「エントロピー」からの考察。
ヨーガ先生仲間や友人と、哲学や思想、心の話をよくします。
その中で、いろいろな話題において説明理論として「エントロピー」という概念をよく持ち出します。
“ああ、それはかなりのエントロピー増大だね”
とか、
“エントロピー高まりすぎちゃって戻れないから、別の方向に向かうしかないね”
とか。
「エントロピー」って言葉や考え方って、みなさんは使いますか?
私や、話の視点が合う友人との会話の中ではわりと頻出します。
エントロピーってなんじゃろか。
Wikipediaなんかで調べてみると、こんな複雑な説明がのってます。
『エントロピー(英: entropy)は、熱力学および統計力学において定義される示量性の状態量である。熱力学において断熱条件下での不可逆性を表す指標として導入され、統計力学において系の微視的な「乱雑さ」を表す物理量という意味付けがなされた。 ・・・ エントロピーは熱力学における断熱過程の不可逆性を特徴付ける量として位置付けられる。』
うーーん・・・
知らなかった人がこれを読んでも、わけわからん説明ですよね(笑)。
「熱力学」とかそういう難しい定義はちょっと置いておいて、もっとかなり平ったくして、私&友人らで話す時にどのような意味合いで使っているかと言いますと、
『物事が展開して複雑(乱雑)になっちゃって、もう元の状態に戻ろうと思っても、最初までは戻れない。』
という感じ。
その「進行度合い」であったり「戻れない(不可逆性)の分岐点」をどのくらい経過してしまったか、などもいっしょくたに話しているので、物理学の定義みたいにきっちり正確に使っているわけではないのですが、話の文脈でそのあたりは通じるわけです。
エントロピー。友人がこんな例えで言っていた。わかりやす、と思った。
例えば、砂浜にひとつの目覚まし時計があったとします。
まだ目覚まし時計がその形と役割をなしている状態を「元」とすると、ここをエントロピー0、とします。
その目覚まし時計が、波に流されました。そして海を漂いながら、だんだんとその時計が状態を変えていく、とします。
海水に泳がされ、外側のカバーが取れました。エントロピー1。
長い針が取れちゃいました。エントロピー2。
短い針も、取れちゃいました。エントロピー3。
秒針もどっかいっちゃいました。・・・4。
文字盤も、外れちゃいました。・・・5。
(*この数字はたとえです。わかりやすくしてるだけ。どっちかというと数字は足し算ではなく乗算的でしょうね。)
その後も時計(だったもの)は海水に泳がされて、接着がはずれたり何かにぶつかったり時間が経過したり、なんらかの過程で、パーツが、ひとつまたひとつと分解されて、潮に流されて、散り散りになっていきます。
ほぼ分解されて波に運ばれ場所も遠くへ。
ここまできちゃうと、そのパーツが全部同じ場所に還ってきて、元の目覚まし時計に戻れる可能性って0ですよね。100歩譲ってなんらかの奇跡が起こって元の時計に戻ることもあるかもしれない、その可能性を残したとしても、物理的にはほぼ可能性0です。「確率」のお話ですと、ね。
エントロピーが高まれば高まるほど、不可逆性も高まります。戻れる可能性がなくなっていく、ということです。
展開と複雑さを高めていく過程で
「ここを通過したらもう、ひとつ前の段階に戻ることはできません」
という分岐点を通っていきます。
その分岐点をなんども通過すればするほど、元に戻れなくなります。
元に戻れないなら、そこで止まるか、さらに進行するか、しかないんですね。
不可逆性の分岐点。これを料理で例えるなら。
じゃがいもを使って、コロッケにすることもできれば、カレー(日本のカレーのイメージ)にすることもできます。
不可逆性の分岐点は「茹でたじゃがいもを〜〜しました」というポイントからですね。
茹でたじゃがいもと「カレーのルーを合わせて」煮込んで味が染み込んでしまったら、もう「コロッケになれる可能性がある分岐点」まで戻れません。
茹でたじゃがいもを「つぶして」味付けして衣つけて油で揚げた後で、無理くり
「ここからカレーにしよう!」
と思ってコロッケをカレーの鍋の中に入れて煮込んでも・・・(笑)
普通に作ったカレーのごろんとしたじゃがいもには戻れず、それはそれで
「別のスタイルのカレー(ドロドロのコロッケの入ってるカレーwww)」
になります。
複雑ですね!!!
これって、物理現象の多くのことに言えます。
これですべて説明しなくてもいいのですが(実際できないし)、でもこの考え方も加えて物事を見ていると、現実というものの現在地が見えやすくなったり、良い意味で諦めがついたりします。
つまり、もう元に戻らないものを見て「戻れ」と期待したり願うことがなくなる。
過去の「ある分岐点」をなんども超えてしまった事象を「いつかのあのときの」的に元に戻そうなど、物理的にも確率的にもできないことを客観視すると「この先を進める」しかない。進んだ先を、なんらかの良きものにしていく努力しかないのだな、と思えるわけです。
もしくは・・・
あまりにもエントロピーが高まってしまったものを、どうにか「元」に近い状態に戻すとなると、
破壊する
という選択になります。
複雑になりすぎた組織や、先に進む策も見当たらなくなった案件、そういったものはしばしば破壊をもって鎮静されたりします。
グループも、もう解散するしかないという段階があったりしますし、人間関係でもそうかもですね。解体するしかない。
高まったエントロピーをどうにかするのには、最終的な段階だとは思いますが、「破壊」もひとつの手です。
でも・・・人間は、自分たちの手では破壊もできない物も作っちゃいました。 ウラン・プルトニウム。 処理できないレベルまでエントロピーを高めた結果。退行することも破壊することも今の所できない。埋めるしかないけど埋めても放射線は発生して、なんらかの影響を送り出してくるもの。
まあここでは、そういった人類規模のお話はちょっと今は置いておきまして、私たちの個人の人生について話すならば。
人の人生で、「こうしたい」「ああなりたい」と思うところ、いろいろかもしれないのですが、
もしも、すでにそれに関して「高まったエントロピー」を抱えた状態であるなら、不可逆性を無視した事柄を望んでしまうと、そこにたどり着くことは(確率的に)ないんですよね。
だから、新しい方向性を見つける。
ないしは、方向性のひとつとして「一回壊す」という段階もあるのだと思います。 転職とか、引っ越しとか、旅に出るとか、一回完全に離れるとか、そういったことも「一回壊す」要素になり得て、次を生み出すスイッチになることが多いと思います。
そういう意味で、私が個人的にも職業的にも傾向しているインドの思想の中に、「破壊と再生」を司る神としてシヴァ神が最高神のひとつとして崇められているのも、納得がいくわけです。
私たちの人生=物理現象というのは、多くの場合が「要素を重ねていくこと」で展開しています。
これはもう、良いとか悪いとかじゃない、物理ですね。
心も。心もそうだと思います。
とくに「記憶」という装置が働いているので、0にしても痕跡は残る。 ですから、日々まめにリセットして、決して0には戻れなくても、エントロピーを高めすぎないでいるのもひとつの心の平和だと思います。瞑想するとか、運動するとか、溜め込まないで人に話してみる、とか。
ヨーガは、そういった心の平和に役立つ精神の科学だ、と私は思っています。
「カレーになりたかったけど、コロッケの私。」
「コロッケ目指したけど、カレーに着いた私。」
たしかにそういうことって、あると思います。
もしそうだったとしても、不可逆性の過去を見つめるより、可能性のある今と未来を見つめることで、何かを見いだせると思います。
(時として不可逆の分岐点を振り返るのもひとつの前進ですけどね!)
独り言。
カレーとコロッケだったら、それぞれ別のものとしての組み合わせとしては良いじゃないか!!!
という意味で、あまりパンチの効いた例えにならなかったけど、もう他の例えをひねり出せないからこのままアップしてしまえ、という己の不可逆性に悶えます。
人間を科学する時、いろいろな物理理論は役に立ちます。
またこんな話もしましょう。
長かったですね(笑)
最後まで読んでしまったあなたはきっとヨーガ哲学な人。
読んでくださりありがとうございます。
未来に希望を。
ナマステ
EMIRI
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