娘と語るブッダの教え
「ダイバダッタのお話編」
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うちのブッダ |
娘(11歳)に、お話をせがむことがあります(笑)。
ブッダのエピソードに詳しい娘に、
「ねえ、ダイバダッタ(提婆達多)の話が聴きたい。」
というと、喜んで話してくれます。
(「あとでいい?」と言われることもあります、爆)
ダイバダッタはブッダの弟子でありながら、ブッダへの昔からの嫉妬や憎悪を払拭しきれず、ブッダを殺そうと図った人物です。
当時繁栄した王国であったマガダ国のアジャセ王子と友達になったダイバダッタは、恨めしいブッダをやり込める策として、アジャセ王子を味方につけ、精神的に支配し、王子にその父であるビンビシャラ王を殺させよう、と図りました。
自分と近しいアジャセ王子を王様にすれば、最強のマガダ国をバックにつけた教団を作ってブッダを越えることができるではないかわっはっは、と。
ダイバダッタに乗せられたアジャセ王子は父を幽閉して殺してしまいました。
同時にダイバダッタはブッダを殺そうとします。
上から巨大な石を落として事故死と見せかけようとしたり、酒に酔わせた象をブッダに向かわせたり、ブッダの弟子たちを仲間割れさせようとしたり・・・いろいろします。
でもブッダは、ダイバダッタのいろんな策略にはまらず、むしろいつも通り人々を真理へと導き、そのうちに、かのアジャセやその母親もブッダに帰依しちゃいます。
絶大な後ろ盾も失ったダイバダッタにはもう自爆的な行為しか行えず、自ら仕組んだ毒薬が自分に回ってしまい、壮絶な死を遂げます。
とのことを、娘の、時々脱線するところや(サブキャラの話をもっとしたくなったり)、時系列が前後したり、主語がなくて誰のことを言っているのかわからなくなる部分などに「補助輪っか」をつけるようにサポートしながら、物語を話してもらいます。
これってすごくおもしろくて、娘の中でもその物語がどんどん生きてくるのがわかります。知っているだけではなく、誰かに話すってすごいことですね。
「それで、ダイバダッタの話からわかることってなんじゃろね。」
と最後に聞いてみたら、娘は言いました。
「嫉妬と憎しみは自分を殺す、ってことじゃない。」
と。
「ブッダは、嫉妬や憎しみで体を動かすと、それがいつか自分に帰ってくる、ってダイバダッタに言ったね。」
と娘。
「体を動かすと」というのは、それを動機に行動をすると、ということですね。
また、
「あなたが本当に争っていたのは私(ブッダ)ではなく、自分自身です、って言っていたね。それってさ、ドゥルヨーダナと同じだね。」
と。(ドゥルヨーダナについては、前の記事をご覧ください。インドのマハーバーラタの登場人物です。)
とのこと。
・・・・。
深いですねーーーーーー(笑)。
自分で仕掛けた毒が自分を殺した。
このことも、内面で起こったことを表しているように思います。
「相手の不幸を望む」という感情の毒が、自分に返ってくるという法則を物語っています。
ダイバダッタのことを他人事と思わずに、自分のこととして考えよ、というのが仏教としての教えでしょうね。
そんな恨みや妬みは私にはないわ、ではなく、ダイバダッタは全ての人の中にある最も低い煩悩を表現している。
こういったエピソードの中の誰かを「悪者」にして誰かを「正義」とするのではなく、自分を振り返る鏡とするのが学びですね。
だってブッダのような人であっても、そんなにも恨まれ憎しみを向けられるわけです。
自分でいいと思う道を歩んでいても、勘違いされ、理解されず、嫌われることがあります。
そんな時ブッダは「どうしていたか」。
いつも通り、真理を説いていました。
いつも通り。
自分のことを嫌う人や悪く思う人がいたとしても、その人を説得することはできないことがほとんどです。
特に相手が、自分の思いを正当化している時は、相容れられるスペースがありません。
だから、しかたない。 しかたないはいわゆる諦めではなく、スペースのないところに無理には入れないという物理的なことです。
これも自分に振り返ると、自分が自分を正当化していると、誰も入ってこれなくなるんだな、ということを学ぶ機会ですね。
ダイバダッタのように自分を嫌う人がいても、せめてこちらは、ブッダのようにスペースを開いて、いつも通りで。
そんな感じだと思います。
娘が繰り広げる哲学的なエピソードをメルマガやブログなどに載せるととても人気で(笑)。実際に会える範囲にいる読者さんから、もっと聞きたいと言ってもらえます。 わかりますよ〜(笑) ティーンの純粋な洞察ってのはすごいものがあり、大人に近づいた解析力と、大人よりもフィルターなく物事を捉える目線が、絶妙なんですよね。 小学生のうちにたくさん聞いておこうと思います。 中学入ったら、思春期になったら・・、また別のフェーズに行ってしまうのがわかるので(笑)。
追記:
ちなみに、私はヨーガ哲学と仏教思想は切り離して学ぶようにしてます。
近いところもあるけど、バラモン教(そしてのちのヒンドゥー教)と仏教の決定的な違いを知ることで、双方の言っていることや目的を客観的に理解しようと勤めています。(信仰心に関してはもっと主体的な経験から双方のそれぞれに心を開いています。)
ヨーガ哲学と仏教思想は、混ぜて勉強すると「合致が行かないところ」で疑問と不要な苦悩が起こると思います。ので、入門者の皆さんは特にお気をつけください。ある程度学びが進むと、それぞれを合わせて考えられるようになりますので、そこまでは分けて学ぶのがいいと思います。
娘もその辺は理解できるようになってきて、ヴェーダの内容の時代的必然要素における変遷と、ブッダ個人の考え、そしてのちの仏教繁栄の背景をいつも分けて教えるようにしています。
そんな話もまた。
最後まで読んでくださりありがとうございます。
Namaste EMIRI |
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