EMIRI MOROKA -HEART MATRIX-

師岡絵美里のブログです♪


2014年1月19日日曜日

ナマステの資質 〜ギーター第十一章より〜


ヨーガの大聖典・神の詩「バガヴァッド・ギーター」で
私のとても好きなシーンを紹介します。

この物語は、主人公のひとりである戦士アルジュナと、神の化身であるクリシュナの対話によって進む物語です。
つまり、神との対話物語です。

神の化身であるクリシュナは、戦士アルジュナが本当に「神のガイド」を欲する時までは、アルジュナの「友人」として寄り添っていました。

戦場で「親族を殺さなければいけない」という究極の窮地に追い込まれたアルジュナは、心のそこから神の教え、「真理」を求めます。

その時クリシュナは、自分が神の化身としてヨーガの道をアルジュナに教えます。
それが「バガヴァッド・ギーター」、神の詩です。


今日紹介するのは、ギーターの中盤になりますが、第11章のくだりです。

「友人」の姿をまとっていたけれども実は「神の化身」であるクリシュナに、
「神(この世界のすべて)の相を見せてください」と頼みます。

つまり、友人としての姿ではなく、神(宇宙)のお姿を見せてほしいと頼むんですね。
また戦士アルジュナは、この「神」のすべてを観てみたいと同時に、
自分の局面している戦争の結末が知りたいのです。
自分、そして親族たちは、いったいどうなるのか。

クリシュナの教えに真摯に耳を傾けたアルジャナに対して、
クリシュナはそれを許可します。

しかし、森羅万象のすべて、創造のすべて、宇宙、真理、
それを「肉眼」で観る事はできないので、
クリシュナはアルジュナに「特別な目(天眼)」を授けて
自分(世界・神)のすべての相を見せます。


クリシュナは人間の姿でアルジュナに寄り添ってきた神の化身ですから、
その気になれば、人間の姿を取払い「宇宙」を見せることができるんですね。

しかしそれは生身の人間の体験としては衝撃ですよね。
友人としての親しみあるクリシュナの姿が、一瞬にして「宇宙」にまで拡大したのですから。
それはもう表現を越えているというか。ハリウッド映画の特殊映像でも追いつかないですよ。

それってどうでしょう、
例えば、「蟻」だと思っていた生き物が一瞬にして「富士山」に変身した!くらいの衝撃でしょうか?
いや、もっとだと思います。
一人の人が突如、生きた宇宙の秩序である神の曼荼羅として展開しだすのですから。


ギーターの第十一章十三節がとっても好きです。

「その時アルジュナは、神の中の神に身体において、全世界が一堂に会し、また多様に分かれるのを見た。」

この文言は、私の小さい頃から抱いていた「世界・宇宙」を一番忠実に表現しているもののひとつだと思っております。
なんどこの言葉によって、その時々の必要な“答え”を導き出したか、数えきれません。

世界はひとつであり、同時に多様。

そう言ってしまえば簡単ですが、
それがどんな小さな細胞ひとつの中にも宿る「存在性」であることを悟るには、
真剣にこの世界を生きる事が必要です。


クリシュナの見せたその「世界のすべての相」。
それはもう本当に荘厳な姿であり、
アルジュナの、人間の、想像を遥かに超えたものです。

その世界を観て畏れおののいたアルジュナは、ひれ伏して言います。
(・・わかりやすいように現代語で言いますと、)

「あなたがこんなにも輝く ”すべて” であり
神なんだだという事に気づいていなかったために、
私はあなたをただの友達だと思って軽々しくあなたを呼んだりしていました。
冗談を言ってからかったり、二人だけの時も大勢の人の前でも
あなたのことを軽んじていました。
あなたを真に知る事なく、無知ゆえにひどいことをしていました。

どうかそれを許してください。」


と。


このくだりもまた、いつも教訓であり真言であり真実として胸に入れておくように心がけています。

人はみんな神なんだ。

私たちは、思考の幼稚さや、乱雑さ、無知ゆえに、
人を裁く心や、敬意を欠いた思いを持つ癖があります。
心の中で軽んじたり、態度や発言で軽々しく扱うこともあります。

わたし自身はかなり、この「裁く」を手放すことができたように感じていますが、
若かった時代は自己顕示欲も強かったので、
他人よりも自分自身を裁いたり価値評価する気持ちが強かったように感じます。
今はないけどね。
自分と向き合うと、この辺りはすぐに浮き彫りにならざるを得ないものです。
たくさんのジャッジを自分の中に見つけては、自分を赦す作業を繰り返します。
それでもまだ残りの数%の残痕が、瞬間顔を出したりすることだってありますよね。
精神の修行、サーダナは続きます。

「裏表のない敬意」

私たちは生きて人と関わる事を通じて、それを学んでいるのだと思います。
相手とか状況を選んで高まったり弱まったりする敬意ではなく、
すべての命の中に神を見ること。

アルジュナの反省を、私たちはよき教訓にできると思います。

すべての人は神。
けして軽んじられるべき人などいないんです。

私たち、ヨーガを行う人なら常に、


नमस्ते ナマステ

と言いますよね。

この言葉を唱える“本当の資質”を養うのがヨーガだとも言えると思ってます。

日々、「ナマステ」を実践できているだろか。


それは、“ありがとう” とか “こんにちは” という意は
結果的にそういう意味で使われるわけで、真意は、


“私は あなたに 敬礼の念を 持ちます”

というとても敬虔な言葉です。

すべての人はクリシュナ(神)である。
あなたも、わたしも。

森羅万象のすべてに、

नमस्ते ナマステ

を言える資質を養っていくのが、ヨーガであり聖典の学習ですね。


ギーター、本当に素敵。



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