EMIRI MOROKA -HEART MATRIX-

師岡絵美里のブログです♪


2014年1月20日月曜日

行為しながら放棄する




昨日の続きですが、

すべての人の内に神を観ることができるか。

もし個々の人の内に至高の存在を見出せるならば、

私たちの「人との関わり方」はもっと大きく変わると思います。

今近くにいる人々に敬意を持てるだけではなく、


・・・実は大事なはここなんですが、・・・自分のやるべき事が見えてきます。

自分自身に迷いがなくなってきます。


自分以外のすべての人が至高の神の体現だと悟ると、自分の行為に神の力が発動します。


逆じゃない??って思いますか?

「自分は神なんだ!」って自尊心を持ったほうが、自己の内在する神聖なパワーが発動しそうでしょうか?
それもあると思いますが、そうであるなら他の人はなんなんだ、というところです。


これは私の体験的なところからも(おおいに)言ってますが、

すべての人が神の体現だ!とわかると、

「わたしの為すべき事」がはっきりわかります。


事を荒立てる事は何もしない、というのが「平和」なのかというと、そうではないです。

もちろん無理に荒立てなくていいのですが、

「私の存在は何事も刺激しないの」

というような “消極的な安全” ではなくて、

「真理に適うことをしよう」

というはっきりとした意思による行為が生まれます。

だからやっぱ、やることはやるのです。

そこでもまた人間としての葛藤は出てくるのですが、
ですが一歩前に進んで、やってみるんですよね。

肉体の重さや物事の表面の事象に支配されているうちは、
「今までの古い思考」に反する事をするのは億劫なんです。
でももしこの人生を輝くものとしたいなら、やってみるしかないんですよね。



私たちが「何を選択するか」というのは、この瞬間の「行い」の中にしかない。

人は「結果」の中に「その選択がよかったのかどうか」を探し求め、
さらには結果をコントロールしようとしますが、
そのような我心や「好み」を捨てなさいな、とギーターは教えます。
結果への期待を捨ててみると、
人生の今、一瞬一瞬が生き生きとしてきます。


今日も私は朝からバガヴァッド・ギーターを読みながら、
自分自身の小我と向かい合ってみました。
神との対話は、えてして自分の中の混沌や影と向かい合うことだとも言えます。

今日読んだ詩節はこれです。


第18章9節
「アルジュナよ。
なすべきであると考えて、定められた行為を、
執着と結果とを捨てて行う場合、
それはサットヴァ(純質)的な捨離であると考えられる。」


「行為」する事がもし「真理」に適っている場合、
それは「行いながらにしての捨離」になる。

この社会を強く生きながらにして、俗と業から離れる!すごい!


これはバガヴァッド・ギーターのメインメッセージのひとつだと感じます。

何もしないわけじゃないのです。

「惰性」を、「平穏」だと勘違いしちゃいけないんですね。


そのためには、
まず私たちは「為すべき事」を自分の内面から引き出さなくてはいけません。

だからやっぱり瞑想しましょう。

朝、顔洗ったらまずブランケットを腰に巻いて防寒しつつ、瞑想。




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