EMIRI MOROKA -HEART MATRIX-
師岡絵美里のブログです♪
2014年4月9日水曜日
生きる情熱と才能
こんにちは。
ハートマトリクスの師岡絵美里です。
ひさしぶりの発行になってしまいました。
何に勤しんでいたかと言いますと、
踊ってばっかり。
ヨーガの先生してる時間よりダンスの時間が上回ったこの一ヶ月でした。
先日4月4日に開催された、椎名慶子先生主催「LAVA Happy
Project・人生を美しくする瞑想ワークショップ」でのパフォーマンスも無事に終わりました。
たくさんの方に来ていただけて本当に嬉しかったです。
来てくださったみなさんありがとう!!!
今回来れなかった方も、次の機会もまたお知らせしますのでぜひ御越し下さい。
瞑想ワークショップ、とてもよかったです。
私の担当したパフォーマンスに関しては、「つながれた」という充実感でいっぱいです。
ダンサーたちの中の根源的な情熱を引き出せたように思いますし、それは観る側にとっても同じ作用なんだと感じます。
生きる!
それだけでいいのだ!
というテーマの踊りでした。
ワークショップは、赤座綾先生の音楽監修のもと、多くのパートが音楽的にフロウして運んでいったので、
瞑想というものを頭とか言葉で捕らえていた人にとっても、それが実際の「体験」へとたやすく導かれていくのがわかりました。
音楽は神様そのものですね。
印象的だったのが、最後のグランドフィナーレの時に、
椎名先生が
「まず、自分が、幸せになりませんか。いっしょにそうなりませんか。」
と、まるで花が咲いてゆくような美しいスピードで、ゆっくりと心をこめて言っていた横顔です。
同じような言葉なら、自己啓発的な場でしょっちゅう聞きます。「まず自分が幸せに」。
でもそこに「本心」が100%のままに言葉が使われているかどうか、それは個々に違います。
椎名先生の言葉は、100%も越えるの倍音となって会場のひとりひとりのハートでさらに広がる、本物のヴォイスでした。
椎名先生を守っている大きくて堅固な母体があるにも関わらず、みんなの代表としての顔ではなく、
純粋なひとりの人の魂から出る言葉でした。
そしてそこにいる人達一人一人に対して、完全にもれることなく響く言葉でした。
その言葉の質、波動の高さは、意味すら越えて、意図すら越えて、
ただただ純粋に人の心に染み渡っていました。
私はすぐななめ後ろの立ち位置から、最後のご挨拶をする椎名先生を見ていたのですが、
ああ本当にこの人は、神様が地上に降ろしてくれたメッセンジャーであり天使なんだなあと、
改めて感動していました。
ピュアな自分のまま、そのまんま生きる事ができる、という強さを持つ貴重な人です。
そんな椎名慶子先生が、ワークショップ終了後にとても光栄な事を言ってくださいました。
”えみりさんの才能なしにはできなかった会でした。”
自分の好きな事で役にたてたので、そう言ってもらえてとても嬉しかったです。
才能。
確かに、人には得意な事があります。
私にもあります。人のハートに情熱の火を灯す才能があると思います。
生きる強さを引っ張り出す才能が、ダンスでもヨーガでも文章をつうじてでも得意です。
でも、「才能」は「わたしのもの」ではないという事を忘れずにいようと思います。
私の肉体に、カルマを通じてそのような属性が宿っていて、
その属性は有効活用して世界に返していくだけのためにあります。調和のために。
才能を、いつでも使い切って空っぽでいようと思います。
空っぽでいると、そこに神様が座ってくれるから。
その安心が、私の中の「なにももっていない子ども」の心を完全に癒すから。
いつも「何も持っていないわたし」という真実を胸に、神を信愛し感謝します。
そんな風に思っています。
すべての人に、感謝をこめて。
ナマステ
*:..。o○☆○o。..:*゜*:..。o○☆
新しいお知らせ!!
お待たせしました!!
って、待っていたかわかりませんが、しばらく開催をお休みしていた「ライトボディ覚醒プログラム」を大々的にリニューアルしました。
まず5月に開催します。
わたし的には、これ最高でしょ!と思える内容にグレードアップ。
「最高」もどんどん上がっていくのです。
今回は、骨格調整に力を注いでいます。
物理的なゆがみを改善してそこに光を流します。
呼吸法もかなり宇宙的なシンクロニシティにアレンジしてますのでお楽しみに!
心身ともに、さらに上の目覚めへと進みましょう。
ヨーガの叡智を実行し、体を覚醒させてください。
動機がなんであれ、自分を変えたい、体を変えたい、もっとシンプルになりたい、という人はぜひご参加ください。
例えば動機が単純なダイエット希望だったとしても、心の在り方まで変わってしまうはず。動機すら純化されます。
それがヨーガです。
昨年実施していた当コースに参加してくださったみなさんにも大々的にオススメです。
昨年の内容をふまえて、更に純化・進化してください。
割引価格にてお申し込み受付開始します。
http://www.heartmatrix555.com/home/ライトボディ覚醒プログラム/
*:..。o○☆○o。..:*゜*:..。o○☆
今月のワークショップ
「クリスタルボウル瞑想会」
4月26日(土)18:30~20:00です。
ぜひ御越し下さい。心の浄化を進めましょう。
http://www.heartmatrix555.com/home/クリスタルボウル瞑想会/
*:..。o○☆○o。..:*゜*:..。o○☆
最後までお読み下さりありがとうビームを放ちます!
あなたの日常がハッピーな光で溢れますように。
ナマステ
師岡絵美里
「HeartMatrix」
www.heartmatrix555.com
2014年3月17日月曜日
お仕事についてのサットワな考察
こんにちは。ハートマトリクスの師岡絵美里です。
今日はお知らせから。
文末にコラムあります。お仕事について書きました。
「ヨーガ・スートラ修習」
〜通読と実践のためのアヴィヤーサプログラム〜
4月はヨーガスートラを勉強しましょう!
開催は半年に一回くらいのペースかと思いますのでぜひコレを逃さずに。
今日の聖句(「現代人のためのヨーガスートラ」より)
「心の安定は、悲しみを越えた輝く光を知覚することでも得られる。」(1-36)
心とはどうにも動くものです。動くという性質を備えているので仕方ないのですが、
その動きが「乱れ」とか「停滞」の赴くと、私たちは辛くなっていきます。
そんな時があったら思い出してください。
悲しみを越えた輝く光
それが地球にとっての太陽であり、私たちの心臓の中の光です。
心の中に、文字通り一心に意識を置き、そこにある光に瞑想してください。
ヨーガスートラは心の清らかさの指南書です。
上記のように、美しい一節の中に瞑想のテクニックや存在の本質についてのエッセンスがぎゅっと埋め込まれています。
ぜひこの機会にいっしょに学びましょう。
再受講もぜひお待ちしてます。
あと2名入れます。
http://www.heartmatrix555.com/home/ヨーガ-スートラ修習コーチングプログラム/
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春の瞑想会です。
4月26日(土)18:30~20:00です。
前回大雪で開催できなかったので再開催☆
ぜひ御越し下さい。心の浄化を進めましょう。
http://www.heartmatrix555.com/home/クリスタルボウル瞑想会/
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<椎名慶子先生ワークショップイベント出演のお知らせ>
椎名慶子先生による瞑想ワークショップに出演させていただくことになりました☆
LAVA Happy Project
キレイのメソッド学びましょ♪
「人生を美しくする瞑想ワークショップ」
2014年4月4日(金)
http://www.yoga-lava.com/lhp/ws_1404.html
今回のわたくしのミッションは、ダンスパフォーマンスです。
LAVAのダンスチーム「スミッキーズ」のメンバーと、LAVAを代表するトレーナー(誰かはまだ内緒☆)、
そして音楽監修と生演奏に赤座綾先生も一緒です!!
ワークショップの本編は、ヨーガで伝えられている瞑想の本質を椎名先生がレクチャーしてくださり、
後半は世界平和と個人の心の調和のために、
瞑想の実践的なワークをみんなで学び、楽しみます。
最後は生演奏の中でみんなでキールタンを唱い、瞑想しましょう!
多勢の人で集まって瞑想するって本当に素晴らしい事です。
一人では行き得ない境地が開くことも多々あります。
というわけで、みなさんぜひ来てください。詳しくはお知らせのページをご覧ください。
<関連ページ>
椎名慶子先生のページ http://ameblo.jp/shiinayoga/
LAVAシータヒーリング公式ブログ
http://lava-expand.seesaa.net/article/390393447.html
みなさん、ぜひお誘い合わせのうえ御越し下さい。
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<コラム「お仕事についてのサットワな考察」>
最近、春のせいか年度変わりのせいか、
「転機」についてに相談やお話が多いです。
みなさんのお話を聞いたり話したりした中で感じた事をここでもシェアしようと思います。
ヨーガの学びにおいて「仕事」を考えてみると。
ヨーガスートラにしてもバガヴァッドギーターにしても聖典から教えられるのは、
「表面的な事に心を揺さぶられるな」、って事ですね。
「好きな事を仕事にしよう」っていうテーマは近年とても唱われていますが、
この「好き」って概念はなんでしょうか。なんでしょうね?
みなさんはどうしてますか?
「好き」を基準にしろ、と言われたら、
その「好き」っていったい「何のことを言ってるのか」を整理したことありますか?
たぶんね、”勘違いしどころ”と”落とし穴”は、
「好き」=「快楽」「選り好み』
と思ってしまうと、ただのわがままな大人になってしまうのだと思います。
「好き」という言葉の浅い意味合いでとらえると、
裏っ返して「嫌いな事はしたくない」というただのわがままに走るんだと思います。
「嫌」な状態を脱したいだけのために、「好み」で物事を見て「好きなことしかしない」に走ると、
その「好きな事」の中のあるたくさんの「山や谷」を乗り越えられないんですきっと。
そしてまたジレンマが来ます。
おそらくこの「好き」ってのは誤解を生みやすい言葉で、あまり乱用するとわがままで責任を全うできない大人を増やすのではないかなと思います。
もっと本質的で深い意味での「好き」は、以下のような概念かと思います。
つまり。好きな事を仕事にしようというのは、
”さわやかな気持ち”の事を『好き』という言葉で捕らえているんじゃないかと思います。
(ヨーガ用語ではサットワ性の感覚、です。)
なのでもう少し丁寧に「言葉(発想)」を探ってみると、
「好きな事を仕事に」というのは、
「自分がさわやかな気もちでやれる事に集中する」
という事なんじゃないかなと。
例えば、人をうまくだまくらかして何かを売るようなやり方は「さわやか」な感覚がしないし、
どうやたって裏表がある仕事内容ってのはさわやかなじゃない。
「適性」もあります。
自分の体質や性格の適性とかけ離れた職種だと、いくら他人が見て「いいね」と思うような仕事でも
自分には無理があって「さわやか」にできない事もあると思います。
もうひとつ勘違いしやすいのは、
今現在の職業は嫌いではないんだけど、でも本当は別の事をやりたいのにチャレンジできなくてモヤモヤしてると
「現在の仕事が好きじゃない」みたいな錯覚が起きてきます。
その錯覚が猛威を振るうと、
「この仕事じゃ私は幸福になれない」みたいな自己憐憫・被害者意識になってくのだと思います。
だからすっきりさっぱり挑戦した事には挑んでみたほうが、
”仮に成就しなくても”、心はスッキリすると思います。
「嫌いな事は避けたい」の裏返しで「好きな事を仕事にする」とか言ってると
まったくもって幸福じゃないです。
「好き」にこだわりすぎるのも、どこか子どもじみているようにも思います。
人にはそれぞれ、今回の人生の目的(カルマ)があります。
起こる事とか関わる事のすべては、そのカルマをどうにかダルマ(義務・調和)に赴かせるために起きている現象にすぎません。
今関わっていることを受け入れられないと、次のステージにはあがれないので、「新しい事を選んでいる」つもりでも同じような壁にぶつかります。
起こり続ける現象に「好き嫌い」の意識を付着させすぎると、もう、なんだかとても複雑ですよ。
地球の波動に成り行かせてごらんなさい。
というところです。
「これが好きなんだーーーー!」とか大声で言うほど「好き」な仕事じゃなくても、
心穏やかに「やるべき事」をしっかりやって「幸福」な人はいっぱいいますしね。
それも生き方だと思います。
人間は、
「なにに満足するか」
において賢くならなければいけないんですきっと。
それをヨーガの聖典では、
「アートマンにおいて満たされなさい」と言います。
アートマンとは、本当の自己です。私たちの「体験」や「現象」ではなく、不変不動の自己において満たされなさい、と。
なのでここで冒頭の言葉に戻りますと、
ヨーガスートラにしてもバガヴァッドギーターにしても聖典から教えられるのは、
「表面的な事に心を揺さぶられるな」、って事になるんですね、どうやたって。
これは私の感覚ですが、家族を、まず養える事に幸せを感じます。
子どもに毎日ご飯を食べさせてあげられる幸福。
お風呂に入れてあげられる幸福。
自分のやってることを好きとか嫌いとか言ってる余地がないほどの、幸福です。
今、私自身は充分好きなことを仕事にできています。
でも、もしこの職種じゃなくても、
「同じように幸福であれる自信」が持てるようになったのは、
大人になったと思える点です。
好き嫌いを越えたところで会えるヨーガの神様がいると思います。
今やっている事でまず「さわやかに」なれないと、別の事をやってもまた「嫌な」面を見つけて同じ事を繰り返します。
「欲望」の中に「感謝」というエッセンスが発見できないように、
「執着と憎悪(好き嫌い)」に心を掴まれている心理状態を思い出してみると、
やはりそこに「感謝」というエッセンスがどうにも欠けているのがわかります。
ヨーガスートラの教える「煩悩性の思い」を取り払うこと、
また、バガヴァッドギーターの教える「好き嫌いの思いを手放しなさい」というのは、
人の心の「幸福への感度」を上げてくれる。
そう感じます。
目標にむかって前向きに頑張りながら、
自分の行為をさわやかに、ご機嫌に、
そしてなにより感謝して生きる。
それ以上に複雑な事はいらないと思います。
自分の中のさわかさのパワーで進んでいけると思います。
個人個人の持つ才能というのは、もちろん環境によって伸ばされたりすることは多いにありますし、
その人が生きやすい「場所」というのはあると思いますが、
自分さえ本気を出せば、その才能は「時」と「場所」を選ばないはずなんです。
私は今、自分の才能がとても活かしやすい現場で仕事がでいている事は大変ラッキーなんですが、
いっつも肝に命じているのは、
「この仕事じゃなくても世界に対して同じ成果をあげられる人間でいないと。」
と思っています。
それはカルマでありダルマであり私がここにいる潜在的な目的です。
行為の結果に執着はしていませんが、
行為の質を落とさないように注意をし続けないといけないと思ってます。
そうなれば、なんであっても、決心して「さわやか」にやりきる、
最終的にはそのくらいしか、やる事はないのです(笑)
そしてヨーギンである限り、
ヨーガが職業じゃなかったとしても今と同じことを語れなければ、と思っています。
という感じ。
参考になれば幸いです。
ではみなさん、よいお仕事ライフを♪
春風にふかれて。
ナマステ。
師岡絵美里
「HeartMatrix」
www.heartmatrix555.com
「Emiliの絵の森」
http://ameblo.jp/emililala
2014年2月16日日曜日
食べること。それは奉仕に還る。
私の娘いわく、「食べたもの」は一回ハートを通ってからお腹の方に行くのだそうです。
りんごを食べて実況中継してくれました。
「いまりんごさんはここ(心臓のあたり)をとおって、ピカーってひかってから、
おなかのなかにゆっくりいくの。」
と。
確かにそうだと思います。
荒い物質レベルでは、食物が心臓の組織の中を通るわけではないでしょうが、
微細な気のレベルで、光のレベルで、食べたものはハートを通るのでしょう。
ハートをうまく通過できない食物を食べた時、
例えば添加物ごてごての物とか、必要以上に甘い物とか、もうお腹いっぱいなのに食べるとか、
そうしますと、ハートを通過する際に苦しいんでしょうね。
よく、甘い物などを食べ過ぎたり身体にあまりよくない物を食べる時、「罪悪感がわく」と言ったりします。
ハートを通る時に、体が泣くのかもしれないですね。
そんなに要らないよ、とか、それはもう要らないと思う、、、とか。
通常の、身体によい食事であっても、『食べる』という行為がこの世界の平和に還元されないと、
本来人は清々しく食べれないのです。
ハート(身体)が喜ぶものを、喜ぶ量食べて、
食べたらそれを自分の中にしまい込まずに、
誰かの喜びにつながる行為を持って「排出」としていきます。
物理的にはいわゆる身体的な「排泄(便や汗)」が「フィニッシュ」なんですが、
精神的には「誰かの喜びにつながる行為をする」のが、「食べた」事に関する「フィニッシュ」なんですよ。
還す、という意味で。
ヨーガはそういう考え方。
奉仕するために食べてるんです。
だから食べっぱなし(奉仕なし)は盗賊と一緒。
とヴァガバッドギーターにもあります。(三章十二節)
補足しておくと、
じゃあ病気や寝たきりなどで働いたり活動できない人は盗人なのか、
と言うと、そういうことじゃなくて、
「心をどこに結びつけて精神活動を続けているか」、
なんです。
心を、無秩序・暴力・分離の思考に結びつけた精神活動は、自分の身体を病気にし、人に混乱を与えます。
心を、神、調和、統合、平和に結びつける努力は、どんな状態でもなされます。
存在自体での奉仕も、ひとつの最高な行為です。
身体的な活動はとても大事ですが、手足の行為だけではなく、精神の行為も同じように大事だし、
同じになるはずなんです。
だからどんなコンディションに居る人も、この世界の生きとし生けるすべての存在の幸福に貢献することがでいます。
とはいえ、人間の欲やからの脱出や、落ちてしまった停滞の意識からの脱却には、
やっぱり「体力」がいります。
なので身体の健康や、健康に向かおうとする努力って、どうしても大事になってきますね。
だから治療家のみなさん。医療関係のみなさん。介護やヘルパーのみなさんの助けは本当に重要です。
身体レベルでの健康を、
西洋的であろうと東洋的であろうと「力になろう」と励んでいる治療家や医療のみなさんの「ダイレクトな助け」が、たくさん必要な時代です。
そして介護・保育など、日常の動作に直接働きかける「ダイレクトな助け」もまた、とても必要な時代です。
どんな職業やポジションであっても、世界の調和と平和のためになされる必要があります。
明日の奉仕のために寝て、
今日の奉仕のために食べ、
世界の喜びのために自分自信の吸う息と吐く息を清めていきましょう。
「自分」とは、世界から孤立した取るに足りない存在ではないのです。
自分こそ世界の幸福の象徴であるとき、神の光が身体の底からあふれてきますね。
2014年1月24日金曜日
こどもとヨーガからの洞察
地域の子どもたちの定期的にヨーガを教えていて、
ヨーガの精神性も伝えられるように心がけています。
「次に、今までよりもチャレンジングなアーサナを教えます。
みなさんやりますか?」
と子どもたちに聞くと、5〜6歳くらいの子たちは
「やるやる〜〜」と無邪気に言います。
しかし少し大きくなった子どもたちは、こんな発言をする人もいます。
「えー見てから決める。」
と。
「それはだめ。やるっていったらやるの。」
と言う私。
結果全員にチャレンジはしてもらいます。
子どものヨガクラス内では「無理」「できない」という文言はなしにさせているけれど、
子どもたちはすでにテレビなどの影響か、
「冷やかし」や「あきらめ」の表現(態度)を身につけてしまっているので、
「そんなんむり〜〜」などと簡単に笑います。
私は「むりって言わない」の一点張りです。
大人にしても子どもにしても、
消極的な思考を身につけてしまった人を覚醒させるのはある意味ほんとに大変です。
厳しく指導しないといけないので。
個人的には厳しい指導なんてぜんぜんしたくないです。こっちのエネルギーを消耗するので。
そんな事はしたくなくて、人間が本来持っている力に委ねたいし、
大きな声とか出したくないし、乗り気でないことをさせるのも大変。
でも、「自由意志」とか言って楽な方に流れるのって、ぜんぜん魅力的だとは思わない。精一杯のところで直球勝負していたい。
だからこそ「ゆとり」っていうのがどんな感じなのかもわかります。
ずっとのんびりしてずっと「楽」だけしてるのが、ゆとりじゃないですよね。
私はそう感じています。
人として生まれたからには、
為すべき事があり、「適性」というエネルギーをちゃんとうまく使って終了しなければいけない。
できるだけストレートに自己を世界に奉じていくんです。
それはとても積極的な生き方です。
消極性というものは、何も生み出さない。
でも宇宙って無駄がないので、そんな消極的な人の有様も「反面的に」何かの役には立っていたりするんです。
例えば別の誰かの洞察の「モデルケース」になっていたり、
啓発を業とする人にとっては、「消極的な人を啓発し、覚醒させる」という事を学ぶための対象になり得ます。セミナーとか流行る。
だから無駄ではないんですけど、
でも。いつまでもそんな理由で世界の役に立ちたいのか。
もっともっと主体性のある役立ち方がしたいものです。
だから、積極的に、物事のポジティヴな側面を自分で引き出す生き方をしないと。
いつか誰かが世界をよくしてくれる。
そういう思いはもうぜんぜん通用しないので、
毎秒、毎瞬、自力で良くなろう。
そういう姿を大人が見せないと、
子どもたちが消極的に、
できない事を避けて、
みんなと同じで安心、
一番仲のいい友達とだけ遊んでいられればいい、
自己表現を避ける
わがままを通そうとする
という性質を当たり前に持ってしまいます。
そして極端な強制力の指導がないと動かない人になってしまう。
親はいつだって子どもの味方になる、めいっぱい褒めてあげるけど、
でも精神性や身体感覚の底上げをする努力は、親が教えないと、と思います。
そこを教えてないと、褒められる事を目的にしてしまうただの自意識過剰になります。
「ヨーガで、ピッカピカの強くて優しい心を作ってるんだよ。」
と、子どもたちに毎回くどく言っているのですが、
今はそれが先生のいつも言うおまじない的な感覚だったとしても、
いつかそれが人生の過程で生きてくれればいいなと思っています。
子どもたちに祝福を。
さあ、まずは大人の私たちですよ。
いつもで子どもに真似されるんだと気を引き締めて、
柔軟かつ清らか、それでいて強い生き方をしよう。
ダメなところを見せてはいけないって意味じゃないです。多いに見せていいと思います。
でも、その「ダメ」を必死こいてでも修復する涙ぐましい努力も見せるべきです。
オープンに。
2014年1月20日月曜日
行為しながら放棄する
昨日の続きですが、
すべての人の内に神を観ることができるか。
もし個々の人の内に至高の存在を見出せるならば、
私たちの「人との関わり方」はもっと大きく変わると思います。
今近くにいる人々に敬意を持てるだけではなく、
・・・実は大事なはここなんですが、・・・自分のやるべき事が見えてきます。
自分自身に迷いがなくなってきます。
自分以外のすべての人が至高の神の体現だと悟ると、自分の行為に神の力が発動します。
逆じゃない??って思いますか?
「自分は神なんだ!」って自尊心を持ったほうが、自己の内在する神聖なパワーが発動しそうでしょうか?
それもあると思いますが、そうであるなら他の人はなんなんだ、というところです。
これは私の体験的なところからも(おおいに)言ってますが、
すべての人が神の体現だ!とわかると、
「わたしの為すべき事」がはっきりわかります。
事を荒立てる事は何もしない、というのが「平和」なのかというと、そうではないです。
もちろん無理に荒立てなくていいのですが、
「私の存在は何事も刺激しないの」
というような “消極的な安全” ではなくて、
「真理に適うことをしよう」
というはっきりとした意思による行為が生まれます。
だからやっぱ、やることはやるのです。
そこでもまた人間としての葛藤は出てくるのですが、
ですが一歩前に進んで、やってみるんですよね。
肉体の重さや物事の表面の事象に支配されているうちは、
「今までの古い思考」に反する事をするのは億劫なんです。
でももしこの人生を輝くものとしたいなら、やってみるしかないんですよね。
私たちが「何を選択するか」というのは、この瞬間の「行い」の中にしかない。
人は「結果」の中に「その選択がよかったのかどうか」を探し求め、
さらには結果をコントロールしようとしますが、
そのような我心や「好み」を捨てなさいな、とギーターは教えます。
結果への期待を捨ててみると、
人生の今、一瞬一瞬が生き生きとしてきます。
今日も私は朝からバガヴァッド・ギーターを読みながら、
自分自身の小我と向かい合ってみました。
神との対話は、えてして自分の中の混沌や影と向かい合うことだとも言えます。
今日読んだ詩節はこれです。
第18章9節
「アルジュナよ。
なすべきであると考えて、定められた行為を、
執着と結果とを捨てて行う場合、
それはサットヴァ(純質)的な捨離であると考えられる。」
「行為」する事がもし「真理」に適っている場合、
それは「行いながらにしての捨離」になる。
この社会を強く生きながらにして、俗と業から離れる!すごい!
これはバガヴァッド・ギーターのメインメッセージのひとつだと感じます。
何もしないわけじゃないのです。
「惰性」を、「平穏」だと勘違いしちゃいけないんですね。
そのためには、
まず私たちは「為すべき事」を自分の内面から引き出さなくてはいけません。
だからやっぱり瞑想しましょう。
朝、顔洗ったらまずブランケットを腰に巻いて防寒しつつ、瞑想。
2014年1月19日日曜日
自分好き?
みなさん自分のこと好きですか?(笑)
私?そうねえ、大好き(爆)。
でもね、この「好き」の種類は昔とは大違いで、
私自身のパーソナリティのことではなく、私の中にいる神様が好きです。
大好きなんです。
だから今日も明日もあさっても、なんでもいいから神様が私を通って出てきますようにとお願いしてるんです。
これは、わがままで顕示欲の強かった若かりし私や、好き嫌いを動機に選択をしていた若かった自分からすると、
ほんとに大きな成長だと思います。
ある意味もう「私」はそんなに重要ではなく、
私という空洞から神様が出て来れますように、と、それが最優先なのです。
って、これを書いていたら、娘(5歳)が、
「まま。サティヤ・サイババ。」
と言ってマハットグル・サイババの本を私に持ってきて、
「ね。」
と念を押すようにサイババの写真を指差しました(笑)。
このシュール感、たまらない!!!
ナマステの資質 〜ギーター第十一章より〜
ヨーガの大聖典・神の詩「バガヴァッド・ギーター」で
私のとても好きなシーンを紹介します。
この物語は、主人公のひとりである戦士アルジュナと、神の化身であるクリシュナの対話によって進む物語です。
つまり、神との対話物語です。
神の化身であるクリシュナは、戦士アルジュナが本当に「神のガイド」を欲する時までは、アルジュナの「友人」として寄り添っていました。
戦場で「親族を殺さなければいけない」という究極の窮地に追い込まれたアルジュナは、心のそこから神の教え、「真理」を求めます。
その時クリシュナは、自分が神の化身としてヨーガの道をアルジュナに教えます。
それが「バガヴァッド・ギーター」、神の詩です。
今日紹介するのは、ギーターの中盤になりますが、第11章のくだりです。
「友人」の姿をまとっていたけれども実は「神の化身」であるクリシュナに、
「神(この世界のすべて)の相を見せてください」と頼みます。
つまり、友人としての姿ではなく、神(宇宙)のお姿を見せてほしいと頼むんですね。
また戦士アルジュナは、この「神」のすべてを観てみたいと同時に、
自分の局面している戦争の結末が知りたいのです。
自分、そして親族たちは、いったいどうなるのか。
クリシュナの教えに真摯に耳を傾けたアルジャナに対して、
クリシュナはそれを許可します。
しかし、森羅万象のすべて、創造のすべて、宇宙、真理、
それを「肉眼」で観る事はできないので、
クリシュナはアルジュナに「特別な目(天眼)」を授けて
自分(世界・神)のすべての相を見せます。
クリシュナは人間の姿でアルジュナに寄り添ってきた神の化身ですから、
その気になれば、人間の姿を取払い「宇宙」を見せることができるんですね。
しかしそれは生身の人間の体験としては衝撃ですよね。
友人としての親しみあるクリシュナの姿が、一瞬にして「宇宙」にまで拡大したのですから。
それはもう表現を越えているというか。ハリウッド映画の特殊映像でも追いつかないですよ。それってどうでしょう、
例えば、「蟻」だと思っていた生き物が一瞬にして「富士山」に変身した!くらいの衝撃でしょうか?
いや、もっとだと思います。
一人の人が突如、生きた宇宙の秩序である神の曼荼羅として展開しだすのですから。
ギーターの第十一章十三節がとっても好きです。
「その時アルジュナは、神の中の神に身体において、全世界が一堂に会し、また多様に分かれるのを見た。」
この文言は、私の小さい頃から抱いていた「世界・宇宙」を一番忠実に表現しているもののひとつだと思っております。
なんどこの言葉によって、その時々の必要な“答え”を導き出したか、数えきれません。
世界はひとつであり、同時に多様。
そう言ってしまえば簡単ですが、
それがどんな小さな細胞ひとつの中にも宿る「存在性」であることを悟るには、
真剣にこの世界を生きる事が必要です。
クリシュナの見せたその「世界のすべての相」。
それはもう本当に荘厳な姿であり、
アルジュナの、人間の、想像を遥かに超えたものです。
その世界を観て畏れおののいたアルジュナは、ひれ伏して言います。
(・・わかりやすいように現代語で言いますと、)
「あなたがこんなにも輝く ”すべて” であり
神なんだだという事に気づいていなかったために、
私はあなたをただの友達だと思って軽々しくあなたを呼んだりしていました。
冗談を言ってからかったり、二人だけの時も大勢の人の前でも
あなたのことを軽んじていました。
あなたを真に知る事なく、無知ゆえにひどいことをしていました。
どうかそれを許してください。」
と。
このくだりもまた、いつも教訓であり真言であり真実として胸に入れておくように心がけています。
人はみんな神なんだ。
私たちは、思考の幼稚さや、乱雑さ、無知ゆえに、
人を裁く心や、敬意を欠いた思いを持つ癖があります。
心の中で軽んじたり、態度や発言で軽々しく扱うこともあります。
わたし自身はかなり、この「裁く」を手放すことができたように感じていますが、
若かった時代は自己顕示欲も強かったので、
他人よりも自分自身を裁いたり価値評価する気持ちが強かったように感じます。
今はないけどね。
自分と向き合うと、この辺りはすぐに浮き彫りにならざるを得ないものです。
たくさんのジャッジを自分の中に見つけては、自分を赦す作業を繰り返します。
それでもまだ残りの数%の残痕が、瞬間顔を出したりすることだってありますよね。
精神の修行、サーダナは続きます。
「裏表のない敬意」
私たちは生きて人と関わる事を通じて、それを学んでいるのだと思います。
相手とか状況を選んで高まったり弱まったりする敬意ではなく、
すべての命の中に神を見ること。
アルジュナの反省を、私たちはよき教訓にできると思います。
すべての人は神。
けして軽んじられるべき人などいないんです。
私たち、ヨーガを行う人なら常に、
नमस्ते ナマステ
と言いますよね。
この言葉を唱える“本当の資質”を養うのがヨーガだとも言えると思ってます。
日々、「ナマステ」を実践できているだろか。
それは、“ありがとう” とか “こんにちは” という意は
結果的にそういう意味で使われるわけで、真意は、
“私は あなたに 敬礼の念を 持ちます”
というとても敬虔な言葉です。
あなたも、わたしも。
森羅万象のすべてに、
नमस्ते ナマステ
を言える資質を養っていくのが、ヨーガであり聖典の学習ですね。
ギーター、本当に素敵。
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