EMIRI MOROKA -HEART MATRIX-

師岡絵美里のブログです♪


2020年1月14日火曜日

インドの物理理論グナその3 心を浄化する手立て( EMIRIのメールでヨーガ講座・初級編)

<<新年企画>>


*こちらはメルマガで配信した記事になります。



EMIRIのメールでヨーガ講座
「初級編3・心を浄化する手立て」



新年企画としてメール講座的に書いています。


〜グナを見極めるには?〜


前回の配信で、「グナ」という古代インドの物理理論のお話をしました。ヨーガを考える上で最重要概念のひとつです。

前回は、グナを見極めるには心(知性)を純化しないといけない、というところまでお話しました。

プラーナの性質である「グナ」は、

・サットヴァ:純粋性・光や明るさの質

・タマス:停滞性・翳りや暗さの質

・ラジャス:活動性・動きや刺激の質



こんな感じでしたね。

で、ヨーガをやるっていうことは、とどのつまり「サットヴァ」を選択すること、というお話でした。




でもって、いざ実践しようという段階になり、サットヴァであろうと思ってもまず



「これはサットヴァなのか?ラジャスなのか?タマスなのか?」



というところで迷ったり誤認してしまいますと、実践のヨーガがなかなか進まないわけです。
(「迷うこと」も修行の段階ではあるのですが、そこから抜けられないんじゃ先がないですよね。)




また、サットヴァなるものを知識的に理解しても、普段の癖でラジャスやタマスに陥ったり、「欲求」の方が強い段階ですとサットヴァを認識してもそれを選択することができないんですよね。


体に悪いとわかっていながらも食べてしまう“なにか”、みたいな感じです(笑)。
もうなんにも創造的発展や純粋な気持ちがないとわかっている関係でも、ひとりになるのが怖くて別れられない、とかね(笑)。
次の日絶対に具合悪くなるってわかってるのに、深酒、とか(笑)。
これ一袋たべちゃったらすごい罪悪感と胃が気持ち悪くなるけど食べちゃうポテチ、とかですよ(笑)。
挙げたらキリなく、上記よりも「重い」ものはたくさんあるでしょう。




心が純化されるまでは、人は迷い、そして間違えます。



はじめのうちは、ただ単に「気持ちのいいもの」や「快適なもの」をサットヴァ(純粋の質)だと思ってしまう段階もあります。五感を満たす快楽の心地よさを、純粋性と勘違いしてしまうということですね。





サットヴァは、本来の自己であり真理そのものの性質であり、もしくは真理へと「つながる」ものの性質です。ラジャスやタマスを避けてサットヴァを選べる認知力が発達するまでは、自分の思考でこれを考えて見極める訓練をしていかないといけないんですね。




でも実際の世の中や、現代人の思考って、どうですか?



一般的な当たり前を信仰し、


情報に左右され、


人の目を気にして、


正解が(考えなくても)与えられることを期待し、


多くの人が言っていることをよく考えずにすぐ信じ、


自分や物事を決めつけ、


その時の感情に翻弄されながら、


上記のような心を習慣と惰性でなんとかバランスを取りながら、生きているわけです。



この状態で真理に心研ぎ澄まし、物事の真の性質を見極めることは、無理なんですね。





この世界に、真に「考えている」人はあまり多くいません。



それが心の生み出す「無知」の世界なのです。




では、そこから抜け出して、自分の目と心をクリアにするには、本当の意味で自分で「サットヴァに考え」、物事の「さが」を見極められるようになるにはどうしたらよいか。






それにはまず、前回のメガネの話で例えますと、きれいな布でメガネを拭いて、これまでの汚れを落とすことが必要です。



「メガネ(知性)が曇ったな〜〜」と、汚れた目の荒い布でレンズをごしごし拭いても、もっと汚れるしもっと傷がつきますね。もっと心が混乱して視界を悪くしてしまいます。




汚れたレンズを拭くための、きれいできめの細かい布


ヨーガの世界ではそれは「聖典学習」と「身体浄化の修行」、そして「帰依の心」です。




これは経典「ヨーガ・スートラ」による定義です。みっつを合わせて「クリヤーヨーガ(行為のヨーガ」と言います。






聖典学習で、経験で濁ってしまった知性に「真理」という浄化の知識を投入します。真理の知識は、汚れた体を洗う聖水にようなもので、この知識がないと経験の中で道に迷います。



身体浄化の修行によって、肉体や心が感情や欲求の奴隷にならない自己を確立させます。



帰依の心は「神への祈念」と言われ、放っておけば自己中心的になる人間の心を、より大きな存在を意識することで、いわば「人格」を清めます。





上記の三つは、どれかひとつだけやればいいというものではなく、三つを同時に行いましょう、と教えられます。




そしてこういった修練をすることで、体験することの「グナ」を見極め、サットヴァを選び、過度なラジャスや無自覚のタマスを避ける、という意識的な生き方ができるようになっていくわけです。



「心」に翻弄させられていた段階から、「心」を制御する自己を作っていきますと、心はサットヴァな対象に集中することができるようになり、真の穏やかさが育ち、そして瞑想が開かれていくわけですね。






グナを見極めるというのは相当に高度な心の状態で、それをヴィヴェーカ(識別)と言います。



グナの見極め。それはヨーガ哲学やその実践に入門された方が、その後もしばらく当たり続ける壁ではあるのですが、「グナの見極め」「グナの選択」という試行錯誤の体験というは、失敗も含めて重要だと私は思います。



何事も、理屈を教わっただけではそれを真に経験することはできず、ヨーガも知識を得ることと同時に、実践されなければ自分のものにならないのですよね。



というわけで、今回は「心を浄化する手立て」についてお話しました。

次回に続きます♫


さらなる興味がわいた方や、もっと深く知りたい方はぜひ開催中・募集中のオンライン講座などもチェックしてみてください。




本日も最後までお読みくださりありがとうございます。

ナマステ

EMIRI

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