EMIRI MOROKA -HEART MATRIX-

師岡絵美里のブログです♪


2019年2月27日水曜日

シリーズ【5種のチッタ】vol.5 ニローダ・聖典に触れることの意義

ニローダ・聖典に触れることの意義


ヨーガではプラーナの質(グナ)の違いで「5つのチッタ(心)」が説明されます。

クシプタチッタ 荒ぶる心
ムーダチッタ 停滞する心
ヴィクシプタチッタ 移ろう心
エーカーグラチッタ 一点集中の心
前回までの説明で、エーカーグラチッタまでいってヨーガができる資質に、というあたりを書きました。それとともに、その前の三つのチッタに揺れ動きながらもヨーガをするには、というあたりも。

今日は最後の「二ローダ」です。これは「止滅」のこころ。

これは特に支配的になるグナ(性質)がなく、心(チッタ)はその出どころである物質原理の元へと吸収される、と説明されます。

この部分だけ聞いても、予備知識なしではなかなか想像もしにくいですよね。

心というワードを「知性」と置き換えてみましょう。

知性は「物事を認識する機能」とします。

この知性は、元々の純粋な状態だと、物事をそのままに見ることができるのですが、生きている過程でこの知性にいろいろな「条件付け」が付着します。

好き嫌いがその筆頭ともいえるでしょうね。
好き嫌いのことをヨーガでは「ラーガ(愛着)・ドゥヴェーシャ(憎悪)」と言い、これについてはヨーガスートラの第二章でも取り上げられ、好悪の感覚が人の心を大きく揺さぶり、その後の条件付けに影響を及ぼし、煩悩を生むことがわかります。

ニローダ(止滅)の状態というのは、こういった諸々の知性に付着する条件付けが浄化され、動かず働かず、知性が意識(純粋な自己)と同様までに清浄となって、「意識そのものだけ」という状態だと説明されます。

心が寸分も動いてないことによって見出される境地ですね。

なーかなか、難しそうですよね(笑)
だって私たちの心って動くから。

この境地を「サマーディ」というのですが、心の動きやその状態を全て放棄することはいきなりはできないので段階を追ってそこに到達することもヨーガスートラには書かれています。

ニローダは、ニローダをしよう!と思ってもいける境地ではないことだ、という説明は多くのヨーガスートラ解説書にも書かれていて、心(チッタ)についての浄化アプローチを修練し、最後もう全ての制御やその努力から離脱できるに至り、起こるのだ、ともあります。

とどのつまりヨーガで求める目標地点がここなんですが、やはり私たちは段階を追ってヨーガしていくことが必須なんだとわかります。

人によってはそれはアーサナ練習かもしれないし、日々の地道な瞑想習慣かもしれないし、また別のことかもしれない。

ひとつ大きな支えとなるのは、私たちがこのニローダなる境地にいきなり行けなくても(人生かかっても難しくても(笑))、このニローダの境地に達した古代の師たちが記し残したものがウパニシャッドやヨーガスートラなので、これらの書物になるべく馴染んで心をそこに寄せることは、自分の知性の清浄化に大いに貢献するものだ、ということです。

すでにその境地達した人の意識の在り方や、そこから発せられた言葉に自分の心を浸していくことで、個人としてチッタ(心・知性)持っている心の垢みたいなものを、洗い流していくのだなあと思います。

確かに、本当に、そう思います。
ずっとヨーガに触れ、ヨーガの書物に触れていると、昔持っていた精神的な癖みたいなものは、だいぶ消えたように思います。
まだまだだけど、まだまだだなあって(自己卑下ではなく)素直に感じることができるし、自分の無知を認めることはとても大事なことだと思います。
アイデンティティに執着したり奢ったりする気持ちがなくなるというのは、心の自由度が高まるという意味で、楽になりますね。


これらの考察は、
「現代人のためのヨーガスートラ」(ガイアブック)
「自己を知るヨーガ」(めるくまーる)
などを参考にしています。
よかったら読んでみてください。

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ヨーガって素晴らしいです本当に。
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2019年2月26日火曜日

変わらないことに巻かれず、創造をしてみること



今日とても久しぶりに、ヨーガの同志である馬路春菜先生にスタジオで入れ違いで会えました。

とにかく久しぶりでハグしてウルウル。
こんなに会いたかったんだなあーと思いました。

仕事上いろいろ関連があるので、連絡メッセージ上ではしょっちゅう交流があるのですが、実際に顔を見ると、もう本当に心が温まります。

古い友人って、いいですね。
存在そのものが自分を支えてくれるなあと。

そんな友人春ちゃんと短い時間で色々話しました。
真剣な話から大笑いまで。


世の中には「変わらない」ものというのが、いい意味でもあまりよくない意味でもあるね、という話。

実際は、全てのものが変化しているのですが、でもなかなか変わらない社会とか組織の仕組みとか、個別の現象の根本性質みたいなものってあるんだね、と。


安定と固定って似てるけど全然違う。

安定は、動きの中でのその時々のバランスが取れる基礎みたいなもので、固定はかたいけどかたいだけに融通がきかない。

バランスを取ることをめんどくさがったり、変化を嫌うと、安定にも似た「固定」の方を選びがちで、そのかわりに自分の許容範囲や応用力、創造性を広げることも怠ってしまうことが多い。

似てるけど間違えないようにしよう、と思う。
安定は大事。でも固定の中で惰性にならないように。

普段から創造性を働かせないと、大きな変化が来た時に、怖れが湧いてしまうから。



昨日、別の友人にもスタジオで偶然会えて、彼女とも久しぶりで、彼女がこの先何をしたいか、みたいな話を聞かせてもらえた。

私たち、日本人は(ってくくりすぎるのはよくないけど、実際)人生で本当に必要な基礎知識を具体的に教えられずに社会に放り出されてしまうね、と話した。

個人の多様性にあまり関係なく誰もが普遍的に押さえておいたほうが良さそうな人生の処方的なものを、具体的に知っておけば、それでわざわざつまずかなくていいし、もっと別の大事なことで有用な経験としてつまずけばいい(笑)、ということもあります。

そういったリアリティを学校ではほとんど習えない、家庭でも話されない、大きくなって経験するだろみたいに大事なところを放任されて、そんで本当にやってみてダメだった時に教わってないのにさも「どうしてわからないの」的に怒られてしまう子供・・・みたいな大人たち。大人の話ですね(笑)

そんなわけで、自分の本分ではない事柄で悩んだり迷ったりして多くの時間を使ってしまう人が多いね、というような話。

回り道も一つの勉強とも言えなくないけど、回らなくていい道もけっこうありwww
どうせなら本分に時間を使いたい。

昨日あった彼女は、その辺りをこどもたちに伝えられる仕事や活動を自分で作っていきたいと言っていて、心から応援したいなと思った。

「全体」が変わらないといけない要素もかなり多いのだけど、そこを待っているだけじゃ変わらないもんね、と。

そして「全体」は、さっきの春ちゃんとの話でも出たように「変わらない」ことが多い(笑)組織とか社会とかね。変わっているように見せかけて根っこが一緒だったりする。


なので、自分の得意なこととか一生懸命になれることで、その「部分」だけでもいいから、パイオニア精神を持ってみるのは、いいことなんじゃないかと思う。
世の中を悲観的に見て嘆くよりもずっといいと思う。



「あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果にはない、アルジュナよ。」


とクリシュナも言っていますね。
(バガヴァッドギーター2-47)



最後まで読んでくださりありがとうございます。
Namaste



<お知らせ>

オンライン・ヨーガ集中講座

ヨーガ哲学の理論と実践・6ヶ月集中コース

このコースは半年かけてヨーガ理論の学習と実践を行なっていくコースです。
ヨーガの精神性を学ぶこと、実践することは、人生のあらゆる側面に役立ちます。
ヨーガの思想を素直な気持ちで学び、自分のできることから実践することによって、
人生の大きな支えと素晴らしい変化がもたらされ、生きていることの本当の意味が見いだせるはずです。

日常生活の中で何かを学んでいくには、無理をしすぎないで継続することがとても大事なので、
このコースでは、学習と体験的実践のバランスをとることと、日常生活の中で学んでいける量やペースなどを配慮し調整しています。

開催日程【2019年5月期】

2019年5月〜2019年10月末
隔週一回オンラインでの授業があり、週二回の学習フォローメールと、各テーマ毎の実践課題があります。
詳しくはサイトにて

2019年2月5日火曜日

シリーズ【5種のチッタ】vol.4エーカーグラチッタ〜 純粋な知性をもって



ヨーガではプラーナの質(グナ)の違いで「5つのチッタ(心)」が説明されます。vol,12,3では「クシプタチッタ」「ムーダチッタ」「ヴィクシプタチッタ」について説明をしました。今日は4つめです。「エーカーグラチッタ」。

いよいよヨーガができる心に突入。



▪エーカーグラチッタ(一点集中の心)

サットヴァ(純質)が支配的になる心。
ヨーガを通して心がよりサットヴァになり、純粋な知性も獲得。この純粋な知性が物事のありのままを見る。この心は低次のサマーディである「対象のあるサマーディ(サンプラジュニャータサマディー)に適合する。

[Ekagra]
one-pointed 一点
concentrated 濃縮
undisturbed 平静な
intent 意図
closely attentive 細心の注意を払う

エーカーグラチッタは、サットヴァ(純質)な心です。ヨーガで言うところの一点集中は、サットヴァのチッタのことであり、その知性によって対象をそのままに見ること。




<筆者蛇足>

なんでもかんでも「一点集中」できればいい、というものではなく、怒りに一点集中しているのならそれはクシプタチッタであるだろうし、損得とか欲に一点集中していればそれはムーダチッタかもしれない。一点集中にも質があるのだ(笑)。
あたりまえのことだけど、雰囲気と「なんとなく」にのまれやすい日本人は、ニュアンスに流されないように注意しないといけない。
教える側も、何に、どんな心で、そしてそれができる環境を自分が作れているかを反省しながらいつも教えるのがいいし、そういう洞察があることで教える自分が育っていくなと思う。

人は人の個性や傾向を「性格」というけれど、言い換えれば「何チッタ」に集中がおこりやすい傾向があるのか、と言ってもいいのかもしれない。

この「5つのチッタ」(紹介はまだ4つまでですが)でわかることは、人はなんにせよ「集中」してしまう、ということ。ぜんぜん集中できなかった〜と言う時でさえ、移ろいながらもその時々で対象を変えながら「なにか」に集中していたりする。

乱れたり低いエネルギーレベルの心だと「”それ”にとらわれている」という認識が起こらないが、感知とコントロールができないだけで人は自分の「意」を何かに集めてしまう癖がある。

どんな性質の心で、何に集中しているかが肝で、自分の心のグナ(状態)と集中対象の質に認識を持つことが、まず最初の段取りだと感じる。

ヨーガの言う一点集中の心を起こすには知性(認識する心理器官)がサットヴァであることが基本コンディションだということはわかった。心の性質が低い状態のままに「とにかく集中」だけに注いでしまうと、集中に見せかけた「偏り」に陥る。けして集中さえしていれば知性がサットヴァになるとは限らない。

卵が先か鶏が先か、みたいな話だと、サットヴァなブッディ(知性)になっている状態が「先」で、その知性によって真の一点集中が起こるのだと考えると、やはり日常的なヨーガは心の濁りの浄化がともかく大事だと感じる。

そう考えると、ダーラナー(集中)に入る前のヨーガ八支則の項目およびヨーガ・スートラ第1章の心の理論知は、順番的にもえらく理にかなった親切な教え方だと思う。

まず心の浄化。乱れた心、落ちた心、快不快の感覚の奴隷になり、”へんなもん”に集中しないためにも。
こういう識別にはやっぱり「サーンキヤ」の分析的な見方は役立つなあとつくづく思う。

ヨーガ哲学は生身の体験理論。繰り返される内省の上に成り立つ。人生のすべてがヨーガなんだ。


と思った次第です。

ナマステ
EMIRI

2019年1月31日木曜日

シリーズ【5種のチッタ】vol.3ヴィクシプタチッタ〜 定まらない心の見極め



ヨーガではプラーナの質(グナ)の違いで「5つのチッタ(心)」が説明されます。

vol,1と2では「クシプタチッタ」「ムーダチッタ」について簡単に説明をしました。

今日は三つめです。「ヴィクシプタチッタ」。



▪ヴィクシプタチッタ(散漫な心)

支配的となるグナはない。心のはずみによってラジャス、タマス、サットヴァのいずれかの支配を受ける。
混乱した心、揺れる心。 真実を垣間見ることがあっても、新たな障害物が現れるとその真実を投げ出し、別の考えに従う。


[Viksipta]
refuted 論駁(ろんばく)された
  *論駁:相手の説に反対して論じ攻撃すること 
contracted 収縮した、しかめた、短縮した
thrown out 投げ出す、捨てる
frustrated 挫折した



vol,1で紹介したラジャス性支配にある「クシプタチッタ」は、自我意識によって心がどんどん外界に向かって動いている感じがみて取れるかと思います。非難、卑劣、などの感情の荒ぶりが見られますチッタです。


今回の「ヴィクシプタチッタ」は、どのグナに支配されるかが常にゆらいでいる心で、クシプタチッタやムーダチッタと似た意味合いも含みつつ、ラジャス集中(クシプタチッタ)だけでもタマス集中(ムーダチッタ)だけでもない、揺れ動く心、です。


内面の軸みたいなものを捨ててしまって(ないしは見つけられない)なんでも信じちゃうような散漫さや危うさ、本質が見えてないのに表面だけに飛びつく浅さのようなものを感じます。「自分のなさ」みたいなものがわかりますね。


一般的にこの感覚ってとても多いのではないかなって思います。ヨーガを学んでいる最中の人にも多い。現代の世の多様化した“スピリチュアル界隈”にも多く見受けられる傾向かと。自分にとって都合のいいことをすぐ信じてしまう。

一時的にサットヴァ(純・清・浄)なことに意識を向けていられる時もあっても、外界の刺激にさらされれば思考が混乱したり、気持ちが暗いところに落ちてしまうこともある、というような定まらなさ。
上がったり下がったり、明るかったり暗かったり。楽観したり悲観したり。



心を継続的に純なるものや本質に結びつけておくことの難しさを感じますね。ある時はこれを信じ、でも別の瞬間には同じものを疑う、忘れてしまう、というような揺れ動き。



書籍「現代人のためのヨーガ・スートラ」の中では、これは「ニューエイジ」に共感を持つ人々に間に典型的な心だ、とあります。「心地よく過ごすために、単に状況に応じて心のあり方を調整しているだけ」の、実際は「懐疑的な日和見主義」と。
なかなかキビシイですね!w




対策として。

ここはヨーガ・スートラにあるようにスヴァディヤーヤ(聖典学習)だと思います!聖典を読み学び続けること。そこから離れない努力。
時間はかかっても、自分の知性が真理にずっといられるだけの聖なる耐久力と認識力を持つために、ずっと聖典に触れ続けることかな、と。

ヨーガの道は続く。


グナ別チッタ解説はあとふたつになります。
読んでくださりありがとうございます。


Namaste
EMIRI

2019年1月30日水曜日

シリーズ【5種のチッタ】vol.2ムーダチッタ〜 重い心の見極め



ヨーガではプラーナの質(グナ)の違いで「5つのチッタ(心)」が説明されます。

前回の投稿ではそのうちの「クシプタチッタ」についてを簡単に説明しました。

今日は「ムーダチッタ」。

クシプタチッタがラジャスという刺激の質(グナ)が高まった興奮状態のような心でしたが、ムーダチッタは「タマス」という停滞と翳りの質に心が支配されている状態です。


▪ムーダチッタ[Mudha] (惑わされた心)
タマスが支配的になる心。鈍く朦朧。身体、富、家族、部族、国家など自分が「所属」を感じるもので頭がいっぱい。タマスによって心が重くなるため、自分が一体感を感じるものに固執し、それ以外を受け入れない。曇った目や重い心に支配されているため、現実をありのままに見ることができない。

〜〜〜〜
Mudha:
dull 鈍感な,愚鈍な; わかりの遅い.
ignorant 無知の 知らない 気づかない
stupid 愚かな、 無感覚な、
idiotic 大バカな、白痴の
〜〜〜〜


書籍「現代人のためのヨーガ・スートラ」の中では、この心の状態はクシプタチッタ同様にヨーガには不適切、ヨーガをやったとしても、強い欲望を通してしか集中できない、とあります。


実際・・・こういった停滞の質に心が絡め取られている時、この心の状態を自分で自覚するのはとても難しいものです。「気づけない」ということもタマスの特徴だからです。


自己観察のポイントとしては、損得勘定や自己防衛、自意識を満たす仲間意識などで「優越感」を持っていないか、他者を認めない狭い気持ちになっていないか、と考えてみるのがいいかもしれませんね。
もしも自分自身にこのような心の傾向を感じたら、自分の固定的な考え方を思い切って壊す必要があります。

ムーダチッタである時、人は往往にして「自尊心」や「優越感」がほしくて自分をよく見せようと外界に働きかけているはずです。それをやめて、「無知な自分」というものを一回認めた上で、あえて笑ってみるのがいいと思います。それは自己卑下ではなく、自己肯定として。
そして人の言うことや行いをジャッジせず、自分の考えというフィルターを通さないで物事を見る練習が必要ですね。これも実際は根気がいりますね(笑)。

ムーダチッタはかなり大変です。なんせ自分で気づきにくいので。
ムーダの中にいる間は、何事も人のせいや、外界のなんらかの事柄のせいなので、自分自身を省みることもまれなのです。
気づけたら本当にラッキーと思い、変えていくしかないですね。


あるグルに言わせると、この状態というのは「暇」なのだそうです(笑)。

自分が心から熱中できて純粋にそれに打ち込めるものなどがあると、悲しみに停滞したり暗いところで考えている時間などない、と。たしかにそうだと思います。

誰しも、その時々でタマスな心(停滞、無気力、無力感、猜疑心などの暗い心)になることはあると思います。
そこを持ち上げて、明るい方に行動を起こすのって、エネルギーがいるものですね。でも何もしないでいるとその感情や感覚はそこで増幅されていくので、ムーダチッタにはまってしまった時は、運動したり楽しいことをしたり、明るい場所に足を運ぶのがいいかなと思います。

瞑想、もいいかもしれないと思うかもしれませんが、ムーダチッタや前回紹介したクシプタチッタがすごく強い時は、まず体を動かしてしまうのがいいかと思います(経験的に)。

散漫さや停滞の心が意識を支配している力が強い場合、瞑想は一時的な落ち着きをくれるかもしれないですが心はなかなか手強く、目をあけてもとの世界に戻って外界の刺激にさらされると、また同じ感覚に戻ってしまうことも多いものです。

瞑想はすごくいいものですが、瞑想していない普通の時にラジャス・タマスをある程度クリアしておくのがいいと思います。クリアする手段は、体を程度に運動させたり(これがベストかも)、明るい楽しい行動をすること、笑うこと、など。

この辺りのお話は、この次の次にシェアする「エーカーグラチッタ」のところでまたお話しようかと思います。


ナマステ
EMIRI

2019年1月23日水曜日

シリーズ【5種のチッタ】vol.1クシプタチッタ〜荒ぶる心の見極め

こんにちは。エミリです。

心の状態を客観的に観察できるようになる、というのがヨーガ哲学の知識がもたらす素晴らしい効能のひとつです。

今日はそんな中からひとつ。
クシプタチッタ、というものをシェアします。


ヨーガでは、私たちの心を作り出すプラーナ(生命エネルギー)の「質」の違いから生じる、心の種類を説明します。

それは「5つのチッタ(心)」と説明され、


 怒りや刺激の質からなるチッタ(心)

 停滞の質からなるチッタ(心)

 いろんな質に変化し安定しないチッタ(心)

 一点の純粋さに集中したチッタ(心)

 心が動いていない状態


と分けます。


今日はそのなかの「クシプタチッタ」について。
怒りや刺激の質からなるチッタ(心)をシェアします。



クシプタチッタは、プラーナ(生命エネルギー)が「ラジャス」という刺激の質に高まった、興奮状態のような心で、外界に向かって自我意識が高まり、怒りや批難などの荒ぶった気持ちに心が集中した状態です。


”クシプタ” [Ksipta]は、

 despicable 卑劣な
 discharged 排出された
 thrown  投げられた、投じられた
 reviled 批難する、罵る

というような意味合いが含まれた言葉です。

このチッタ(心)の主役はラジャス性で、ラジャスは自我意識を高めて荒ぶる感情との一体感を増幅させます。

イライラとか、焦りの混じった怒りや興奮、嫉妬や他者批判などもこういった心です。

あまり持ちたくないけれど、完全にないわけでもない心模様かなと思います。

最初は「不満」からくるケースが多いかと。
何かに不満を持って、そこに憤りを感じ始め、被害者意識や利益を得ていない、損なわれたような感覚がするときに、その不満の矛先が他者になったり何か外の対象に向けられて、怒りや批難になっていく。
そんな流れが多いと思います。

人間は「一回やったことはそのあとまたやるのが簡単になる」という習性を持ちます。

一回、二回、と心の荒ぶりに任せて怒ったり荒れたり粗暴にしていると、そういう行為や心のあり方を続けるのが「簡単」になります。
逆の言い方だと、優しくなったり、物事に理解を示そうと心を開くのが難しくなっていきます。

自分の思い通りにならないことに対して、怒りや攻撃的な気持ちでしか対応できなくなっていき、そしてそれが定着しちゃうとその人の「性格」になってしまいますね。


いつもじゃなくても、誰しもこういう気分はあると思います。

もしこんなクシプタチッタな感じになったら・・・
心が荒れたら・・・


まずは、身近な木々や植物をただ眺めてみるといいかなと思います。

意識を植物や自然の波動に合わせると、自我で高ぶった心の炎症が癒えていくと思います。

マインドの中の「主語」が繰り出す絶え間ない雑音 

ー私が、あなたが、あの人が、あれが、これが・・・ー

を消す時間を持つことを、自分に許すといいかなと思います。


と、まあ簡単に言いますが、自我ってなかなか手こずるもの。
時間がかかりますが、地道に心の軌道修正ですね。


なぜ人は、自分の思い通りに行かないと、憤りを感じ、表現するしないは別としても「怒る」のでしょうか。それは「危険」を感じる不安と怖れが土台です。

保身に大きく傾いているとき、多くの場合において、物事を中立に、ありのまま見るのは難しくなります。

誰でも自分は大事ですが、「自分の利益」と「自分」を同一視してしまうと、損得と勝ち負けが心の関心事になりますね。

書籍「現代人のためのヨーガスートラ」では、この「クシプタチッタ」は、「ヨーガには至極不適切」と説明されます。

この状態でヨーガを始める人はいない、
するとしたら「敵を倒すための力を得るためだ」と書かれています(すごい!笑)。

「敵を倒す」というのを、もう少し、人々のよくある傾向に置き換えるなら、「すごいことできるって人に見せたい」というような対抗意識かなと思います。

それだと、心はいっこうに自由にはならへんよ、ってことですね。

でも、クシプタチッタに没頭している状態の時は「心の自由」なんて発想すら持たないかもしれないですね。
心の自由なんかよりも、権力や見栄えのいい自分、利益が欲しい、ということになるのだろうとおもいます。

インドの叙事詩「マハーバーラタ」ではこういう人がたくさん出てきて、みんな滅びていきます。(ドゥルヨーダナですね。)
ですが現代社会は、クシプタに煽られ、競争と所有と消費への刺激が世界を動かしている次元です。
ここをどう調和的に生きるかって、苦行ですね!(笑)


ともあれ、ヨーガをしているとだんだんこういうクシプタチッタな傾向は、個人の心としては少なくなると思います。それは恩恵ですね。


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2019年1月17日木曜日

手放せばもれなく自分が残る〜アパリグラハの教えより〜

ヨーガ・スートラに「アパリグラハ」という教えがあります。


非所有、という教えで「持ちすぎない」ということであったり、「持たない」ということ。

いろいろなものや条件に囲まれている私たちですので、物質的なすべてを持たないわけにはいかないのですが、持っていてもそれを所有する意識を持たないことであったり、持っていても執着しない、というスタンスも入ります。

人は物や条件に価値や愛着を感じて、その保持に忙しくなります。


ものに価値を感じる意識はたしかにあるのですが、その「価値」を手放すと、

もれなく「自分」が残る

というすばらしいギフトがありますね。


これはヨーガから教わったもっともシンプルで偉大な教えのひとつだなあと思います。


だって人は、とどのつまり「自分がわからない」ので、それを物や人に転嫁して、それゆえに不幸になったり満たされなかったりします。自分を理解して、愛の存在だと感じることができれば、人生開きますもんね。



「(不必要に)持たない自分」でいると、自分の強さが現れてきます。


手元にあるものは、あるものとして有用に使うとして、「物(条件なども含む)」を自分にまとわりつかせるのをやめれば、「自分」の生身の姿が見えてきます。


それゆえにヨーガストラはアパリグラハの節で、


「アパリグラハを確立した人は、過去と未来と出生に関する知識を得る。」


と言っているのでしょうね。


意識は物質にも固定されます。


物質的に密度の高いものに心を向け続けていると、心はそこに同化して


物理次元の諸々しか見えなくなっていきます。


”所有意識がかけらもない”という状態って、普通の人の状態だと想像できないものだと思います。


”物欲とかなくって〜〜”、などなど言ってみても、物に頓着がなくても、何か別の条件下では所有意識があったりするもので、実際には人は物や条件を必要とし、心でそれを所有します。


本当にアパリグラハが完成しちゃった人、というのは、心がいかなる対象にも絡みつかないからこそ、「時間」という思い込みからも自由なのでしょう。

自分のアイデンティティにまつわるすべての”虚構”すら非所有なので、自分の本来が見えているのでしょうね。


100%の純度でこんな状態になれなかったとしても、アパリグラハの実行で心の自由度が高まることは容易に想像できます。






「多くのものを持っていても、自分のことはわからない」

この現象は私たちの普通の生活と、この経済社会に広く浸透していますが、

こういった時代や環境にもアパリグラハのようなシンプルな教えというのは、本当に機能性の高い教えだと感じます。



自分の所有物であっても、「自分の物」と思うことやめてみたり、たまたまここに在ってくれた物、そんな感じで心をかためないこともひとつかと。


物を少なく生きよう的な時代の流れにのってみてもいいかもしれないです。

実際に、ないと工夫するので創造性が高まることもあります。







今日は、ごく浅いところの紹介ではありましたが、アパリグラハ(非所有)についてでした。





こんな風に、人生に必ず役立つヨーガ哲学。


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しびれますよ。






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