ヨーガスートラに「ラーガ」と「ドヴェーシャ」という教えがあります。
(※カタカナ表記は実際のサンスクリットの音を表現しきれないことをご了承ください。)
ラーガは、一言で言うと「執着」なんですが、
好ましい感覚を得た事により、その事柄をまた求める、または手に入れたものを(快であるがゆえに)離さない、という感じ。
快体験との同一視、という風にも言われます。
ドヴェーシャは、苦を感じた体験により、その事柄を避けたいという感じです。苦体験との同一視。
この教えは、他の節を重要にかかわり合っているすごーく大事な節だと私は思っています。
ヨーガ・スートラの二章の最初の方にでてきますので、本をお持ちの方はぜひ再度読んでみてください。
ヨーガスートラは時に、散文的で実はまとまってないなどと評されることもあります。
まあそういわんといて、とも思うのですが・・・インドの他の歴代書物の構成や韻律などがすごすぎる、ということを知ってしまうと、比較した場合にそう感じることもあるのかもしれないです。
かも、です。
でも。
でも私が個人的に感じるのは、
実際に、本当にこのヨーガ・スートラの書かれていることに思いをはせながら人としてのリアルな領域を生きていると、
絶妙だ・・・
と思えるくらいにその構成や順序が生き生きとつながってくるものです。
「できなさ」とか「つまずき」とかにちゃんと寄り添っているのだと思います。
人間のダメなところに、ちょうどいいタイミングで釘をさしたり、策を与えたり。
その哲学や書物の完成度は後世の人々の心と行為によって決定されるのであれば、自信持って私はヨーガ・スートラが好きだ。
「好きだ」っていう述部もおかしい文章だが(笑)、そうとしか書けない。
(※カタカナ表記は実際のサンスクリットの音を表現しきれないことをご了承ください。)
ラーガは、一言で言うと「執着」なんですが、
好ましい感覚を得た事により、その事柄をまた求める、または手に入れたものを(快であるがゆえに)離さない、という感じ。
快体験との同一視、という風にも言われます。
ドヴェーシャは、苦を感じた体験により、その事柄を避けたいという感じです。苦体験との同一視。
この教えは、他の節を重要にかかわり合っているすごーく大事な節だと私は思っています。
ヨーガ・スートラの二章の最初の方にでてきますので、本をお持ちの方はぜひ再度読んでみてください。
ヨーガスートラは時に、散文的で実はまとまってないなどと評されることもあります。
まあそういわんといて、とも思うのですが・・・インドの他の歴代書物の構成や韻律などがすごすぎる、ということを知ってしまうと、比較した場合にそう感じることもあるのかもしれないです。
かも、です。
でも。
でも私が個人的に感じるのは、
実際に、本当にこのヨーガ・スートラの書かれていることに思いをはせながら人としてのリアルな領域を生きていると、
絶妙だ・・・
と思えるくらいにその構成や順序が生き生きとつながってくるものです。
「できなさ」とか「つまずき」とかにちゃんと寄り添っているのだと思います。
人間のダメなところに、ちょうどいいタイミングで釘をさしたり、策を与えたり。
その哲学や書物の完成度は後世の人々の心と行為によって決定されるのであれば、自信持って私はヨーガ・スートラが好きだ。
「好きだ」っていう述部もおかしい文章だが(笑)、そうとしか書けない。
前出の「ラーガ」と「ドヴェーシャ」もです。
ヨーガ・スートラと言えば、第二章の中盤以降の「ヨーガの八支則」があまりにも有名で、なおかつ多くのヨガ入門者がいきなりそこから入ろうとしてつまずくところでもあります。
ヨーガ・スートラでもコンテキストがとても大事だと思うのです。
その前になんて書いてあって、
そしてどこに行こうとしているのか。
好きとか嫌いとか、
気持ちいいとか、不快とか、
そういったものは、人間が日常の中でとても頻繁に持つ感情・感覚です。意識してなくても、心の中で選別して支配されています。
それらを、ある程度客観的に整理して見る事ができれば、
八支則もどこに向かっているのかがわかります。
根気がいるんだけどね。。
だったら本当に何年単位とかでインドのアシュラムにこもったほうがいいんじゃないかと思うくらい、私たちの一般生活の普通の日常の中でこれを自己努力するのは、気力がいる。
だから生徒さんには強要はしない。
これらの思索に疲れてしまって、学ぶ前のほうが楽しくいきててんじゃないか、という人だっているくらいだ。
実際に、もともと体質的に精神修行に耐性がない人もいるので、
今の段階でそのステージで調和してるっていう人に、
あえて理論なんぞを振り回すつもりなんてない。
必要な人に、ラーガ、ドヴェーシャを自己観察するメリットは多いにあるのでそれは伝えてはおきたいなと思っています。
結局、日常の中ですべての好き嫌いを「排除」できたりはしないと思います。
体質があるからしょうがないところもあるし。
というわけで、完璧にできたい気持ちは自分を縛るだけ。
実践にもポイントがあると思うのです。
自分の性質を理解することと、それに束縛されないこと。
好き嫌いでシリアスにならないこと。
好き嫌いで思考が作り上げるドラマにはまらないこと。
どうでもいいものに没頭しないこと。
これらを意識してなおかつある程度でもいいのでできれば、
人生はかなり軽やかだと思うのです。
快不快によって心を支配される傾向から数パーセントでも脱却しただけで、人生はとても「楽」になるから。
ここで言う楽とは、心の乱れや低迷からの自由、という意味での楽。
そんな感じです。
感性が静かに爆発型のわたしはいつもアンテナ。
インテリ大学筋肉運動学部所属、って感じの私。
そしてこんな私も段階的に成長していると思うので
同じタイトルで「続き」を書いたりというのはあまりできないのですが
これまでの記事とかこれからの記事に曼荼羅式でリンクしていると思うので、
どこかでこの話の着地点を感じ取っていただければ幸いです。
ま、着地しなくてもいんだけどね(笑)
みなさんの貴重な時間、これを読んでくださって本当にありがとう。
Namaste
師岡絵美里
ヨーガ・スートラと言えば、第二章の中盤以降の「ヨーガの八支則」があまりにも有名で、なおかつ多くのヨガ入門者がいきなりそこから入ろうとしてつまずくところでもあります。
ヨーガ・スートラでもコンテキストがとても大事だと思うのです。
その前になんて書いてあって、
そしてどこに行こうとしているのか。
好きとか嫌いとか、
気持ちいいとか、不快とか、
そういったものは、人間が日常の中でとても頻繁に持つ感情・感覚です。意識してなくても、心の中で選別して支配されています。
それらを、ある程度客観的に整理して見る事ができれば、
八支則もどこに向かっているのかがわかります。
根気がいるんだけどね。。
だったら本当に何年単位とかでインドのアシュラムにこもったほうがいいんじゃないかと思うくらい、私たちの一般生活の普通の日常の中でこれを自己努力するのは、気力がいる。
だから生徒さんには強要はしない。
これらの思索に疲れてしまって、学ぶ前のほうが楽しくいきててんじゃないか、という人だっているくらいだ。
実際に、もともと体質的に精神修行に耐性がない人もいるので、
今の段階でそのステージで調和してるっていう人に、
あえて理論なんぞを振り回すつもりなんてない。
必要な人に、ラーガ、ドヴェーシャを自己観察するメリットは多いにあるのでそれは伝えてはおきたいなと思っています。
結局、日常の中ですべての好き嫌いを「排除」できたりはしないと思います。
体質があるからしょうがないところもあるし。
というわけで、完璧にできたい気持ちは自分を縛るだけ。
実践にもポイントがあると思うのです。
自分の性質を理解することと、それに束縛されないこと。
好き嫌いでシリアスにならないこと。
好き嫌いで思考が作り上げるドラマにはまらないこと。
どうでもいいものに没頭しないこと。
これらを意識してなおかつある程度でもいいのでできれば、
人生はかなり軽やかだと思うのです。
快不快によって心を支配される傾向から数パーセントでも脱却しただけで、人生はとても「楽」になるから。
ここで言う楽とは、心の乱れや低迷からの自由、という意味での楽。
そんな感じです。
感性が静かに爆発型のわたしはいつもアンテナ。
インテリ大学筋肉運動学部所属、って感じの私。
そしてこんな私も段階的に成長していると思うので
同じタイトルで「続き」を書いたりというのはあまりできないのですが
これまでの記事とかこれからの記事に曼荼羅式でリンクしていると思うので、
どこかでこの話の着地点を感じ取っていただければ幸いです。
ま、着地しなくてもいんだけどね(笑)
みなさんの貴重な時間、これを読んでくださって本当にありがとう。
Namaste
師岡絵美里
0 件のコメント:
コメントを投稿