EMIRI MOROKA -HEART MATRIX-

師岡絵美里のブログです♪


2016年7月22日金曜日

癒し、だけじゃない島。ブラックマジック。


先日バリから帰国したばっかりだけどすぐにQuanでワークショップがあって、ワークショップ後にたくさんの人にブログ楽しみにしている、いつも読んでいる、という声をもらってすごく嬉しかったし励みになりました。

ありがとうございます。


滞在先の家からの景色



バリで体も精神もかなりで使っていたんだと思います。
帰国してからすぐレッスンやリハーサルでなんだかんだ動いているので、たくさん寝て回復に努めました。

バリでいろいろなことがあって、書き留めておきたいことはあるのですが、まだ言葉になっていないものがほとんどだけど、自然に芽が出てくるのを待とうと思います。


そんなこんなで書きたいのだけど睡眠大事・・、という数日だったんですが、


その中でもひとつ、記憶と感覚が鮮明なうちに書いておきたいな、と思っていたものがあります。




バリ島のブラックマジックについて。




バリのブラックマジックについては、ここで説明すると長くなりそうだし私自身がたくさん理解してるわけじゃいので、別サイトとか検索してみてください。いっぱいエピソードが出てきます。



バリ島という摩訶不思議な土地の、思いっきり摩訶不思議な部分。


マジック。それも、暗い方の作用を起こさせるマジック。


どうやら、バリにはバリ独自の力学が働いているようです、確実に。




ブラックマジックについてはバリ当地の友人たちからも聞いていたし、
私が昔よく行った西アフリカの地方にも同じようなものはあったので、
バリ島ならではのものがきっとあるんだろう、と感覚的にはわかるなと思ってたんですが、実際に感じることまではなかったんですね。

でも今回の旅では、その「実際」みたいなものを、ごく浅いレベルですが垣間見たように感じます。



ジュリアロバーツの出演している映画「Eat Pray Love」(邦題「食べて祈って恋をして」)のバリのシーンで、バリアンのクトゥが、”バリ島は神々のような高い意識と人間の根源的な欲求(煩悩)が混ざるところ”、というような意味のことを言っています。
ピンポイントみたいな場所なんでしょう。



私が感じるのは、バリは、
すごく低層な世界と高域の世界が、地面に近いところで混ざっているのをいつも感じます。
そういう意味では、日本の「妖怪」の感覚と近い感じ。

神々しい方では、似たものを京都で感じたことはあります。

でも京都は「神さまが地上近くに垂れ込めてきた」感じで「神様が重い・・・ずっしり・・・」、みたいな感じなんだけど、

バリは・・・

神々の島でありつつ、地層から湧いてくる混沌とした欲望の勢力もすごく強い、それがバリだなあ、と。

ほんの少し瞑想するだけで神を感じることもあれば、邪悪なもの同室で寝ている可能性もあるところ。


すごい島だな、といつも思います。


これまでのバリの旅は皆、観光客やヨーガリトリート用に整えられていた場所にいたので、ある意味「マイルド」なところにいたんだと思います。


今回は、人の家にいました。

バリ人とともに毎日過ごしました。

外に出てもとりあえず田んぼと民家だけ、というようなところで過ごす時間がたくさんありました。

毎日、村のお祭りの練習なのか、マントラを唱える声が近隣から聴こえてきました。

そうは言っても外国人向けの一軒家なので、本当の意味での民家ではないのですが、それでもね、バリ人たちの生活の息づかいに近いところにいて、ホテルのステイとは全然違うものを感じて帰りました。



毎日見つめた夕日


村のセレモニーを見せてもらったり、バリの人々の家の中に必ずある寺院を見学させてもらったり、お祈りを一緒にさせてもらったり、
彼らの「営み」にほんの少しお邪魔させてもらっただけなんですが、

なんかね、重い!!!

嫌ってわけじゃないですよ、基本好きなんですよ、そういう根源的な世界って。

でも、重い。

のです。理解できる重さ。

あの場所でエネルギー体として生活を営んでいくために、日々の祈りの行為がどれだけバランスに貢献しているか。




自分がブラックマジックを受けてしまったわけではないのですが、

「そういったものが機能する営み」を感じました。

バリだからこそ、あの低層の霊たちもうようようごめいている「ゲゲゲ」な世界だからこそ、、

ありえちゃうんだな〜〜〜〜!マジで。

と思った!本当に。




日本では、(特に都会では)波動が雑多すぎて「呪い」が入るスキがないでしょう。それだけみんな、別のことで忙しい(笑)。
ある意味、都会的・日本的なマインドの壁があって入ってこれないでしょう。
人々が完全に信じて同調していないと、集合意識に作用しないだろうからね。

(ま、その代わり日本特有の精神的な問題があるけどね。)



次にバリに行く時は、改めて心の体を強く清くして、
マントラを忘れずに、胸張って行こう、と思った。

ある程度は精神の強さと心の軸の強さ、スキのなさではねかえせる場合もあるらしい。

そして、やっぱりサンスクリットのマントラは、ここでも治癒や武器になるそうだ。

心していこう。



2016年7月21日木曜日

MASAくんの屋久島リトリート、そして新作「ONE」


前回のわたくしのバリ島リトリートでアシスタントをしてくれたMASAくん。8月に屋久島でリトリートをします。
自然の中の清い波動を満喫しながら、心を休ませながら、
じっくりヨーガできそうですね。
オススメです。
環境を変えて、自然の中に身を置いて、エネルギーをチャージしてください。

まだ受付OKのようなのでシェアしました。
ぜひチェックしてみてください。

https://masamura-suzuki.squarespace.com/retreat/#/yakushima-retreat/




そんなMASAくんと、同じくダンサーの羽生田早穂ちゃんと、
本日ダンスリハーサルしてました。

8月7日(日)、浜松町カラバッシュにて「地球ファンタジアvol.2」やります。



今日は、新作「ONE」というダンス作品を作りました。


すごくゾクゾクするものができましたよ。


ヨーガ哲学好きな人にも見て欲しい。

プルシャとプラクリティを目に見えるところに出してみた感じ。



意識の中の「観るもの(一元)」と、「心」。

心を反映する「声」。

光と影、男と女という二元の絡み合い。


羽生田早穂さんが「声」、

MASAくんと靖世ちゃんが、陰・陽、心の動きを演じ、

私は、心の動き(二元)が動きだす最初のきっかけとなる「トリガー」を演じます。

楽しみにしていてください。

8月7日(日)です。
予約受付中です。






2016年6月23日木曜日

ギーター。幸福の中にいる幸福。



先日、自分がいつも担当しているLAVAのインストラクターさんたちに向けたヨーガスートラ講習とバガヴァッドギーターの講習に、

QuanYogaの恩師・後藤裕子先生が遊びに来てくださったのです。

楽し嬉しかったな〜〜。


ヨーガスートラは継続して長く教えてますが、インストラクターさんへの講習としてバガヴァッドギーターを取り上げるのは実は久しぶり。


裕子先生と、時期や参加する人たちのそこまでの歩みを図って、そろそろやってみようか、となったのです。




一人で読むのと、自分がグルの師や先輩の元で教わるのと、
自分が他の誰かに紹介や共有をするのは、
どれも素敵な時間ですが、それぞれに大きく違った作用があるように感じます。


自分で教える(と言ったらおこがましすぎですが、紹介する)のは、
自分自身を見つめる作業としても、かなり濃厚です。


教わっている時は、それこそ小鳥のような気持ちで教えを受けていることができるわけですが(笑)、
自分がみんなを少しづつリードしながら、読み進めたり、解釈を紹介したり、自分の見解を話してみたり、ということをしていると、


時々、話している最中に、


圧倒的な沈黙が心のもっと奥の方から迫ってくるのを感知します。


グルの心なんだと思います。

会ったことはなくても、もう生きてない人でも、

ヨーガを為してきたグルたちの、優しさの体現のような心が

私というアイデンティティーを溶かしながら広がってくるんだと思います。



これは、バガヴァッドギーターの時によくあるように感じます。


それでもうね、
「これを言葉になんかする必要ない」という

本当に圧倒的な諦めと安堵が迫ってくるんです。

そこには、まだまだ「話したい」自分とのギャップはあるんですね。

でもそのギャップに

「自分の言葉じゃない言葉」

みたいなものが流れ込んでくるのです。


それはとても幸せな時間で、
「私」ていう自意識をそんなにぎゅうぎゅうに持っていなくても、
ちゃんと「私」を生きることができるんだな〜
と思ったりします。


思想や古典の紹介したり話したりすると、
自分の中の成長とか過去の洞察とは違う変化なども向かい合うことができ、猛烈に濃厚な時間になります。


そういうのが、話し手にも聞き手の中にも深く深く起こっていくのが、ヨーガ思想の面白さ、幸福、だなあと思います。


裕子先生と

おもしろいね〜〜〜

おもしろすぎるよね〜〜〜

とワクワクしていた時間が、もっとも「おもしろかった」かも。笑

なんかもう、本当にギーターって、すごいんだよね〜〜〜。

いつ読んでも、驚くべき真理。








2016年6月8日水曜日

ダルマについて思うこと。


哲学の講習をしているとその中で、

「自分のダルマを知りたいです」

という風におっしゃる人が多いです。

その気持ちわかります。

ダルマは文脈によって色々な解釈ができるので、一言に言いにくいのですが、法、義務、摂理、場合によっては役割という感じなど、

確かに自分のこの世での役割や、言い方によっては使命みたいなものがわかったらと思う気持ちはわかるのですが

でも「わかろう」としてつかみ取れるものかどうかというと、なかなか意図してそうはできない気がします。


マインドはすぐにドラマを構築する癖があります。

その心の動きは曲者。

自然の摂理に「欲」は通じないから、

マインドで生成したドラマはあんまりうまく機能しない。




自分のダルマは、

 一生懸命に生きてみてること

 結果への期待を放棄すること

これらを同時にやり続けていると見えてくると思います。



でも・・・

そうやっていって”実際に”見えてくることは、


一生懸命に生きてみてることと結果への期待を放棄することそのものが、ダルマなんだなと感じる

(笑)!!!



「方法」だと思っていたこと自体が、存在意義であり目的だった。


だからこそあれこれ考えていた時には、ツールと目的の「誤差」ばかりが気になったんだ、と気づきます。


生き方が中途半端だからすべてが「途中」であり「未然」な感じがしていただけで、

なんであっても本気で生きて本気でやってみれば全てがダルマに叶う。


そう感じます。


だから「やりたいこと」を無理に探したりする必要はないと思うし

使命とかを探すよりも、

今を一生懸命生きて、心を開いていることの方が

ドラマチックな使命感で何かをするより「自然」だと感じる。



梅雨時期に入ったのか、気温も上がってきて

うちのベランダのコンクリートの隙間のわずかな土から

いろんな草がおもむろに生えてきました。

それが何の役に立ってるかわかりません。使命とかもわかりません。

でも、見ていると心が洗われます。

人の存在のそもそもってそういう感じじゃないかしら。

ダルマって、たいそうなことじゃなく

純粋に生きることなんじゃないかと思います。



い〜〜〜こと言った。
自分が好き。


EMIRI





2016年6月6日月曜日

心のおじいちゃん、佐保田先生。


昨日は、

ヨーガ哲学ティーチャーズトレーニング、初の「発展コース」を実施しました。

参加人数は程よい人数で、全員と対話できるいい人数だったこともあり
落ち着いた空気の中で学びを深めることができました。


発展コースは「入門初級コース」とは教材を変えて学習することも目的の一つです。

最初はまず一冊の解説本を大事に読むのがいいと思うのですが

段階が進んできたら別の解釈者の言葉にも踏み込んでみると

新たな角度であったり、または自分の思っていたところとは逆の見方など書いてあったりと、

それはすごく学びになります。

それぞれの歴代の注釈・解説者が「違うところ」に行きたいわけではなく、皆目指すところは同じななのですが

それぞれのグルの「視点」を通じてこの現象世界を見てみることで

自分自身の付着した色眼鏡とも言える心のフィルターを一枚一枚はがしていくことができますね。

昨日のコースでは、佐保田鶴治博士の「解説ヨーガスートラ」を使用しました。


この教材をつかえたこと自体が私にとって本当に光栄なことです。

もちろんいつでも使っても構わないものでしょうけど、でもね、自分の中で機が熟してきて、
佐保田先生の言葉を人に伝えるための私個人の精神力や準備ができたような気がしたのです。


佐保田先生の本は独特な語り口があり、日本語も決して簡単ではなく、
インド思想のみならず世界の宗教、とりわけ仏教の知識が豊富なので、ヨーガサンキヤと仏教との比較もことあるごとに出てきます。
私自身はそれほど詳しくない仏教用語がたくさん。

それでも、私自身のインド思想ヨーガ思想への理解が深まってきたので、佐保田先生の伝えようとしているところの「骨子」を見つめていられるようになったような気がしています。

自分の経験で一つ良かったなあと思うことは私自身は学生時代に日本の古文を専攻していたのと、オタク的に好きだったことで、
佐保田先生の日本語にも馴染みが早かったことです。
そういう一種古めかしい日本語が「大好き」だと感じること(笑)。
これはちょっとフェチっぽい感覚です(爆)。
でもある意味アドヴァンテージかもです。

結局、母語が理解できないと、読めないですからね。

学生時代の勉強は「好きだから」やってただけで、それが今の仕事や探求につながるとは予想してませんでしたが、何がどう功をそうするかわかんないですね。
そういう意味でも、好きなことは何でも学んでみたいなと、
まだまだ欲があります(笑)

あ〜、佐保田先生。ありがとう。日本にヨーガの真髄を伝えてくださったグルの一人。
生きておられたら、どんな風に今のこの世界を語るだろう。
そう思います。

肉体がなくなるのは、人間なのでやはり絶対的な恐怖の対象ではあります。頭ではわかっていても、身体が果てることは人間にとってはいつでも怖れを起こす原因になります。
賢人でさえも持つ、生命欲。

でも、この体を卒業して一つのソウルになった時、
佐保田先生のようなグルの魂にも肉体という制限なく会えるのかと思うと、それはそれでちょっと楽しみでもあるのです。

ずっと先生の本を読んでいると、自分のおじいちゃんのような気がしてくるのです(笑)
すごい親近感なのですが、この親近感こそが私のヨーガへの理解を深めてくれる一つの大事な要素でもあるのです。


鶴治おじいちゃん、いつか彼の地で会いましょう。
その時は、本にサインしてね。


日本の偉大なグル、佐保田先生に、瞑想します。


感謝。


2016年5月29日日曜日

Masaくんダンスとその他大事な話。


Masaくんダンスを観に行って、

とても楽しかった。


Masaくんダンスはまた一段と表現がはっきりとしてきて、

自分の表したいことと身体のリンクが色濃くなっている具合が見ていて心地よかった。


(先日の京都と同じく、)例によって楽しさと居心地良さに浸ってしまい、写真撮ってない。。。(笑)
う〜〜ん、後からちょっと後悔するね(爆)
みんなに見せたいけどない。

今度から、撮ろうと思った。







さて、次元上昇について。

そろそろもう一段上がりまっせ。全体的に。

そう思います。

前回の記事で、あえて情報を引き受けてそこで自分がどうあれるかを感じている日々なのですが、

世界で起こっていることがらはそれぞれに別々に見えても、

全ては何かしらの「原理」が働くことで起こっています。

ヨーガの目とはそういった「原理」を知る目でもあると思っています。

全部「ドラマ(幻想)」には違いないですが、

人の意識内で起こっていることは確かです。

そのドラマが起こる原理を見ることで、

一見別々に見える世界の現象の中に

自分自身の越えるべき「何か」が見えてきたりします。

世界は見方によってはひどいです。

でもそれは見方で、誰かの作ったゲームのルールに心を絡め取られている限りは、翻弄されるままですね。

思い込みのルールを変えていこうといつも思っています。

そして規定外のことであっても、自分のハートがそうだと言うのなら

清く明るくスカッとやってしまえばいいと思います。

それには日常的なところでいつも心の清さを保っているベースが必要なので、だからヨーガはいいと思います。




Masaくんと瞑想in Bali Ubud 2016

2016年5月26日木曜日

尊厳のある世界を求めて



コラムです。

狭い空間に物質の構成密度が濃くなると、複雑さが生まれてくる。




狭いスペースを共有するためにはくっついてまとまっている「愛着」が必要になり、共感と共有が求められる。




ヨーガスートラには、憎悪と愛着(執着)が煩悩(葛藤や心の不調和)を生むと説きますが、




日々生きていると本当にそうだなと感じてしまいます。




愛着と憎悪は同じものだと感じます。




ヨーガの練習は実際には心の鍛錬ですが、




心地よさを感じるものや好きだと思うものに「関わりながら」も「くっつかないでいる」のが最大の練習事項の一つだと思います。




人は愛着が強くなると、愛されない自分に我慢できなくなったり、それを失なうことや、または独占できないことに我慢できなくなってきます。




仕事も人間関係もすべてに言えるけれど




それらに心を込めて関わりながらも、


それらが自由であることを前提にしていられると




自分も「愛着」から自由でいられる。


憎悪を持つことなく。




そういった心の修行を、「難しい」と思わずに取り組んでみる人が増えたらと思います。




最初は難しく感じるだろうけど、




でも経験的にわかるのは、だんだんいい意味でどうでもよくなる。




自分が大丈夫になる。




しがみつかずに、開けば開くほど、受け取れる愛も大きくなるし、また返せる愛も大きくなる。




人には、その人がその人なりに生きて行く自由がある。




尊厳ということをいつも念頭に置いておくことができれば、




本当の意味でやってはいけないこと、人を傷つけるとか権利を奪うことなどはしなくなります。







私はかれこれ15年ほど、テレビを家に置いていません。




5年くらい前までは、テレビが家にないことで、悲惨なニュースや、果てしなくひどいことに関する情報(つまり低次のエネルギー)はあまり入ってこない、もしくは得る情報を自分で選択する状態で入れました。

それはある意味私個人の精神的修行過程で大事なことであり、そういう時期でした。

その間に勉強に集中したり、自分自身を見つめることができたし、小さい子どもの子育てにも時間が必要だったから。




しかし、本当にここ数年の感覚ですが、

テレビという媒体の独占的な影響力は加速して弱くなり、

テレビなどなくてもインターネットなりで自ずと情報がどんどん入ってくるようになりました。

もうそれらのエネルギーを選別するのも難しい。


でもこれも私にとっては段階が上がった鍛錬であり、低次のエネルギーをシャットアウトすることで自分を清めた時期から、次は情報(雑多なエネルギー)が入ってきても耐えられる自分や浄化的に対処できる自分でいる時期に入ったのだと思いました。

そしてさらに段階を上がれたと感じたのは、
自分からそういった情報に向かっていくことや摂取することがある程度可能になったことです。
自分から見に行って、現実を知り、平常を保ち、できることをする。そこに感情的なものが動かないかといったらそうではなく、人間なので動きます。
いろんな気持ちが自分の中から発掘されます。
それもそれとして、あるがままを見て、生き続ける練習。



未だにテレビこそ家にはないですが、入ってくるニュースなどには自分なりの「考え」を持つように、高い波動で受け止めるように心がけています。



聞いているだけで苦しいニュースはたくさんある。


でも、嘆きや悲しみではなく、


じゃあ何ができるか考えてみて、嘆かない。


嘆いたらそこで負けだと思うから。


ゲームオーバーで、負のエネルギーに心を絡め取られる。




私たちは、心を開けばみんな愛の戦士だと思うんです。




「よい世界」ってなんだろう、と思いますが、

それは「尊厳」が保たれている世界なんじゃないかと思うのです。




そんなことを思います。


がんばろう!

何かできることがあるはずだし、ちょっと疲れたら休めばいいし、そしてまた前を見よう。






Namaste










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