絵美里のヨーガコラム
विशोक vishokaa
カタカナ表記は例によって書きにくいのですが、ヴィショーカ、とかヴィジョーカ、とかそんな感じです。
ヨーガスートラ第一章36節、お手元にある方は見てみてください。
vishokaa vaa jyotishmatii
「あるいは、永遠の至福に満ちた、うちなる無上の光に集中することによって。」
・・集中することによって、心の平安は保たれ、それが維持され、瞑想の習熟度があがると、いつか悟りの境地に行きますよ。
ということです。
このvishokaaというのは、
free from sorrow
という意を持ちます。
悲しみからの自由、ですね。
ここで言う悲しみとは、一時的な感情のことだけではなく、人が普遍的に持ってしまう悲しみを表します。
つまり、老いる事への悲しみ、病気を持つ事の悲しみ、人との関係や距離が変わることへの悲しみ、同じ状態を保つことができない、変わってしまうことへの悲しみ、などです。
これらはすべて、自分自身の本質への理解から心が離れてしまった時に持つ、人間の思考パターンです。
すべてのものは永遠に同じかたちを保つことはできません。
それでも人は、「変わらない」ということに執着を持つ心の癖があり、この癖は一番大きな恐れである
死への恐怖
に根っこがつながっているため、とても根深いものです。
肉体を持った時点で一緒に得る感覚でもあります。
しかし、ヨーガの聖典を解説するグルたちによると、
この「悲しみ」はどこかからやって来てあなたの心をガシッと掴んでしまう魔物のようなものではなく
「あなた自身が取りに行ったことで得た考えである」
と説明します。
最初は、誰かそういう風に思っている人が近くにいる人が、あるいはほぼみんなが「そう思ってる」ことの影響されて持った感覚かもしれません。なんでも最初はそのケースが多いです。
しかし、ヨーガでは
自分が何を信じるかは、自分で選べる
ということを常に教えています。
もちろんそれが「間違ったもの」であると真理から離れてしまうので、聖典やよき教えを常に学びなさいというのが基本設定なんですが、
その中で、日常を行きながら
なにに心を集中させるかを、常に自分で選ぶことができるように・・・
なってくるんですね。
だんだん。
スートラ1-36
「あるいは、永遠の至福に満ちた、うちなる無上の光に集中することによって。」
これは、「認識の連続」とも言えると思います。
自分自身の中に純粋で何からも汚されない領域、真の自己がある、ということをイメージすることくらいはできそうです。
ただ、それに毎秒集中できるか。
それは「認識を継続する」ことです。
わたしとは、光である
私とは無上の光である
そのことを「何があっても」信じていられて、得に何かいつもと違うような緊急事態の時や、心がぐらつくような出来事に遭遇した時にこそ、その「認識の連続」をきらないでいられるか、です。
心地よい空間の中で瞑想している時だけではなく、実生活の中で。絶え間ない心の動きの中で。
頭の中で「言葉」が暴れ出すと、思考はある種パニックになり焦りや苛立ちの中で、安定と判定力を失っていきます。
そういう時は、この言葉をつぶやいてみるといいかもしれないです。
vishokaa:free from sorrow
私はこの悲しみ、恐れと無関係です。
と。
「自由」だとピンと来ない場合は、「無関係」くらいに言っておくと、普段使いできるのではないかと思います(笑)。
こんな感じでね、ヨーガスートラと仲良くなって、考え方の整理や心の置き所が上手になるように、もっと突っ込んで勉強した方は、
「みんなのヨーガスートラ・オンライン講座」
もご利用ください。
今日はこんな感じです。
Namaste
絵美里
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