先日、ヨーガ哲学講習のバガヴァッドギーターの回で「サントーシャ(知足)」について話題にあがり、お話しました。
サントーシャは「知足」「あるがままを肯定する」というようにいくつかの表現ができるのですが、
その根底にあるエッセンスはなんでしょう。
というのも、もともと消費のための経済社会と自意識過剰な世界にいる現代人。
物と情報にあふれた世界に住む私たちには「samtosha」ということの本来の意味合いを掴むのは、なかなか難しいものなのかもしれない、と思うことがあります。
人によって解釈が変わるのは、自然なことなので、どう捉えるかは自由なんですが、
ややマニア思考の私はさ、
発想が狭〜く偏ったところでこういうキーワードを解釈してしまうと
せっかくの[全体世界観]を、いちばんおいしい状態でキャッチする面白さが、減っちゃうのね
って思うのですわ。
なので私なりに感じるところも書きます。
別にこれが「正しい」解釈だとかそういうことじゃぜんぜんないです。
「正しさ」を振りまわしてると、いつかは自分で作った檻の中の哲学者みたいになるからね。それはやめときたい。
数年前にヨガスタジオLAVAさんのご依頼で新インストラクターさんにプレゼントされる 「YAMANIYAMAカード」、その中のサントーシャです。すごく気に入ってます。 |
はい。
サントーシャを受け身の発想で捉える人は
「あるもので満足」というような「条件へのあきらめ」と混同したり、
「現状で満足する」と捉えて、欲求をもっちゃいけないと勘違いする。
この場合そもそも「欲求」と「希望」、
ないしは「期待」と「希望」の違いがわかっていない
という“ベース勘違い”があるのがわかります。
知足ってそういうことじゃないのだけれど、
「欲を持たないようにする我慢」みたいになってしまい、
実際は満たされていないストレスをためたりする人もいます。
または、部分的に解釈して「少ないもので暮らす」などのスタイルにこだわりすぎたり、
そういった”様式”を徹底するあまりバランスが悪くなったり。
そういうこともよく見聞きします。
私自身はこのようなサンスクリットのワードについては
まずは歴代のグルの解釈を見ることと同時に
インドとの文化や風土的な違いを考慮して、日本発想をいったんはずしたところで見てみる作業をします。これかなり大事。
そして、自分の辞書で調べて単語の一番小さいまとまりまで遡り、
場合によっては語根まで行ってみます。
そうすると言葉の持つエッセンスが見えてくるからです。
私の初代サンスクリット辞典。スチューデント用で辞書をひく練習をさせてもらい、だんだんもっと分厚くて文法知識や単語判別力がないと引けない辞書へと入るのですが、いまだにこれで引くことが多い私。 |
サントーシャsamtoshaは、
sam:完全に、tosha:輝き、喜び、満ち足りた心。
日本語のカタい言葉だとよけいにわかりにくくなることって多いのですが、これもですね。
私なりに感じる[santohsa]は
自分自身が「完全なる喜び」「完全なる輝き」「完全に満たされた心でもって」
と捉えてもよさそうに思っています。
自分自身の心を「満たされた状態で」万事物事に向かってみよ、
ということなのではないかな、とね。
ある状態とかある物をさして「これで満たされておくとする」というような、どこかから与えられた満足のことではなくて。
そもそも、外界のあり様に対してサントーシャするのではなくて、
自分自身の心のあり方をサントーシャにするという、
自分の初期設定を決定するような能動的な作業だと思っています。
サントーシャ。その心をもって外界に向かおうってわけだ。
そんな感じに思ってます。
ヨーガの八支即のヤマ(勧)は、心の初期設定をいつも教えてくれる。
人生の中で、いつも同じ精神状態でいられるなんてことはないから、
「自分自身について」という意味でのヨーガは
長く地道に、間をあけずに気をつけていないといけないね。
「人の価値」なんて言葉自体がそもそもいやらしいのだけど、
もし自分の価値みたいなものを考えるのであれば
能力ではなく、心の態度の質だと思う。
サントーシャしている心をもし完全に持つことができたら・・・
と、想像してみるだけでも、すごく価値のあることだと思います。
いつも、グルたちのあの赤ちゃんみたいなピッカピカな目を思い出す。
サントーシャの体現だなあと。
EMIRI
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