EMIRI MOROKA -HEART MATRIX-

師岡絵美里のブログです♪


2017年11月14日火曜日

苦しみと救済についての考察


こんにちは。えみりです。
今日は、最近のわたしの考察を送ります。

最近は、インド思想と仏教思想の違いに影響&反発があったところを見つけ、そこから「相違」と片付けられがちな両者の理論の違いの中に
そんなことはないんじゃないか、もしかしたら、
私たちの意識レベルが低いだけで、その本当の意味(同じことを言っている)がわかっていないだけなんじゃないか、
というところを、常に考えながら、自分の体験する物事を見ることで検証中です。変態だね、私。






ブッダの言葉に、


  自分の救済者は自分自身である。

  他の誰が救ってくれようか


  自分を正しく制御してはじめて


  人は得難い救済者を手に入れるのだ


  (真理のことば160)






ってあります。


仏教思想をみていると、物事の因果関係は、

けして過去と現在だけはなく、

未来からくる因果のようなものを感じます。

(縁起についてはまた書きます。)




この先大丈夫になっていくように、成長できるように

今このくらいのこと、超えとけ、、、

みたいな玉を坂の上のほうから転がされる(笑)。

玉を投げてくるのは、未来の自分。

そんなインディージョーンズみたいな時間劇。




ブッダはわたしたちに

人の心が持つ特性、


「”苦しみ”を苦しむ」という執着について


よくよく考えてみよ、と言います。





この世界が無常だということが本当の意味でわかっていれば、

”苦しみ”に苦しむことはないのだとブッダは言います。




もしも本当に「無常」を理解していれば



「希望」を持つこととセットで「落胆」も同じカゴの中に入れてしまうことはない。



ある日急に、希望が損なわれた時、

カゴの中に残っている「落胆」のほうに目がいくのは、人情的にしかたのないことなのだけど、


そもそも無常を知っていれば

わざわざカゴの中に「落胆とセットの希望(つまり二元性の苦しみ)」を入れなくても、

物事の「そのまま」を希望とすることが可能なのだろうと思います。







私は、自分で作ったヨガ哲学の集中トレーニングのテキスト中に、

「カルマヨーガ」についての見解と補足を書いておりました。

以下、自分で書いたこと。



「カルマヨーガ」は無償の奉仕・善行とも言われますし、

行いのすべてを神に捧げることとも言われますが、

 ”何かよいこと”をやったので、”何か良いこと”が返ってくる

という ”期待” の中で行われるものではなく、

その瞬間の行為そのものが

それを行なっている矢先からすでに、ポジティヴなフィードバックとなっている状態のこと。


活動の中で目的を持ったり成果をあげていくことは、今まで通り続けていくけれど、

しかし自分自身が受け取る最大のギフトは、

今この瞬間の”行い”そのものである

それを見出していくのがカルマヨーガです。






と私は書きました。


・・・・われながら解釈力に泣けるんだけど(笑)

しかしもはや、自分に刺さってくる真理の逆輸入。

人生っていろいろだ。

いろいろ痛感・・・。








ブッダの言葉からの考察。


「苦しみを苦しんでしまう」ことから脱するには

私たちの意識がもっと洗練されなければ逃れることができない、と。



ブッダは

もっとも深いレベルでの苦しみに、よくよく関心をよせてみよ、言ます。

最終的には「偏在することへの苦しみ」についてを追求することであり、

それは、

私たちが先天的に持つ「本質に対する無知さ」を理解すること、
と説きます。

サマーディ(三昧)に深く入った状態であったとしても、

その集中から現実の世界に戻ったとき、まだ自己への愛着は残るのだから、と。

その自己への愛着は、いずれ対象を求め、外界への執着につながっていくから。







もう一回ブッダの言葉に戻ってみます。




自分の救済者は自分自身である。

他の誰が救ってくれようか


自分を正しく制御してはじめて


人は得難い救済者を手に入れるのだ






最後の一文、「得難い救済者」。


ブッダのオリジナルな教えではこの救済は「智慧:プラジュニャー」という「本当の知識(理解)」なのだと思います。

それと同時に、インドの文化的発想にだいぶ浸った私には、
これは「グル(師)」のことのような気もします。
現実的には誰か手を差し伸べてくれる人がいることも多い。
導きを与えてくれる人。





何かひとつを乗り越えようと、

自分自身に飽き飽きするほどの関心と、心からの質問を持った時、

とりあえず、、、私の人生では毎回、

「先生」と呼べる救済の存在が現れます。



娘が今よりももっともっと小さかったころ、私は自分の人生を支えて保護してくれる基本的な思想として、それまでも知っていたヨーガが、本当の意味で機能しはじめました。

同時に、サンスクリットの先生や、瞑想の師匠と呼べる先生に会えました。

その先生たちの教えは、当時の私を救ったこともまた確かではあるけれど、今現在の私にこそ機能しているようにも感じます。







探求中の事柄なのでここでうまくまとめられないのですが、

むりやりまとめる。




人生の中で起こる辛辣な経験すら、この世に対する自分自身の”機能性”を高めるための「耐久テスト」なのかもしれないね。。。

もしそうだとすると、もともと耐久力や強さを考慮した物体にしかそんな「耐久テスト」は与えられないのだから、自分ってけっこう頑丈に造られてる仕様なんだな、と。
(うぇ〜〜、すごく自虐的前向き発言!!)


こんくらい腹パンチくらっても、

このくらい派手にかっこ悪く転んで炎上しても

あ、、、生きてるね、


みたいな(笑)


いや、そうそう頻繁だとヤダけどね、きついやつは(笑)


でも、時としてさ、

いろいろあるのが人生で

未来の自分が放り投げてきた巨大な球を全身で受け止めて

「大丈夫な自分」をがんばって更新していくことが必要な時もあるのだな、と思った。






深呼吸。

起き上がれば青空。

受け入れて行こう、全部。

「苦しみを苦しむ」は、ブッダもオススメしてないからちょっとやめといて、

そのままを受け入れて、それをどう思い直すことができるかが、

自分との勝負だと思うから。




最後まで読んでくださりありがとうございます。

EMIRI

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