EMIRI MOROKA -HEART MATRIX-

師岡絵美里のブログです♪


2016年2月20日土曜日

与えることについてのよくある誤解と、愛の本質



散文です。詩のように。


整理して書く時間が今はないので、このままで。








”与えること”




それは大事なコンセプトだし




与えるというのはすばらしいこと





しかし ”与える” という行為の前提に



「わたしの」



という気持ちがくっついているかぎり



与えることも



いつか苦しみになる








最初はまだ、それでも上手くいくんだ



”与える”ことができると



自分が大きくなれたような



優等感めいたものもかんじられる




でもそれが続く限りはエゴの肥やし




「わたし」はうぬぼれたり落ち込んだりを繰り返す









確かに与えることは多くの人にとってのテーマでもある





でも「誰が」与えるのか








 わたしが わたしの 愛を与える



とか



  わたしが わたしの 時間を与える



とか



 わたしが わたしの 優しさを 与える

わたしが わたしの 許しを 与える

 わたしが わたしの 寛容を 与える  




などなどなど







どんなに与えても、




こんなふうに ”所有格” 付きの愛を差し出していたら




そこには充足も安息もない







「自分のものを人に与えている」



という発想そのものが不幸だから









バガヴァッドギーターにはこうある



  行為しながら、行為を手放せ





どんなすばらしいことをやったとしても、それを「する」のは「わたし」ではなく



神である



ヨーガ・スートラの言葉では



イーシュワラプラニダーナ(永遠なるものへの帰依)






どんな素晴らしい行為であっても



「わたしがやった」と思ってる限り自我が黙ることはなく



結果として新たな切望・渇望が起こる




「自分が自分の所有するなにか(それが感情であっても物であっても)を与えている」



と思っているから、だから




うまいこと受け取ってもらえなかった時に「不満」を持ったりする


ああそれはとても、救いがない






相手の受け取り方やその後の処理方法にリクエストがあるくらいなら



与えたりしなう方がいい、お互いのために




結果への期待を手放せていないうちは



与えても


見返りを求める自分の心の作用に毒される








バガヴァッドギーターのエッセンスをもう一回借りてみる



自分のことを



「愛を与える行為者である」



とみなしている限り



その心に最終的な平安が来る事がない










(これは伝わっているのか?わからないけれど!)




自身の「行為」に「自己」に帰属させ


「わたし」に愛や優しさ、寛容、許しと言った肌触りのよい概念を「所有」させたうえで与えているかぎり



人は孤独から自由にはなれず



二元性を超える事ができない





愛は本来、



与える事も受け取ることも必要としていない ”なにか” 





私たちは、数々の業の中で


心の浄化と純粋な完全性を取り戻すために



「与える」


というレッスンを通じて


愛の完全性がどんなものなのかを思い出している


ただそれだけであり



愛は本来、誰のものでもない




与えても、与えても、なお満たされないのなら、



心のなかで「わたしの」と思っているから



それは誰のものでもないから





数々の業の中で




私たちはまだ生きている



与えることを通じて




与えるという次元も超えて行こう



ただそこにあるものだから

























なんてね。



わたしがごちゃごちゃ言うよりも



この歌大好き。(笑)














Namaste
師岡絵美里




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