EMIRI MOROKA -HEART MATRIX-

師岡絵美里のブログです♪


2020年1月19日日曜日

思想と哲学どう違う?〜EMIRIの変態的力説「君はいったい誰なんだ!」〜


思想と哲学、どう違う???
〜「君はいったい誰なんだ!」〜




みなさん、「思想」と「哲学」の違いって、自分なりにでいいので言葉で言えますか?

ないしは、考えたことありますか?



思想と哲学。

どっちもなんか「考え」に関係しそうだな。


思想って言うと、なんらかの主義みたいな、考え方の特徴みないなものがあって、


哲学って言うと、なんらかの主義みたいな、考え方の特徴があって・・・



っっって、あれ、同じじゃん!!

と、思ったあなた。



ふふふふ。思想と哲学の違いにフォーカスしてみますと面白いですよ。



なんかごっちゃにしてませんでしたか、今まで。
インド思想、インド哲学、同じ意味合いで言ってたりしませんでした?
「あの人の思想は〜〜」と「あの人の哲学は〜」を、たいした区分なく使ってませんでしたでしょうか。


まあね、一番表面に出てきた様子が似ているように感じられるので、思想と哲学って日常会話ではあまり区分されないかもしれません。


でも違うのですよ。
言葉が違うってことは、「その二つは同じ意味だ」と言われない限り、意味に違いがあります。


思想と哲学。
辞書的なところを根拠にしてみましょう。
webで検索できる三省堂・大辞林より。
長いのでとりあえず一番最初にある意味を載せます。



<思想>
① 人がもつ、生きる世界や生き方についての、まとまりのある見解。多く、社会的・政治的な性格をもつものをいう。



ですって。
じゃあ哲学は??



<哲学>
① 世界や人間についての知恵・原理を探究する学問。

② 自分自身の経験などから得られた基本的な考え。人生観。 「社長の経営術には一つの哲学がある」

初め英語 philosophy の訳語として「理学」「窮理学」「希哲学」「希賢学」などとした。のちに「哲学」が定着。philosophy はギリシャ語 philosophia (知恵への愛・希求の意)に由来〕



ですって。この意味合いだけを、スーパーおおざっぱにシンプルにして言いますと、



「思想」は、大多数の人か、ある集合範囲におさまる人たちか、個人かが、意識的にも無意識的にも「そうだ」と思っている考えのまとまりとその風潮(特徴)。


「哲学」は(上記の意味①より)物事の「ことわり(理)」を考察すること。



という感じ。



少し明確になってきた。
まあこれはあくまで上記の「辞書的な意味」から抽出した説明で、世の中の思想と哲学のすべてがこの説明で明確に区分できるかというと、まだあやしい。




もうちょっと考えてみよう。
またおおざっぱにシンプルに仮定してみます。



「思想」は、最初になんらかの特徴ある考えがあったとして、それを個人なり団体なり人々が、無自覚にも自覚的にも「まとっている」感じかな、と思うのです。


で、「哲学」って言うのは・・・・・
そういった「ある考え」なり「対象」となるモノを、
「なんでそういうことになるの?」という感じで、その原理を知ろうと働きかける思考、

と言えるかもしれません。


なので、なんらかの「思想」(誰か、ないしはみんながそう思っていたりすること)を「哲学する」ことも可能。


あくまで仮定です。でもそんなに遠くない仮定だと思います。そして言語なんてものは流動性のある仮定のうえに成り立っているものなので、仮定=不確か、とも言えないのダス。


そうでしょ? 昔と意味合いの変わってしまった言葉なんてたくさんありますもんね!今この地点における可能な限りの思索をもって定義づけなければ言葉なんて使えないのです。その連続なのです!
(めんどくさいヤツですね!!www)



で。


「インド哲学七つの難題」という書籍がありまして、宮元啓一先生という博士が著したおもしろい本があります。
私のお風呂タイムや寝る前の愛読書のひとつ。お風呂で読むと体があったまってホワっとしてしまい、まったく考察できないので毎回数行しか進まないのが真実なのですが、それはいいとして。



その中で先生は「哲学」をこう表現しています。



「哲学とはなにか。それは、われ思うに、知りたいという以外にいかなる動機もなく、純粋に知ることを切望する営みのことである。

そしてその営みは、その営みに用いられる論理への自覚的反省をまってはじめて確かなものとなる。」



と。
むずかしいですか?
大丈夫ですよ、またおおざっぱかつ的確に言いますから(笑)。



●ポイント1
「知りたいという以外にいかなる動機もなく、純粋に知ることを切望する営み」


そうだよね、知りたいよね。
知りたいのだ、人間は!


じゃあですよ。

「皇后さまのあたらしいドレスいくらなの??知りたい〜〜」とか、
「嵐の〇〇くんのスクープ、本当なの???知りたい〜」とか、
「エリカ様釈放!!この先どうなるの?知りたい〜〜」
「ゴーンさんの総資産いくら??知りたい〜〜〜」


。。。。これ、哲学ですかね?


知りたい、のは知りたい(笑)
でも哲学じゃなさそう(笑)
とりあえずゴシップぽいところに絞ったのはわかりやすさのためですw



哲学が哲学たる条件は、宮元先生の言葉からヒントをもらいますと「純粋に知ることを切望」。


皇后さまのドレスの値段にしても、嵐のメンバーのスクープにしても、エリカ様のその後にしても、ゴーン氏の総資産にしても、その知りたいの動機は「純粋」か。

そういうのは、好奇心とか、刺激ほしさ、みたいななんか別の「情」がありそうですよね。


哲学というのは、知に対するその動機の純度、が関わるのかもしれません。(きっとそうだと私は思っています。)


三省堂大辞林の方の意味で考えると、「 世界や人間についての知恵・原理を探究する学問」とありますように、その「原理」を知りたい、原理を探求する、これが哲学だとしますと、皇后さまのドレスの値段を知れたとしても(他の例えは割愛)、それがそうである「ことわり(理)」はわからないし、別に原理とかとかそんなのは「知りたい」の範疇じゃなかったとしたら、哲学ではない、ただ「情報を得た(それによって納得したり興奮した)」だけなのですね。

はい。






●ポイント2
宮元先生の示唆する「哲学」の定義に、

その営みは、その営みに用いられる論理への自覚的反省をまってはじめて確かなものとなる」

とあります。

ちょと難しい文章。


その営みに用いられる論理への自覚的反省をまってはじめて確かなものとなる

なんのこちゃ。

またおおざっぱに言います。



・「その営みに用いられる論理」とは、「知りたいという純粋な動機で探求する(営み)」をするうえで、探求できるように利用している「論(信頼できそうな方法とか視点とか)」を・・・



・「自覚的反省をまって」とは、「今、これこれを根拠に考えているけれども、果たしてこの考える方法や根拠、そして視点などは果たして有用だろうか、別の思索方法や観点もあるかもしれないのでそっちもやってみよう!」という感じで、自発的に(客観的にふりかえったり改めてみる感じで)反省することをもってして、という意。




つまりですよ。


哲学というのは、


・ことわり(原理)を知りたい(純粋に)


・ある考え方や論などを拠り所にしてまず考えてみる


・何らかの発見がある


・さらに、別の視点では、別の思考方法でも考えてみることができないか、という自発的な反省が起こる


・別の視点に立ってみたり、別の根拠をあたってみたり、別の思考論を用いてみたりしてまた探求


何らかの発見がある


くりかえし。



哲学。こんな感じです。



え〜〜〜〜終わらないじゃん!!
じゃあ、ヨーガ「哲学」を教わったとしても、なにか「これが正解」「こうしておいたらいい」みたいな約束事を確実に知れるわけじゃないの?
「自分で反省して、また自分で考える」を繰り返ししないといけないの?



と思ったあなた。


そのとおりです。

(笑)



だから大変なんですよ、哲学するって。
変態のやることだとも思います(爆)




でもねみなさん。

生き物として自然のサイクルに従って、食物連鎖の中で調和を生きている動物たちと違って、

「思考するようになった」

という人間の定義とも言える「条件」を備えてしまった時点で、


すでに人間はみな、「変態」なのです。



あははははは。
自論です。気にしないでね!
そんな大きく間違ってないと思うけど(笑)。







思想と哲学の違い。というところに話を戻しますね。



とても似ている「考え」に関する両者なのですが、


上記の三省堂大辞林の意味と宮元先生の言葉の双方を合わせて考えてみると・・・


「思想」は、自分で考えたり、自覚や意識したものとは限りません。

私たち日本人は「現代日本」の思想に幼いころから馴染んでいることがほとんどでしょう。

そういうものを「文化」とか「習慣」とか「価値観」とか「流行」とか「一般常識」という言葉で代用されることも多いけれども、その根本には「もとになる思想」が漂っているわけです。


思想は、大地に流れている水の性質みたいに、その水が清ければそれを飲む人や生き物の体は健康ですが、水になにか混じっていたら、それを飲む者の体の状態は変わってきます。思想はそういう風に、人々を大きく巻き込んで、その状態に促したり留めたりする力を持つものとも言えます。



戦前は天皇が神様だったというのも当時の日本の思想で、疑う人は少なかったのではないかと思います。
(なので、天皇は本当に神なのか?などと考察して口に出したら、変わっている人と思われたでしょう。)


年功序列とか終身雇用が当たり前だった時代はそれがひとつの思想だったと思います。あまり転職などしないほうが全うな生き方だ、という思想を持つ人も多かった時代かと。


家事は女がするもの、もひとつの思想だし、結婚はお見合いでするものだ、という思想だった時代もあったでしょう。



バブル時代の思想もありましたよね。
高くカールして後ろに流す前髪とか、肩幅の広いゴージャスなジャケットとかww、あれが素敵に感じられた当時の思想です。
あの頃は「三高」とか言って、高学歴・高身長・高収入でしたっけ? そういうのが結婚したい男性の条件、みたいな思想がもてはやされたり(笑)。


いい大学を卒業しないといい企業に入れない、高収入は得られない、というのも思想だった時代もありましたね。


日本人だったらだいたいの人が神社に言ったら手を合わせますし、ポイ捨てはしないほうがいいという思想がきれいな日本の街を作っているし、「成人というのは20歳です」なんかもひとつの思想ですね。他の場所では違いますが日本だとそうなのです。


だいたいの日本の人は「生の卵」はご飯にかけて食べれると思っているし、心理的な抵抗なく実行するでしょう(笑)。
外国人によって死ぬほど勇気のいる行為であったりもします。そういう思想を持たないからですwww


多くの日本人が、もともとはインドから来た「カレー」という文化に、カレー自体もだいぶ日本風になったけど、さらに「福神漬け」っていう日本の文化を当たり前のように付け加えます。

一般化して習慣化してますが、最初のどこかの時点で誰かが

「カレーには福神漬けだ」

という思想を立ち上げて、それが大衆化したのであろう。
(大げさだけどそういうことw)



そこを哲学すると、

「本当に福神漬けがいいのだろうか・・・
きゅうりのきゅーちゃんだっていいはずだ。
いや、べったら漬けで行くと、どうなるのか・・・
まて、なぜそもそも漬物なんだ。漬けたものでなくてもいいかもしれない。
まてよ、カレーに何かを加える必要があるのか?
このすでにひとつのメニューとして完成したカレーに、さらになにかを添加したいという心理の原因はなんだ????
寂しさなのか?満たされないものがあるのか?
おかんがずっとそうやって来たものを見ていたせいか?
その原理はなんだ!?

・・・では、

カレーを、そのままなにも添加せずに食べることに、
喜びを見出せはしないだろうか・・・・。

・・・・

カレーとは、なんだ?」





めんどくさ!!!!
こんな人いたらめんどくさいですね!!!
変態ですね!(爆)



でもね、おもしろおかしく書いてしまったけど、
哲学とは「知に対する希求」なのですが、
その前兆として「当たり前に疑問を呈する」というステップがあるのは確かなのです。
でなければ「思想」の中でゆら〜〜と、慣れ親しんだことに守られて、変わることなく生きることだってぜんぜん可能なのです。



そして、福神漬けでいちいちこんな風にやってたら、もう頭ぐるぐるで日々が忙しいですよね。


なので、本当に自分が知りたいと思うことに哲学するというのが重要で、なんでもかんでも疑問に思って疑って、ということじゃなく、大辞林の定義のように「世界や人間についての知恵・原理を探究する」というシンプルなところに着地するのだと思います。


だからね、「カレーに福神漬け」はもう美味しいからいいよ(笑)。
その思想はそのまま成り行かせよう。
3世紀くらい先の人間に改めて考察してもらうテーマとして譲り、「当時の日本人には、カレーに福神漬けをのせるという思想が当たり前にあったのです」と言わせよう。



ただ、その疑問視や思考方法を、別の、もっと自分にとって存在の根幹に関わるようなテーマに向けてみようじゃないか。


福神漬けで考察したら最後に「なにも加えないそのままのカレーで喜び感じられない?」というところに来たように、“正しく” 哲学するプロセスを持つと、問題の本質であったり物事の本質のところまでたどり着くことができます。これが、心にとって大事なのです!

同じことに悩んでばかりの人は、これができないのです。



そして福神漬けの件で最終的に「カレーだけじゃだめ?」という地点に着地したように、最後に「本質的で正しい質問」にたどり着くことができます。


ここがすごく重要で、


「本質的で正しい質問」ができると、その時に「正しい答え」が(この世界に)同時発生するのです。


これが、賢者の思考方法です。


逆の言い方をすると、「的外れな質問をしている時は、正しい答えは(この世界に)発生しない」のです。

(*この件は大事すぎるので別でまた書きます。)




きゅーりのきゅーちゃんじゃだめかな〜、
べったら漬けだとどうなる?
漬物じゃないといけない?



とか考えていたあたりは「可能性を探る」ということには成功していますが、まだ「本質」に到着していません。
なので疑問と可能性の間を行き来します。
それはそれで楽しいこともあります。けっこう楽しいからこそ、ここで終わってしまう場合も多いです。
カレーに合う新たなトッピングを見つけられたら楽しいですもんね。



でも。

さっきの例えを使って「カレーに何かを添加」を「私に何かを添加」に置き換えてみてください。


(私が)これを持っていたら、いい感じかな。
(私が)これを買って身につけると素敵かな。
(私が)資格の勉強して取得できれば、有利かなあ。
(私が)旅行をたくさんできたら、幸福感増えるかな。
(私に)素晴らしい恋人がいたら完璧かなあ。
(私が)有名になったら気分いいかな。


みたいな。
確かにこの「可能性のプロセス」は楽しいかもしれない。
実際にそうなっても、そこそこ楽しいし物質的には満たされると思う。


でも、「カレーだけじゃいけないっけ?」

のところが、

「私って、なにか付け加えないとだめなの?」

というところにもし到着できるならば、


「そもそも、わたしってなんだ?」

という質問にまでたどり着くことができます。


このプロセスが哲学です。
宮元先生のおっしゃるように、自分の疑問や質問に「自覚的反省」をもって考察を繰り返すことができれば、最後に「本質的で正しい質問」にたどり着くことができます。








そして、


「そもそも、わたしってなんだ?」


これが、ヨーガ哲学のテーマです。

「自己」についての「知」を求める。

それがヨーガ哲学です。

ヨーガからあなたへの哲学的に正しい質問は

「あなたは、誰ですか?」

という、この一言に帰結するのです。



その他たくさんあった「質問」、それらも個人の人生や個人の経験にとっては大事なものがきっとたくさんあります。それはそれで大事にしつつ、ヨーガが投げかける究極の質問について、考えてみたいと思いませんか?


「あなたは、本当は誰ですか?」


自己はなにか、ということです。







あ〜長かった!!!

とりあえず、大事なところに到着できました。




思想と哲学の違い、というところから、ヨーガ哲学の本質的な質問までをお話してみました。


ちょっと時間を作って、自分がもうすでに持っていたり、無自覚に慣れている「思想」を考えてみるとおもしろいかもしれません。


そして、その中でも自分の「存在」とか、人生にとって大事なテーマに関わることであったら、「今までの当たり前が本当にそうなのかな」と「哲学」してみるとなお、おもしろいと思います。





長かったですね!!(笑)

Namaste
EMIRI

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