EMIRI MOROKA -HEART MATRIX-

師岡絵美里のブログです♪


2019年9月29日日曜日

質問・相談コーナー「甘いものを食べすぎてしまう」


生徒さんからの質問・相談コーナー


Q:甘いものを食べすぎてしまうのをやめるにはどうしたらいいですか。

はい。



<肉体的アドバイス>

身体的なこととして。

実は甘いものじゃなくて、塩分、ミネラルが不足しているという可能性があるかもしれないですよ。甘いものが食べたくなったらまず水を飲んで、そしてちょっとしょっぱいものを(たくさんじゃなくね)つまんでみるといいかもしれないです。


甘いものを食べるにしても「ちょっとにしておく」ことができるといいですよね。一袋開けちゃう、とかじゃなくw


そんな時に思い出してほしいのは、脳に酸素を送ること。脳の酸欠や血液不足をごまかしたいために甘いものがほしくなっている可能性あり。
知っているものでいいので呼吸法を5分やって新たな酸素を送り込んでください。

甘いものは悪じゃない。摂りすぎは体に良くないことと、その依存性の高さにやられてしまうのが問題なのですな。







<心理的アドバイス>

壮大な視野に持ち込む作戦、あるいは懐柔は蜜よりも甘し。



「甘いものを食べる」という習慣ではなく、「甘いものが食べたいと思うこと(欲しがること)」が習慣になっているケースが多いと思うのです。食べちゃう理由ってこれが一番のような気がします。

気持ちの癖、ですね。


甘いものを買いそうになったり、見てしまった時に、

「あ、要らないものだ」

と最初は無理やりにでも思ってみてください(笑)。

どん〜〜どん、大げさに考えるといいです。


「あ、要らないものだ」


「あ、要らないものがこんなにもたくさん並んでいる」


「あ、要らないものなんだけど、さも要るように広告されている」


「あ!要らないものなのに、こんなにも人は手にとっていく」


「パッケージの写真を見ただけで、味覚が反応し脳内の分泌に変化が起こるという感覚的な体験はもうすでに始まっているのだ・・・だから手にとってしまうのだ・・・」


「むうううう・・・要らないものを要るを思わせている権力が、この世界にはたしかにある・・・」


「踊らされてはいけない。“甘いもの”は表層に現れたシンボルにすぎない。私たちは人生にさほど必要なく、もっと言えば思考停止に陥って本当に必要なものを見失う麻薬を、必要なものだと思い込まされているのだ。」


「わたしたちは感覚を麻痺させて制御するという支配構造の中にはまっている・・・しかしそのわなに自ら入っていっているのは・・・

わたしたち自身じゃないか・・・!」


「おお!神よ・・・・」




はい。
このくらいいきましょう。習慣に勝つには習慣を圧倒するほどのインパクトが大事です。

アホみたいだけどやってみてください。
お菓子ひとつ買うにも、だんだんと「問題」を抽象化していきます。

なにをおおげさな、と言うだけの人は変わらず習慣と感覚の奴隷でしょう。ばかばかしくてもやってみる人だけに、その人に必要な気づきと変化は与えれます。




と言いつつ私だって完全に甘いものなしじゃないし、美味しく感じることもよくあります。

和菓子系のしっとりした甘さが好きだ!

でもね、ちょっとでいいし、たまにでいいので、甘いものの食べたさにに束縛されている感じはないんですよね。なのでそんな大問題じゃないし、想念の煩わしさはないのです。


甘いものを欲してしまう時、甘いものからの束縛感や、服従してしまう感覚が「苦」なのだと思います。



だったらもうこっちが甘いものを征服してやればいいです。

(極端な発想)



甘いものが目の前にあったら言ってやったらいいですよ。


「なるほど、君はそんなに甘いものなのか。じゃあそのままそこでじっとしていなさい。私は君が甘いという理由だけで食べたりはしないから心配することはない。そこで自由に甘くあれ。いずれ他の人間に必要とされるであろう。」



とかね。もう上から目線ですよ(笑)。

てゆうかこれ、甘いものを服従させるのではなく、自分の思考の操作ですね(笑)。

だいたいのことをユーモアで乗り切る、ということで。あはは。







<真理的アドバイス>

ヨーガの精神性でアドバイスします。



バガヴァッドギーター3章より

「神々の祭祀に捧げないで与えられたものだけを享受するものは盗賊に他ならぬ。

祭祀(祈りとしての行為)の残りものを食べる善人はすべての罪悪から解放される。

しかし自分のためだけに調理する悪人は罪を食べる。」





ここに出てくる「祭祀(さいし)」というのは、神に祈りを捧げる行為のことでありその儀式をさします。



まず自分の家に「祭壇」を作ってください。
祀る神様はご自分の信仰や好きな対象でいいです。

祭壇に「甘いもの」をいったん置きましょう。

世界の中心は自分ではなく、自分は世界そのものの運行に参加していて、それは大いなる存在によって生み出され支えられ、そして肉体と魂の人生は宇宙や地球環境に支えられている、それが自分であることを考えてください。


その他なんでも、自分のことはちょっとおいといて、この世界に祈ってみてください。


そのあとで、祭壇に捧げた「甘いもの」を


「祭祀の残りものをいただく」



という発想で食べてください。

やってみてください。自分の五感を満たそうと貪る気持ちがなくなっていると思います。


ギーターのこの節は、「食べる」ということをその他すべての「行為」の象徴として語っているので、食べることのみを言っているのではありません。


食べるも含めて「行為」が無知(真理から遠ざかる質)に置かれていると、それは罪悪(真理から遠ざかる結果)になります。


祭壇までいかなくても、食べる前に手を合わせて祈ってみてください。外出先でも可能ですね。

五感を満たそうとする欲求から心を引き離した瞬間を少し持つだけでも、貪る気持ちが薄まって、そのあとの行為の質を変えてくれるはずです。



まあね〜〜〜、甘いもの食べるために祈ったり儀式したりwww
だい〜〜ぶおおげさに感じるかもしれないですが、でもそのくらいおおげさにやってみるといいと思いますよ。

ちょっとやそっと気をつけようと思っても、これまでの習慣や味覚の快楽に巻き込まれてしまうようであれば、このくらい非日常的でインパクトのあるおおげささで発想の転換くらいしないと、やっぱり五感って強いので簡単に変えられないと思います。





<まとめ>

「甘いものが好き」と「甘いものを食べるのがやめられない」は別のことですよね。でもなんかいっしょくたになっちゃって「だって好きなんだももももん」とか言ってしまうともう、誰もなんも言えなくなります。後者の方は、ようは「不自由」に困っているのです。感覚に支配されちゃっているので不自由なのです。

そこをよく考えて、いったい何を満たしたいがために感覚を満たすのかを考えてみてください。

なんであれ「癖」に流れるというのは、けっこう不自由なものです。




というわけで、甘いものはおいしい。そこは否定せずでいいと思います。マロンな秋ですね❤️

namaste
 EMIRI

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