連日の大雨の日のことですが、先日家の近くの道路でバスを待っていていました。
傘はもちろんさしてましたがレインコートまでは着てなくて、
雨量が大変多く傘は胸から上が濡れない程度のカバーでしかありませんでした。
歩道のない道だったので、自分のすぐ近くを車が通っていきます。
そんな中、多くの車が私を含め生身の歩行者たちに、盛大に水しぶきを浴びせては走り去って行きました。
時々スピードを緩めて通過してくれる車もありますが、ほとんどは私たちに大量の水が勢いよくかかっていることなど感知もしないで走っているのだと思いました。
何度も続くとまるでテーマパークの水しぶきを浴びる設定のアトラクションのようにすら思え、すでに服は濡れているので水に対してはあきらめの境地に。
でもお年寄りとか、子どもはさすがに可哀想です。そして危ないなと感じます。
その中で、抗わずに、なるがままに立っている時に私は
「パンチャコーシャ」の教えを思いました。
「パンチャコーシャ」というのはインドの古い叡智の中にある「身体五層論」という思想で、人間存在とは五層からなるという考え方です。
パンチャは五、コーシャは鞘、という意味合いで、それぞれに性格の違う鞘が重なって、私たちが体験と呼んでいる活動をしています。
一番外側が肉体の鞘で、一番内側が真の自己意識です。
外側の肉体の層が一番目の荒い粗大な領域で、内側に行けば行くほど精妙な領域の層になります。
内側(もっとも精妙な方)から書いて行くと以下の順になります。
下に行けば行くほど粗大な領域です。
歓喜鞘(アーナンダマヤコーシャ) :存在の本質の層
↓
理知鞘(ギャナマヤコーシャ):知性の層
↓
意思鞘(マノマヤコーシャ) :感情や心の働きの層
↓
生気鞘(プラーナマヤコーシャ) :気の層
↓
食物鞘(アンナマヤコーシャ) :食物連鎖の層・肉体
↓
理知鞘(ギャナマヤコーシャ):知性の層
意思鞘(マノマヤコーシャ) :感情や心の働きの層
生気鞘(プラーナマヤコーシャ) :気の層
食物鞘(アンナマヤコーシャ) :食物連鎖の層・肉体
人というのは肉体および感覚器官の有り様がすべてではなく、人の存在の本質は「意識」です。
私たち人は、本来純粋な意識で、起こっているすべての事象を同時性をもって感知しうるものなのですが、いくつもの鞘に自己の本質を包むことで本来の全知性から遠ざかります。
バスを待っている間に車に水しぶきを浴びせられながら思ったのは、この「層」のことです。
肉体に包まれているだけでもかなりの低感度にレベルを下げていて、
自分自身の行っている行為や思っていることが、他に対してどんな影響を与えているのかが感知できなくなってしまうのね、と。
さらに肉体を「何か」につつむと、もっと感度が低くなって行くもので、硬いもの機械的なもので自分を包むと、
外に対しての感度はまた下がる傾向にあるんだな、とね。
外に対しての感度はまた下がる傾向にあるんだな、とね。
総じて、
「包めば包むほど、鈍感になるんだなあ〜〜」
って、ただそれだけなんですが(笑)
そう、包めば包むほど、鈍感になるのです。
でも、包まれてても感性を働かせて美しく走行するドライバーもいますし、レーサーなんかは最たるもので。
肉体を持っていても清い心で他者を傷つけないように生きる人もいます。
肉体を持っていても清い心で他者を傷つけないように生きる人もいます。
なので、まだまだ私たち人類は三次元「包まれライフ」ですが、
目の粗い肉体の層を持ちながらも、自分の行動の余波や、全体とのつながりの中での作用を感じて、信じていたいものです。
そうすれば、清々しくいくことや優しくいることに躊躇はないと思います。
0 件のコメント:
コメントを投稿