EMIRI MOROKA -HEART MATRIX-

師岡絵美里のブログです♪


2019年11月27日水曜日

死と心の病について考える


死と、心の病について考える



ご存知の通りですが私はヨーガ哲学を伝えています。


それは「真理」と言うものを扱うとても壮大なものなのですが、真理を考えるうえでどうしても通る道というのが「心理」なんですよね。


心理は、心の理(ことわり)で、いわば心と言うものの原理や働きについてです。


ヨーガにおいては身体論=精神論という感じで双方が離れていないので、心を知るというのは体を知ることであり、体を知るということもまた心を知ることにおのずとなります。




・・・死と意識・・・


私は日常的に、「死」と「意識」について考えています。


そこだけ聞くと “大丈夫かこの人?” と思うかもしれないですが(笑)、このふたつの概念や実際というものを考えることは生きていくために必要なことだと強く感じています。


「死」のことを日常的に、正気のうえで考えて、想像し、また考察するということを行うには、なんと言いますかある種の図太さみたいな、そのテーマに負けない身体的精神的なタフさと、追い込まれたり持って行かれないマインドが必要だと感じるのですが、その強さを養ってくれているのが、まさにヨーガ哲学とヨーガの身体論だと感じます。

そして私の、おそらくは持って生まれた「生きることへのポジティヴさ」があって成り立っている作業だと感じます。


変な言い方に聞こえるかもしれないですが、生きることにポジティヴだと、死という概念に対してもネガティヴさよりも「きっとそこに何か真のものがあり、それは忌むべき悪いものでは決してない」というような、“何かを見いだせる”というスタンスが同梱されるではないかと思います。


(大丈夫、あぶないことは言ってないです私(笑)生きるの好きです!!
 誤解されないように言っておくwww)



他の多くのテーマと同じように、あるひとつのことやそれにまつわる事を考えるとき、それについての「知識」なしで考えてしまうと、空想(妄想、間違った推測)のパワーに持って行かれて、考えている側の心がやられてしまいます。これはテーマが変わっても同じこと。



私の場合は、生死観というものを宗教的・思想的、そして身体的に、古代のヨーガから受け取れた理論があるので、「空想」では逆に自分が取り込まれてしまうようなディープなテーマを客観的に観る強さが養われたように思います。



それでも実際に、身近な人や親しい人に死が訪れたら感情は確かに大きく揺れるでしょうし、制御下に置けないような感情も湧くでしょうけれども、それでも「死と意識」について何も知らない状態よりも、心の置き所は見出しやすいだろうと思います。







・・・生きるという命題の中の心理・・・


死と意識。

その間に広がる世界が、心理、心、なんですよね。

つまり、肉体のある人生を生きるという命題です。


実際には死は、定義によって何を死とするかが変わってきますが、その定義を与えてくれるのが「意識」についての理解だと感じてます。


まあこんなことをツラツラと書き出したきっかけというか動機は、今急に思い立った訳ではないでのすが、ずっと「自殺」と「鬱」というものについて、その「理(ことわり)」考えてきたからなんです。


昨今、自殺は珍しいことじゃなくなってしまいました。鬱もです。
もっというと「心の病気」というくくりに入れられている、一概に原因やその原理があまり理解されていないものに対してです


ただとてもデリケートな話なので、人によって様々な受け取り方があることを思うと、考えつつもそれを公に話すということはあまりしてきませんでした


しかし先ほども述べたように、自殺も、鬱も、心の病気なるものも、全く珍しくない世界になっています。





・・・知は照明・・・


「心の病気」と言うのはかなり曖昧な言い方なのですが、「思考の極端な偏り」だと一旦定義したとします。(あくまでも一旦です。)極端な視野の狭まりとも言えるかも知れません。

個人においてもまた集団においても、思考が極端に偏っていくと、悲劇的なことが起こってしまい、それは頻繁に目の当たりにすることができます。

避けられる可能性のあった心と命の悲劇とも災難とも言えるような結末に触れるたびに、「知識があれば、もし知っていればその心の流れに飲み込まれずに、心と体のある人生を保護するすべや救済があったかもしれない」

と、思うのですよね。


そして知識があれば、そういったコンディションに陥ってしまう人への偏見もなくなるだろうし、自殺をする人や鬱になる人を「心が弱い人」という範疇にまとめたり、「自分でそうなった」というような責任話でオチをつけたりしなくなるし、例えばですがドラッグや麻薬などに飲み込まれてしまう人にも、単に「意志が弱い人」「コントロール能力がない人」と決めつけなくなると思います。

(この辺りについては、社会構造と身体の生理現象への理解考察が必要だと感じてます、心のために。ヨーガ的な観点からの思うことはまた別で書きます。




死と意識の間に横たわる広大な「心理」の世界とは、つまり因果と縁起の世界で、それぞれの事物の「関わり」によって作用が変わってきます。その関わりは社会と個人、個人と個人、個人においての心と身体、という風に、いくつもの層を作って、全てが相互作用をした上で最終的に、目に見える層の「作用」が現れてきます。



例えば霊魂とでも言うような個人の主体から、物理的な肉体に至るまでの「いくつかの存在の層」を貫いて働く「心理」があるのですが、それぞれの層で起こる作用をひとつづつ分解して見てみることも必要だし、先の層に進む前に食い止められたり変容できる手立てもあります。


逆に「不可逆」の領域まで作用が進んでしまうと、その時点ではもう「幸福」や「楽」の観念が、通常の一般的な思考におけるところから次元をまたいでしまっている場合があり、本人にとって「心の放棄」や「死」は、こちらが思うような悲劇でもないところへ行ってしまいます。



また、層ごとに働く作用が全てつながるとどうなるのか、というような総括的な観察を持つと、その人にとっての「生」とはなんなのか、という重要な核が見えてくるとも思うのです。そうしてはじめて、その人にしかわからない個人の主観的な「生」「死」「人生」に関して、他者が「尊厳」を見いだせるのではないかと感じています。



繰り返しになりますが、重要なもののまずひとつは「知識」
だと思います。


そこに思いやりや優しさや、先ほども言ったような共感しすぎて巻き込まれないでいられるこちらの精神なども必要になってはくるのですが、まず「知識」だと感じるのですね。





長くなってしまったので、続きはまたにしますが、皆さんのまわりにも、もし「心」を負傷してしまったり、悲劇的な方にエネルギーが偏ってしまっている状態の人がいたら、推測や想像だけで共感を示して寄り添おうと思っても返って難しいことだと思いますので、「信頼できる知識」を探してみることも入れてみてください。


情報に溢れているので「何が信頼できる知識なのか」の判別もまた難しいかもしれないですが、専門的ないくつかの角度からの知識によって自分の考察を客観的なものにしてくれる役にはたつと思います。






・・・考察と検証を重ねること・・・


死と意識。

そして自殺や鬱。


この件に関してはもう少し私なりに、ここまでで見つけてきた発見と、私の専門である「ヨーガでできること」を考察検証しているので、なるべくはやめにまた書こうと思います。


同時に「救えるかもしれない」という浅はかさと、勝手に「救いたい」と思ってしまうエゴについて気をつけています。

それは「救い」というものの概念を正確に見出すために必要なことであり、他人の人生への浅はかな関わり方をしないためでもあります。



そして、愛ですね。

愛というのは、感情のことではなく、自分の心に理解の窓を開く自己努力のことだと思っています。愛が知性を純化してくれます。


愛なしに理論だけで語ると、それはまた一種の偏りや危険を孕んでいきます。
何かを思いやる時、自分はまだ無知なんだと思って理解を開くことが、愛の表現だと思います。



なにはともあれ、ヨーガの精神論を学ぶって、生きることに相当有益なことだと日々痛感しています。





最後までお読みくださりありがとうございます。
ナマステ

0 件のコメント:

コメントを投稿