは。EMIRIです。


ここのところ何度か、ヨーガ哲学のワークショップや、自分の担当クラスの前後、そして先日の音楽&ヨガのライヴの中でもシェアしていたヨーガのグルの教え。



それは「悪とは」

というお話。



ずっと読んでいるスワミサッチダーナンダ師の講話集から。

「究極的な力のほかには、悪もなければ善もない。ただものごとへの近づき方に、いろいろな角度があるだけだ。」



これに続き、



「困難やトラブルのすべてが、形を変えた祝福だと言われるのは、そのためである。
(中略)
それらの経験の隠れた目的を知り、それらを受け入れるなら、われわれは決して他者を咎めないだろう。」

と。

そしてこの後のくだり、


「では悪とは何か?

”間違った場所に置かれたもの” である。

ーーーーゴミのように。

間違った場所に置かれた正しいものは一種のゴミであり、

それは掃除される。

神の力は同じである。それは善くも悪くもない。

それは電気のようなものである。

電気は聖なるものか邪悪なものか。

電気は中立である。

それは”ただ在る”。

しかし近づき方一つで、恩恵にもなるし罰にもなる。』



と。(「自己を知るヨーガ」より)




私たちを取り囲む世界(世間)は、

物事を良いか悪いかで見る目線に溢れています。

一見中立そうに見える情報の中にも

根底にはなにかしらの正義をかざしたものが多く

どこか「ある一方」からしか見ていないものが多いと感じます。


「正義」はそれぞれの主観で変わるもので

その「拠り所」を決め込めば決め込むほど

多様性を持たない硬い斧のようになり

物事を強打できる武器にもなります。


そうやって破壊的にフォースをかざしてしまうと

最初は「善なる正義」だったものも、

ある別の一方から「悪だ」、と、その主張の斧で叩かれる。



それは個人的な生活の中にも、

国や社会に広がっている集合的な認識にしても、

あると思います。



ヒンズー教の聖典「バガヴァッドギーター」を読んでいると

そういった事柄に自分なりの視点を探求することや、

常に自分自身の盲目さを疑い、視座を更新していくというような

高度な洞察を要求されることが多く

何度読み返しても、自分の内面の弱点や癖に気付かされたりします。


悪と正しさ。

ひとつの観点でだけ決めてしまうとなんの創造性もなくなってしまう、このふたつのフォースを、

グルは、

『間違った場所に置かれた正しいもの』

と表現されています。

そうだなあと思います。


置き場所を間違えた「良いもの」は「悪的」になってしまう。

その「配置違い」はジャッジの対象とされ、

それは悪だ、と排除される。




では置く場所、配置を間違えたことが悪なのか。

そんなことはないと思います・・・。


神様は、全体像が完成したパズルを私たちに託したのではなく、


「どんな絵になるか」


という経験を与えてくれている。




私の大好きな、ここでもよく紹介しているパラマハンサ・ヨガナンダ師は次のようにも言っています。




悪とは、本当の喜びが欠如していることです。

それが悪を悪たらしめていることです。

(中略)

悪は、人が内なる喜びを得ようとするときに登場します。

そして私たちを、あの神なる喜びから引き離そうとします。

なんであれそれが悪なのです。

それは私たちの本来の姿から、人生において本当に望んでいるものから、私たちの意識を引き離します。

それゆえに悪なのです。』




このくだりでは、ヨガナンダは、内面的な悪についてを語っています。

心のありようの中で起こる

「本当の喜びの欠如」

を指しています。

それを自分の心の中で見出そうとするときに、

同じ自分の心の中で起こってくる、喜びへを向かわない感情や欲求。





本当の喜びとはなにか、それは自分自身の内面の神性に気づき、

そこに寄り添い、

その中でやすらぐことのように私は思います。




神というのは、言葉でいうと特定の宗教的イメージが限定されるかもしれませんが、

スワミ・サッチダーナンダ師の言葉を借りると「究極的な力」であり、

それは自分の中の深いところでしか見出せない

自己の核みたいなものだと思います。


自分の内面を探っていく作業は、

外界で起こっていることに触発され、助けられ、進んで行きます。

なので、外界に対してもジャッジできることなんて

ほんとはなんにもないですね。






物事の見方において

善か悪かの二元に頼らない視座を持ち、

「一体なにが起きているのか」を見て

そして見たところでそれをジャッジすることを目的としていない

 ただ見る、ただ知る

それが感情と理屈を超えた、

神さまと一緒にこの世界を見ている目とも言えると思います。



そういった心理的態度は、人間の心という不安定で

たくさんの矛盾がいっぺんに起こるフィールドでも

なんとか見いだせる、

「愛の目線」なんだと思います。




自分も人も物事も、いろんな要素でできあがっている有機体。

それを、良いか悪いかだけでジャッジすると

結局、狭くなるのは自分の心で、

狭い箱の中に硬いものがたまっていく。

心が、固定化された観念や感情でぎゅうぎゅうになっていく。

対象が、創造性を欠いた単一の出来事にしか見えなくなる。



それは避けたいですね。

思っただけで苦しいです。


どんな事柄の中にも、クリエイティヴな発展性があるはずで、

自分の近づき方次第なのだと思います。



だから簡単にジャッジしたりしないで、

決めつけないで、

そこで何が起こっているのか

自分の中で何が起こっているのか

それを曇りない目で見ていたいなと思います。






ヨーガの哲学に触れると、人生の捉え方、

物の見方が変わっていきます。

それは一回の変化ではなく、

より広く深く更新されるべきもので

終わらない学びがそこにはあますね。




こういった内面的な作業をじっくりやってみたいかたは、
ぜひオンライン講座もチェックしてみてください。
今募集中のものは、どちらのコースも上記のようなグルの言葉を得て考察する内容が含まれています。



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・ヨーガ哲学の理論と実践・6ヶ月集中コース
詳細はこちらから
割引キャンペーン実施中です!

・夢を叶えるポジティヴ人生ヨーガ・グルの言葉とともに」オンラインヨーガ講座
詳細はこちらから
期間限定割引キャンペーン:
38,900円→19,000円(初回限定割引価格)
2018年8月4日 24:00締め切り

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


今日のコラム内で引用した書籍はこれです。

どちらも私の愛読書です。

画像をクリックするとアマゾンのページに行きます⭐️










感謝をこめて
EMIRI

0 件のコメント:

コメントを投稿