EMIRI MOROKA -HEART MATRIX-

師岡絵美里のブログです♪


2014年8月10日日曜日

「ラサ 〜味わえるもの〜其の壱・心の傷み」について


たしか1〜2ヶ月前の事ですが、
ヨーガ講師仲間の友人と、とあるスタジオで会いました。
彼女は別のスタジオでの仕事を終えてきたところでした。
その前に会った時に彼女は、新しい環境で新しいヨガプロジェクトを立ち上げる仕事をしていると聞き、
なかなか興味深い内容だったので
「前に話していた新しいプロジェクトは進んでる?」
というような事を私が聞きました。
すると彼女は、
「今ちょうどその仕事をしてきたとこで」
と進捗を話してくれました。笑顔で。

しかし途中から、少し話し方に影というか違う味が現れてきました。
どうやら楽しいだけでもないみたい。

「今日その内容を関係者の前でプレゼンテーションをしたんですけど、
身内の○○先生に、こてんぱんにフィードバックされてしまって。」

と、顔は笑顔なんだけど少し悲しそうに話してくれました。

聞くと、要は、一緒にプレゼン内容を考えて作っていた仲間(その方もヨーガの先生)に、
プレゼン終了後にそれをけっこうな勢いでダメだしされてしまった、
しかも大勢の関係者の前で、
という事です。

お笑いコンビで例えて言うと、
一緒にネタを考えて二人で内容を決めて
「おし、じゃあこのネタはおまえやっとけ、まかせた」
みたいに相方から託されて、
よしじゃあ、とオーディエンスの前で披露したら、
相方から
「なにそれ。ぜんぜんだめ。まずねえ、」
と、やや感情的なダメ出しをくらった。
しかも大勢のお客さんの前で。

みたい感じです。

「え? 自分をフォローしてくれるはずの身内からダメ出しくらったって事? みんなの前で?」
私は聞き返しました。

「そう。」
と彼女。

「自分もいけないかったのもある。途中で盛り上がってしまい、決めた内容以上の事をやってしまったり、
すこしパフォーマンスが派手になってしまったところがあるし。」

私:「でも気持ちが乗ったから出てきたものなんだよね?」

「そう。その場にいる人は楽しめればいいなと思って、アレンジしてしまったの。」

私:「わかる。でもそれも含めえ、○○さんに応援というか認めて褒めてもらいたかったところだよね。」

「そうなの。喜んでもらえるかなって。」

私:「そしたらばっさり切られたんだ。」

「そうです。」

さすがに笑顔がちょっと悲しさの色を帯びていました。

自分の中から純粋に出てきたものを、仲のよい人にダメだしされたら傷つくのはわかる。
内々で言ってもらえれば落としどころも決められるが、
人前で、しかもアウェイ的な環境で身内に突き放されたら、けっこうなショック。

「それは、ちょっときついね。。。」

私は言いました。

「きつかった〜〜〜。」

とちょっと泣きそうな苦笑いの彼女。


どんなプロジェクトを作っていて、どんな風にプレゼンして、どんな風に相方にダメだしされたか、一通り話を聞きました。

話たことでかなりスッキリできたようで、彼女はいいました。

「聞いてくれてありがとう。 話してこんなにスッキリして、しかも癒されてしまうって、
私かなり傷ついていたんだ。傷ついていたこともなかった事のようにしていた。」

と。

たぶんね、その話自体は、私に話しにくい内容だったんだというのがわかります。
その「相方」のかたを私は知っているし時々一緒に仕事もしている関係なので、
彼女は悪く言わないように気を使わないといけないし、
そのあたりみんな仲間だし知り合いなので、誰を相手にしても打ち明けにくい気を使う内容の話だったのがわかります。

「けっこう傷ついたんだね。」
と私。

「そうなの。すごく傷ついた。」
と。

「話してみて、傷ついた感情をやりそごそうとしていた事のもわかった。傷ついていたのに。」

と。

わかるね〜〜〜。とってもよくわかるよ。

ヨーガをまじめにやっている人たちって、
まじめさゆえに時々ズレてしまう事っていうのがけっこうあるよね。

特に私たちヨーガの講師をやってると、
毎日会う人はだいたいヨーガ関係者の、心が穏やかで優しい人達で、
日常的にそんなに感情の波風は立てなくてもいいような環境に自然になってく傾向があります。
もちろんその中でも小さな感情の動きはいつもありますが、
なにせ扱っているものがヨーガ、
「心の状態を常に安定させようぞ、ヨーガで」というものを公私ともに行う私たち、
無意識的にも感情をコントロールしようとしてしまう傾向があります。

でもその中には
「今体験しておかないといけない重要な感情」
もたくさんあります。

「思考をコントロールする・心の手綱を握る」とは、
けして「感じなかった事にする」ことではない。

「体験するーその体験を味わうー自分なりにおさめて行く」
というプロセスがあるんですが、
「体験する」という部分を無意識にコントロールしてしまう事が、
ヨーガをしている人達にはよくあるのではないかと思います。

と、ヨーガ・スートラ第一章の冒頭の二節に
『心(チッタ)の作用(ヴレッティ)を止滅(二ローダ)するのが、ヨーガだ。』

たしかに。でもそれって感情体験を「避ける」事ではない。

「安定している自分」に慣れてしまうと、
何か本当に重要な感情体験がやってきた時、特にそれが「不安定」な性質の感情体験だと、

「だってヨガやってるからこんな事で私は動じません。ぜんぜん動じない。」

と表層を取り繕うとするのかもしれない。

でも実際はかなり不安定になる。

安定していない自分を体験するのはとてもエネルギーのいることだから、
体験そのものをしていないかのように、“感情”をオブラートで包む。
そのまま飲み込むのは「痛い」から。

「体験」そのものを「止滅(二ローダ)」させようとしてしまう。

でも、その「痛み」の中に、
感じ取るべき何かエッセンスがあることも確かなのです。
人生は「楽」だけで進むわけでもないし、人は「快」だけで成長するものではないから。

ヨーガは確かに自分の中の平和を育てます。それは疑いなく確かです。

しかし、ヨーガによって得た事のある“平和感覚”に「怠慢」してしまうと、
「不安定な自分を体験する強さ」
を失ってしまう事があるように感じます。

そうすると、
自分を傷つけない事を選び、
マイルドなところを通るようにし、
振り幅の大きい感情体験を避けて、
感情的に安全な道を選ぼうとする意識が(自覚的にも無自覚にも)働く。


もちろん、人それぞれ体質があるので、
刺激や起伏の少ない人生を選んでいたほうがその人の人生にとって丸ごといい、
という体質の人もたまにいます。

でも多くの人にとっては
「体験して知る」事が最も深い学びであり、
人生は、経験することとそこから学ぶこと、の連続です。

その中には、痛いことや辛い事もあります。
でもそれは「悪い」ことかと言ったら、言えない場合もいっぱいあるんですよね。

一回体験した「平和」に執着してしまうと、
「体験」を選り好みして、「平和っぽい」事だけに限定して体験していこうとする
ある意味での「弱さ」が人にはあるんだと思います。

おもしろいなあ、と思います。
どんなものにも甘えようとする人の持つ癖。
平和や、ヨーガにすら甘える傾向が私たちにはある。

ヨーガをやっている人が気をつけないといけない事かもしれない。

不安定な自分すらも、そのまま丸ごと体験する強さ。

「バガヴァッド・ギーター」には、"苦しみも喜びも平等に見なさい”、とあります。
そして
“相対に絶えなさい”

と。


与えられた体験をそのままに味わってから「平和」へと咀嚼していくのですが、
誰だって苦手な食べ物をもぐもぐと咀嚼するのはそれほど気持ちのいいものではないから、
咀嚼をめんどくさがって、もともと平和っぽいものだけを味わおうとする。


この弱さを認めて、超えていきたいですね。


冒頭の友人の話からここまで飛躍しましたが、

とにかく私たちは

「感じて」

います。

「感情」、という強烈なものを。

それはとても扱いにくく大変なものである場合もあるのですが、

その中の、中の、中の、
エッセンス(原質)までたどり着くと、
そこには「神の甘味」がある、

と私は感じています。

そこまで、耐えるのです。これはけしてマゾっぽい事ではなく、
自分の人生に対する愛の話なんじゃないかと思っております。

そのエッセンスの事を、インドの思想文化では「ラサ〜味わえるもの〜」と呼びます。

今日はここまでね。
「ラサ」について、続きがあるんですが、今日はここまで。

味わってみてください。
自分のすべての感情の中にある、神様のエッセンスを。



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